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ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

イッツ ”賞”タイム! ジュリーと”賞”あれこれ~一等賞物語

2020年03月22日 10時54分05秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
1977年にFNS歌謡音楽祭以外の大賞を総ナメにして以来
1983年頃まで公演のステージ上でジュリーが口癖のように言っていた言葉は
「一等賞、特等賞目指して頑張る」。

それ以前から、前に記事にも書いたことがありますが当時は歌番組全盛期。
特に1970年代から80年代にかけてはほぼリアルタイム(録画放送もあったので)でジュリーに逢える、
夢のような環境が・・・当時は当たり前でしたけどね。
あやふやな記憶ですが・・・放映時期に多少の差はありますがだいたい・・・間違ってたらごめんなさい
月曜日・・・歌の紅白ベストテン→のちトップテン、夜のヒットスタジオ
火曜日・・・火曜歌謡ビッグマッチ
水曜日・・・ベスト30歌謡曲
木曜日・・・ザ・ベストテン
金曜日・・・ゴールデン歌謡速報
土曜日・・・えーっと・・・8時だヨ!全員集合・・・は歌番組というよりはバラエティーか
日曜日・・・ビッグショー、レッツゴーヤング
あと、放送曜日がしょっちゅう変更されたミュージックフェアや
平日昼の帯番組シャボン玉プレゼントなど・・・他多数、枚挙にいとまない。

こうしてみると意外とランキング番組って数あったのね。
集計方法は各局独自のロジックがあったと思いますが
ほかにも番組ではないけど今も不動の信頼性トップを誇るオリコン(オリジナルコンフィデンス)チャート、
当時もどれを差し置いてもオリコン1位が一番のステータスシンボルでありました。
それを含めて、各局各番組で「一位になること」がジュリーの公言する「第一目標」であったわけです。
ただ、ジュリーは絶対に「一位」とは言わず、必ず「一等賞」と言ってましたが。なんでだ?

あまたのランキング番組の中でももっとも信用が置けると言うか
これで一位になることが名実ともにトップの証、指標とされたのがご存知、TBS放送の「ザ・ベストテン」です。
個人的にはあまり好きな番組ではなかったのですが・・・
――理由はまあ、しょーむないことなですが
この番組はバックバンドをほとんど映さなかった、
だからEXOTICSファンの私的にはキライだっただけよ
あ、でも一回EXOのメンバー一人一人を紹介したな。まあ、だから許そう・・・かな――
とにかくジュリーはこの番組の一位を取るのにいたくご執心でした。

で、1970年代後半は出す曲すべて何とか一位に・・・すくなくともベストテン入りには辿りついていたのよ。
「勝手しやがれ」を皮切りに「憎みきれないろくでなし」「サムライ」「ダーリング」
そして「ヤマトより愛をこめて」、
この歌はリリース時に劇場版「さらば宇宙戦艦ヤマト」の挿入歌なので歌番組で歌わないとされてたのですが
ザ・ベストテンは「ランクインした歌は絶対歌っていただく」コンセプトがあったため
例外としてこの時だけテレビ放送の中で歌いました。確か8位だったかな。
つまりこの週に限ってジュリーは「ダーリング」と合わせて2曲歌った・・・たぶん。
いや、続く「LOVE(抱きしめたい)」と2曲だったかな・・・忘れまひた、噛みまひた
次が本物のお酒吹いて物議を醸しGパンのファスナーを半分近く下ろしたため物議を醸した「カサブランカ・ダンディー」
・・・醸してばっかか(PTAから怒られたらしくすぐやめました)

そして歌いたくないと忌み嫌っていたけど仕方なかった?「OH!ギャル」
・・・加瀬さん渡辺社長に向かって曰く「沢田にギャルはないでしょう・・・」
この時、一位から落ちた。落ちたのよ、確か・・・
「ロンリーウルフ」カッコイイ歌だと思ったのですが前曲のあおりでしょうか、これも落ちた。

一位に返り咲いたのは次の「TOKIO」! これは久々のクリーンヒット、いやホームランでしたね。
バックバンドが変わりました、ジュリーはビジュアル系のハシリになっていました、
「恋のバッドチューニング」「酒場でDABADA」とまずまず順調、
ところが・・・カズさんファン熱狂の「おまえがパラダイス」は伸び悩み。なんでえ~~??
続く「渚のラブレター」・・・バンド、更に変わりました、我らがEXOTICS
「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」「麗人」「お前にチェックイン」「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」と
一位にはならなかったけどそこそこいい線行きましたよ、結構売れてたんですよ。
この頃は日本の歌手の中でシングル総売り上げ1位の座をキープしていました。
イヤ、凄かったんだって。世に一発屋は数あれど出す曲出す曲みなベストテン入り、
売り上げ枚数も毎回トップクラスなんてジュリーくらいのもの、
しかもこれ、ソロになってからの分だけで一位、タイガース時代も含めたら物凄い数字だったんですから。
イヤ、マジで。
でも、ジュリー本人はベストテンの一位に中々なれないことに危機感を募らせる。
「ここんとこ一等賞になっていない」と事あるごとに口にしていましたもの。
でもでも、まだまだ挽回のチャンスはある、あと一息で一位に届きそう・・・

異変が起きたのはこの後でした。
「背中まで45分」
ギョーカイ内の前説では大好評、大評判だったんですって。評論家も絶賛していたらしい。
けど、いざ蓋を開けてみたら・・・全然売れなかった。
前曲までのあおりというか余波というか、ベストテンの下位にちょろっと2週ほどは入ったけど
その後ソッコー落ちてしまいました。
ジュリー曰く「前評判はすごく良かったけど、評論家はレコード買わない」
まあ・・・そうだよね。
歌番組でも最初は長い曲です
(5分45秒・・・ジュリーは思い違いしていてずっとアルバムバージョンの6分10秒だと思っていた)
放送の尺について「6分10秒ありますが」「大丈夫、フルコーラス歌ってください」が
曰く「ひとたび売れないとわかると45分が35分、25分・・・最後は会ってすぐ脱がせるという
どんだけ気が早いねん!」となり・・・打ち切りマンガか・・・
事実上この後の曲はベストテン番組から遠ざかってしまいました。
ましてや一等賞は手の届かない時空の彼方へ。
個人的には好きだな~と思う曲はあったんですけどね、「晴れのちBLUE BOY」とか
ああ、でも一般受けはしにくかっただろうなあ~
公演では「最近一等賞いってないけど、慣れたらあかんからね! こういうのに慣れたらあかんよ!」と
しょっちゅう己を奮い立たせてはいましたが
結局そういうランキングや、そこから繋がる賞レースからは結果的に撤退してしまいました。

そうした経緯を経て、ジュリー自身の価値観を見直すことになっていったのでは、と思います。
一等賞取ることだけが歌手の、また人生の目的ではないんだ、的な。

そして私見ですが、もしかしたらジュリー自身は初めから
「賞に固執することは本意ではない」とどこかで思っていたのかもしれないな、とも思います。
商業ベースに乗っかると、結局「売れてなんぼ」「売れないと発言権すらない」ことになりますし
ただ自己満足でいいのならアマチュアやインディーでいいのですから。
けれども、物申すにも自分を貫くにも、まず実績を作らない事には何もできないのだ、と
自分の中では少なからず違和感を抱えてはいたけれど
とにかく当時はトップ目指してひた走ることに全力たらんと思ったのかも知れません。

ある時・・・1980年代の前半のいつかだったと思いますが
「もう十分財産(食って行けるだけのヒット曲を指す)を持っているのだから
そんなに頑張らなくてもいいじゃないか、ゆっくり好きなことをすれば」とか
「変わって欲しくない、老け込む姿を見たくない」
中には美しい今の姿を永遠にして欲しいから「沢田さん、死んでください」とまで
言われたそうですが(死んでください、は今の時代的な重い意味ではないです)
でも本人は「たとえ売れなくなっても一生続ける、死ぬまで頑張り通す」と明言していました。
その意志は今も変わっていないと思います。ていうか、それがジュリーでしょう。

人生の一等賞がとれたかどうか、最後に評価するのは自分自身だ、と
あの人は実は早くから考えていたのではないでしょうか。
イヤイヤイヤ、今も健在で、まだまだ・・・80まではやります!と仰せですから
イヤイヤイヤイヤ、体力の続く限り100でもやってくださいよ。
ステージで歌を枕に死にたいんでしょ? それもきっと変わってないですよね。
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東海林修さんと井上堯之さん

2018年05月12日 19時50分09秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
もう少し前の話になりますが
朝刊を開いて東海林修さんの訃報を知りました。
享年85歳でいらしたでしょうか。そんなお年だったとは存じませんでしたが
「へえ・・・」と思ったのも束の間、更に下の段に淡々と
井上堯之さんの訃報も掲載されていて今度は「えっ・・・」となりました。

亡くなられた日は違いましたが、同じ日の朝刊にお二人の訃報が載っていようとは。
お二方ともジュリーとは一時期ではありますが深くかかわられた御仁。
まずは謹んでご冥福をお祈りいたします。

東海林さんはジュリーが、タイガース時代後半から
解散後ソロデビューした初期の頃のアレンジを一手に担っていた方でございます。
特に印象深いのはソロアルバムとしては2枚目だけれど
実質ソロ活動初のアルバムと言っていい「JULIE Ⅱ」のアレンジでしょうか。

全楽曲を編曲されておられました。1971年12月21日リリース・・・
わあ・・・・・・47年も前なの?? まじですか?
あれはねえ・・・・本当に素晴らしかったですねえ。
(今、拝聴しながらこれ、書いてます→大昔記事にしましたので良ければコチラを。ジュリーの記事ちゃうけど。)
殊に高評価の後シングルカットされた「許されない愛」

多くの人がこれがジュリーのソロデビュー曲だと勘違いしたほどの名曲です。
もちろん「危険なふたり」もですよ!!
ああ、どちらも作曲は加瀬邦彦さんでしたねえ・・・


当時はまだアレンジャーの社会的評価は今では考えられない程低く、
シングル盤などではその編曲者の名前をクレジットしないこともあったほど。ヒデエな。
お子ちゃまちゃちゃは編曲とはどういうものか
誰に聞いたか何かで読んだのか記憶がないのですが
ともかくどういうことをする人かと言うことは知ってて
この扱いの酷さにおこちゃまながら憤慨していたものです。
その社会的評価の低さは1970年代後半まで続いた気がします。

そんな中でこのアルバムのアレンジを素晴らしいと思えたちゃちゃはマセガキだったのですねえ。

さて、そのおこちゃまちゃちゃは「東海林」が読めず「トウカイリンて凄い名前やな~」と思っていました。
ナツメロ番組でかの東海林太郎さんの懐かしの映像をやっているのを見て
初めて「あれってショウジって読むんや!! へえええええええ!」と知った。
逆に言えば東海林太郎さんより先に東海林修さんを知っていたということです。なんやねん、コイツ。

ちなみに現在の「笑点」のテーマ曲アレンジも東海林さんだったと言うことは訃報で初めて知りました・・・
他にも名だたる名曲の作・編曲やシンセ奏者としても数々の名演奏も手掛けてらっしゃいました。
詳報はWikiででもご確認ください。

ともかくも、ちゃちゃとしても感慨深いというと少々語弊がありますが
いろんな作品をありがとうございました、ゆっくりお休みくださいと申し上げます。


さて、もう井上堯之さんについてはいわずもがな、
東海林さんとほぼ同時期にジュリーを陰に日向に支えてくださった御大でいらっしゃいます。
だいぶ前に胃の全摘手術を受けられたとは聞いておりましたが
最期は敗血症で亡くなられたとのこと、随分しんどかったのではとお察しします。
享年77歳、亡くなるには不足と言うご年齢ではないのかもしれませんが
もう少し長生きしてくださればなあ、とも思います。
まあ、ご病気でおられたのなら長く苦しまれるのもせんないなあとも思いますがなあ・・・

ジュリーを演奏家、プレイヤーとして支えたのは1971年初頭から1979年末までほぼ10年間でありましたが、
井上堯之バンドとしてはジュリー以外、ショーケンの出演ドラマや
それに関連して「太陽にほえろ!」シリーズの音楽、またその流れのTVドラマ音楽も広く手掛けておられました。
メインはジュリーだけれど、でも案外ジュリーのレコードの演奏は少なくて
TV出演も思ったより少なく、曲によっては一度もいなかったこともありました。
そして、ジュリーの楽曲も大野克夫さんはかなりの曲提供をされていましたが
案外井上さんの曲提供は少なかったのですよねえ・・・。
安井かずみさんが亡くなられた時は「Zuzu Songs」と銘打って追悼コンサートが行われ
その時ジュリーは冗談半分に「加瀬さんや大野さん、井上さんが亡くなった時もやります。
どうせオレよりさきやろ」などとのたもうておりましたが
そして加瀬さんが亡くなられた時、銘打つことはしませんでしたが実質追悼コンサートと言っていいライブをされました。
特に行くつもりはなかったちゃちゃだったが不思議な運命に導かれて行きましたがな、それ。記事はコチラと、コチラも。
大野さんに至っては・・・イヤ、まだ元気やけど、あのひとは(あの人はそうそう死なんやろw)
一回では到底やりきれないほどの曲数があるのですが
意外と井上さんは少ないような気がしますな・・・正確にカウントはしてませんが。印象として・・・。

とはいえ、あらゆる面でジュリーを支え続けた、欠かせない存在の人であったのは間違いないでしょう。
もちろん日本の音楽史にもその名を刻む偉大なミュージシャンであられました。
詳しくはこちらもWikiリンク貼っときます。

ちょっと昔のレコード・・・はすべてCDに買い直してしまいましたが
聞き直してお二人を偲び、ご冥福をお祈りいたします。

・・・寂しいことです・・・。

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ジュリー・・・古希を前にして 元ファンの思い。

2018年02月11日 19時36分23秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
思い出、じゃないんですが。ほぼリアルタイム。
で、結局思い出話・・・なんですが。

ご縁のある、我らがカズさん=柴山和彦さんの現役ファン様のブログを
久しぶりに拝見してびっくらこきました。

何でも、先日の大阪フェスティバルホールでのコンサートで
ジュリーが、今年古希(!! スゴイ!!)を迎えるのを機に
今までにない新しいことにチャレンジします宣言をされたとか。
そしてその一環?としてこれまでともにライブ活動を続けてきた
通称”鉄人バンド”の現メンバーとのステージは今日が最後になる、とおっしゃったとか。

・・・・なんですと??

遠い昔、バンドが変わる時、ジュリーは一度も
前バンドの最後のライブで「これが最後」と言ったことはありませんでした。
なのに今度に限ってちゃんとファンに言ったのね。

イヤ、そこは、それも驚くところではなくはないけど

バンドのファン・・・少なくともカズさんの現役ファンの皆さんは
そのジュリーの宣言に強いショックを感じておられるようだ。

そりゃそうでしょ・・・・

果たして新生ジュリーは、またライブの時カズさんを隣に侍らせてくれるのか
もし、もう一緒にはいなくなるとすると、カズさんはいったいどこに行くのか

デジャヴ。

イヤ、デジャヴは前にも同じことがあった気がするだけで本当は初めての時に使う言葉。
これはデジャヴではないですね、同じことが30年以上前に数回あったわけですから。

思い返せば・・・・PYGの自然消滅時はともかくとして
井上堯之バンドが解散した時の状況は
公式には「メンバーそれぞれが自分の音楽を追求するための解散」とされましたが
実際は井上氏曰く「沢田の音楽が(当時の)この路線でいくのならば、
俺達はもうついていけないな、と思ったから、じゃあやめさせてほしいと伝えた」と。
まあ、確かに「自分の音楽を追求するため」と言えるっちゃ言えますが、
実は「コンサートの中盤の演奏だけになった時のファンのマナーの悪さに嫌気がさした」からという説もあり
そして井上さんに去られたことでジュリーが強烈にショックを受け
呑み倒した挙句胃潰瘍や腸炎で一カ月入院する羽目になったという説もありましたが・・・

でもファンは後で聞かされた話でした。

次のオールウェイズ解散の時も前触れや最後の挨拶は何もなく
いきなり「夜のヒットスタジオ」で司会の井上順さんが
「オールウェイズ、今日で最後なんですよね」とさらりと爆弾発言してくれて

やっぱりファンはびっくらこいて

そしてEXOTICSの解散?の時も、いきなりジュリーが「充電のための休業宣言」をして
カズさん本人曰く「俺らも何も聞かされていなかった」そうだし

ましてやファンは・・・週刊誌情報で右往左往するばかりで

毎回毎回、バックバンドのメンバーのファンは振り回されるばかりでした。

特にEXOの時はね~・・・・ちゃちゃはカズさんLOVEでしたからねえ
休業宣言に心底びっくりして、どうなるんだろうとヤキモキして
なにしろバンドに関しては何一つ情報がありませんでしたからねえ

半年振りの「夜ヒット」に復帰して来た時
そのバックにカズさんがいないと気づいた時は本当にショックでした。
まるでカズさんが・・・もうどこにもいない気までしてしまって。
必死で並んで取ったフェスティバルホールでの復活(とは言ってないけど)コンサート
もうカズさんは出演しないことは知ってたけど、見極めるつもりで行って、観て、
そして「ああ、もうジュリーのコンサートには行きたくなくなった」と自覚してしまった時の気の悪さ・・・。
ジュリーが嫌いになったと言うわけではなかったけれど
バックにカズさんのいないジュリーのライブには背を向けてしまいました。

同じことがまた起こったんやなあ。

イヤ、別にジュリーを責めてはいませんし、そんな気もありませんよ。
あの人は初志貫徹、徹頭徹尾我が道を行く人ですからね、それで良いのです。

・・・まあ、1985年からの数年間、あまりに周囲の不興を買ったので・・・
メチャクチャ仕事干されて、公私共に大人の事情もあれこれあって
営業的にもまずったのでやむなく・・・だったとは思いたくないのですが
ともかくカズさんはケンさんと共に復帰して・・・
・・・ケンさんはその後やっぱりいろいろ合わなくなったと去って行かれましたが・・・
でも、その当時カズさんファンとしては嬉しくてまたコンサート通いが復活しました。
とはいえ・・・結婚して子供が生まれてライブどころじゃなくなったため
自然に足が遠のいて、いつの間にか”卒業”してしまったちゃちゃではありますが。

しかし、カズさんはそれ以降ずうううううううううっっっ・・・・・・とジュリーと一緒にやってきたのです。
だから今回のジュリーの「新しいことやります・鉄人バンドは今夜で終わり」宣言に
「まさか別れてしまうの?」と戸惑い嘆く現役ファンの気持ちはすごくわかります。

ああ・・・30年前と同じか。

今ファンしてないちゃちゃはそれについてあれこれいう立場にはないかもですが
世間のパンピーとしてどうなるのかしら、と少し心配ではあります。
古希を迎えてなお今までにない新しいことを始めようとしているジュリーに対しては素直に敬意を表しつつ、
どうかバンドのファンの気持ちも大切にして欲しいなと30年前と同じことを願っております。
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ハワイフラフラ旅行団

2016年04月11日 06時34分19秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
ジュリー・あの頃のセトリ話もいよいよ終盤なのですが~・・・
ラス前にちょっとトリビア的なお話を。

ザ・タイガースでデビューする前、「ファニーズ」と名乗っていた頃。
ちょい有名な話ですがメンバーたちは大阪で共同生活を送っていました。
つまり合宿。場所は大阪市内の岸の里というところにあるアパート「明月荘」
さすがにもうないと思いますが・・・結構最近まであったようで。
少なくとも30年前はあった。て、結構前やん。

その後1966年にデビューした頃は東京の烏山で合宿生活を送っていました。
デビュー曲「僕のマリー」がリリースされた時我らがジュリーは
合宿所の近くのレコード屋に「僕のマリー」を買いに行ったとか。
ジュリー本人がラジオで喋ってました。嬉しかってんね~。
「レコード屋さんに行きまして『あの~、タイガースの僕のマリー、ありますか?』てゆうてね
で、買って帰って、そのジャケットに自分のサイン書いてね。
それは長いこと忘れてたんですが、この前そのレコードが出てきましてね、
そのサイン見たらめっちゃくちゃヘタクソでね~www」
・・・なんてな話をしていたのはタブン1975年ごろやったんやないかと。
ニッポン放送「沢田研二 愛をもとめて」という10分間ラジオ番組やったと思います。
平日は毎日放送があって、毎日ジュリーの声が聴けたあの頃。

さてその後タイガースは大ブレイクし、合宿所の場所を知ったファンが詰めかけ
大騒動になったので居を移し、でもまた次の合宿場所がばれてファンが詰めかけ・・・と
数年は引っ越しを繰り返しつつ共同生活を送っていましたが
そのうちそれぞれ別々に暮らすようになりました。
1971年解散時は全員バラバラ、ジュリーは当時は中野区内の
某高級マンションの上の方ーに住んでました。
・・・その住所もあっさり公開されていたあの頃。

さて、ソロになって1974年から始まった夏の全国縦断コンサートツアー。
そのツアーの始まる前、ジュリーと井上堯之バンド、スタッフみんなで
確かワイハ~で合宿生活を送ることにしたのでした。
昔の合宿は合宿と言うより日常の共同生活でしたが
この時の合宿は文字通り、部活の合宿的合宿でしたな。

少なくとも井上バンド時代はこのワイハ~合宿が続いてました。

で。

ハッキリしないんですが・・・多分オールウェイズはまだワイハ~合宿だった気がしますが・・・

でも1981年EXOTICSになった時あたりには合宿はなくなってました。
あやふやな記憶ですがジュリー曰く
「前はツアー前に合宿とかやってたんですが年いくとねww
合宿ですでにくたびれてしまうのでwwwそういうのはやめて、
その代わりツアーが済んでからお疲れさん旅行をしようということになって。」

そう、それが「ハワイフラフラ旅行団」の正体だったのです。

企画がすごい。何とファンも連れてってくれると言う・・・もちろんタダで!・・のわけはない。
費用は各自持ちで4泊6日かな。。。日程は忘れましたが・・・
けど参加したい人は拒まず、ジュリー、エキゾ、ゲスト(裕也さんとか。)、
スタッフ、スタッフの家族、そしてファン、
総勢数百人に上る大旅行団でハワイに出かけていたのです。
もう~、またまたジュリー曰く「日本の経済力を見せつけた」旅行だったそうで。
内容は・・・これも詳しくは忘れましたが観光あり、ゲーム大会あり、
何と!!!!参加したファン全員一人一人とジュリーがツーショットで写真撮影する
超大盤振る舞いファンサービス大記念撮影会あり、
そして最後の夜はキャンプファイアーならぬライブコンサートで締めくくると言う
・・・まあ~、とてつもないイベントをやってたんですねえ~。
ちなみに旅行社は日本最大手のJTBさんです。CM出演はしてませんが。

ゲーム大会というのがはっちゃけてまして、何百人もいるのに何すんの?というと
これ、一つはビンゴゲーム。これなら大勢で一斉にできます。
そしてもう一つ、宴会部長吉田建監修、ハワイ横断・・・はしない、ウルトラクイズ!!
早稲田大学卒吉田のケンさんが吟味に吟味を重ねた真面目にふざけた問題を出題。
「宴会で最後まで呑んでいたのは誰でしょう?」などという
「そんなもんわかるか~!!」なものも含めた二択クイズで、
最後数人に絞られた段階でジャンケン勝負だったかな・・・・確か。

何故か・・・今となっては誰から情報を得たのか、ソースが全くわからないのですが
ちゃちゃの手元には何と1984年のフラフラ旅行団の中身の資料があるのです。
自分は行ったことないのに~・・・(当時学生で親の許可も金もなかったorz)

ともかくその資料を紐解いて中身を見てみましょう。

と、ええとこで今回は終わる。

続きはセトリカテの方で。ふっふっふ。
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忘れた頃に帰って来たよこんなドラマにゲストで出ましたの巻 ジュリー・イン「太陽にほえろ!」

2015年09月23日 17時39分49秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
セトリ話はちょっとお休み。

おいおいおい、今頃この話かよ・・・でスミマセン。
なんか、失念しっぱなしでおりました、ジュリー・イン「太陽にほえろ!」
ショーケンとの夢の共演? ある意味PYG勢ぞろい?
ジュリーのドラマ出演話でこれを外したらあかんやろ!

初回放映は1972年12月1日。
長い長~い「太陽にほえろ!」14年間718回に及ぶ超長寿番組の
何とたったの第20回目の放送、「そして、愛はおわった」がソレでありました。

当初当番組はショーケンこと萩原健一さんを主演に
刑事ものというよりは青春ドラマとして企画されたものでありましたが
1年経った頃にショーケン自らが他の道への挑戦を理由に降板したいと訴え、
それをまた殉職によるメンバーチェンジという形で敢行したため
以降新人刑事→殉職という図式ができあがった側面がありました。
ショーケンの後釜はご存知松田優作さん。
以後新人は二人になったり退職したりと若干の変節はありましたが
勝野洋さん、宮内淳さん、山下真司さん、木之元亮さん、渡辺徹さん等々々・・・

「太陽-」本体のお話は置いといて・・・
長年見続けていましたので語っているとキリがないので。

ともかく、当時は週刊誌等でも
「えッ? ショーケンがジュリーを射殺?!」なんてな見出しを派手派手につけられて
かなり話題にもなりました。

その記事でのショットです。

ストーリーとしては相当無茶振り、な話ではありましたが
ダイジェスト致しますと、
殺人犯を追っていたショーケン扮する早見淳刑事は

実は別の殺人事件を起こした美大生の清坂貞文(ジュリーです)の
その死体を積んだ車にたまたま同乗します。
車を降りて犯人を追う途中で暗がりで転落して気を失った貞文を
通りすがりの産婦人科医院に担ぎ込みますが
翌日貞文はその医院の若い看護婦とともに逃走。
そして彼の犯罪が露見。
どうやら実のおばとの近親相姦をお手伝いのミタ!・・ではない、に知られ
ゆすられて返り討ちにしたらしい。
だけど、貞文は愛する叔母の秘密を守るために、
自分が捕まって犯行の動機が明るみに出ることを避けるために
わざと共に逃避行に付き合ってくれた看護婦を人質にとり
彼女を助けるために発砲した早見刑事の銃弾によって死ぬのです。


・・・なんというか。なんちゅうストーリー展開や!

実はシナリオを書いたのは、あの、あの市川森一さん!!
市川さんのシナリオなら許す~!!←ファン。

早見刑事は職務上やむなくではありますが「人を殺してしまった」唯一の事件。
貞文の死体にすがって「起きてください」「ごめんなさい」を連発し
号泣しながら同行していた長さんに
「長さん、目ェ開けさせてえ~」とうろたえてすがりつく。
みっともないまでの取り乱しようは伝説的な名演技と言われています。

少し落ち着いてから石原裕次郎ボスは
「奴は自分が死ぬことで守りたかったんだ」的なことを言い、
更に「奴が背負っていたものがわかるか?」的なことを言う。
それに対して早見は「なにを?! 奴は何を背負っていたんですか?」と問い、
ボスは一言「愛だよ」と・・・。

(↑これはそのシーンちゃうけど)

おおおおおお・・・・・・・・・・・。


ま、なんというか・・・・。

あ、決して非難しているわけじゃないですよ。
えらい話やってんなあ~、という・・・・。

そして結局彼が命を賭して守ったはずの美しき叔母様も
彼の死を知って自ら死を選んだ・・・のでした。

やってられなくなった気分の早見は休暇を取って傷心旅行に出ようとしますが
その駅で当初追っかけていた殺人犯を偶然見つけ
(実は取り逃がしてたんだね)捕まえるべく追いかけます。
てなところでお話は終わっています。
いろいろあった早見でしたが、やはり刑事の本能は生きていて
ちょっぴり成長したんだね、なラストといっていいでしょうか。

で、さて。

ジュリーのファンとしてはいささか哀しかったのですが
・・・いえいえ、汚れ役だったのが、ではないですよ、
むしろ当時からジュリーという人は刑事より犯人の方が似あってましたからwww
善良な市民よりちょい悪のほうがらしいやね。
哀しかったのは・・・演技がへたっぴだったことです。
しゃあないやね、まだアイドル抜けきってなかったし。

最初、がけから落っこちたと思しき時の「あああーーー」っていう悲鳴からして
聞いてる方がなんか恥ずかしかったし・・・・
射殺のシーンで激情して(と見せかけてたんですが)「殺してやるー!!」的なセリフも
ご本人はめっちゃ必死で本気でマジで気合入れて演じていたのですが
・・・・あの方は何事にも全力疾走ですからね、
ただ、演技力がおぼつかなかっただけ・・・・。

比べたらいかんのやろうけど、
「ショーケンってお芝居うまいんやなあ~」と思ったことであった。
今思えばショーケンもまだまだ発展途上でへたっぴの部類ではありましたんですが。

若かりし頃、やねえ。
あ、もちろんバカになんてしてませんよ、金輪際。
あの頃みんな、未熟で青くて一生懸命やったなあ、って話。

という感じで、お粗末!
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