ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

KAIGO.介護 巻の二十五 三度あることは四度ある

2010年07月08日 15時13分31秒 | 介護な日々
2008年6月末

母の転院先にとお願いしたIC病院からは
「7月1日に入院してください。」との連絡が入りました。
それまではまた自宅で、ヘルパーさんにも来ていただいてお世話になりながら過ごすことに。
父は母の帰りを心待ちにはしているけれど、正直帰ってこられると大変は大変・・・。
私たち兄妹もなるべく実家へ行ってフォローはしますが、やはりかなりきついようでした。
なにしろ、T先生にいくらいわれても聞きゃしませんもの。
相変わらずうちの周りを点検し植木に水をやり、ゴミをだし掃除をし、
2階へ上がるなといわれても上がるし・・・

水分の制限は大変なものです。父は意志が強いので、その点は水分制限をよく守りましたが、
あまり控えると今度は脱水にもなってしまいます。
退院後は近所のかかりつけのUI医院へ行って点滴を受けることが多くなりました。
それも、母も一緒にです。
いくら歩いて数分の距離(うちの前の平坦な道をまっすぐ300mほど)とはいえ、
母は車イスに乗らなくては行けないし、父もシルバーカーでないと(であっても)足元は超不安。
ヘルパーさんが極力送り迎えをしてはくださいましたが・・・

T先生、出歩くなとおっしゃっても無理ですよ・・・通院はしないといけないんだから・・・。

そんなこんなのおっかなびっくりの、薄氷を踏むような、あるいは騙し騙しの日々・・・。
とにかく1日の母の入院まではなんとか・・・

と、思っていたら!!!

どーーーん!!

またまた来ましたよ~、4回目の傾眠状態が・・・・。
ああ、やれやれ。

2008年6月28日  よりによって父の誕生日、それも米寿の。
朝からボーっとしている母・・・。またアンモニアの血中濃度が上がってしまったらしい。
その日はお兄が福山市から来ていました。
初めて見る傾眠状態に、聞いてはいたけどどう対処すべきかイマイチわからなかったのだと思います。
なんとか栄養をつけさせなくてはと一生懸命食事の介助をし、ボーっとしている母の口に
スプーンでごはんを運びますと・・・半分眠りながらも3食とも食べたそうなのです。

OS病院を退院する時、アンモニアを分解するお薬である「アミノレバン」を、
点滴は出来ないので経口・・・つまり内服薬として大量に持たされていました。
これは200㏄程の水に溶かして飲むのですが・・・
ハッキリ言って、めちゃめちゃまずい。良薬口に苦し。
飲むヨーグルト的なものに溶かしても可とは聞いていましたが
小細工をしても埒が明かない、つか、マジまずい・・・。

薬や、しゃあない、と理性が働く時は母もまだ我慢しながら飲みますが、
ちょっと毒素がアタマへ回っている、理性がはずれかかりの時は我慢できるものじゃない。
本当はそういうときにこそ飲まなければいけないんですがね・・・毒消しなんだし。

このときも無理から飲ませようとしたけれど・・・飲むわけなかったのでして・・・

翌日、はい・・・やっぱ起きませんでした。

IC病院にお願いしました・・・2日早いけど入院させてくださいと。
「ICUしか空いてないので・・・1日まではそこへ入っていただきますが
それでよろしければ連れて来てください。」
・・・ありがとうございます・・・。
IC病院は実はなんと、うちからまっすぐ3分のUI医院のすぐ前に、裏の通用口があるという、
うちにとってはまことに申し分ないところにあるのです。
救急車呼ぶより、車イスに乗せていったほうがずっと早い。そして併設の老健はひっついたすぐ隣だし!
泊り込んでいたお兄と、早朝やって来たちい兄の二人がかりでなんとか車イスに母を乗せ、
もちろん父も付き添ってIC病院へ向かいます。


<こうして2日早く、ICUの隅っこに”間借り”する形で、
母のIC病院での長い長い暮らしが始まりました。

ちなみに母はこの後、午後には目を覚まし、例によってどこにいるのか理解できず・・・。

「起きられましたら連絡を入れますのでお帰りになって結構ですよ。」
という看護師さんのお言葉に従って自宅へ帰っていた父たちは、ソッコー呼び出されたのでありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする