ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

いつくになってもデジモンアドベンチャー02~ラスエボそして・・・

2020年03月29日 20時11分24秒 | コミック・アニメ
デジモンアドベンチャーのまんま続編、デジモンアドベンチャー02(ゼロツー)

無印が終わったその翌週、とっとと3年が経ちまして
選ばれし子どもたち8人のうち6人がお台場小学校を卒業、
タケルとヒカリの二人も5年生になり、更に新たな3人のメンバーが加わって
新しい選ばれし子どもたちに。
新たな敵や無印のラスボスが真のラスボスとして再登場し
最終的にこのデジタルワールドの成り立ちや謎が公開される。
まあ、無印で終わっても良かったのですが
思いのほか人気が出たので続編を作ったみたいなノリです、たぶん。

初回で思ったのは「大きくなったね、タケル」でした・・・。
わずか一週間で(嘘)

主人公の大輔は前作の太一を受け継いだキャラ。
8人だった選ばれしこどもは今回は当初5人、
そのうち敵だった賢が改心して加わって6人に。
改心したと言うか、もともと選ばれてたのだけど悪い奴らに利用されてたという、ね
ままある展開なんですが。
先代?の子どもたちも成長して中学生の姿で登場し
パートナーデジモンとともに参戦することもあって
それもまた無印からのファンには嬉しい展開でした。

劇場版も制作されて、細田監督ではなかったけどこれはこれで面白かった、ちょっとばかり切なくて。


放送終了後にもう1作制作されたのが
新旧両方の子どもたちとデジモンが活躍する劇場版「ディアボロモンの逆襲」

これは「ぼくらのウォーゲーム!」で敵であったディアボロモンが
主に太一とヤマトに復讐するような展開で
一応ラストは02主人公コンビ・大輔と賢が活躍しますが
ファンの気持ちはやはり太一とヤマトに向かっているなあ、的な作品ではないか、と。
やっぱり無印が最強なんだろうな~・・・・。
敵のイタズラで作られた値札「石田ヤマト980円」「八神太一380円」がワロタ。
太一の方が断然安いじゃんwww

無印のメンバー6人が高校生になった時のさらなる物語
こっそり?6編のOVA(上映もあり)になっていました。
「デジモンアドベンチャー tri.(トライ)」という全6編の作品ですが
なんかこれ、あんまり評判良くないんですよね~何故か、残念ながら。
実は私、見てないのですが・・・口コミによると
ちょっと無印ファンにとってはあまり納得の出来ではないらしく。期待とはズレがあるのでしょうか。
でも、デジモン初見の人にはそう悪くないようでもあって、やはり続編というのはこの辺り難しいです。
昔を知っている人の期待を裏切らないようにするという意味では。
・・・まあ、デジモンに限らず名作映画でもドラマでも
人気が出たので続編を作ることはよくあるけれど得てして”2”はコケやすい。
期待が高いあまりにハードルが高いのでしょうな。
続編で期待を裏切らなかったどころか、初作を上回ったのって
「エイリアン」と「レイダース(現・インディージョーンズ第1作)」と
「銀魂」くらいじゃないですかwww(イヤ、他にもあるけど)

それはそれとして。

20周年記念作品として新作、大学生になった初代の子どもたちの物語
「デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION ー絆ー」・・・通称ラスエボ。
これは絶賛です! もう、前々回に書いた通り、まず冒頭のボレロで泣ける。

本当の意味での「大人になった子どもたち」は
特に太一とヤマトはデジモンとの長い長い冒険からとうとう「卒業」します。

「太一、大人になったね」
アグモンーーーーーーーーーーー!!! 号泣!
20年、ありがとう・・・(作品中の時間軸では10年だけど)
成長した子どもたちの中の人は総入れ替えになりましたが
(ストーリー的にも実際亡くなった人がいる点でもそうせざるを得ないでしょう)
デジモンたちは何と全員が初期とまったく同じ声優さん! これ大正解!

それからデジモンで特筆すべきは音楽、OP&ED、そして挿入歌の素晴らしさでしょう。
無印のOP「Butter-Fly」和田光司さん。
♪無限大な夢のあとの 何もない世の中じゃ そうさ愛しい思いも負けそうになるけど
♪STAYしがちなイメージだらけの 頼りない翼でもきっと飛べるさ・・・

翼・・・バタフライ、蝶ですよ、でも羽根じゃなく翼なの。翼がいいの。

2度のがんから生還し、それも喉頭がんという歌手にとっては最悪と言えるがんから復帰して
文字通り「不死蝶」と呼ばれた和田さん・・・最期は力尽きて42歳と言う若さで亡くなりましたが
今回の劇場版でも彼の歌唱のものが使用されました、当然やろ!
そしてデジモンたちが進化する時の挿入歌はもちろん宮崎歩さんの「brave heart」これ最強!
OPより回数かかってますよね、この歌。02になってからも使われてたし。

EDはミミちゃんの中の人、前田愛さん、歌手名Aimさんが複数曲歌っていますが
やっぱり「Keep On」これですわ~。
02でのED曲や劇場版のEDも素晴らしかった。どれも名曲です。

BGMは前述の通り「美少女戦士セーラームーン」シリーズも手掛けられた有澤孝紀さん。
セーラームーンでかかってたBGMとほぼ同じ曲があったり・・・しなくもなかったけど?
初作 劇場版「デジモンアドベンチャー」のボレロ有澤バージョン初め素晴らしかった。
特に良かったのが劇場版02の「デジモンハリケーン」「黄金のデジメンタル」のBGM。
テレビシリーズとは全く異なる生ギターで演奏されるカントリーミュージック風のBGMが
舞台となったアメリカ大陸横断の風景にジャストミーーーート!でした。
このサントラはほんまにええからね! 当時買ったよ、今もあるよ、今でも手に入るよ!!
本当にこの方も50代半ばで早逝され惜しい限りです。

さてさて・・・・
もうすぐテレビアニメ 完全新作「デジモンアドベンチャー」が放映されます。
キャスト解禁!「デジモンアドベンチャー:」PV第3弾

キャラクターはまるっと無印、子どもたちの中の人は一新されますが
デジモンたちはテイルモンを除いて7人(匹?)は同じ! それが嬉しい。
「やっと会えたね、太一」・・・坂本千夏さんの声でまた聞ける。
楽しみです、4月5日日曜日スタート。

ただ、残念なのはOPが「Butter-Fly」ではないこと・・・。
和田さんが亡くなってるとはいえ、ええやないですか、20年前の音源だって!!
ここ、納得しないファンが多い気がする・・・。
あと、ナレーションが野沢雅子さんというのも何と言うか・・・。
野沢さんは偉大な声優さんでスゴイ人だと尊敬しておりますが
デジモンのナレーションは平田広明さんで行ってほしかった・・・
バリバリの現役ですよお、サンジ~~~~~~~!!(ONE PIECE)

まあ、文句言ってもしゃあないので、とりま見てみましょう。
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イッツ ”賞”タイム! ジュリーと”賞”あれこれ~一等賞物語

2020年03月22日 10時54分05秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
1977年にFNS歌謡音楽祭以外の大賞を総ナメにして以来
1983年頃まで公演のステージ上でジュリーが口癖のように言っていた言葉は
「一等賞、特等賞目指して頑張る」。

それ以前から、前に記事にも書いたことがありますが当時は歌番組全盛期。
特に1970年代から80年代にかけてはほぼリアルタイム(録画放送もあったので)でジュリーに逢える、
夢のような環境が・・・当時は当たり前でしたけどね。
あやふやな記憶ですが・・・放映時期に多少の差はありますがだいたい・・・間違ってたらごめんなさい
月曜日・・・歌の紅白ベストテン→のちトップテン、夜のヒットスタジオ
火曜日・・・火曜歌謡ビッグマッチ
水曜日・・・ベスト30歌謡曲
木曜日・・・ザ・ベストテン
金曜日・・・ゴールデン歌謡速報
土曜日・・・えーっと・・・8時だヨ!全員集合・・・は歌番組というよりはバラエティーか
日曜日・・・ビッグショー、レッツゴーヤング
あと、放送曜日がしょっちゅう変更されたミュージックフェアや
平日昼の帯番組シャボン玉プレゼントなど・・・他多数、枚挙にいとまない。

こうしてみると意外とランキング番組って数あったのね。
集計方法は各局独自のロジックがあったと思いますが
ほかにも番組ではないけど今も不動の信頼性トップを誇るオリコン(オリジナルコンフィデンス)チャート、
当時もどれを差し置いてもオリコン1位が一番のステータスシンボルでありました。
それを含めて、各局各番組で「一位になること」がジュリーの公言する「第一目標」であったわけです。
ただ、ジュリーは絶対に「一位」とは言わず、必ず「一等賞」と言ってましたが。なんでだ?

あまたのランキング番組の中でももっとも信用が置けると言うか
これで一位になることが名実ともにトップの証、指標とされたのがご存知、TBS放送の「ザ・ベストテン」です。
個人的にはあまり好きな番組ではなかったのですが・・・
――理由はまあ、しょーむないことなですが
この番組はバックバンドをほとんど映さなかった、
だからEXOTICSファンの私的にはキライだっただけよ
あ、でも一回EXOのメンバー一人一人を紹介したな。まあ、だから許そう・・・かな――
とにかくジュリーはこの番組の一位を取るのにいたくご執心でした。

で、1970年代後半は出す曲すべて何とか一位に・・・すくなくともベストテン入りには辿りついていたのよ。
「勝手しやがれ」を皮切りに「憎みきれないろくでなし」「サムライ」「ダーリング」
そして「ヤマトより愛をこめて」、
この歌はリリース時に劇場版「さらば宇宙戦艦ヤマト」の挿入歌なので歌番組で歌わないとされてたのですが
ザ・ベストテンは「ランクインした歌は絶対歌っていただく」コンセプトがあったため
例外としてこの時だけテレビ放送の中で歌いました。確か8位だったかな。
つまりこの週に限ってジュリーは「ダーリング」と合わせて2曲歌った・・・たぶん。
いや、続く「LOVE(抱きしめたい)」と2曲だったかな・・・忘れまひた、噛みまひた
次が本物のお酒吹いて物議を醸しGパンのファスナーを半分近く下ろしたため物議を醸した「カサブランカ・ダンディー」
・・・醸してばっかか(PTAから怒られたらしくすぐやめました)

そして歌いたくないと忌み嫌っていたけど仕方なかった?「OH!ギャル」
・・・加瀬さん渡辺社長に向かって曰く「沢田にギャルはないでしょう・・・」
この時、一位から落ちた。落ちたのよ、確か・・・
「ロンリーウルフ」カッコイイ歌だと思ったのですが前曲のあおりでしょうか、これも落ちた。

一位に返り咲いたのは次の「TOKIO」! これは久々のクリーンヒット、いやホームランでしたね。
バックバンドが変わりました、ジュリーはビジュアル系のハシリになっていました、
「恋のバッドチューニング」「酒場でDABADA」とまずまず順調、
ところが・・・カズさんファン熱狂の「おまえがパラダイス」は伸び悩み。なんでえ~~??
続く「渚のラブレター」・・・バンド、更に変わりました、我らがEXOTICS
「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」「麗人」「お前にチェックイン」「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」と
一位にはならなかったけどそこそこいい線行きましたよ、結構売れてたんですよ。
この頃は日本の歌手の中でシングル総売り上げ1位の座をキープしていました。
イヤ、凄かったんだって。世に一発屋は数あれど出す曲出す曲みなベストテン入り、
売り上げ枚数も毎回トップクラスなんてジュリーくらいのもの、
しかもこれ、ソロになってからの分だけで一位、タイガース時代も含めたら物凄い数字だったんですから。
イヤ、マジで。
でも、ジュリー本人はベストテンの一位に中々なれないことに危機感を募らせる。
「ここんとこ一等賞になっていない」と事あるごとに口にしていましたもの。
でもでも、まだまだ挽回のチャンスはある、あと一息で一位に届きそう・・・

異変が起きたのはこの後でした。
「背中まで45分」
ギョーカイ内の前説では大好評、大評判だったんですって。評論家も絶賛していたらしい。
けど、いざ蓋を開けてみたら・・・全然売れなかった。
前曲までのあおりというか余波というか、ベストテンの下位にちょろっと2週ほどは入ったけど
その後ソッコー落ちてしまいました。
ジュリー曰く「前評判はすごく良かったけど、評論家はレコード買わない」
まあ・・・そうだよね。
歌番組でも最初は長い曲です
(5分45秒・・・ジュリーは思い違いしていてずっとアルバムバージョンの6分10秒だと思っていた)
放送の尺について「6分10秒ありますが」「大丈夫、フルコーラス歌ってください」が
曰く「ひとたび売れないとわかると45分が35分、25分・・・最後は会ってすぐ脱がせるという
どんだけ気が早いねん!」となり・・・打ち切りマンガか・・・
事実上この後の曲はベストテン番組から遠ざかってしまいました。
ましてや一等賞は手の届かない時空の彼方へ。
個人的には好きだな~と思う曲はあったんですけどね、「晴れのちBLUE BOY」とか
ああ、でも一般受けはしにくかっただろうなあ~
公演では「最近一等賞いってないけど、慣れたらあかんからね! こういうのに慣れたらあかんよ!」と
しょっちゅう己を奮い立たせてはいましたが
結局そういうランキングや、そこから繋がる賞レースからは結果的に撤退してしまいました。

そうした経緯を経て、ジュリー自身の価値観を見直すことになっていったのでは、と思います。
一等賞取ることだけが歌手の、また人生の目的ではないんだ、的な。

そして私見ですが、もしかしたらジュリー自身は初めから
「賞に固執することは本意ではない」とどこかで思っていたのかもしれないな、とも思います。
商業ベースに乗っかると、結局「売れてなんぼ」「売れないと発言権すらない」ことになりますし
ただ自己満足でいいのならアマチュアやインディーでいいのですから。
けれども、物申すにも自分を貫くにも、まず実績を作らない事には何もできないのだ、と
自分の中では少なからず違和感を抱えてはいたけれど
とにかく当時はトップ目指してひた走ることに全力たらんと思ったのかも知れません。

ある時・・・1980年代の前半のいつかだったと思いますが
「もう十分財産(食って行けるだけのヒット曲を指す)を持っているのだから
そんなに頑張らなくてもいいじゃないか、ゆっくり好きなことをすれば」とか
「変わって欲しくない、老け込む姿を見たくない」
中には美しい今の姿を永遠にして欲しいから「沢田さん、死んでください」とまで
言われたそうですが(死んでください、は今の時代的な重い意味ではないです)
でも本人は「たとえ売れなくなっても一生続ける、死ぬまで頑張り通す」と明言していました。
その意志は今も変わっていないと思います。ていうか、それがジュリーでしょう。

人生の一等賞がとれたかどうか、最後に評価するのは自分自身だ、と
あの人は実は早くから考えていたのではないでしょうか。
イヤイヤイヤ、今も健在で、まだまだ・・・80まではやります!と仰せですから
イヤイヤイヤイヤ、体力の続く限り100でもやってくださいよ。
ステージで歌を枕に死にたいんでしょ? それもきっと変わってないですよね。
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イッツ 賞タイム! ジュリーと”賞”あれこれ。

2020年03月21日 21時02分03秒 | ジュリー・・・思い出SONGSあれやこれや
若じゅりさんの物語、今回は「賞」のお話です。

歌謡曲、歌番組全盛期だった昭和40年代から平成初期にかけて
最古参で今も健在(かなあ・・・)の「日本レコード大賞」に続けて
あまたの賞番組が乱立した時期がありました。
もう今はほとんど衰退したようで、レコ大だけはなんとか踏ん張っているようですが
その辺のお話は置いといて・・・・

ジュリーはデビュー後数年は賞とは縁のない立ち位置にいました。
というのも、日本の音楽界は1960年代に始まったエレキブームを
当時は「不良の音楽」とレッテルを貼り認めてこなかった経緯があったからです。
エレキが過激な物で青少年に悪影響を与えると蔑んだのですな。今では冗談みたいな話ですが。
多くのグループサウンズのバンドが皆悪者扱いされていたわけで。
長髪=不良と言うわけのわからん公式もできていて。
エレキバンドでも短髪でスーツを着ていたブルーコメッツだけは例外扱いでした。
短髪でスーツは紳士であって不良ではないということだったようで
ブルーコメッツだけは賞番組にもNHKにも出られたのですが
・・・ヘンな時代でしたね、長髪エレキはNHKに出られずどんなに売れても賞をもらえない。

御多分にもれずジュリーのザ・タイガースもあれだけ絶大な支持を得て大ヒット曲を世に送り出し
一大ブームのトップを走り続けていたというのにNHKとレコ大にはシカトされていました。

でも、エレキバンドの文化は生き残り、今じゃ当たり前のスタイルになりましたが
先駆者であるグループサウンズの時代はあっという間に過ぎ去って
僅か3~4年、長くて6~7年程度でほぼほぼすべてのバンドが解散。
ザ・タイガースも1966年11月から1971年1月までの僅か4年そこそこですい星のごとく消えて行ったわけで。
その間ミリオンセラーも生んだものの、結局NHKと賞レースには縁がありませんでした。

それが、ブームが去った頃漸くにして長髪=不良のレッテルは剥がれ
ソロになったジュリーにもフッツーに今更のようにNHKからオファーがあり賞レースにも絡んで・・・。

その最初がソロシングル2曲目(正確には3曲目ですがタイガース時代の1曲はノーカンということで)の
「許されない愛」のヒットにありました。1972年のことです。

思いがけず?レコード大賞の歌唱賞受賞者5人の一人に選ばれ、紅白歌合戦出場も果たした。
ジュリー曰く「寝耳に水、寝た子を起こされたよう」。
だけど認められたことは素直に嬉しいと思ったそうですし
だからこれからも賞をもらえるように頑張ろうと思えたそうです。
よくやった、頑張ったと世間が評価してくれることは、賞を取ることだと考えたのでした。
目に見える形での評価はレコードの売り上げ以外ではそれでしか測れない、と当時は考えていたようです。
・・・今は知らんけど。

その翌年、1973年にはご存知、大ヒット曲、代表曲のひとつ「危険なふたり」で
レコード大賞の大衆賞、そしてその年第4回であった新設の賞番組「日本歌謡大賞」で念願の大賞を受賞。

大賞とった明けの月刊明星にどアップのグラビアと共に
「沢田研二、最良の日」のキャッチが載っていたのを覚えていますよ。
確か有線放送大賞もとったのではなかったかいな??

それ以来は両大賞のほぼ常連になりました。
レコ大の大賞以外の各賞の名目は若干変化があり、
一時は大賞のノミネートというアカデミー賞もどきの形式もありましたが
おおむね歌唱賞をほぼ例年連続受賞、
歌謡大賞では放送音楽賞をゲットし続け・・・。

とはいえ、黒歴史みたいな時期も一時はありまして
1974年は「追憶」でそれぞれの賞を取りましたが

1975年は折角のビッグヒットであった「時の過ぎゆくままに」がレコ大から落ち、
歌謡大賞でかろうじてひっかかった・・・のは、ちょっと事件を起こしてしまったからでしょう。

オフレコみたいな話ですが、その時の大賞受賞者は布施明さんで「シクラメンのかほり」。
当時布施さんは同じ渡辺プロダクション(今のワタナベエンターテインメント)に所属。
裏ではプロダクション側からジュリーに、今年は諦めろ、まだ君には将来の可能性がある、
この次はきっと取らせてやるから今回は我慢しなさいと因果を含められたとかなんとか・・・
ほんまかどうかはわかりませんがそんな話を随分後で小耳にはさみましたよ・・・?
1976年、なんだかんだで謹慎(自分から謹慎するとナベプロに申し出たらしい)して
賞レースからも一切の辞退を申し出たためこの年は受賞なし
そして自分からの立ち直り?というべきか、巻き返し、出直しで
1977年、見事に己に雪辱を晴らしたジュリー史上最大のヒット曲「勝手にしやがれ」で
その頃乱立していたあらゆる大賞を・・・いっこ除いて総ナメ、ほぼ独占受賞!

・・・除いたいっこというのはFNS歌謡音楽祭のグランプリです。ホンマ、これだけです、逃したの。
その後長いこと、ホンマに長いこと恨みつらみをゆうてはりましたからねww
あの時は雨が降ってたとかそれがジンクスに思えるとかトラウマになってる的なこととか・・・おいおい。
この時は歌謡大賞も「史上初(もっとも歌謡大賞はその時でまだ8回目でしたが)」の2個目獲得!
司会の高島忠夫さんが「初めてだ、初の2回目ですよ、ジュリー」とかなんとかのたもうで
ジュリーも「うちにトロフィーあります、これで2個になりました」とかテンパった声で応えてて・・・そらテンパるわな。

1978年は今度は「初のレコ大2連覇」と宣言してすごく精力的に仕事をこなして行きました。
ずっと連覇、連覇と言い続けていたのですが残念ながらトライしていたのは「LOVE (抱きしめたい)」

各賞をいっぱいとることはとったけど大賞は逃し、レコ大も残念ながら取れず。
皮肉なのか何なのか、前年いっこだけとれなかったFNSのグランプリは獲得したけれど
それこそ雪辱を果たしたというよりはイヤミのようでもあり・・・イヤイヤイヤ、とれて良かったと言うべき??
同曲はレコ大で最優秀歌唱賞を取りましたが、その時のジュリーの口惜しそうな顔と言ったら。
なんせ、最優秀歌唱賞をとったらそのあとの大賞受賞はまずないからね。
司会の黒柳徹子さんが「去年と比べて(トロフィーの)重さはどうですか?」などと
意味不明の質問をしたり・・・フォローのつもりでおっしゃったのでしょうが
「大賞は曲に贈られるけど最優秀歌唱賞は歌手に贈られる」と慰め?みたいな話があったり・・・
周囲は明らかに不機嫌を隠さないジュリーを取りなすのにてんやわんや。
大賞より価値がある、などという声もあって、それに対してジュリーは年明けの公演の際に
「重さはどうですかて、軽いに決まっとるやろ、何を聞いてるんですかね?」とか
「大賞よりスゴイ? だったら大賞の後で発表せいや!」とかぼやきを連発・・・。
まあ・・・それだけ入れ込んでたと言うか、ホンマに賞にはこだわり続けていたことでありました。

長くなったので一旦切ります。続きはまた今度・・・・。
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いくつになってもデジモンアドベンチャー②

2020年03月19日 20時46分51秒 | コミック・アニメ
デジモンアドベンチャーといえば有名なラヴェル作曲のクラシック曲「ボレロ」。
1999年春上映の劇場版第1作「デジモンアドベンチャー」で延々BGMとして流れた曲です。
テレビアニメ本編でも中盤の頃にほんの少しですが使われ、
2000年に上映された第2作「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」の冒頭でも流れました。



なんで「ボレロ」なのか?

2本の劇場版の監督を務めた細田守監督によるとこの選曲は細田監督自身のアイデア。

ここでちょっと簡単にデジモン解説(アニメでの設定です)。

デジモンワールドまたはデジタルワールドと呼ばれる世界は
人間の住む世界と重なって別の次元に存在するいわばパラレルワールド。、
本来は決して交わることはないのですが
デジタルワールドを支えていたある神秘的な力のバランスが崩れて
二つの世界が一部で繋がってしまいました。
元々重なり合う世界なのでデジタルワールドに異変が起きると人間界も壊れてしまう。
デジタルワールドの歪みを正し二つの世界を救うために
デジモンとともに戦う運命を持ったのが8人の「選ばれし子どもたち」。
彼らは一人に一匹のパートナーデジモンとコンビを組み
自身の成長とともにデジモンも成長させて二つの世界を救う冒険を繰り広げる。
それがデジモンアドベンチャーの物語。

デジモンも先行のモンスター育成ゲーム「ポケットモンスター」と同じく
デジタルモンスターが進化という名称の成長をします。
ポケモンが一度進化すると元へは戻らないのと違って
デジモンは一度進化してもエネルギー切れで元に戻るし
基本2段階程度までのポケモンと違って3段階も4段階も進化したり
あるいはアーマー進化など別系統の進化、他のデジモンとの合体進化などいろいろな進化の種類がある、
更には最終的に死を迎えることになっても「はじまりのまち」に還って
デジタマという卵に戻って再び赤ちゃんから再スタートすることも。
設定上では必ずしもすべて生まれ変われるわけではないようで
特に「選ばれし子どもたち」のパートナーデジモン以外は
前の生の記憶を持って生まれ変わることはまれとされているようです。
逆に言えば「選ばれし子どもたち」のパートナーであったデジモンは
記憶を持ったまま改めてデジタマから生き直すことができるみたい。

というところで話は戻ってなんで「ボレロ」なのか??

デジモンは進化する。
進化に従って大きくなり強くなっていく。
「ボレロ」という曲は、実は同じメロディーのフレーズを繰り返していて
最初は楽器一台が静かにメロディーを奏でているだけなのですが
2周目、3周目と繰り返すに従って演奏する楽器が増え音に厚みが出て
最終的には非常に重厚な音楽と「進化」していく曲なのです。
だから、細田監督曰く、デジモンには「ボレロ」しかないだろう、と。
てなことを仰っていました、いにしえ。

また、主人公の八神太一は仲間と妹思いの明るい元気な少年で
妹のヒカリは少し変わっていると言うか、妖精の心を持っていると言うか
幼い頃からデジモンや異形のモノを怖れず受け入れられる不思議な力を持っています。
だから突然現れたデジモンを最初から友達のように思い、
「普通」の少年である太一は逆にデジモンを警戒した。
けれど、映画の終盤でそれまでどちらかといえばヒカリが”強い子”的に描かれていたのに
今度は太一がヒカリの思いを理解して彼女がやりたくてできないことを
代わってやってあげる、兄の強さ(主人公らしさ??)を取り戻す。
この兄妹の「逆転」がまたこの映画では必要不可欠のシーンなのだそうです。

このお話は「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」DVDの特典映像の
スペシャルインタビューの中でされています。
DVD見返して初めて知った・・・(見たけど忘れた可能性大)
あかんねんけどさがせばYouTubeで容易に見つかります。。。


テレビアニメ版 無印「デジモンアドベンチャー」第1話が無料公開中なので貼ってみた。
違法アップロードじゃないですよ~。

【公式】デジモンアドベンチャー 第1話「漂流? 冒険の島!」


主題歌を歌っていた和田光司さん、主人公・太一役の藤田淑子さん
そしてヒロイン・空(そら)役の水谷優子さん・・・
それからデジモンヴァージョンの「ボレロ」を作った音楽担当の有澤孝紀さん
(この方は「美少女戦士セーラームーンシリーズも手掛けておられました)
みな、近年若くして亡くなられてしまい惜しい限りです。

んで、まだ続きます・・・今度は無印の続編「デジモンアドベンチャー02」の話でも。

ちなみに、細田守監督は・・・最近では「未来のミライ」など手掛けておられます。

これもどこかデジモンアドベンチャーの名残を感じる作品だなあ・・・と思いました。
兄妹ものだしな。これも逆転があるというべきか。
まあ、個人の感想です。
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いくつになってもデジモンアドベンチャー

2020年03月18日 22時11分55秒 | コミック・アニメ


ある夜、急に思い立って翌日のチケットをウェブで買って観に行きました。
既に観た人の感想にはOPの「butterーfly」で泣いた、と書かれていたけど
OPどころか、冒頭の「ボレロ」でいきなり泣いた。
後でレビューコメント見直したら結構な人が「ボレロ」で泣いてた。
・・・わかります、泣きます、これは・・・。

なんででしょう。

この映画でデジモン初見の人にはこれで泣く理由はサッパリわからないでしょう。
普通に見れば感動のシーンでも何でもない。
マンションの夜の風景のBGMにラヴェルの名曲「ボレロ」が流れて
音楽に合わせて窓の明かりが点滅する。
そしていきなりの大型デジモン、パロットモンとグレイモンのバトルシーン・・・

・・・イヤ、泣くわ!
20年前上映された一番最初の短編映画「デジモンアドベンチャー」を
当時かほぼその時期に見た人なら。

ていうか、そういう人しか観に来てないでしょう、ぶっちゃけ。
観客にはコドモは一人もいませんでした、たまたま・・・かも知らんが。

今回の劇場版「デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION ー絆ー」

懐かしいとか、もちろんそれもあるけど
なんていうかコレ・・・20年前の自分を、
自分だけの”歴史”のヒトコマをそれぞれの人が揺さぶられる思い。

短編映画上映と同時に始まったテレビアニメ
いわゆる”無印”「デジモンアドベンチャー」は
子どもたちと一緒に観ていました、ほぼリアルタイムで。
そして子どもたちと激ハマリしました。


元々はゲームなのですが・・・今もあるけど
ゲームキャラを元にアニメはオリジナルストーリーで作られたもの。
デジモンに先んじて発売されアニメ化もされて
今なお爆発的、圧倒的人気を誇る「ポケットモンスター」、
あれを「卒業した」子どもたちを当時は対象としていたのだそうです。

これまたぶっちゃけデジモンは無印が最強でしょう。

テレビアニメ終了後には劇場版2作目が上映されました。
今も高評価と根強い人気を誇る
「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム」
・・・当時買いましたよDVD、見直しました、数年ぶりに。
登場するパソコンはたぶんWindows98くらいかな、
ISDN、まだアナログ回線の時代。



でも中身は今でも充分面白いです!
ヤマトのセリフ、「島根にパソコンなんかあるわけない」は差別表現ではありませんw
まだパソコンは全然一般的ではなかった。
20年経って、コンピュータ関連、IT文明は著しく目覚ましい発展を遂げたけど、
ヒトというものはさほど変わらないのかな、とも思えます。

というわけで、デジモンアドベンチャーのお話、ちょっと続きます。
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