ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

KAIGO.介護 巻の三十 怒りのドクターたち 

2010年07月19日 13時52分51秒 | 介護な日々
2008年8月下旬

T先生の指令でOS病院の腎臓内科へ行き、
ついでに皮膚科にまわされて結局疲れて帰った父でしたが・・・

皮膚科のコワ~イ部長ドクターの「皮膚科に行きなさい」という命に従うべく、
いつものかかりつけUI医院、
娘さんである若先生が皮膚科のドクターでいらっしゃるので、
そちらに行こうと思ったら・・・・・・なんとタイミングの悪いこと・・・。
その日から1週間お盆休みで休院ではないですか・・・。

ホントについてないとはこのことです。
それならば他の皮膚科はと言うと・・・
母が入院中のIC病院にも皮膚科がありました。
毎日診療があるわけではないけれど、お盆休みにもかからず、
2~3日中に診てもらえそうではありました。
しかし、父はこの病院にはかかったことがなかったので、
行くとすればまた初診の申し込みから始まって
基礎検査をうけなければなりません。
ここは小さな町病院ですから、申し込みも検査も
そう手のこんだややこしいことはないのですが、
父はOS病院ですっかり懲りたらしく
面倒はもういやだから我慢すると言い張りました。

幸い結果的にはOS病院の部長ドクターのおっしゃったような
大事にはなりませんでしたが・・・
確かに・・・必要なことではあると思いますが、
こういった病院のシステムは高齢者にはかなり酷だなと思います。
病院行ったら病気なるで、というのはこういうことですな。

8月も20日を過ぎると夕方はだいぶ涼しくなってきました。
この夏はなんとかクーラーなしで行ったけれど、
来年は早いうちに設置することにしよう。
父も急に冷え込むのは辛いけれど、日中はだいぶ楽になったようでした。
蜂窩織炎も徐々にましになって行き、食欲も一時よりは出てきて、
ぐったりと横になってばかりだったのが少しは起き上がり、
高校野球や相撲の中継などをよく観戦するようになりました。

少し遡りますが、この夏父は都心の百貨店まで2度も出かけてお中元の手配をしています。
昔人間でそういう礼はそれまでも欠かしたことがありません。
それでも、2回目は心配したちい兄が送っていきました。
でも、帰りは自力で帰ったそうです。T先生の外出厳禁命令など聞いていません。
家族としてはハラハラしどうしですが、
じゃあドコにも行くな、何もするなというのがいいのかというと・・・
それもどうかと思います。
本人のやりたいことは出来る限りさせてあげたいけど、判断は難しいです。

さて、そんなこんなで夏も終わり・・・ませんな、長~い残暑の候・・・。


2008年9月1日(月)

Sセンターへの通院の日。
T先生の指令でOS病院の腎臓内科へは行ったものの
剣もホロロに追い返され・・・(たような気がする)
更に叱られて皮膚科へ行き叱られて帰ったことをT先生に報告。
T先生は相変わ・・・いつもより更に難しい顔・・・怒ってる?
・・・OS病院の対応に少なからずご不満だったのでしょうね。
ともかくそういうことなら腎臓に関しても当面は自分が診ると、
そしていざと言う時はやはりOS病院へということでひとまず決着。
心臓に関しては特に悪化したようすもなく、
このままぼちぼちな暮らしを続けて良いでしょうという見立てでした。

しかし、ここでT先生は貧血の方が心配だとおっしゃいました。
(てか、ずっと前からY先生に指摘されまくってるんスけどね!)
ですから、今度は「血管内科」へ行きなさいとの命令が・・・

ああ、もう・・・・

まあ、さいわい血管内科はここSセンターにあるのでまだいいんスけどね・・・
ったく、内科ってどこまで細分化されてるんでしょう?
そら、より専門的なとこで専門家に診てもろたほうがええのんやろけど・・・
なんかドーーー、と疲れました。
ともかく9月22日に予約を入れて、
今度は血管内科へ行くことになりました・・・トホホだよ~。


しかし、この頃ヘルパーKさんから聞いたのですが、
ついでがあったのでUI医院へ行って父の様子を話すと、
「OS病院にしてもSセンターにしても
こんなに貧血がひどくて一日中しんどい状態でいてはるのに
入院しなさいと言われないんですか?!」
と、I先生Y先生ともに大変ご立腹であったそうです。
いやいやOS病院では確かに入院しろといわれましたが、
でもそれは貧血ではなく蜂窩織炎についてのことです。
何故貧血で入院対応にならないのか、そちらの方が問題とお考えのようでした。
実際私もY先生にお会いして話した時は、相当怒っておられました。

病院には病院のいろんな事情があるのかも知れませんが、
今にして思えば、私はY先生のお見立てが一番正しかったように思います。
大病院の専門医より、家庭の状況や患者の普段を知るかかりつけの先生が
一番正しい判断を下せる・・・当たり前といえば当たり前ですが
かかりつけ医の存在は絶対必要なのかもしれません・・・。
とにかく、親身になって、また真剣に考えてくださっていました。
だからこそ怒ってくださったのでしょう・・・。
今更ですが、I先生にもY先生にも大感謝です。本当にありがとうございます。
と、両先生にもここでお礼申し上げます。


・・・で、その頃母は?
・・・ごっさ元気でございました。
適度に文句をいい、お菓子を食べたがり、散歩に行き、
機嫌も良かったりサイテーだったりするけれど、
暑気あたりなどで時に発熱もあるけれど、マイペースで元気です。
それが救い・・・ですかね。
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60過ぎてもやっぱりジュリー!

2010年07月19日 09時32分19秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
澤田研二さん――本名は同じと言えば同じですが・・・「さわ」が旧字体で
本当は「研」の字も少し違うのですが・・・変換で出ません。
右のツクリというか、”とりい”みたいな字の、
下の横棒が真ん中でちょっと切れている字がホントだそうで。確か。

1948年生まれ、バリバリの団塊の世代でいらっしゃいます。かに座のA型。
出身は京都・・・といわれていますが本当は鳥取県津ノ井村(現在は鳥取市)生まれ。
お母様のご実家ですな。ご両親お二人とも鳥取のご出身だそうです。
次男で、お兄様とお妹様がいらっしゃいます。

小学校時代はおとなしく、泣いてばかりだったそうです。
でも、早くから運動神経は抜群で、6年生の時には校内イチ足が速かったとのこと。
なのに階段から落ちて右手をついたときにつき損なって捻挫、
当時から野球少年だった研二少年、無理してボールを握っていたらだんだんひどくなり
病院へ行ったら「折れてるで・・・」。で、14針縫う大手術に・・・。
でも、その時は泣かず「野球が出来なくて困る」と、そっちの心配をしていたとか。

中学校ではガラッと性格が変わって強気になり、部活は当然野球部へ。
抜群の野球センスと人を引っ張る性格でキャプテンにもなりました。
4番で主将でエース・・・ではなくファーストでしたが。
「スポーツやってる奴は成績が悪い」といわれて腹を立て、猛勉強、
おかげで成績は音楽3以外4と5ばかりの、学年トップクラスの成績に。
でも、ご本人曰く「あ、俺はやればできるんやな、ということがわかったからやらなくなった(笑)」
ともかく、それまで弱かったチームを県大会で
ベスト4に入る強力チームに引っ張り上げた手腕もなかなかのものでした。
この頃は「番長」なるものが存在した時代です。
一般生徒には手を出さず、番長グループ同志では抗争もあったという、
古い任侠路線が中学生レベルにもあった時代。
研二少年も番長グループに属していたことがあり、ケンカもよくしたけど、
ある時放送室を占拠して勝手にコンサートやらかしたこともあるそうです。
でも、あまりにうまかったので一般生徒には大ウケ、先生も咎められなかったとか・・・。
考えてみりゃ、いい時代だったの・・・かな???
なんにせよその頃から将来の片鱗が見えていたのかもしれませんね。

高校時代はというと・・・
本当はプロ野球選手になりたくて野球の名門・平安高校へ行きたかったそうなのですが、
(熱狂的阪神ファン!!!うん、トーゼンだ!
いつか掛布雅之さんのとこを「僕の舎弟だよ?」と豪語していた。
実際掛布さんにリストバンドをもらったとか何とか。)
だけど諸般の事情でそれはかなわず、
京都府立鴨沂高校(当時は京大進学率ナンバー1といわれた名門の進学校)へ。
当時の同校の野球部は弱小だったので迷っているうちに、
強面のセンパイに引きずり込まれるように空手部へ。
瓦割りなんかも出来るほどそこそこ上達はしたそうなのですが
やはり野球と言う目標を失ってしまったせいかシラケ時代突入のせいか
勉強にも部活にも身が入らず次第に学校はサボりがちに・・・(今で言う不登校)

そうしているうち、友人の誘いで音楽活動を始め、
とあるバンドでバンドボーイとしてコキ使われている(?)時に、
府立山城高校の生徒たちのバンドに誘われてそこへ加入。
それが後にあの、あの!ザ・タイガースになる当時ファニーズというバンドでした。
オーディション等であの、あの!内田裕也さんの目に留まり、高校を中退して上京、
裕也さんの監修のもと、関西出身だから阪神タイガースにあやかってザ・タイガースと改名しデビュー。
それからあとはあれよあれよというまにトップスターの座に駆け上がりました。

ジュリーの愛称の由来は、ご本人が「サウンドオブミュージック」等で有名な女優の
ジュリー・アンドリュースさんのファンだったから。これはご本人が自分で命名。
デビューするとき、裕也さんはジュリーの芸名を「沢ノ井 謙」にしようとしたそうですが、
これは当のジュリー本人がものすごく嫌がったため、本名と同じで行くことになったのだとか。
・・・まあ、ファンには有名なお話です。

1966年秋に上京して、しばらくは裕也さんとライブハウスなどに出演、
当時のGSの晴れ舞台「日劇ウエスタンカーニバル」出演後、
1967年2月「僕のマリー」でレコードデビュー。

その後、出すレコードは飛ぶように売れ、GS時代全盛期の中心グループとして日本中を席巻。
しかしその活動はわずか4年で収束。GSブームはあっという間に去ってしまい、
ザ・タイガースも1971年1月24日で解散しました。

解散後は同じGS仲間で大人気だった、先輩のザ・スパイダースと、ほぼ同期のザ・テンプターズ、
そしてタイガースから2名ずつ参加して出来たPYG(ピッグ)に加入。
↓これは初期メンバーではないですが・・・
 左端はショーケンこと萩原健一さん。右端がジュリーですね。

しかしこの”スーパーバンド”は批判もあり長続きしませんでした。
事務所(渡辺プロダクション、通称ナベプロ)のほうでも、
ジュリーはソロ歌手として活動したほうが良いと意見がまとまり、
1971年秋には「君をのせて」でソロシングルデビュー。

PYGはメンバーチェンジを経て
ジュリーを支えるバックバンド「井上堯之バンド」に自然に変わって行きました。

そして1972年末の日本レコード大賞において「許されない愛」で歌唱賞を受賞。
それからはアイドル・ジュリーではなく歌手沢田研二と名実ともに認められ、
本格的な音楽活動をスタート。
現在に至るまで40年以上に渡って歌い続けていらっしゃいます。

最近は全国的なヒット曲が残念ながらありませんけれど、
昭和年代においては枚挙にいとまないくらいありました。
特筆すべきは1983年ごろでしたか、日本でリリースされたシングルの総売り上げ枚数が
日本一であった時期がありました。それももちろんソロになってからの分のみです。
「勝手にしやがれ」でレコード大賞を、同曲と「危険なふたり」で歌謡大賞を受賞、
日本人で初めてフランスでレコードをヒットさせゴールドディスクを受賞した実績もあります。

一方でテレビドラマや映画の出演も多く、舞台でのお芝居にも出演。
また一時はドリフターズの志村けんさんとのショートコントも大受けするなど、
何にでも意欲的で、全身全霊いつもホンキでぶつかる真面目で一生懸命なヒトでもあります。
「おれは日本一の見世物でっせ~。」と公言していた時期もあり、
また奇抜なファッションや化粧でビジュアル系のハシリを担ったこともあり、
常に時代の最先端を行き、何かと話題を振りまいて日本の音楽界、芸能界を引っ張ってもいました。
・・・・・・・

・・とまあ・・・ウィキでも見ていただければもっとずっと詳しく書かれておりますが・・・

これを参考文献なし、ソラで書いてしまう私はやはり筋金入りの(元)ファンでござります・・・。

が、昨今は、あまり表舞台に出ることはなくなってしまいました。
これは私の思うことですが、今は自分が大事にしたい仕事を中心にされているのかなと思います。

以前はみんなが求めるもの、やってほしいと思うものを率先してやってくれていました。
が、今はそうではなく、ウケを狙うのではなく自分らしさを一番に考えているのかな、と。
その中で、みんなに伝えたいメッセージももちろんあるし、
大事にしたい思いもあるのだと思います。

残念ながら私がジュリーに期待しているものは、今ジュリーが目指すものと違うみたいです。
ですので、私は今はファン活動をぶっちゃけ致しておりません。
でも、ジュリーには、自身が信じていることを、貫き通して欲しいと思います。

いい意味でヒトの言うことなんか聞きゃしない。頑固モノですよ・・・。
それがジュリーだと思っています。
一人の元ファンの願望などほっといてくれていい。
60歳になってもジュリーと呼ばれたいと若い頃おっしゃっていたのは実現しました。
70になっても80になっても、言われてください。
90、100まで言われてください。そしてステージで倒れりゃ本望じゃないですか。

・・・ま、そんなふうに私は思っています。
現役ファンの皆様、
これはあくまで私個人の感想ですので、さらっとスルーしてくださいね。
私はファンしていないけど、だからホントは偉そうに言っちゃいけないんでしょうが、
皆さんは日向でジュリーをがんばって応援してくだされば私も嬉しいです。
私は影でこっそり見守ることにいたします。


・・・・って、お母さん?????!!!!!

(それからどっか間違ってたらご指摘ください。ジンソクに訂正いたします・・・。)

・・・次回はジュリーの小ネタを少々。
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