カズはカウンターに片肘ついて、からだは斜めにこっちに向けている。俺たちは、俺は菊川君と差し向かいにテーブル席に座ってて、清司君はさっき奥のカウンター席に座った。そして…みゆ希嬢はカズの真正面になる位置に来て、後ろのテーブル席の、イスには座らずテーブルにもたれた。
「座れよ。お前も。」
とカズは言ったが、彼女は首を振った。
「ううん。大丈夫。」
それは彼女が正面からすべて受け止めるという気持ちの表れなんだろうか――
カズはちょっと迷ったような顔をしたけど、一旦うつむいて顔を上げると、視線をやや落としたまま話し始めた。
「俺は…前に少し話したと思うけど、ずっと横浜にある施設で育ってきた。物心ついたときにはもう施設で暮らしていたんだ。それ以前の、親と暮らした記憶は全くなかった。聞いた話じゃ俺がそこへ入所したのは4歳ぐらいの時らしいが、そのことも全然覚えていなかった。けれど、何があったのか、小さい頃の俺はときどきひどくうなされて、夜中にしょっちゅう飛び起きてはおびえて泣いていたらしい。それは…かすかに覚えている。何か恐ろしい夢を見て、うなされていたんだ。でも、小さい子どもは昼間のいろんな刺激が寝ている時に恐い夢になることが良くあるらしくて、ましてや施設に預けられる子どもは多かれ少なかれいろんな事情で家族と離れて暮らすのだから、不安も大きく、夜驚症――夜中におびえて泣き喚いたり暴れたりする子は珍しくないんで、俺もその一人と思われていたんだ。
だけど…俺はそれ以外にも妙な気持ちをどこかに持っていた。その時はその気持ちをどう言えばいいのかわからなかったが…ある程度大きくなったときにわかった…それは罪悪感だった。何故かはわからないけれど、俺はずっと、何か詫びなければならない気がしていたんだ。誰にかはわからないし、何をかもわからない…。でも、俺はずっと罪悪感を抱えていた…。だから、なかなかヒトと打ち解けられなかったし、心を開くこともできなかった。この左目が珍しがられたり気味悪がられたりして、引かれたせいもあるけどな。気にしないで相手をしてくれる奴もいたけど、何か俺のほうが煩わしく思うようになって…。ガードしてしまうようになって行った。年喰って…そのうち適当にあわせて表面だけはつきあう術を身につけはしたけれど…ホントに腹を割って話せる人間はあまりいなかったな…。」
カズはそこまで喋るとちょっとだけ目を上げてみゆ希嬢を見つめた。
「でも、コイツはそんなのに関係なく心の中勝手にひっかきまわしてくれて…俺は何も話しはしなかったけど気がついたら気を許してたな。今思うと無理矢理ガードをこじ開けられてたのかもしれないけど。」
「あれれ? ナニ? あたしは強盗ですかあ?」
みゆ希嬢は頭をかきながらまわりを見回した。カズはちょっとだけ笑って
「似たようなもんでしょ? でも…感謝はしてるんだぜ? お陰でもう少しはうまくヒトに向き合えるようになったと思うしな。」
「う~ん、感謝されたものかどうか。」
みゆ希嬢は複雑な顔をしている。
カズはまた視線を落として続けた。
「…児童養護施設っていうのは全国どこでも基本的に18歳になって高校を卒業したら出ることになっている。事情によっては20歳までいられるけれど、普通は高卒までだ。中にはそれまでに親が迎えに来て、親との生活に戻っていく子もいる。でも、俺はそうはならなさそうだったんだ。だから14年暮らした施設は、高校卒業とともに退所することになっていた。あとは独立して一人で生きていく。…施設のヒトも俺自身もそう思っていた。だのに…。
就職先も決まって、卒業も決まって…あと少しという時だ…そのヒトがやってきたのは。そして俺がすべてを知ったのは…。
そのヒトは施設の先生に俺の母親だと言ったそうだ。確かに俺を預けた人間だと確認されたので、俺はそのヒトに会うことになった。もちろん、預けられてから一度も面会に来なかったそのヒトを、いきなり母親だと紹介されても実感も何もあったもんじゃない。でもな…。
想像つくかどうかわかんないけど、施設に預けられた子どもってのは、どんな状況でも、どんな親でも、何をされてても、親を慕うんだ。どれほどひどい虐待を受けてても、だ。戻ったらどんなひどい目にまたあわされるかわからないのに、口では憎んでたり恨んでたりするくせに…それでも親は恋しいもんなんだよ。俺も例外じゃなかった。実感はないのに、母親と聞くとやはり会いたかった。今までずっとほったらかされてたのに、それで恨みに思わなかったわけじゃないのに、矛盾しているようだけど、どこかで嬉しい気持ちを持っていたんだ。
だけど…俺は思い出してしまった。…そのヒトの…顔を見るなり、一番古い記憶――施設に入る前の、家族――その、母親であるそのヒトと…暮らしていた頃の記憶が…甦ってしまったんだよ。…そして同時に…俺の意味不明の…罪悪感の正体もわかった…。」
カズはそこで一旦区切ると、大きく息をついた。いや、さっきから口で息をしているのに俺は気づいていた。話の合間合間、息遣いこそ聞こえないが、言葉がとぎれがちなのはそのせいだ。落ち着かないのだ。平静を装ってはいるが、心は波打っている。それを少しでも落ち着けたくて、無意識に深呼吸のように口で息をしているのだ。
過呼吸にならなきゃいいが――俺は少し心配になったけど、話をさえぎれそうにはなかった。
「そのヒト――思い出したそのヒトの顔は…ものすごい形相だった。泣き顔のような…怒り狂ったような…あるいは断末魔のような恐ろしい顔で…俺を…幼い俺を押さえつけていた。…床に仰向けに倒れた俺を…押さえ込んで…左手で俺の首を絞めて…右手は…何だろう、何か尖ったもの…ナイフか千枚通しか…もしかしたらそこらにあった…ハサミやペンのようなものかもしれないが…とにかく突き刺すことが出来るものだ…それを右手に逆手に持って…俺に突きたてようとしていたんだ…。あまりに恐ろしくて…俺は知らずにその記憶を封印していたんだ…。」
俺は――いや、俺たちは思わず息をのんだ。何だって? それじゃ、カズは自分の母親に殺されそうになったってことか?! 今ここにいるってことはもちろんそれは成就しなかったってことだけど、そんな恐ろしいことが……世間じゃ時々報道されるけど、よりによってカズがその被害者だったなんて…何てことだ…。

でも、カズはやはり覚悟を一瞬、いやイチ刹那で決めたのだろう、淡々と静かに続ける…。
「今にも振りおろされそうなそのヒトの右手が振り下ろされなかったのは…はっきりわからないが、俺の叫びのせいだったらしい。俺はその時こう叫んだんだ。『おかあさん、ごめんなさい!』って…。大声で…泣きながら…。それは確かに今でも覚えている。ずっと忘れて…封印していたが、そのヒトの顔を見た時すっかり鮮明に思い出したんだ。確かに俺はそう叫んだ…。その後、そのヒトは手をゆっくり下ろし…その顔もおぞましいものではなく悲しい…くしゃくしゃの泣き顔になって俺の視界から消えた…。ただ、向こうで泣き喚く声だけがしていたのを覚えている…。でも、幼い記憶はそこまでだ…。その後はよくわからない…気がつくと施設に入っていた…。とにかく、それを思い出したことで…罪悪感の正体もわかった…。俺は母親であるあのヒトに謝りたかったんだ…。あのヒトに…こう言って…。」
カズはまた言葉を切った。無表情でそれまで話していたのに、さすがに我慢できないのか、ギュッと目をつぶって――歯噛みしているのがわかった……言うのがそんなに辛いセリフなのか、何なんだ? 日頃強気のお前がそんなに言い淀むどんなことをお母さんに言いたかったっていうんだ?
俺には想像もつかなかったが…それは恐ろしいセリフだった…。
「謝りたかったんだ…『生まれてきてごめんなさい』って…。」
搾り出すように言って、カズはうつむいた…。
・・・TO BE CONNTINUED.