ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

年末年始がなんぼのもんじゃい~

2011年12月29日 22時36分32秒 | 徒然雑記&連絡帳
などと騒ぎたくなる今回の年末年始は、今日まで仕事でした。
しかも子持ちの主婦が9時帰宅の最終日。
そして新年は三が日お休みの後早々と4日からお仕事開始だそうで。

昨日かろうじて娘に鏡餅だけ買って来て貰って飾っといてもらいました。
もちろん大掃除なんざ計画すら立っていません。
鏡餅以外のお正月用のお買い物も一切できておりません。
もっとも昨今は1日からスーパーとか開いてるので別段困りはせんですが
ちゃちゃ家では「一年の計は元旦に」あったら困るお正月になりなんとしております。
こないむちゃくちゃで、新年を迎える何の準備も出来ないままに迎えた元旦が
そのままその1年を表すのだとすればそら恐ろしい1年でっせ・・・。

次女が大学受験を控えております。幸い滑り止めは通ったので、浪人はせんで済むでしょうが、
本人が一番行きたがっているのはちょい難しい私立の大学であります。
・・・学費が~~~~~~~~~~~~~~~~~!!
長男も私立高校です。
・・・・・・学費が~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!

家事手伝いの身分である長女が夕ご飯の用意をしょっちゅうやってくれるので
だんなが早くも定年退職して嘱託勤務の給料大幅カットのあおりで働き始めた私としては
めっさ助かっているわけなのですが・・・キビシイ世の中、いつクビにならんとも限らず
今年はワイルド&アグレッシブルで、ある意味デンジャラスな日々でありんした。
来年はもっとそれに拍車がかかりそうで、マジヤバい・・・。

でもまあ、健康ならそれで良しとすっか。

そうそう、健康がやっぱ一番だわ。不定愁訴とストレス性症候群の塊と化しているけれど。
いまんとこ循環器の先生に貰ってる薬でごまかしごまかし何とかなってます。
よく効くがいつも眠いのが玉に瑕・・・否、眠いのはもともとか。
しかし、免疫力にだけは昔っから根拠の無い自信が無駄にありまして、
家族みんなが新型インフルエンザに罹ったときもマッタクなんともありませんでした。
いやホンマ、風邪なんて2年に1回くらい、それもせいぜい鼻風邪程度で終わります。
たとえインフルに罹っても半日寝れば大丈夫と言う回復力。
ウチのだんなは毎年どっかで風邪貰ってきて年に1~2回は38度の熱出して寝込んでますが、
私は熱なんざもう5年、いや7年、10年・・・いやもっと出たことないです。
だから少々しんどい時も熱がないので全然同情されない・・・。

・・・なんてな話を以前ママ友たちと話していたら、そのうちの一人が声を大にしてこう言いました。
「そやそや! 私らは覚悟がちゃうやん!
主婦は寝込んでられへんもん。ダンナとか男はあかん、弱いで~。
しんどかったら寝込んだら済むやん? 仕事休んで寝てたらええねんもん、楽なもんやで。
せやからすぐ風邪とかひきよんねん。絶対毎年ひくやんなあ?
ほんで3日ぐらい寝てるやんか~! しんどいとかゆうて。
あたしら主婦は寝てられへん。しんどうてもうちの事とかせなあかんやん。
代わってやってくれるんかっちゅうねん、ダンナはなんもせえへんがな?!
せやから寝込んでられへんやん、あんたら(ダンナのこと)とは覚悟がちゃうっちゅうねん!
覚悟決めてるから風邪なんかひくかいな! インフルエンザなんか罹ってられへんわ!!」
・・・思わずみんな大きくうなずく、もうちょっとで拍手喝采でしたし・・・
・・・主婦たちの会話、ダンナ衆には聞かせられませんなあ、聞かせたいけど
・・・て、書いとるがな(爆)



・・・つーわけで、皆様もお体はくれぐれも大切に。
ご自愛なさって良いお年をお迎えくだされませませ。
ダンナ様方、奥さんが風邪引いたら寝かしといたってや、ウチの事やったってや!
・・・なんての。


            ぺこり。
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またまたまた茶々の写真集

2011年12月26日 21時49分16秒 | ジャンガリアン

公園に連れて行ってブランコに乗るの図。


お花~。公園の八重桜です。実は大好物。目がちょい白内障気味。


こたつの上にて。


「なんやて?」・・・オマエが何や??


ぐーすか


ひっくり返っているのが茶々。ウチの中にいるのは姉妹の杏かな?


何と、ドアの上に乗ってます。


座布団の上でもひっくり返る。


地面。保護色。


またまた座布団ひっくり返る。


アイスのメロンカップの中。はまりすぎ。
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創作小説 SUNSET CHAPTER12 PART.2

2011年12月26日 21時22分53秒 | 創作小品
 そこで和佳菜さんはことの経緯を話してくれた。それによると井上さんは初めから今年は和佳菜さんのところへ行くつもりはなく、お母さんに来て貰うように仕向け、さらに今日の段取りを考えていたということだった。ていうことはインフルエンザがなくっても行かなかったんだ。それはつまり年末の段階で覚悟を決めていたということなんだろう。そして、電話で話した時に、今日は絶対に来ないでくれと念を押されていたということも。
「けど、母から全部聞いて…私は兄さんがどうにかなっちゃうんじゃないか心配になって…。父にも止められたんですけど、じっとしていられなかったんです。心配だからって…でも信じて待ってて欲しかったんですよね、兄さんは…。私は自分が耐えられなかっただけみたいです…。」
和佳菜さんはしょげ返っている。無理ないけど…。井上さん、普段優しいだけに本気で怒ると恐いよね、きっと。そういう人は、確かに。あ、でもテツさんにはしょっちゅう怒ってるか。但しアレは本気じゃない…と思う。でも、本音だとは思える…。(テツさんって…。)
 僕はここは元気づけてあげなくちゃならない気がして、半分はハッタリで、半分は希望的推測で言った。
「大丈夫ですよ、きっと。本来あの人はすごく優しい人だし、それに和佳菜さんのこと大事に思っていますから。今はちょっと苛立っているんですよ。それこそ無理ないですよね。いろいろ確執っていうんですか? あるわけだから。さすがにあの人も夕べからちょっとピリピリしてて…オマケに今朝からはずっとカリカリしてましたから。いくら井上さんでもいつも冷静というわけではいられないでしょうからね。だいたい暮れからインフルエンザにかかっちゃったらしくて、まだ治りきってないんです。だから余計。」
「えっ?インフルエンザに?」
「ええ。まあ、もうほとんど治ってるそうですけど、咳だけ残ってるって。それと…僕らも井上さんとお母さんの間にあったことはこないだ聞いたんですけど…。」
「兄さんから直接聞いたんですか?」
「はい…。」
「兄さん、大丈夫でした? 今まで私も父もその話は全然知らなくて…聞いて少なくとも私はものすごくショックで…。きけば10年前母が話した時にはショックで倒れて救急車騒ぎになったそうでしたから…。」
「だそうですね。バラしちゃいますけど、そのとき付き添ってくれたのがあの…今彼女になっちゃった小城みゆ希さんなんだそうですよ。」
「えっ? そうなんですか?!」
「みゆ希さんのことはともかく…そのへんの話をしてくれた時のことですよね、確かにすごく辛そうで…あの人も少し泣いてたけど…でも、思ったより大丈夫でした。まあ、みゆ希さんもいたからかもしれませんけど…。そのちょっと前に、その時のことをまざまざと思い出すようなことがあったみたいなんですが、その時は倒れて…僕とテツさんが居合わせたんですけど、その時は確かにちょっと大変でした。救急車までは呼びませんでしたけど。でも…この前すべてを話してくれたときは本人も意外がったくらい大丈夫だったんです。ホントは辛いの我慢してたんだと思いますけどね…。僕らも…話聞いただけの僕らもショックで…。
 でも、あの人は強いです。それを認めるって言うか、飲み込むっていうか…。だからホラ、気づかれました? もうカラーコンタクトしてないでしょう? その話をした日からやめちゃったんですよ。みんなもびっくりしてます。その…左右の瞳の色が違うってことにも確かに正直驚くけど…それを隠すのをやめたということに、ですね。それに今日のことも夕べ言ってました。逃げないよって。…辛いけど向き合うってことなんですよね。」
「兄さん…。ホント、ダメですね、私。妹なのに兄さんのことみくびってますよね。」
「う~ん、でも和佳菜さんはそれでいいんじゃないかなあ。」
僕はなんとなくだけどそう思ったのでそう言った。
「僕はやっぱり他人だし、あまり首を突っ込めないから、あの人がこうだといえばそれに従うだけだけど、和佳菜さんは兄妹だし身内だし、心配も僕ら以上でしょうから、余計だといわれてもやっちゃうでしょ、きっと。でも…井上さんはわかってますよ。今はああ見えて気持ちに余裕がなくなってるから怒っちゃったけど、きっと許してくれてますよ。あの人のことだから、落ち着いたら心配かけて悪かったって言うんじゃないかなあ。希望的観測ですけどね。」
「清司さん…。」
和佳菜さんはやっとちょっと笑った。
「兄さんのこと、よくわかってるんですね。私より理解してくださってるかも…。」
僕はちょっとあわてた。実の妹さんにそういわれるとすごくおこがましい気がしたからだ。
「それは…まあ、一緒に暮らしてるからかな? なんかわかるって言うか…。付き合いは短いですが、そんな感じがして…。いや、僕がそう思ってるってだけです、勝手に。それと希望も含めて。」
「ううん…その通りだと思います、私も。信じなきゃダメですね…信じます。信じてココで待ってます。」


・・・TO BE CONNTINUED.
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KAIGO.介護 巻の百二十九 「しない!させない!越境入学」

2011年12月23日 23時08分04秒 | 介護な日々
今回はどっちかとゆーと介護の話ではなく私のトラウマ話ですわ。

2010年4月26日

この日、母が病室にいないと思ったら、スタッフステーションで”仕事”中・・・
ガーゼか薬剤かなんかの入った包装の切り分け作業を任されていました。

どうやら病室で騒いだかなんかしたのでしょうな、久しぶりのこのパターン。
車イスに乗せてもらってたのでそのまま散歩に外へ出ました。
病院の敷地内であれば自由に出られますが、完全に外に出るには外出許可が要ります。
N先生のお許しをもらってから外出票をもらって外へ。久しぶりに街中へ。

ウチからOS病院までは歩けば軽く1時間はかかります。
しかるに、OS病院から15分ほど歩いたところに私たち兄妹が卒業したS小学校があります。

前にもちょこっと書いたことがありますが・・・

昔は越境入学が認められていて、しかもハヤった時期がありました。
母はどこでどういうウワサを聞いたのか、地元の小学校ではなく
隣の区内のS小学校がいたくお気に召していたらしく
お兄とちい兄は小3と小5の時に地元のN小からそのS小に転校、
私は初めから越境でS小に入学させられました。
確か5年生の頃「しない!させない!越境入学」スローガンが掲げられ
もう少しで地元の小学校へ戻されるところだったんですが
自分自身転校なんてイヤだったし、どういう理由でかは定かでないのですが
結局は転校せずに済んでS小をそのまま卒業しました。
S小自体はとてもいい学校で、友達も先生も好きだったから良かったんです・・・当時は!!
でも、みんなと同じ中学校へ進学することは認められず、地元へ戻されたので
気分的にはこの時転校したようなものでした。
だって地元の中学校にはたまたま知っていた近所の友達が二人いただけで
あとはぜんっぜん知らない子ばかりだったんですから・・・。

話はずれますけど、ホント越境はダメですわ、今になってつくづく思います。
だって帰ってきたら自分ちの近くには友達がいないんですよ?
夏休みとかの長期休暇中は全然友達と会わないで過ごすんですよ?
・・・当時はそんなもんだと思ってました。
中学生になって初めて、学校の友達とはウチへ帰った後も会って遊ぶものだと知りました。
休みの日も気軽にお互いの家に行ったり来たりするものだとわかりました。
小学生のころは学校の友達は学校の中だけのつきあいだと思っていたんです。

・・・すごい不幸なことですよね。
私立の学校でみんながみんな遠くから通っている状況ならともかく、
自分ひとりだけが放課後はみんなと離れていたのですから。
コドモのことですもん、放課後みんな自分ちに帰ったら
翌日まで会わないのが普通と思い込んでたんです。
そうじゃないという当たり前の状況を中学生になって初めて知ったんです。

・・・これ、今になってわかったトラウマなんですよ。
小学校に入る前も普通の幼稚園に通わず、
遠くにある幼児サークルみたいなトコに通ってた私は
地元に友達がマッタクいない幼少期を過ごしてたんです。
だからずうううううっと、今もって人付き合いがヘタクソでKYなんです。
なんか話がかみ合わないことが多かったり変り者と思われてたり。
自分にコドモが出来てからやっとわかりました、
小さい頃にしょっちゅう一緒に遊べる友達がそばにいるべきだと言うことが。
学校から帰ってからも誘い合ってみんなで一緒に遊ぶべきだと言うことが。


・・・・話、戻ります。

散歩に出てそのS小の近くへ行くと、母は
「S小へ行かせてすまんかったねェ」と言いだしました。
「イヤやったろうな」「恨んでるやろな」などとも言いました。
「転校させて悪かったなあ」とも・・・これは兄たちのことでしょうが。

イヤイヤ、私はそういうトラウマがあるっちゃあるけど、
でも当時は全然イヤではありませんでした。
バスに乗って遠くまで時間もかかったし帰ったら学校のダチは全然いなかったしでしたが
そんなもんやと思ってましたし、学校自体はすごく楽しかったので。
今から考えると教育上よろしくない選択だったのだなと思うけど
ホンマそのことでイヤとか恨むとかいうことはありませんでした。
・・・まあ、転校させられた兄たちはどう思ったかわかりませんけど。

だから「そんなことないで、S小はええ学校やったし好きやったよ」と応えましたが
この後も母はちょいちょい悔やむような言葉を口にしました。


う~~~~~ん・・・・・・・
確かになあ・・・・地元のN小に入学してたら、少なくとも転校してたら
もうちょっとKYやなかったかもしれへんなあ・・・とか思うことはとてもある・・・です。
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KAIGO.介護 巻の百二十八 帰りたい帰れない

2011年12月15日 22時03分29秒 | 介護な日々
2010年4月23日~28日

OS病院でのカテーテル手術を終え、経過も良好、いつ転院してもいいですよ~なのに
元いたIC病院が満床状態で受け入れ不可能・・・

OS病院は大規模な救急病院でもあります。
一刻を争う急病患者や小さな病院では対処できない重症患者を受け入れる中核病院です。
逆に、軽症の患者や急性期を過ぎて容態が安定した患者は退院や転院をしてもらうことに。
こちらも、家の近くで何かと都合がよく、母も落着くIC病院へ戻りたいのは山々です。
しかるに、小さな町病院であるIC病院はしょっちゅう満床。
それだけ高齢化が進んでいるというわけでもありましょうが・・・。

前回の入院時は転院のお許しが出てわりとすぐに戻ることができました。
しかし、今回は結果から申しますとなかなか転院することができなかった・・・!!
まさかこんなに長くいることになろうとは・・・・。

介護保険のきく病院と言えば指定介護療養型医療施設であります。
そこはキホン医療施設なのでお医者さんも看護師さんもいますが
介護施設でもあるので介護士さんもケアマネジャーさんもいらっしゃいます。
しかしOS病院は介護施設としての側面はほとんどなく、従って介護士さんはあまり多くはいません。
なので患者の看護はしても介護まではとてもじゃないけど手が回りません。
母のように認知症があり身の回りのあらゆることに介助が必要な患者は
本来介護士さんがお世話をするべきであり、
医療行為のノウハウと資格をお持ちである看護師さんに
介護をお願いするのは申し訳なくもあるわけで。
でも、介護士さんの数が少なめであるため、時にはオムツ換えなども
看護師さんのお手を煩わせてしまいます。

だーかーらー! 早く帰りたい、IC病院!!

でも、OS病院はめっちゃキレイな病院です。建て直されて10年くらいっすか?
部屋は個室で広いシャワートイレ室がありお湯の出る洗面台がありソファーベッドがあり
液晶テレビはもちろんデジタル対応、冷蔵庫あり施錠保管できる頭床台あり。
病棟には広いデイルームもありますし、レストラン、カフェ、
ファミマ(もち24時間年中無休)にたくさんの自販機に美容室もあり。
病室も廊下もぺっかぺか~。昔と違って病院独特の消毒液っぽいにおいも皆無です。
病院食もなかなかおいしいし選べるメニューにパンorゴハンの選択も可能。
まあ、普通に入院してるだけなら、居心地は抜群です。
最新の技術と設備が整っていると言う点でも安心ですし。

「ゆっくりしていってください」ねえ・・・・。

母は相変わらず「こんなにようけの荷物持って帰れるんか?」とか
「お兄はちゃんと給料もろてんのか?」とか
「OS病院・・・ええとこや。なんでここにいてるんやろ?」とか
ヘンな心配をしているかと思うと窓の外を眺めて(10階、眺めヨシ)
「人がようけおる(人は見えないはず)、門番に断っとかな」とか
車イスを見て「そこにいる人動かへん」とか意味不明発言を繰り返していました。

機嫌は良かったり悪かったり・・・おおむねまずまずで、
食事も食べたり嫌がったり嫌がったり嫌がったり・・・七-三でイヤが多い??
入れ歯がぐらつくようなのでポ○デントを使うと少しましになったようでした。


てなこと言ってるうちに1週間になりなんとす。
まだ転院できないのでしょーかね・・・
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