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ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

イッツ 賞タイム! ジュリーと”賞”あれこれ。

2020年03月21日 21時02分03秒 | ジュリー・・・思い出SONGSあれやこれや
若じゅりさんの物語、今回は「賞」のお話です。

歌謡曲、歌番組全盛期だった昭和40年代から平成初期にかけて
最古参で今も健在(かなあ・・・)の「日本レコード大賞」に続けて
あまたの賞番組が乱立した時期がありました。
もう今はほとんど衰退したようで、レコ大だけはなんとか踏ん張っているようですが
その辺のお話は置いといて・・・・

ジュリーはデビュー後数年は賞とは縁のない立ち位置にいました。
というのも、日本の音楽界は1960年代に始まったエレキブームを
当時は「不良の音楽」とレッテルを貼り認めてこなかった経緯があったからです。
エレキが過激な物で青少年に悪影響を与えると蔑んだのですな。今では冗談みたいな話ですが。
多くのグループサウンズのバンドが皆悪者扱いされていたわけで。
長髪=不良と言うわけのわからん公式もできていて。
エレキバンドでも短髪でスーツを着ていたブルーコメッツだけは例外扱いでした。
短髪でスーツは紳士であって不良ではないということだったようで
ブルーコメッツだけは賞番組にもNHKにも出られたのですが
・・・ヘンな時代でしたね、長髪エレキはNHKに出られずどんなに売れても賞をもらえない。

御多分にもれずジュリーのザ・タイガースもあれだけ絶大な支持を得て大ヒット曲を世に送り出し
一大ブームのトップを走り続けていたというのにNHKとレコ大にはシカトされていました。

でも、エレキバンドの文化は生き残り、今じゃ当たり前のスタイルになりましたが
先駆者であるグループサウンズの時代はあっという間に過ぎ去って
僅か3~4年、長くて6~7年程度でほぼほぼすべてのバンドが解散。
ザ・タイガースも1966年11月から1971年1月までの僅か4年そこそこですい星のごとく消えて行ったわけで。
その間ミリオンセラーも生んだものの、結局NHKと賞レースには縁がありませんでした。

それが、ブームが去った頃漸くにして長髪=不良のレッテルは剥がれ
ソロになったジュリーにもフッツーに今更のようにNHKからオファーがあり賞レースにも絡んで・・・。

その最初がソロシングル2曲目(正確には3曲目ですがタイガース時代の1曲はノーカンということで)の
「許されない愛」のヒットにありました。1972年のことです。

思いがけず?レコード大賞の歌唱賞受賞者5人の一人に選ばれ、紅白歌合戦出場も果たした。
ジュリー曰く「寝耳に水、寝た子を起こされたよう」。
だけど認められたことは素直に嬉しいと思ったそうですし
だからこれからも賞をもらえるように頑張ろうと思えたそうです。
よくやった、頑張ったと世間が評価してくれることは、賞を取ることだと考えたのでした。
目に見える形での評価はレコードの売り上げ以外ではそれでしか測れない、と当時は考えていたようです。
・・・今は知らんけど。

その翌年、1973年にはご存知、大ヒット曲、代表曲のひとつ「危険なふたり」で
レコード大賞の大衆賞、そしてその年第4回であった新設の賞番組「日本歌謡大賞」で念願の大賞を受賞。

大賞とった明けの月刊明星にどアップのグラビアと共に
「沢田研二、最良の日」のキャッチが載っていたのを覚えていますよ。
確か有線放送大賞もとったのではなかったかいな??

それ以来は両大賞のほぼ常連になりました。
レコ大の大賞以外の各賞の名目は若干変化があり、
一時は大賞のノミネートというアカデミー賞もどきの形式もありましたが
おおむね歌唱賞をほぼ例年連続受賞、
歌謡大賞では放送音楽賞をゲットし続け・・・。

とはいえ、黒歴史みたいな時期も一時はありまして
1974年は「追憶」でそれぞれの賞を取りましたが

1975年は折角のビッグヒットであった「時の過ぎゆくままに」がレコ大から落ち、
歌謡大賞でかろうじてひっかかった・・・のは、ちょっと事件を起こしてしまったからでしょう。

オフレコみたいな話ですが、その時の大賞受賞者は布施明さんで「シクラメンのかほり」。
当時布施さんは同じ渡辺プロダクション(今のワタナベエンターテインメント)に所属。
裏ではプロダクション側からジュリーに、今年は諦めろ、まだ君には将来の可能性がある、
この次はきっと取らせてやるから今回は我慢しなさいと因果を含められたとかなんとか・・・
ほんまかどうかはわかりませんがそんな話を随分後で小耳にはさみましたよ・・・?
1976年、なんだかんだで謹慎(自分から謹慎するとナベプロに申し出たらしい)して
賞レースからも一切の辞退を申し出たためこの年は受賞なし
そして自分からの立ち直り?というべきか、巻き返し、出直しで
1977年、見事に己に雪辱を晴らしたジュリー史上最大のヒット曲「勝手にしやがれ」で
その頃乱立していたあらゆる大賞を・・・いっこ除いて総ナメ、ほぼ独占受賞!

・・・除いたいっこというのはFNS歌謡音楽祭のグランプリです。ホンマ、これだけです、逃したの。
その後長いこと、ホンマに長いこと恨みつらみをゆうてはりましたからねww
あの時は雨が降ってたとかそれがジンクスに思えるとかトラウマになってる的なこととか・・・おいおい。
この時は歌謡大賞も「史上初(もっとも歌謡大賞はその時でまだ8回目でしたが)」の2個目獲得!
司会の高島忠夫さんが「初めてだ、初の2回目ですよ、ジュリー」とかなんとかのたもうで
ジュリーも「うちにトロフィーあります、これで2個になりました」とかテンパった声で応えてて・・・そらテンパるわな。

1978年は今度は「初のレコ大2連覇」と宣言してすごく精力的に仕事をこなして行きました。
ずっと連覇、連覇と言い続けていたのですが残念ながらトライしていたのは「LOVE (抱きしめたい)」

各賞をいっぱいとることはとったけど大賞は逃し、レコ大も残念ながら取れず。
皮肉なのか何なのか、前年いっこだけとれなかったFNSのグランプリは獲得したけれど
それこそ雪辱を果たしたというよりはイヤミのようでもあり・・・イヤイヤイヤ、とれて良かったと言うべき??
同曲はレコ大で最優秀歌唱賞を取りましたが、その時のジュリーの口惜しそうな顔と言ったら。
なんせ、最優秀歌唱賞をとったらそのあとの大賞受賞はまずないからね。
司会の黒柳徹子さんが「去年と比べて(トロフィーの)重さはどうですか?」などと
意味不明の質問をしたり・・・フォローのつもりでおっしゃったのでしょうが
「大賞は曲に贈られるけど最優秀歌唱賞は歌手に贈られる」と慰め?みたいな話があったり・・・
周囲は明らかに不機嫌を隠さないジュリーを取りなすのにてんやわんや。
大賞より価値がある、などという声もあって、それに対してジュリーは年明けの公演の際に
「重さはどうですかて、軽いに決まっとるやろ、何を聞いてるんですかね?」とか
「大賞よりスゴイ? だったら大賞の後で発表せいや!」とかぼやきを連発・・・。
まあ・・・それだけ入れ込んでたと言うか、ホンマに賞にはこだわり続けていたことでありました。

長くなったので一旦切ります。続きはまた今度・・・・。
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ジュリー・ラテライブ・ランダム再生⑤

2018年09月02日 20時37分43秒 | ジュリー・・・思い出SONGSあれやこれや
・・・あれっ・・・ジュリーのお話ってそんなに長いことしてませんでしたか?!
特に、ビッグショーの話は改めてやります。的なことを書いといて・・・もうやったと思ってました。
でもやってませんでした。サーセン・・・・。あっれェ・・・・??

というわけで。1970年代後半の、ビッグショーのお話です。

ビッグショーというのは1974年から1979年にかけて放映されたNHKのライブの歌番組で
形式としてはワンマンショーで、その回の主役の歌手にゆかりのあるゲストを迎えての45分番組。
日曜日の夜8時45分からってNHKっぽい時間帯ですね。
初めはスタジオだったそうですが、ジュリーの時はNHKホールでのライブになっていました。生放送ではなかったです。


では、ジュリーが出演した2回の放送を振り返ってみましょう。

1977年6月26日放映「沢田研二 今、青春のきらめきを!」
サブタイ凄い。ゲストは若山富三郎さん。

若山さんと言えば、ジュリー主演の名ドラマ「悪魔のようなあいつ」で
ジュリー演じる三億円事件の犯人を追う刑事の役をされましたが、元々は時代劇の大スター。
あのカツシンこと座頭市・勝慎太郎さんの実兄で殺陣のうまさは達人級。
また、石坂浩二さん演じる金田一耕助の映画「悪魔の手毬唄」で金田一と旧知の磯川警部を演じられましたが
そりゃあもう、渋くて味わい深いというか、人情味あふれる磯川さんが実に良かったなあ~。さすがでした。

さて、それでこの回の放送ですが・・・哀しいかな、何故かちゃちゃの元には録音がありません。
しなかったワケないと思うんですが、おっかしいな~・・・

ともかく、セトリはわかっておりますので挙げときます。

1.危険なふたり
2.許されない愛
3.勝手にしやがれ
4.或る雨の午後
5.時の過ぎゆくままに
6.君だけに愛を
7.モナリザの微笑み
8.銀河のロマンス
9.シーサイド・バウンド
10.コバルトの季節の中で
11.追憶
12.いくつかの場面
13.本当の人生を

この4と13はジュリーの歌ではないですね。
4の「或る雨の午後」は1939年と言うから昭和14年ですか、リリースされたディック・ミネさんの歌らしくて。
たぶん若山さんのリクエスト的なアレだと思います。
13はなんだろ。ちょっとわかりませんでした。
録音が残ってないので正確にはわからないのですが、ジュリーが若山さんとのかかわり=ドラマ共演の話をした際に
「最後に、僕を撃ち殺したのが若山さん演ずるところの白戸刑事でありまして、
あの時は殺してくださってどうもありがとうございました。」などと言いながら頭を下げていたのは覚えています。
「殺してくれてありがとう」ってナニ?


それから翌年の1978年7月4日放映「沢田研二 花と男と情熱と・・・」
やっぱサブタイパネエ。ゲストは森光子さん。

森さんとジュリーの関係はと言うと、出身高校が同じということだそうで。
そう、京都府立鴨沂高校。今更なんですが、読み方は「おうき」ですよ。
森さんは旧制の女学校時代(京都府立第一高等女学校)に在学されたそうですが、お二人とも実は中退・・・
制度が代わって今はそんなことなくなったそうですが、ジュリーのいた当時は京大進学者数ナンバーワンの超名門校。
まあ・・・ジュリーはね・・いろいろあって当時で言う登校拒否生徒でしたから。
特に数学がめちゃくちゃダメだったそうで。
プロ野球選手に憧れて今も野球の名門平安高校(現在の龍谷平安高校)に進学したくて
でも家庭の事情から行くことができなくて・・・それで入った鴨沂高校の野球部が弱くって
それで挫折して登校拒否になってサボってジャズ喫茶とか入り浸り紆余曲折を経てタイガーズのメンバーとしてデビューし・・・
一方の森光子さんは女学校時代でしたが、入学後まもなくご両親が相次いで病死され退学を余儀なくされたそうで
それで従兄弟にあたる嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう・通称アラカン、戦前戦後の時代劇の大スター)の事務所に入り
皆さんご存知の通り国民的大女優となられたわけで・・・

・・・いやあ、人生何が起こるかホント、わかんないッスねえ。

とにかく、森さんをゲストに招いての巻です。
これは録音があった筈なのですが、今探したけど見当たらない・・・しくしく・・・。どこやってんやろ。
テープからMDにダビングした際わからなくなったらしい。
程なくしてなくなったMD。ありゃいったいなんやったんや。
テープが復権の今日この頃、テープのまま置いときゃよかったよ、マッタク・・・。

ともかく、こちらもセトリはわかってるので挙げときます。

1.勝手にしやがれ
2.憎みきれないろくでなし
3.サムライ
4.あなたに今夜はワインをふりかけ
5.お前は魔法使い
6.ダ-リング
7.絆
8.それぞれの明日へ

あいだ、ジュリーが森さんをナンパするヘンなコントみたのが入って
まずジュリーが肩で風切って「おう、姉ちゃん! 待ったけ?!」と関西弁で言うと、
森さんが「マッタケ(松茸ね)、おいしいわねえ!」と呆け
ジュリーも「ああ、おいしいですよねえ!」と。
「そうそう!」
「山科の方でね、とれるんですよ」
「・・・て、そんなことどうだっていいのよ!」
・・・とそんなやりとりしてたのだけ覚えてます・・・。何この小芝居。
・・・なんだったんだろ。

歌ですが、7は何度も紹介してます、ミシェル・サルドゥのカバーです。
8がね、わかんないんですよ。カバーだとは思うんですが。いや、間違いなくカバーなんですが。
カバーだと原曲のタイトルとは違うことが多いから、わかんないなあ~・・・。すみません。

しかし、お二人のゲストはもう既に鬼籍に入られ、ジュリーもはや古希ですか。
時の流れの恐ろしさよ・・・。


さて、このころは歌謡曲、歌番組全盛期で、毎日のようにどこかの局で歌番組があり
歌手と言えばもっぱらテレビに出演して歌うものであった時代。
時のリリース曲だけでなく、ミニコーナーを設けてもらって数曲歌うのもザラにやってた時代です。
まだ、テレビにはLINE端子もなく、もちろんビデオデッキなんてパンピーには手の届かなかった頃。
ラジカセをスピーカー前に置いて内臓マイクで音を拾って録音するのがスタンダード。
うちは小兄がちょっと電気系に強かったため、おこちゃまちゃちゃもいっちょ前に
LINE端子からケーブル録音するという当時としてはハイテクをやっておりました。
だからわりといい状態で録音してたし残ってもいるのですが、いかんせん・・・・・30年40年経つとね
音が劣化しているのはもちろん、何より「どっかいってしもた」ものもたくさんあり・・・
そして、「毎日ほっといてもテレビに出てるから見れる、聞ける」だから
「全部録音しておくなんて到底キリがなくてできっこない」だったので
今思えば録音してなかったんかい、オーマイガッ!! なこともしばしば・・・。

でも、時代を超えて?今も手元にある物もまだありますんで、もうしばらく記事に書けると思います。
無精なうえに肩凝りもひどく、更に・・・アニメ鑑賞に??忙しいので
次いつ書くかわかんないけど、何とかほそぼそ続けて行く所存・・・・

にて、今回これまで。お・そまつ!
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ジュリー・ラテライブ・ランダム再生④

2017年03月26日 13時49分43秒 | ジュリー・・・思い出SONGSあれやこれや
忘れ切った頃にやって来た!!!

ああ、ジュリー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

すんごいお久しぶりぶりざえもん。
気にしてはおったのですがな~・・・

何しろアニオタしていた上に年末にSMAPが解散しちゃったでしょ~・・・

「SMAP何で解散したんや~・・・」
「それで泣いてんのかいな!」
と、吉本新喜劇でもネタにされた、朝日新聞の「天声人語」にも載った!!

ちなみにその少々前にジュリーも天声人語に載ってましたね。

てな話は置いといて。

実は年末に拙ブログがかつてないアクセスをいただきまして、
何があってん?!碌に更新せんのに!! と思いましたら
風のウワサに聞きました程度なんですが
ジュリーが?歌詞を忘れて?ファンに土下座した?それが記事ネタにされた??
・・・とか何とかいうことがあったそうで??

「あらあら」とは思いましたが・・・。

私見でございますれど
ジュリーはかつてほぼほぼ放送事故的超絶歌詞間違いを某有名番組でやらかしてます。
生放送でした。イヤ、生やから放送事故なんですが。
もちろんリアルタイムで見てましたよ、ちゃちゃは・・・

それがどないしてん!!!

てか、あの人の歌詞忘れ、歌詞間違いはぶっちゃけようあるこって。
他の歌い手さんのライブをほとんど見たことないので他の人は知りませんが
ほんま、そんなんで騒いでもしゃあない、てか
一番ハズイ思いしてるのご本人ですからさ。
そして土下座して謝ったからって記事ネタにするほどのこっちゃないやろし
また、ネタにされたからって炎上するほど反論喰らわすほどのこともなかろうもん、

・・・てなことを思っておりました。

そらまあ、プロとして間違うなんてアカンやろ、ていう説もございましょうが
正論やけど、まあまあ、人間臭くてええやんか~、とあたしゃ思いますけどねえ。

ともかく、それでジュリー話をちょこちょこ書いてるうっとこのアクセスが激増したんやろか。

土下座謝罪が妙にブレイクしてしもたのはきっと〇沢直樹さんのせいでしょうが
座敷では座って手をついて謝るのは普通に謝り方としてあることで
昔やったらバカ丁寧で、ちょっと茶目っ気もある謝り方として
笑って許したもんでしょう。まあ、今もジュリーのファンやったら
「も~、そんなん笑って許すやん、ジュリーって昔からそうやね~、相変わらず、
そ~ゆ~とこがジュリーやなあ~、せやから好きやわ~」
と思うもんやないですか~??


とて、なんでここで土下座論になってんねん。
ていうか、そもそも状況よう知りません・・・間違ってたらごめんなさい。土下座??
イヤ、ほんとスミマセン。

そういう話もこの辺でおきまして、ライブのセトリと行きましょう(いきなり・・・)

昔むかし、放送局に大きな何かがあると記念イベントがあり
その記念イベントが誰かのライブであった場合、その誰かはジュリーだ、という状況が何故か続きました。
そのイベントのご紹介。

まずは多分関西地区のみの放送だっただろうと思われます、ラジオでのライブ放送。タブン生放送。
1977年5月15日  於ミリカホール
毎日放送開局記念番組「ザ・ライブスペシャル 沢田研二VS宇崎竜童」
・・・ととあるサイトには書かれていましたが・・・
違います。正しくは「毎日放送周波数変更特別番組 第6部ジュリー&ダウンタウン」です。
開局なわけないでしょ、1977年で・・・。毎日放送ラジオは1951年からやっとるわい。

あちこちのサイトでは「沢田研二VS宇崎竜童」と紹介されてることが多いけど
実際は「ジュリー&ダウンタウン」とアナウンサーが告知しておりまする・・・
だってワシ、録音もってんねんもん、間違いないでえ!

それまでMBS毎日放送ラジオは周波数1210kHzだったのですが
このころ他の局も合わせて一斉に周波数変更がございまして毎日放送も1180kHzになりました。
・・・なんでかは知りませんが・・・ちなみにその3年後1179になり現在に至る。
ミリカホールと言うのは今はもうないんですが大阪の千里丘というところにあった
毎日放送局所有のホール型のスタジオでした。

当時千里丘には放送センターがあり、昔なつかしの名番組「アップダウンクイズ」もここで収録されてたんだよお~
社会見学で行ったことある! 水戸黄門の収録なんかもやってたぞ!
やん・・・もう懐かしすぎるわあ~・・・
但し現在は「毎日放送ラジオ」というよりは「MBSラジオ」と呼称されとります。

??
おう・・・また話が横道逸れた・・・ジュリーの話ちゃうんかい・・・スマソ

ほなセトリ行きます。全曲ではないですが
1.おまえのために
・・・出典不明
2.スピード違反のお嬢さん
・・・・・やっぱ出典不明。このころよう歌ってた歌。
ここでちょっとMCが入り、次のヨーロッパで発売の楽曲紹介。
3.JULIE LOVE
フランスで出したシングル曲。
4.LONG AGO AND FARAWEY
前にも書いたかな、当初ドイツでシングルリリースする予定だったけど
なぜか没になって他の曲のカップリングだかアルバム収録だかになった不運な?曲。
ジュリーはここで「ドイツ語で歌うのかな、また発音が難しいのかな」と構えたけど
当時ドイツでは英語で歌うのが流行っていたため助かったとコメントしています。
5.危険なふたり
6.時の過ぎ行くままに
7.さよならをいう気もない
更にMC。「新曲です」「このところ阿久悠さん作詞、大野克夫さん作曲が続いていまして」
そして「ちょっと準備」スタンドマイクの登場ですな。この曲からスタンドマイクを数年続けた。
そして曰く「歌詞を間違えないように歌いたい」wwwその新曲が・・・これだ!
8.勝手にしやがれ
・・・新曲だったこのころ。
9・扉を開けて
これも他では聞いたことないな~・・・出典不明
10.WHEN THE LIGHT WENT OUT
ロンドン発売第2弾でしたかな。なかなかにカッコエエ歌や。
11.失うには早すぎる
ごめん・・・これ何でしたっけ・・・わりとよう歌われてたんですが。忘却・・・
12.そしてひとり
これも出典不明。不明ばっかやな・・・

後、以下の歌もあったようです。

ブルー・スウェード・シューズ
恋のかけら
Lucille
哀しみのディスコティック
恋のかけら
許されない愛
哀しみのディスコティック
好きさ好きさ好きさ
シーサイド・バウンド

これらはおそらく竜童さんまたは彼と一緒に歌ったのでしょうか。
この辺記録がなく録音もないので詳細は不明ですわ、すんません。
「好きさ好きさ好きさ」てGSのカーナビーツのデビュー曲やんな。
まあ、カバーらしいけど。


さて、時は少々流れて今度こそ「開局記念番組」それは・・・
「テレビ大阪開局記念ライブ」
今でこそテレビ大阪はデカイ顔してますが(シツレイ)
実は1982年3月に開局した結構新しいテレビ局なのですな。
それまで今のテレビ東京系列番組は既存の当時UHF(ローカル局)であった
神戸メインの放送局・サンテレビに多くが流れており、
関西では放映されない番組も数多く存在しました。
何しろサンテレビは阪神タイガースの野球中継とVHF番組の再放送がメインですから。
阪神戦に至っては朝日放送が放送延長でも中継しきれなかった場合を引き受けるほどの
朝日放送系列阪神ファン御用達放送局でしたから。
ところがここにテレビ大阪が開局した! テレ東は元VHFでしたが大阪はUHFでした。
そのせいでか、未だに兵庫県や京都府では映りにくい。
ちなみにテレビ大阪開局に際してテレビ東京もそれまでの東京12チャンネルから局名を変更したようです。


で、ですね^^;・・・いやあ、今回は放送局の記念番組だからその周辺事情の説明が多くなってすいません
ともかくその開局記念番組がまたまたジュリー&EXOTICSだったんですね~。
場所は大阪と言えばここやん、大阪フェスティバルホール!!
「大阪ポップフェスティバル」というタイトルで収録は1982年3月7日、放送は同年5月22日でした。
他のアーティストの公演とかもあったのかもしれませんが不明です・・・検索しても出て来ん。

で、その際のセトリがこれです。全曲は放映されなかったのですが・・・
1.MAYBE TONIGHT
アルバム「G.S.I LOVE YOU」からお馴染みの曲。
アルバムやリリース当時はバンドがオールウェイズでしたので
リードギターは沢さんだったのですがこの時はカズさんに・・・。昇格?
2.ジャンジャン・ロック
シングル「ス・ト・リ・ッ・パ・-」カップリング曲。ノリノリで好きです。
3.月曜日までお元気で
シングル「麗人」のカップリング曲。なかなかにツウな選曲が続きますな。
4.麗人
時のシングルリリース曲。
5.すべてはこの夜に
ジュリーとしては1984年リリースのアルバム「ノンポリシー」で初収録ですが
だいぶ前にも書いた通り、これは吉川晃司さんシングルリリースの歌。
作ったサノモトさんが「ジュリーがリリースしてからでないと他人が歌うのはヤだ」とか何とかのたもうて
それでジュリーがまずアルバムでリリースし、吉川クンがそれをカバーした形になった、という変な経緯アリ。
この1982年当時は多分ですが吉田建さんアレンジで歌っており
その後アルバム収録時は井上鑑さんアレンジバージョンで録音されています。
更にその後、割と近年も歌っとるらしいですが
それは元々のケンさん?バージョンらしいですな。ま、どっちも好きですが。
6.気になるお前
何年たっても好きやねエ、この曲。さすがにこのころは歌詞は正しかった。
だから言ってんじゃん、ジュリーの歌詞間違いは今更なんやって。
何年も間違ってることに気づかず、しかも周りもファンも一切突っ込まずにいたこともあってんから!


放映されたのはこれだけでしたが、実際のライブはきっともっと長かったんやないかな。
ちなみにその時の柴山さんのコスチュームがこれでした~。(前掲)

MAYBE TONIGHTで
カズ、ケン、ジュリー、やっさんが一列に並んで前後に歩きつつ
「(前進)1、2、3、キック、(後退)1、2、3、トン」などと
ステップの振り付けをしておりました際のワンカットです。


てなところで、ラテライブセトリ紹介、今回これまで。
お・そ・ま・つ~。
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ジュリー・ラテライブ・ランダム再生③

2016年09月19日 16時11分50秒 | ジュリー・・・思い出SONGSあれやこれや
続きまして・・・今回はセトリと言うよりは
こんな歌、コンサートだけでなくラジオテレビでライブでも歌ったのよ、なお話。

時のシングルリリース曲とは別にミニライブコーナー的なアレで
こんなの歌ったのね、的な。の、前半戦、1970年代、井上堯之バンド時代行ってみよっか、的な。

いっちゃん古い記憶としてあるのが金曜日の午後8時にフジテレビ系でやってた
「ゴールデン歌謡速報」という番組。

司会者は若干変動がありましたがよく見ていたのは小林大輔さん、由紀さおりさん、井上順さん3人の時。
順ちゃんがいたのでジュリーにマチャアキさんもしくはムッシュかまやつさんがゲスト出演すると
井上堯之さんがアコギを抱え、ジュリーと順ちゃんともう一人の計4人が座って
GS時代の話やロックの名曲を歌ったりしてました。
そこでよく歌ってた記憶があるのが「朝日のあたる家」ですね。
あと、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」も歌った気がする・・・。
それから「哀しみのアンジー」。これはストーンズですっけ。
当時裏番組が「太陽にほえろ!」で、普段はそっち観てたんですが
ジュリーが出るときはこっち観てました。ビデオがなかった時代だもん。



ミュージックフェア’73では「うつろな愛」という歌を原語のままカバー。
アメリカのシンガーソングラーター、カーリー・サイモンという人の歌だそうな。
ミシェル・ポルナレフの「忘れ路のグローリア」なんかも。

ミュージックフェアは純粋な音楽番組だったので3曲くらいは毎回やりましたね。
同’76ではフランスでリリースした「ELLE」

スタンダードロックナンバー「ルート66」
ドイツでリリースの「WHEN THE LIGHT WENT OUT」などの披露も。
ギャラリーがいないため拍手やざわめきが一切なく、いい音源でした・・・モノラルだけど。
どっかでフランスでリリースした「JULIE LOVE」もやったはず・・・。

同じくミュージックフェア’77では「愛の出帆」や
別の回でオリジナルアレンジによる「SATISFACTION」も。
ローリングストーンズの名曲ですな。この辺は全部原曲まま。
「スピード違反のお嬢さん」という歌も一回歌ってますね。
これって誰の歌だ?? オリジナルっぽいんですが不明。

’78ではユーミンこと松任谷由実さんと共演して
「ダイアナ」「ルイジアナ・ママ」「オーキャロル」「ロックンロールミュージック」をなんとデュエット!
これって結構レア? ミュージックフェアはたいていゲスト二人呼んでたので実現。
今も尚クオリティー高い良質音楽番組ですよね~。
この当時は長門裕之さん&南田洋子さんでしたかしらね・・・。
同年、内田裕也さんとも出演、裕也さんが出てくればもうスタンダードロックンメドレーです。
その前に「グッバイマリア」は時のアルバム「今度は華麗な宴にどうぞ」より。

「I SAW HER STANDING THERE」
「LIES」「MISS YOU」「ジョニー・B・グッド」・・・
裕也さん好みのセトリでしょうか??


あとは番組名不明・・・テレビかラジオかもはっきりしませんが・・・
1973年から78年頃にかけて、いろんな番組でいろんな歌を歌ってました。

1974年ごろ、オリジナル曲でよく歌ったのが「お前は魔法使い」。
スタンドマイクを蹴り上げながら派手なアクションで歌うのがカッケーかった。
これ以来スタンドマイクで歌って欲しいとずっと思ってました。
1977年「勝手にしやがれ」で叶って以降ジュリーと言えばスタンドマイクになりましたね。
それは何と1984年の「渡り鳥はぐれ鳥」でハンドマイクに戻るまで続いた。

同じ頃、どっかの番組で前述通り「ある青春」も結構歌ってました。
めっちゃ泣きの演技を入れてお子様ちゃちゃはすっかり騙された。
ミュージックフェアだったような気はするんですが・・・不明

たまに歌った「ラブ・ソング」はアルバム「JULIE Ⅳ」から自身の作詞作曲。
「GIVE PIECE A CHANCE」はコンサートでもお馴染み。

1975年はコンサート用の楽曲「残された時間」をテレビでもやりました。
セルフカバーと言うべきか75年バージョン「花・太陽・雨」も。
同じく「グッドナイト・ウイーン」も歌ってますが
これでレコード化もされた「比叡山フリーコンサート」では歌詞を間違えていたことが発覚!!

4コーラス目は1コーラス目と同じ歌詞だと思われていたけれど
実は違ったのだよ・・・・。
「朝まで町をフラフラ 行く宛もなくブラブラ
どうしようかとひと言 するとお前がグッバイ、じゃあね~」
・・・てのが正しかったらしい。ありゃりゃん。
それからもう全然出典不明ですが「瞳の面影」も歌ってます。

1978年、これも番組名不明でスンマセン、
ロッド・スチュワートの「胸につのる想い」、これも日本語。


で、79年はと言うと・・・。

何とこの年はミュージックフェアにも出演していないみたいで、
CMソングはそこそこ出してんですが、ミニライブは一部除いて全然でてなかったりした。
「題名のない音楽会」で「OH!ギャル」←時のシングル「 モナリザの微笑」
時のアルバム「思いきり気障な人生」より「ラム酒入りのオレンジ」と
タイトル曲「思いきり気障な人生」を歌ったくらい。

映画「太陽を盗んだ男」で忙しかったとか??


他、NHKの音楽番組「ビッグショー」及び「2人のビッグショー」は
そこそこ長い時間とって数曲歌っておりますので
また改めてアップしたいと思ひます。



てなところで今回はこれまで・・・お粗末~!!






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ジュリー・ラテライブ・ランダム再生②

2016年09月18日 16時12分38秒 | ジュリー・・・思い出SONGSあれやこれや
例によってお久しぶりなジュリーのセトリ紹介、ラジオテレビバージョンです。
今回は懐かしのFMラジオ番組でのスタジオライブのお話をば。

かつてFM東京―FM大阪の番組に「パイオニア・サウンドアプローチ」というのがありました。
ひと月単位でゲスト=マンスリーゲストを呼んでライブとトークを展開するというメニュー。
ゲストにより4週間の構成はいろいろでしたが
ジュリーがマンスリーゲストで出演した際は1・2週目にスタジオライブ、
3・4周目はジュリーゆかりのゲストを呼んでのトークバラエティーでした。

放送されたのは1977年4月。
すなわち4月3日と10日がライブで17日と24日がトーク。
記憶があやふやですが、17日はゲストが加瀬さんと井上さんでした。多分。
当時加瀬さん(加瀬さんの奥さんだったかも)は何故かお好み焼き屋を経営していて
そのお店で何故かジュリーがお好み焼きを焼き、二人が食べながら、いろんな話を展開すると言うノリで
しかもジュリー本人は焼く方に専念していてほとんど喋らなかったと言う・・・。
24日は加瀬さん始めいろんな人がゲストだったみたいですが詳細は今となっては不明。
調べたら『「鳥元」にて』という記録が見つかりました。焼き鳥屋かな?

いずれも記憶違いが結構ありそうな気がします。間違ってたらごめん。


では、その1・2週目のセトリを挙げてみたいと思います・・・

まず4月3日。

1.MY LOVE IS YOUR LOVE
この頃ライブでよく歌われていたナンバー・・・けどのっけから解説難易度タケーの来た。
当時ファンであった人ならお馴染みのナンバーなんですが
出典不明・・・ググればオリジナルは「ホイットニーヒューストン」との記述がありますが
これは間違いですね。彼女の同名の歌とは全く別物です。だいたいそれ、1990年代やし。
1977年の冬に発売された5枚組LP「沢田研二 大全集」には
1976年12月23日公演・武道館でのライブ録音が収録されまして

その後1984年シングル「AMAPOLA」の4曲入りミュージックテープが出た折
スタジオ録音盤が収録されてた・・・ような気がする。
ファンとしてはお馴染みなのに正体がわからないという謎の名曲。
2.ママとドキドキ
1975年発売のアルバム「JUWEL JULIE」から。

ジュリーの作詞・大野さんの作曲でした。マザコンの歌??
3.時の過ぎゆくままに
今更言うことナシ!
4.片腕の賭博師
これは珍しい選曲です。1976年リリース「チャコールグレイの肖像」から。

これはすべてジュリーが作曲したアルバムで歌詞はいろんな人が書いてますが、
中でもこれは珍品?? なんと荒木一郎さんの作詞です!
荒木さんと言えば1975年のドラマ「悪魔のようなあいつ」で共演してて、その縁なのでしょう。
言わずと知れたシンガーソングライターのハシリで俳優(文学座!)で著述家で・・・と非常に多彩な方です。
♪そらに~ほしが~ある~よ~うに~
5.さよならをいう気もない
時のシングルリリース曲。この後が一世風靡の「勝手にしやがれ」だから
地味な印象があるけど・・・。うん、地味な歌でしたね。でも結構好きな人も多い。

6.悪夢
また難易度タッケーの来たよ・・・。ナンダコレ。
おそらくフランスの人気歌手、ミシェル・サルドゥのカバー
彼女が浮気する夢(悪夢)にうなされていたところその彼女に起こされ
彼女を愛する気持ちに気づいた・・・てな内容の歌。ナンダソレ。
ミシェルの楽曲はかなり多い上、ジュリーが歌う時は
原曲と違うタイトルや歌詞をつけているので、どれが原曲かわかりません。
7.愛の出帆
これはもうお馴染みの曲。お馴染み過ぎてアレ、オリジナルなんだっけ?
あ、紹介したことなかった!! なんと・・・お馴染みだと思って端折ってました、失礼。
原曲は「恋のやまい LA MARADIE D’AMOUR」といい
やはりミシェル・サルドゥーのカバーです。訳詞は竜真知子さん。
8.ある青春
これもライブではリリース当時しか歌われなかったけど名曲ですよ。
何度か登場しましたが1973年「JULIE Ⅵ」から

山上路夫さん作詞、森田公一さん作曲のアルバムタイトル曲。
なかなかに渋い選曲でしたね~。

というところで、3日はこれまで。では続いて10日のセトリをご紹介。

1.WHEN THE LINGHT WENT OUT
イギリスでリリースしたシングル、「愛の逃亡者 THE FUGITEIVE」
(イギリスでのタイトルは「FUGITIVE KIND」)に次ぐ2枚目のシングル。
フランスでは7枚ほどシングル出たんですが、イギリスではこれでおしまいだった。
結構好きですけどね。当初別の曲でいくつもりだったみたいですが
結局それはドイツ(当時は西ドイツ)での1枚目のそれもB面になった。オトナの事情?
余談ですが、ドイツの3枚目のシングルのB面は「勝手にしやがれ」の英語版でした!
タイトルは「ONE MAN AND A BAND」一人の男とバンド・・・????
サビラストの「でていってくれ~」のところが「ワンマンアンダバア~ン」となる
・・てゆうことだけ覚えてるわ。あああ~あああ~あああ あ~あ~あああ~
2.ロ・メロメロ
これも1976年リリース「チャコールグレイの肖像」から。
このスタジオライブではアレンジを変えての登場。
3.コバルトの季節の中で
もう何度も紹介しましたね、1976年リリースのシングル曲です。
4.危険なふたり
同じく~。1973年のビッグヒット。
5.夜汽車の中で
原曲はやっぱしミシェル・サルドゥの「告発 JACUUSE」という歌。
夜汽車の中でふと思う、自分はこれからも歌い続けるんだと
うたた寝をしていたら夢の中でも歌っていた、てな内容。たぶん竜真知子さん訳詞。
ジュリーはミシェル・サルドゥやジョニーアリディの歌をたくさんカバーしていますが
そして懇意にしている作詞家にフランス語バイリンガルの安井かずみさんがいましたが
何故か訳詞は安井さんではなく竜さんの方が多いのですな。
てか、ミシェルやアリディは全部竜さんだったと思います。
そしてフランスで発売した「巴里にひとり」の日本語版は山上路夫さんの訳。
まあ、訳詞と言ってもゼンブ原曲とは全然内容が違ったりしてるんですが、どれも。
6.暁のレクイエム
これもミシェル・サルドゥ。だからきっと竜さんの訳詞だろう・・・多分。
7.いくつかの場面。
これももはや言うことなしでしょ。以前の記事もご参照ください。


以上でっす。そんなこんなで今回これまで。
コメント
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