ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

KAIGO.介護 巻の四十二  ICU症候群&感染症撃破

2010年08月30日 12時46分40秒 | 介護な日々
2008~2009年年末年始

このころ母は「物盗られ妄想」がちょくちょく出てきて、
ちょっと見当たらないとすぐに「盗られたんちゃうか?」と言って
大騒ぎしたり、周辺のものを布団の中に持ち込んだりしていました。
年末、友人からりんごをいただいたのはよかったのですが、
「うちへ持って帰っといて」と自分で言ったのにそこだけ忘れて
「りんごもろたはずやのにない。盗られたんや。」と何度も言うのです。
いくら言い聞かせても納得しないのでうちに連れ帰り、
神棚にお供えしてあるのを見てやっと納得。
また、靴がベッドの下に入り込んでいて上から見えなくなるとすぐ
「誰か靴盗って行った」といいました。
ベッドの下から引っ張り出して見せると
「な~んや。ヒト疑う前に自分疑わなあかんなあ~。」
と、反省するのですが、また忘れて
「靴、置いたあるか? うっかりするとすぐ盗られるから気いつけな。」
と言い出す始末・・・。

お正月はお兄一家はじめたくさんの見舞い客があり、
うちにも帰って楽しく過ごしましたが、
祭りの後の寂しさというか気の抜けた感じと言うか、
一段落したころは不機嫌な日が多かったようです。
疲れもあるのか、ちょっと熱も出て、愚痴と文句のオンパレード。
「帰る」「退院する」を繰り返し、
「一人では暮らせへんやろ?」と言っても
「一人でもなんでもええ。帰るんや。」
「ご飯の用意は?トイレも行かれへんし・・」にも
「そんなもんかまへん。」
「第一歩かれへんやんか。」には
「そんなことあらへん! さっきかてしゃっしゃって歩いてたがな!」
・・・・・
機嫌の悪いときは記憶もかなり悪いみたいで、
今しがたのことはもちろん、今の自分の状況も忘れるみたいです・・・。

でも、ひとつひとつ言い聞かせ、ひとつずつ納得するとだんだん落ち着き、
「今日は無理やけど次ヘルパーさんにも頼んで帰るようにしよ」などと言うと
「ほな、それまでここにおったらええねんな?」と得心するのでした。

何を言ってもまず否定したり拒絶したりせず、
この際嘘も方便、気持ちに沿うように答えればなんだか納得はしてくれます
・・・・というのはわかっているんですがねえ・・・
つい「それは無理」とか言ってしまうし、
「明日みんなで迎えに来るから、そしたらうち帰ろな」などというような
嘘の約束も後ろめたくてどうにも言えないでいました・・・
嘘ついたって本人すぐ忘れるのでどうってことないんですがね・・・。
(そういうことに限って「ゆうてたやんか!」と覚えてられそうな気がする・・・)


父も年末年始、父なりにはりきってしまっていたようです。
元日の日、ちい兄やお兄たちが来るというので、
車椅子に乗せてもらってデイ・ルームで待っていました。
・・・本当は車椅子に移乗したり、座り続けるのもしんどいのに・・・。
でも、寝てばかりいるとストレスもたまるし、
それなら多少しんどくても車椅子で院内をぐるっと散歩するほうがいいらしく・・・。
お正月の喧騒が去るとともに疲れがどっと出た様子・・・。


ところで・・・ICU症候群という病気をご存知でしょうか?

T先生から何度かお聞きしていたのですが、
これはICUすなわち集中治療室にいると精神的に参ってしまい
うつ状態になったり幻覚や幻聴をおこすこともある精神疾患です。
原因は、ICUにいること、すなわち自分が重篤な状態にあることを知って
強い不安や恐怖心を覚えることから来ていると言われています。
いわば一種の極限状態に置かれた状態ですから、
T先生いわくどんなに頑丈な人でも24時間ここにいると精神に変調をきたすのが普通、
ましてや何ヶ月もずっと個室で機械に取り囲まれ管をつけられて
平気でいられるわけがない・・・はずなのに。

そう、はずなのに、です。

「僕はこんなに精神力の強い患者さんに今まで会ったことがありません」
T先生が脱帽しておっしゃいました。
「こんな状態でずっと、頭がクリアなんて正直しんじられません。
いくら長くても1週間もしたらおかしくなってぼうっとしてきます。
(認知症のようになると言うことらしい)
それなのに・・・Hさんはまったくその様子がない。
多少、鬱にはなっておられますが、それでもしっかりされてます。
ほんと、びっくりしてます・・・」

確かにそうなんです・・・。
ともすると絶望したくもなるだろうに・・・
父はずっと「絶対元気になってうちに帰る」つもりでいます。
「もうええ、はよ死にたい」などとはそれこそ
「死んでも思わない」ようなのです。

ICU症候群がなんぼのもんじゃい! です。



2009年1月11日

父、38.3度の発熱。
T先生によると、肺炎・蜂窩織炎(皮膚炎)・膀胱炎の可能性は低いが
何らかの細菌感染かも知れないので抗生剤をいれていますとのこと。
もう1日様子を見て下がらなければ、別の薬を使ってみますと。

先生の講義(?)によると、感染症には
一般的には細菌感染と細菌より小さいウイルス感染の2種類が知られているが
細菌でもウイルスでもない病原体があるのだそうな。

「消化管出血は今は止まっていますが、念のためそれ用の薬も使っている。
ガンでも発熱はあるが、内視鏡検査ができないのでCTを撮ってみます。
CTに映るようなら末期ガンですが・・。」

またぞろピンチ到来のようです・・・。


2009年1月13日

T先生から電話。
「点滴の管から感染したのかもしれません。容態は悪化しており
肺血症を起こして腎機能がまた低下しています。
抗生剤を強めに入れていますがどんな菌かわからないので効くかどうか不明です。
もし、MRSAであれば抗生剤は効きません。
腎不全に対しては利尿剤を入れています。
また、血圧が下がっているのでイノバンという昇圧剤も使います。
腎不全次第では合併症が起きる可能性もあり、
ここ2,3日の治療の効果がないようであれば今週末がヤマになります。
気胸の時以来の厳しい状態です。
・・・場合によっては鎮静剤を使いますが
前に言いましたとおり、これを使うと本人は眠ったような状態になり
意思の疎通はできなくなります・・・」

いよいよか? とうとうその時期が近いのか???
「一応、お覚悟を・・・。」
そういうことですか・・・?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちい兄が急いで夜に行ってみたら・・・そこそこ元気だった。
んんんん・・・?


2009年1月15日

週末やばいの報を受け、お兄がやってきました。
・・・・・が?


2009年1月18日

父、朝36.9度、夜37.3度、微熱程度です。
感染症の原因はよくわからなかったけれど、なんか、乗り越えました。
ほっとしたけれど・・・・
・・・・・T先生、ちょっと心配性すぎちゃう?
だって・・・数値はどうや知りませんが、
父本人は熱の割には”死にそうなくらいしんどい”ことはないみたいでしたし。

まあ、ドクターとしては楽観視はできないのでしょうけどね・・・。


数字ばっかし見てないで、患者の顔色見てくだされや。のう?
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EXOTICS

2010年08月29日 14時43分55秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
EXOTICS・・・・!!!!!!!!!

やっぱ書かなきゃだめっすよね~!!!!
ジュリーファンOGとしちゃあ~~~~~!!!

はい、何度も拙ブログに登場いたしております
ジュリーこと沢田研二さんの”伝説の”(笑?)バックバンドでございます。

ジュリーのバックバンドはその前に
井上堯之バンドという超ビッグな、これこそ伝説の神バンドがありますが
そのお話はまたの機会に譲りまして・・・。

井上バンドは1980年明けに解散、
その後はオールウェイズというバンドがだいたい丸1年間だけ活動し、
翌年の1981年春から1984年秋までの3年間
・・・今にして思えばたった3年なんですが、
EXOTICSが超ド派手に活動いたしておりました。
実力派でありながら、ビジュアル系バンドのハシリとも評されております。

そのEXOTICSのお話です。

・・・何故大物ぞろいの井上バンドを差し置くかって?
そりゃあ・・・ちゃちゃめがエキゾ大好きだったからですよ!!


では、ジュリーのなつかし話、今回はタイトル独立させちゃったけど
EXOTICS・・・伝授!!(D様今回も使います~。)


EXOTICSはエキゾティクスと読みます。
ちょいちょいエキゾティックスとかエキゾチックスとか
読み間違いされるのですが・・・お間違えなきよう。
長いので略してエキゾと呼びますが、
何故かリーダーのケンさんだけは「ティクス」と呼んでました。
(自称あまのじゃくだから・・・??)

命名者はジュリー。

結成後すぐにはバンド名が決まらず、しばらくは時のジュリーのリリース曲
「渚のラブレター」を冠して”渚のラブレターバンド”と名乗っていました。
ただし往年の名番組「夜のヒットスタジオ」でのみ
B面の曲タイトルを冠して”バイバイジェラシーバンド”と名乗っています。
これは「渚のラブレター」が化粧品会社のマックスファクターのイメージソングで、
「夜ヒット」は提供スポンサーにライバルの資生堂があったため。
ですので「夜ヒット」では「バイバイジェラシー」という歌を歌っております。

で、名前の由来ですが、
これはジュリーがいろいろ考えていて、
ふと手にした国語辞典、それも少し古い昭和40年代の版を見ていて
・・・確か「監修金田一京助先生でございますね~。」
エキゾチックという言葉に目がとまり・・・
「エキゾチック・・・。
昭和40年代の辞書に載ってるということは
じいさんばあさんが聞いても、そう抵抗のない言葉なんやないかいな?」
と思い、
「エキゾチック・・・エキゾチックス・・・エキゾティックス
エキゾティクス・・・。これ、ええんやないかい?」
と思って命名にいたったのだそうな。(ジュリー本人・談)



では、メンバー紹介・・・(「」内はいろんな人からのコメントです。)

(画像は1981年夏のコンサートツアー・パンフレットから。
左から西平彰、上原豊、柴山和彦、沢田研二、安田尚哉、吉田建)

リーダー・ベース 吉田 建(よしだ けん)さん
呼び名はケン、ケンさん。「お父さん」「波平さん(サザエさんの)」とも。

1949年生まれ さそり座A型 千葉県成田市出身・・・でも、本人は
「カッコつけるために」東京出身(育ちは東京なので)とのたまっているそうで。
(↑後注・・・成田市ではないそうです。申し訳ありません~。
 海音さま、ご指摘ありがとうございました。)
早稲田大学在学中からエレキ・ベースをはじめ、
それまではコントラバスを主に演奏していたそうです。
浅川マキさんやつのだ☆ひろさんらのバックなどを勤めた後
泉谷しげるさんのバンド・BANANAでもリーダー。
それと平行して1980年ジュリーのバックオールウェイズに参加。
そのままEXOTICSに続けて参加。
特技は宴会部長。当時の名物マネジャー・早稲田の先輩森本さんと結託し?
早稲田仕込の宴会ゲームやクイズ大会など
常に自分は皆にやらせる方向でコーディネイトするのが得意技。
口癖は「バカヤロー」で、本人の弁によると「愛の言葉」。
「スポークスマン」の自称もあるとおりすごい”しゃべり”で「歩く小言」という評も。
でも、意外と「人見知りする方(ジュリー)」で、
テレビの生本番などでインタビューされると確かに恥ずかしそうです。
エキゾ後はBANANAは続けつつ、山下久美子さんや加藤登紀子さんの演奏に参加。
プロデューサー・作曲家としての活動も数多く、
"三宅裕司のいかすバンド天国(イカテン)"という新人バンド発掘番組の
審査員も勤めました。
これは関西ではオンエアされなかったので見たことはないんですが、
新人バンドを見渡して「腰抜けですね」と辛口発言するなど
なかなかに存在感ある審査員だったと聞いております・・・
(ここでも「バカヤロー」という愛の言葉を連発していたとか何とか。)
1989年からまたジュリーのバックバンド”JAZZ MASTER”に
リーダーとして復帰したのですが、
音楽性や方向性に意見の相違があったらしく残念ながら93年にリタイヤ。
その後もプロデューサーまた作・編曲家として活躍されています。
ドラマにも出演したことがあるそうで・・・。
最近はなんか堂本兄弟やスガシカオさんらとセッションをしたとかいう話が
ケンさんご本人のブログに載ってました。
いやあ~・・・しゃべりとノリはちっともかわってませんな、この方。


ギター 柴山 和彦(しばやま かずひこ)さん
呼び名はカズ、カズさん。

1952年生まれ 乙女座A型 生まれも育ちも今住んでいるのも横須賀市。
カズさんについては早々に拙ブログで大々的に紹介いたしておりますので
詳細はそちらでよろしく~。
エキゾ後のバックバンドCo-CoLo(ココロ)には不参加で、
実兄の好正さん、ケンさんとともにBANANAは続け、
他には大沢誉志幸さんや鈴木さえ子さん、松尾清憲さんなどのバックを勤めて
4年ほどジュリーから離れていましたが
1988年Kris-Kribgle(クリスクリングル)という名のバンドで
ジュリーのバック復帰、
続けて89年からケンさんとともにJAZZ MASTER(95年まで)にも参加し、
以後もずうっとジュリーのバックを勤めています。今はバンマスだそうです。
ジュリーのそばにいて欲しいミュージシャンぶっちぎり第1位・・・
・・・とかいうのをどちら様かのブログか何かで拝見しました。
カズさんを直接知る方々のコメントで人物像を補足しますと・・・
「調子のいい」「なかなかひょうきんで」「楽しい人」「口だけで生きてる(自称)」
「カズさんはカズさんで、それ以上でもそれ以下でもありません」
「酔うとよく寝る」けど「彼の(酒の)強さは他に例を見ない。寝ながら飲んでる」
「(仕事上のことで)できないとは絶対言わない」「すごい努力家」
「頑張りマンですね」「きりっとした感じ」
で、ミュージシャンには珍しく(?)一度もタバコを吸ったことがない健康な人です。


ギター安田 尚哉(やすだ なおや)さん
呼び名はやっさん。

1953年生まれ 蟹座 O型 出身は芦屋とも神戸とも言われていますが・・・
西宮の夙川(しゅくがわ)にいたのは間違いないです。いずれにしろ兵庫県やね。
この人についてはすみません、ワタクシよく知らないんです。
どこからいらしたのかよくわかりません。
また、エキゾも1984年の2月ごろに抜けちゃってて
その後上々颱風(しゃんしゃんたいふう)で
ベーシストをやっていたのはわかっているのですが
それからどうしたかは・・・。
なんか、現在はLight Headzというバンドのリーダーらしいです。
上々でベースに転向したのは・・・実は転向ではなく
上々はギターレスバンドなんで、じゃあベース弾きますとなったそうです。
人物像としては、ややおっとり型の印象があります。
メンバーいわく「スリークッションのやっさん」だそうで。
これはビリヤードの技だそうですが、
各メンバーの間をうまく取り持つといったそんな感じだとか。
に、しても「みんなの間をうまく渡って、世渡りがうまいという?(ジュリー)」には
みんなして「そういうことはない(笑)」


ドラムス上原 豊(うえはら ゆたか)さん。
名前を”裕”と書かれることがしょっちゅうありますが、”豊”が正しいのでは・・・?
呼び名はユカリ、ユカリさん。
これは、幼少のみぎり、髪をへその辺りまで伸ばしていて女の子みたいだったので
当時明治マーブルチョコのCMに子役で出ていらした
女優の上原ゆかりさんからとってそう呼ばれたのが
大人になってもそのまま呼ばれているのだそうです。

1953年生まれ 射手座 O型 出身は京都でしたかな・・・。
ユカリさんは”村八分”という、その筋では伝説といわれる
少々過激なロックバンドに参加。
その後は山下達郎さんのバンド・シュガーベイブにいましたが、
ケンさんと一緒にバイバイセッションバンドにいたことも。
他にもありとあらゆるいろんな人のレコーディングに参加されていまして、
幅広くどこでもその名を見かけます。
ちなみにエキゾ後は、次のバンド・Co-CoLo(ココロ)にも
初めのころちょっとだけ参加されていました。
この人は「いつでもどこでも僕は楽しい(ジュリー)」という前向きでユルいお方。
やっさんよりさらにおっとりした感じで、
ドラマーですからすごい筋骨隆々マッチョマンなんですが
ものすごいネコ派でネコの気持ちがわかる人。
「散歩につれていくと野生がよみがえるらしい」とのたまい、
「噛まれても好き」と言ってジュリーをうならせました。
(残念ながらジュリーはどちらかというと動物嫌いらしいです。
別に怖くはないそうですが。)
近況はよくわかりません。甲斐バンドのフォローをしていらっしゃったけど
期間限定再結成の時もやってて・・・
あ、最近もやってるんですね、甲斐バンド。
じゃあ、そこにいるの・・・かも?
調べたけどよくわかりませんでした・・・。


キーボード・ピアノ西平 彰(にしひら あきら)さん
呼び名はアキラ。・・・さんなし? はい、”末っ子”ですので・・・
ファンからもアキラくんと呼ばれていました。

1958年生まれ 水瓶座AB型 東京都杉並区出身ですとか。
早稲田のライバル(?!)慶応義塾大学卒業後ジュリーのバックに新卒で就職!!
慶応ということは加瀬邦彦さんの後輩ですな。
ケンさん、カズさんとともに1980年のオールウェイズから参加。
ひとりでぐっっっっっっっと平均年齢を下げてくれまして
もちろん女性ファンからも1番人気。
若くて可愛くて「生まれたばかりのバンビちゃんみたい~」と言われてて
ケンさんが腐り倒して「ケッ、ナニ言ってやがんだバカヤロー(愛の言葉)!」(笑)
ピアノは5歳から習ってたけどご本人曰く
「中学くらいになると面白くなくなっちゃって」軽音に転向。
でも、さすが小さいころから正式な音楽教育を受けたおかげで
その音楽センスと実力はピカイチ。
1982年にジュリーが出したシングル”6番目のユ・ウ・ウ・ツ”は彼の作曲です。
それがプロに楽曲提供した初作品でこのほかにもアルバムに多くを提供。
エキゾ後は氷室京介さんのバックなど務め、
一時カズさんと一緒に松尾清憲さんという歌手のバンドもやっていました。
最近はケンさんと同じくプロデューサーあるいは作曲家として活躍しています。
無口でおとなしいけど、言うことははっきり言うところが
当時で言う”現代っ子”でありました。



井上バンドはコンサートでは必ずバックを勤めていましたが、
レコーディングにはあまり参加しておらず、
テレビも必ず出るわけではなかったし、
出ても番組専属のオーケストラと合同演奏することがほとんど。
また、井上バンド単独の活動もあり、
たとえば人気刑事ドラマ「太陽にほえろ!」などの音楽の演奏や
短期間でしたがロック歌手麻生レミさんをボーカルに招いて
”井上堯之ウォーターバンド”としても活動していました。
さらに井上さんや大野克夫さんはソロアルバムを出していたりと、
ジュリーのバックだけがお仕事ではなかったのですね。

それで、次のバンド・オールウェイズは完全に専属バンドで
必ずライブもレコーディングも参加するようになりました。
多少他のミュージシャンにヘルプとして入ってもらうことがあったものの
オーケストラと合同という形はなくなりました。
いつも一緒・・・だからオールウェイズ(いつも)かな???

それを更に徹底させたのがエキゾだったのではないかと思います。
ジュリーとバンドの更なる一体化ですね。
オールウェイズの終盤は衣装もジュリーと
トータルコーディネートされるようになりました。
だから急遽パワーアップさせたバンドを作ろうとなったのではないかと
ワタクシ邪推しております。
・・・それでバンド名が間にあわなかった、と。

エキゾになってからは音楽的にもビジュアル的にも一体化して
それだけにエキゾ自体のファンも多かった。
音楽的にもよりタイトな音を目指し、
歌謡曲っぽかったジュリーの音楽も
歌謡曲・・・の一面はあるけれどもっと特異な
ジュリー独特のロックサウンドが確立されて行ったと思います。
ジュリー自身も
「僕のやっている音楽は・・・邪道というか、穴場というか?
他にやってる人がちょっといないような、
どういうジャンルにも入りにくいようなところをやってるので
その辺が僕らしいというか、そんな感じですね。
邪道って・・・好きですよ。」
というようなことをよくおっしゃっていました。

と、いったところで・・・
なんかまだ語りつくしていないんですけど
かなり長くなったのでひとまずこの辺で・・・。
また、続く・・・かもしれませぬ。
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KAIGO.介護 巻の四十一 心強い味方の人々

2010年08月27日 10時07分32秒 | 介護な日々
2008年12月下旬

Sセンターにて

父の担当看護師・Jさんが驚いて曰く
「9月下旬の入院以来、ほとんどベッドに横たわっているのに、
車椅子に移乗する際にはつかまりながらも立てるなんて凄いです・・・。」
これが戦時中の過酷な訓練に耐え抜いたおかげかも・・・と思うと
なんと言っていいいやらですが・・・
「若い人(孫たち)の面会があるととてもご機嫌な様子です。
若い人の力って凄いですね。」
「一時は夜中にナースコールを頻繁にされて
しんどいとか寂しいとか訴えておられましたが、最近は減りました。」
・・・・すみません・・・。

看護師・Jさん・・・
30代後半くらいの中堅看護師さんです。
長身、大柄でいつもニコニコされてて、とっても頼りがいのある
お姉様、といった感じの素敵な方でした。
家族の来ていない時の様子をいつも詳しく教えてくださり、
また、気晴らしにと、父を車椅子に乗せて院内を散歩してくださったり、
それは役目といえば役目でしょうけれど、
それ以上のご厚意を私たちはいつも感じておりました。

看護師さんもいろいろ、もちろん相性もありますが、
中には完全に「お仕事」感覚のみの方も残念ながらいらっしゃいますが
・・・重労働ですもんね、お疲れだったのかも知れません・・・
でも、ほとんどの看護師さんは皆様いい方ばかりでした。

そして中でもJさんは特に素晴しい笑顔を見せてくださいました。
患者本人だけでなく、家族をも癒してくれる笑顔です。
大柄な体つきでいらっしゃったので、なおさら頼もしかったのかも?!
決して太ってはいらっしゃらず、バレーかバスケの選手みたいな感じ?

この頃も病状の看護だけでなくいろんなことに気を配ってくださって
お正月までにはシャンプーと散髪をしてあげたいと言われ、
実際病室でシートを頭に敷いて、工夫しながら洗ってくださったり、
病院の地下にある理容室の理容師さんにお願いして
(半ば無理やりだったそうですが)出張散髪を手配してくださいました。


2008年~2009年年末年始

ほぼ毎年年末年始は実家を集合場所にして、お兄一家が集まります。
お兄一家は、新幹線で1時間ほどの広島県福山市に、兄夫婦と長男がおり、
実家の近隣である大阪府池田市に次男、そし神戸市に三男がおります。
数年来必ず年末年始は実家に来て、両親の面倒を見てくれていましたが、
この年末は、その三男が将来のお嫁さんを連れてきました。
久々の明るいニュースです。
三男は福祉関係の大学を卒業後、介護の最前線で働いていて、彼女はその先輩だとか。
なかなかの美人で、テキパキとよく動き、愛想もよく、
とても気の利くいいお嬢さんです。
(三男にはもったいない・・・いやいや、これくらいの人がいてくれないと・・
・・・と、三男はさんざん冷やかされ・・・。)

病院では頼れる看護師さんがいて、
孫たちも元気をくれて、おめでたい話も出てきて、
しかもその若いカップルは介護の専門家・・・。
実際彼らに何か具体的なことをして欲しいというよりは
精神的な支えになってくれることが、文字通り心強いことだと思います。

また、お見舞いくださる皆様も・・・。
ケアマネTさん、ヘルパーKさんは職務を離れて隣人として訪れてくださいますし、
ご近所さんのMさんは差し入れまでしてくださいます。
また、父方、母方それぞれの親戚・・・だいたいは私たちの従兄姉ですが
ちょくちょくお見舞いくださったり葉書をくださったり。

そして母のほうは特に、主婦の会の方々が何かの折につけ数人で訪れてくださいます。

特養にショートステイしていた時にも何人かで来てくださいました。
会の近況や、会でつくったお菓子を持参くださったり
一緒に写真を撮ってくださったり・・・。

毎年敬老の日のころには、会主催の敬老会にもお招きくださいます。
その際は万障繰り合わせて、短時間ですが、参加させていただいています。
普段はぼうっとしていたり、機嫌の波があって不機嫌だったり
無理を言ったり、時には厭世的にもなっていますが
そういう場に行ったり、皆さんが来てくださったりすると
途端に上機嫌になって受け答えもしっかりしますし、ちゃんと会話になります。
皆さんへの感謝も素直にあらわし、認知症とは思えなくなるほど。

やはり、人は人とのかかわりが大切なんだなと思います。
現役のころは、一生懸命のあまり、喧嘩とまでは行かずとも
主張がぶつかり合っていろいろ言い合っていたらしくて、
たとえばそのやり取りの電話の声が聞こえてくると、
相手の方が気を悪くされないかと、私たちがはらはらすることもありましたが、
やはりお互いに認め合って協力して活動している仲間の人なんですね、
籍を置いているだけの今の状態にあっても
忘れることなく会報やお知らせを届けてくださいます。
・・・本当にありがたいことです。

そして直接ではなくとも、兄には兄の、私には私の
・・・まあ・・・相談とも愚痴ともつかない話を?いつも聞いてくださる方々、
さらにこの拙ブログを読んでくださっているあなたも
私たちの支えになってくださっています。

もちろんT先生も・・・正直いろいろあったりはしますが~・・・
医学博士D先生も、ドクターは一番頼りになる味方です。
看護師さんも、介護士さんも、
「具合、どうですか?」といつも声をかけてくださる
清掃のおばさんも・・・・

考えてみると、心強い味方でいっぱいです。


皆様には、この場を借りて心より厚く御礼申し上げます。
いつも本当にありがとうございます。

&コレカラモヨロシク・・・!
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創作小説 SUNSET CHAPTER 6  PART.1

2010年08月25日 10時22分43秒 | 創作小品
 突レポの余波というか影響というか、アイツのお陰?というかはまだ続く…。やっぱテレビって恐ろしい…。

 その人がやって来たのはマキが来た数日後。立て続けに二人が飛び込んできたけれど、今度のヒトは静かに、普通にやって来た。…また涼香に突っ込まれそうだが今度も女性。ただ少し違うのは、テツもちょっとだけ知っている人で、この近くに住む人だということ。そして、静かな人だということも、違いといえば違いだろうか。
 「こんにちは…、ご無沙汰しました。」
と、まず言うところからして違う。涼香が不信感を抱くような登場の仕方ではない。
「リサ…さん、しばらく。」
俺もちょっと驚いて彼女を見つめ返した。涼香は当然知らないので、今回は不審そうではないけれど、好奇心いっぱいの顔で彼女を迎えた。
「…いらっしゃいませ…。」
「こんにちは。」
リサ――一応『さん』をつけようか――さんは涼香ににこっとして挨拶をした。そしてカウンターに腰掛けながら
「最近入ったバイトさん?」
と尋ねた。涼香は微笑み返して答える。
「あ、いえ、1年くらいになりますけど…。」
「そうなの。ごめんなさい。私がずいぶん久しぶりなのね。ほんと、何年ぶりかしら? ちょっと懐かしい…。」
と、店内を見回し、同じく店員の格好をした清司にも会釈した。
「でも、カズちゃんはあまりかわってないかな?」
…涼香の視線がまたちょっと厳しくなった気がする…。俺はそっぽを向いた。
「ご注文は?」
声がちょっと怒ってる? 何故か涼香は俺の知り合いの女性が来ると少々不機嫌になる。別に俺のこと意識してるとかそういうんじゃないくせに。なんでだ? 息子の彼女が気になる母親的了見?
だがリサさんは何も気に掛けず
「レモンティーください。」
と答えた。
 涼香は俺に、このヒトとはどういう関係?と聞きたそうなカオを向けた。はいはい、いちいちめんどくさい奴だ…。
「先代マスターの担当看護師さんだよ。」
「え? 看護師さん?」
涼香はちょっと意外そうに返した。
「ええ、そう。ずっとお世話させていただいてたんですよ。ここへもよく来たし…。」
「先代のマスターさんって…入院とかされてたんですか? あ、そっか、亡くなったってことは…最期はだいたい病院で亡くなりますもんね…。そのときの。」
とりあえず涼香は納得したらしく、俺に不信そうな目を向けるのはやめた。……だからなんでなの? 涼香ちゃん?
 リサさんは小首をかしげて答える。
「ん…まあ、そうですけど…もっと前からですね。マスターは亡くなる前はちょっと長く入院されてましたから。」
「そうなんですか。そういえばアタシマスターさんのことはほとんど知らないなあ…。店長、どんな方だったんですか?」
「ん~~~~…一言で言えば変人。」
「変人?!」
「もっと言えば頑固親父、意地っ張りで子どもみたい、気分屋、怒りっぽい、喧嘩っ早い、口が悪い…。」

「カズちゃん、だめよ悪口ばっかり言っちゃ…。」
リサさんが俺をたしなめて軽く睨んだ。けど、すぐに笑って
「その通りだったけど。でもホントは照れ屋でお人よしで寂しがり屋で親切で優しくて涙もろくて…、オトナなのか子どもなのかわからなくて…そうね、カズちゃんが歳をとったらきっとそっくりよ。」
「やめてくれ…。」
俺は辟易して言ったが、涼香は何故か大きく頷いてやがる。
「なんとなくわかりました!」
「おい…。」
 その時テーブル席にいた初老の客――マスター以来の常連客のひとりである美作さんが、こっちへ向かって声をかけてきた。
「リサちゃん! 随分久しぶりだねえ、元気でやってる?」
リサさんは振り返ると初めて気づいたらしく、ぱっと笑顔になった。
「あら、美作さん! お久しぶりです。ごめんなさい、気づかなくって。ええ、おかげさまでなんとかやってます。」
「病院勤務もたいへんだろ? 主任くらいにはなったのかな?」
「いえ、まだ副主任です。」
「嫁には行った?」
「残念ながらまだなんですよ~。いい人いません?」
冗談めかして言うリサさんに、美作さんはニヤニヤして俺の方を指差して
「ナニ言ってるの、カズちゃんがいるだろうが!」
「そ…そんな!」
リサさんはあわてて手を振る。
「私なんて相手になりませんって。ねえ! 好みじゃないでしょ?」
「たきつけないで下さいよ、美作さん! 私はまだそういう身分じゃありません。」
俺も苦笑いしながら首を振る。美作さんは更にからかうように
「身分なんてあるかい! さっさともらってあげな。」
「イヤイヤ、私に彼女はもったいなさすぎますよ。」
俺はさらっと流した…。
「そうかい? 似合いだと思うぞ~?」
「からかわないで下さいな。だいいち私の方がカズちゃんよりだいぶ年上ですもん。」
リサさんはなんとかいじわるじいさんの追及を逃れようと試みている。
「歳なんか関係ないだろ? どっちが上で、どんだけ離れてても。愛があればってやつさ。」
まったく、じいさんはしつこいぜ…。
 涼香がそこで助け舟を出すように(ホントはこの話を続けさせたくなかったのか?)、話をそらすように尋ねた。
「あの、その…マスターさんですけど、結構お年だったんですよね? そんな年配の方が現役で喫茶店やってらしたって凄いですね。」
「ああ、いや、年はそんなに…カズちゃん、マスターいくつで亡くなったんだったかね?」
「享年58歳でしたよ。実年齢なら57…でしたかね。」
「そうですわ。まだ…五十代でいらっしゃったもの…。」
「ええーっ、ずいぶん若くて亡くなられたんですね…。」
涼香はトレーを胸に抱えて、ちょっとしんみりした顔になった。
「ウチのお父さんで50歳だから…。…やっぱ若すぎます! よほど重いご病気だったんですね。」
リサさんが頷いて答えた。
「ええ…。胃がんでしたの。胃がんは発見が早ければ治癒率はかなり高いのですけれど…。一度は治られたんですが、再発してとうとう…。」
「そうだったなあ…。」
みんなしんみりしだした。無理もない。俺だって…ものすごく悲しんだからな…。

 と、いうわけでここの昔話でもしようか。

・・・TO BE CONNTINUED.
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KAIGO.介護 巻の四十 VS貧血&呼吸困難タッグ!!

2010年08月24日 13時49分07秒 | 介護な日々
2008年12月1日(月)

深夜の電話は不吉な知らせ・・・

ちい兄のことろへT先生からの緊急電話が入りました。深夜に、です。
「呼吸状態がよくありません。」
つまり、父が呼吸困難な状態だというのです!
風を引いて鼻づまりになっただけでもなんだか息苦しいのに、
呼吸不全とは、溺れそうな状態ということか・・・
痛いのもイヤだけど、息苦しいのはどんなに辛いか・・・
私も喘息様の息苦しさは経験があるので少しはわかりますが
あれはホント苦しいですよ・・・

朝になって連絡をもらった私は急いでSセンターに駆けつけました。
呼吸困難な状態ではあるけれど、
酸素吸入を受けてだいぶ楽になっていた父を見てちょっとばかり安心し、
それからまたT先生の長い長い講義のお時間・・・

当時一生懸命メモをとって書いた説明を記します・・・(試験に出る?)

「消化管出血による貧血という状況には変化ありません。
昨日血液検査をした結果を見ますと、
胃や十二指腸ではなく大腸からの出血が多いようです。
正常値が50未満になる、とある検査法があるのですが、
それを見ますとHさんは865もありました。非常に多いということですが
こんな高値は外来では見たことがありません。
実はこの1ヵ月半の間に1万を越えたこともありました。
最近は300くらいになってきていたのですが・・・。
それから、血液中のヘモグロビンの値が、正常値は8以上ですが7.6です。
そしてアルブミンは2.4から2.5は必要なんです。
そのため昨日輸血を250mlとアルブミン投与をしました。

アルブミンは血液中に水分を取り込み、維持する働きがあります。
これが不足すると血液中の水分が浸出して肺の辺りに溜まります。
輸血とアルブミンの投与で、この溜まった胸水を血管に引き戻すのですが
昨日はこれが急激に起こったものと考えられます。
肺には血管がたくさんありますが、この血管に水が戻る過程で、
肺の、本来空洞であるはずの肺胞の中に水が入った状態になり
結果呼吸困難を起こしたと思われます。
この状態は二次的に心不全をも引き起こします。
そうすると次には腎不全も起こします。
そして更に腎不全になると尿ができにくくなります。
実際に、夕べ9時頃から尿が出ていませんでした。
ですので今朝から利尿剤を投与しています。
普段の4倍量を投与しても出ないので8倍量にしたら何とか出始めました。
尿が出だしたので少し落ち着きましたが、一時的なものかもしれません。
心不全腎不全ともに少し悪化したと思われます。

消化管出血が止まらないと先へ進めない状況は変わりません。
また危ない状況になる可能性は十分あります。
今後の治療についてですが、
強心剤のドーパミンという薬があります。
今は2γ(ガンマ)という単位まで使っていますが、最高5γまでは使えるかと思います。
あまり使いすぎるとかえって心臓に無理がかかるので注意が必要なのですが、
科学的な根拠は実はよくわかっていないのですが
この薬は腎臓に良いということがわかっていますので
そのためにも使っていきます。
また、ドブタミンという強心剤も5単位まで使えると思います。
但し、これらは正直言って完全に延命治療でしかありません。
消化管出血には何の効果もありません。

それでも強心剤を使うかどうかはご家族で話し合って返事をください。
また、強心剤はいうなれば心臓のポンプ機能を強化するので、
どんな種類のものでも急激に血圧をあげてしまい、
結果的に心停止を引き起こすリスクは持っています。
そのことを含み置いてお答えください。
また、呼吸困難がひどくてあまりしんどいようでしたら
鎮痛剤を投与することも出来ますが、
そうするとご本人はずうっと眠ったような状態になります。
苦痛はなくなりますが、同時に意識もなくなるような状態ですので、
どうしてもというときは苦痛を取り除くことを優先ということで使います。
もちろんその場合は直前にご家族の了解を得てからにしますが
そういう選択肢も用意しているということで了解ください。」

・・・・・・・・。

今度も、前と同じように胸水がたまったので、
それを抜いたら退院できると思っていました。
・・・のに、次から次へと問題が起こり、
さほど悪くなかったところまで悪くなり・・・まさに悪循環です。

病院に入ったら余計悪くなるとはこういうこと?
でも、入院治療するしかないですよね。


ところで、母は意外にも結構元気です。
先生から自由な外出許可もでているし、
体制が整えば外泊も構わないといわれています。
歩行困難ですからドコでもと言うわけではありませんが、
車イスに乗っけて散歩も行くし、介助すれば車への移乗も出来るので
ちょっとしたドライブなら連れ出せます。

そう・・・父の病院まで車に乗せて会いに行くことも可能なのです。
前回入院した時はそうやって連れていきましたし。
でも、父が入院してから、今回は一度も会いにいっていません。

何故かって??

父の、男の意地でございますよ。

弱っていることろを見せたくない、見られたくない、心配させたくない。
前回連れて行きましたら
「連れてこんでええねん!」「なんで連れてくるんや!!」とたいそうご立腹でした。
・・・も~、ほんまは嬉しいくせに・・・やれやれ・・・
ですから今回も・・・
われわれは万一このまま会えずに終わったら・・・
というのを心配して
「お母さん、連れてこうか?」と聞きましたが
「いらん!!!」とソッコー拒絶。
「退院してからでええ!」
・・・やせ我慢と言うべきなのか、意地と言うべきなのか・・・。
それとも、絶対良くなって、元気な顔を見せるんやという決意の表れ、
あるいは願懸けなのでしょうか・・・

とにかく本人が頑として言い張るものを無視もできず
意志を尊重して様子を見ようとここまで来てしまっていたのでありました。

2009年のお正月、そのお正月にかこつけて
母をSセンターのデイ・ルームまで連れて行ったのに、
「そこまで連れて来てるねん、会わへんか?」
にもガンとして首を横に振るほどの意地っ張り。
・・・結局この時も会わせられないままでした。

無理やりにでも病室に連れて行くべきなのか・・・
もし母が認知症ではなく、足腰が多少弱っているだけなら
きっと素直に会ってくれたでしょう。
でも、この状態では余計な心配とストレスを与えるだけだと、
母に悪影響を及ぼすだけだと思ったようです。

それと・・・母笑っていわく
「お父さんはええかっこしいやからな。
くたばってるとこ見られんのいややねんで。」
・・・そですね、そのとおり・・・。


この後、しばらくは同じような低レベルでの小康状態が続きました。
母の方も特に状態に変化はなく、
良くもならなければ悪くもならない状態でした。
・・・現状維持なら良しとしよう・・・なんて状況ではないのですがね・・・。


それにしても、このころは介護・・・というより看護する家族も
気分的に大変な状態でした。
T先生の同居強要がなにより強烈でした。
まあ・・・先生は患者のことを思うあまりの熱心さなんでしょうが
それ以外でも、何かあると深夜だろうが朝方だろうが
バンバン電話をかけてこられました。
それも、早くお知らせしておくべきだと思われての行動なんでしょうが、
「すぐ行きます!」「なるべく早く行きます!」と申しますと
「いや、それほど急なことじゃないんですけどね。」とか
「今すぐどうこうというほどじゃないですけどね。」とか
「今度こちらにこられるときで良いんですけどね。」とか・・・

だったら真夜中に電話せんといてくれやああ~~~!!!

おかげさまでちい兄は胃炎を患い、
(胃カメラ撮ってもらったらおぞましい映像だったそうです)
この秋冬で8㎏も体重が減ったそうで・・・。
一時は母と一緒にIC病院に入院する覚悟まで決めていましたから・・・。



ご家族の介護にすでに携わっている皆様、
そろそろ介護にかかわろうかという皆様も、
・・・それ以外の皆様も、
ホンマにストレスには気いつけとくんなはれや。
胃炎、胃潰瘍、腸過敏、心不全、うつ、偏頭痛・・・
みなストレスが引き起こすといわれております。
介護する人が倒れる・・・よくあるんです。
かくいうワタクシはメニエール病持ちです。
(と言っても私の場合は介護始めるずっと前からなんですが)

”Care kills a cat”
心配は(9つの命を持つと言う)ネコをも殺す。

英語圏の古いことわざだそうです。

・・・今は転じて、"Curiosity killed the cat"(好奇心が猫を殺した)と
なっているそうですが。

気をつけましょう・・・。
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