ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

60過ぎてもやっぱりジュリー!

2010年07月19日 09時32分19秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
澤田研二さん――本名は同じと言えば同じですが・・・「さわ」が旧字体で
本当は「研」の字も少し違うのですが・・・変換で出ません。
右のツクリというか、”とりい”みたいな字の、
下の横棒が真ん中でちょっと切れている字がホントだそうで。確か。

1948年生まれ、バリバリの団塊の世代でいらっしゃいます。かに座のA型。
出身は京都・・・といわれていますが本当は鳥取県津ノ井村(現在は鳥取市)生まれ。
お母様のご実家ですな。ご両親お二人とも鳥取のご出身だそうです。
次男で、お兄様とお妹様がいらっしゃいます。

小学校時代はおとなしく、泣いてばかりだったそうです。
でも、早くから運動神経は抜群で、6年生の時には校内イチ足が速かったとのこと。
なのに階段から落ちて右手をついたときにつき損なって捻挫、
当時から野球少年だった研二少年、無理してボールを握っていたらだんだんひどくなり
病院へ行ったら「折れてるで・・・」。で、14針縫う大手術に・・・。
でも、その時は泣かず「野球が出来なくて困る」と、そっちの心配をしていたとか。

中学校ではガラッと性格が変わって強気になり、部活は当然野球部へ。
抜群の野球センスと人を引っ張る性格でキャプテンにもなりました。
4番で主将でエース・・・ではなくファーストでしたが。
「スポーツやってる奴は成績が悪い」といわれて腹を立て、猛勉強、
おかげで成績は音楽3以外4と5ばかりの、学年トップクラスの成績に。
でも、ご本人曰く「あ、俺はやればできるんやな、ということがわかったからやらなくなった(笑)」
ともかく、それまで弱かったチームを県大会で
ベスト4に入る強力チームに引っ張り上げた手腕もなかなかのものでした。
この頃は「番長」なるものが存在した時代です。
一般生徒には手を出さず、番長グループ同志では抗争もあったという、
古い任侠路線が中学生レベルにもあった時代。
研二少年も番長グループに属していたことがあり、ケンカもよくしたけど、
ある時放送室を占拠して勝手にコンサートやらかしたこともあるそうです。
でも、あまりにうまかったので一般生徒には大ウケ、先生も咎められなかったとか・・・。
考えてみりゃ、いい時代だったの・・・かな???
なんにせよその頃から将来の片鱗が見えていたのかもしれませんね。

高校時代はというと・・・
本当はプロ野球選手になりたくて野球の名門・平安高校へ行きたかったそうなのですが、
(熱狂的阪神ファン!!!うん、トーゼンだ!
いつか掛布雅之さんのとこを「僕の舎弟だよ?」と豪語していた。
実際掛布さんにリストバンドをもらったとか何とか。)
だけど諸般の事情でそれはかなわず、
京都府立鴨沂高校(当時は京大進学率ナンバー1といわれた名門の進学校)へ。
当時の同校の野球部は弱小だったので迷っているうちに、
強面のセンパイに引きずり込まれるように空手部へ。
瓦割りなんかも出来るほどそこそこ上達はしたそうなのですが
やはり野球と言う目標を失ってしまったせいかシラケ時代突入のせいか
勉強にも部活にも身が入らず次第に学校はサボりがちに・・・(今で言う不登校)

そうしているうち、友人の誘いで音楽活動を始め、
とあるバンドでバンドボーイとしてコキ使われている(?)時に、
府立山城高校の生徒たちのバンドに誘われてそこへ加入。
それが後にあの、あの!ザ・タイガースになる当時ファニーズというバンドでした。
オーディション等であの、あの!内田裕也さんの目に留まり、高校を中退して上京、
裕也さんの監修のもと、関西出身だから阪神タイガースにあやかってザ・タイガースと改名しデビュー。
それからあとはあれよあれよというまにトップスターの座に駆け上がりました。

ジュリーの愛称の由来は、ご本人が「サウンドオブミュージック」等で有名な女優の
ジュリー・アンドリュースさんのファンだったから。これはご本人が自分で命名。
デビューするとき、裕也さんはジュリーの芸名を「沢ノ井 謙」にしようとしたそうですが、
これは当のジュリー本人がものすごく嫌がったため、本名と同じで行くことになったのだとか。
・・・まあ、ファンには有名なお話です。

1966年秋に上京して、しばらくは裕也さんとライブハウスなどに出演、
当時のGSの晴れ舞台「日劇ウエスタンカーニバル」出演後、
1967年2月「僕のマリー」でレコードデビュー。

その後、出すレコードは飛ぶように売れ、GS時代全盛期の中心グループとして日本中を席巻。
しかしその活動はわずか4年で収束。GSブームはあっという間に去ってしまい、
ザ・タイガースも1971年1月24日で解散しました。

解散後は同じGS仲間で大人気だった、先輩のザ・スパイダースと、ほぼ同期のザ・テンプターズ、
そしてタイガースから2名ずつ参加して出来たPYG(ピッグ)に加入。
↓これは初期メンバーではないですが・・・
 左端はショーケンこと萩原健一さん。右端がジュリーですね。

しかしこの”スーパーバンド”は批判もあり長続きしませんでした。
事務所(渡辺プロダクション、通称ナベプロ)のほうでも、
ジュリーはソロ歌手として活動したほうが良いと意見がまとまり、
1971年秋には「君をのせて」でソロシングルデビュー。

PYGはメンバーチェンジを経て
ジュリーを支えるバックバンド「井上堯之バンド」に自然に変わって行きました。

そして1972年末の日本レコード大賞において「許されない愛」で歌唱賞を受賞。
それからはアイドル・ジュリーではなく歌手沢田研二と名実ともに認められ、
本格的な音楽活動をスタート。
現在に至るまで40年以上に渡って歌い続けていらっしゃいます。

最近は全国的なヒット曲が残念ながらありませんけれど、
昭和年代においては枚挙にいとまないくらいありました。
特筆すべきは1983年ごろでしたか、日本でリリースされたシングルの総売り上げ枚数が
日本一であった時期がありました。それももちろんソロになってからの分のみです。
「勝手にしやがれ」でレコード大賞を、同曲と「危険なふたり」で歌謡大賞を受賞、
日本人で初めてフランスでレコードをヒットさせゴールドディスクを受賞した実績もあります。

一方でテレビドラマや映画の出演も多く、舞台でのお芝居にも出演。
また一時はドリフターズの志村けんさんとのショートコントも大受けするなど、
何にでも意欲的で、全身全霊いつもホンキでぶつかる真面目で一生懸命なヒトでもあります。
「おれは日本一の見世物でっせ~。」と公言していた時期もあり、
また奇抜なファッションや化粧でビジュアル系のハシリを担ったこともあり、
常に時代の最先端を行き、何かと話題を振りまいて日本の音楽界、芸能界を引っ張ってもいました。
・・・・・・・

・・とまあ・・・ウィキでも見ていただければもっとずっと詳しく書かれておりますが・・・

これを参考文献なし、ソラで書いてしまう私はやはり筋金入りの(元)ファンでござります・・・。

が、昨今は、あまり表舞台に出ることはなくなってしまいました。
これは私の思うことですが、今は自分が大事にしたい仕事を中心にされているのかなと思います。

以前はみんなが求めるもの、やってほしいと思うものを率先してやってくれていました。
が、今はそうではなく、ウケを狙うのではなく自分らしさを一番に考えているのかな、と。
その中で、みんなに伝えたいメッセージももちろんあるし、
大事にしたい思いもあるのだと思います。

残念ながら私がジュリーに期待しているものは、今ジュリーが目指すものと違うみたいです。
ですので、私は今はファン活動をぶっちゃけ致しておりません。
でも、ジュリーには、自身が信じていることを、貫き通して欲しいと思います。

いい意味でヒトの言うことなんか聞きゃしない。頑固モノですよ・・・。
それがジュリーだと思っています。
一人の元ファンの願望などほっといてくれていい。
60歳になってもジュリーと呼ばれたいと若い頃おっしゃっていたのは実現しました。
70になっても80になっても、言われてください。
90、100まで言われてください。そしてステージで倒れりゃ本望じゃないですか。

・・・ま、そんなふうに私は思っています。
現役ファンの皆様、
これはあくまで私個人の感想ですので、さらっとスルーしてくださいね。
私はファンしていないけど、だからホントは偉そうに言っちゃいけないんでしょうが、
皆さんは日向でジュリーをがんばって応援してくだされば私も嬉しいです。
私は影でこっそり見守ることにいたします。


・・・・って、お母さん?????!!!!!

(それからどっか間違ってたらご指摘ください。ジンソクに訂正いたします・・・。)

・・・次回はジュリーの小ネタを少々。

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