まちみちふうけい

四角い枠に切り取られた風景は一瞬のもの、そんな一瞬を追い求めてこれからも相棒と走り続ける・・・

No.1222 藤原京廃寺巡り(2)

2019-11-11 10:21:04 | 
おはようございます。








今回は藤原京廃寺巡り、エリアは上の1枚目にある地図の黒枠の部分、ジオラマでは7つの色付きの〇で印をつけましたが、その中には地図の枠の中から外れた寺院もあります、まあその辺りは気にしないで早速行ってみることとしましょう。















まずは小山廃寺、ジオラマでは藤原宮跡のすぐ南にある薄い青色の〇で囲っている所、現地には紀寺跡の看板が立っている。その場所にはまるで廃寺の雰囲気を壊すかのようにたくさんの自転車が止められているが、これはその向かい側にテニスのグラウンドとクラブハウスがあるからで、前にお目当ての万葉歌碑をこのクラブハウスに阻まれて見られなかったことがあった、せっかくの歴史を感じる観光施設も台無しと言ったところです。次に巡ったのは雷丘付近、ジオラマでは黄色い〇印で囲んでいる所、ここは明日香村の入口となる場所で南側には甘樫丘が控えているが、この丘が藤原京の一番南の端となっている。その甘樫丘のすぐそばにあるのがピンク色の〇にある豊浦寺跡、その場所は今は向原寺となっている。この寺院の北側を通る道の向こう側には写真下3枚にある古宮遺跡、案内の看板にはカッコで小墾田宮と記されている、ここを都としたのが聖徳太子の叔母さんである推古天皇なのですが・・・さて、この辺りの話は都巡りを考えているのでまた別の機会でのお送りとしておきましょう。













豊浦寺から西へ少しだけ行った所にあるのが和田廃寺、ジオラマでは紫色の〇で示したがはっきりとその場所は分からない、ジオラマで寺院のあった場所へと行ってみるとそこは田んぼが広がる所、写真では水田にポカリと小さな丘があるがこれがその痕跡なのか古墳なのかは分からない。この辺りは近鉄橿原神宮前からは近いが民家が密集した辺りからは離れた田園風景が広がる所、その畑が広がる所を進んで行って小さな集落の中に入ると町中の小さなお寺の前にたどり着く。法満寺と掲げられた寺院の前には看板が立っていて、そこにはこの寺院の前身がジオラマでは赤色の〇にある田中寺であることが記されている。更にその看板の説明にもある通り、この寺院があった辺りが都であったことも記されているが、これについては先程と同じ、また別の機会でのお送りとしておきましょう。











近鉄橿原神宮前駅から東へ、明日香村へと至るのは県道124号線、地元の人の生活に密着している道路だが明日香村への最短ルートにもなるのでバスや車の通りも多い。その道の沿いに池がありその向こう側には古墳も見えている、この池の付近にあったのがウラン坊廃寺、ジオラマで寺院がある場所も現在では寺院跡の痕跡はなくはっきり特定はできない、目印になるのは池だけと言う感じ。この近くには舒明天皇の都があったから・・・先の田中宮、橿原神宮駅の東側にあったとされる厩坂宮のことだがどちらも飛鳥にあった都が消失したことによる仮の宮だったらしい・・・それに該当していたのかも知れないが、やっぱりよく分からない、名前もよく分からないですもんね、「ウラン」って、当時はどんな字を当てていたんでしょうか?ジオラマではそのウラン坊廃寺から南へ進んだ所、もう藤原京からは範囲が外れた所に緑色の〇で囲んだ軽寺と言う寺院がある。その場所に行ってみると、あ、この辺りは前に万葉歌碑巡りでも来た所だったなあ、その時訪れたのは神社だったがその神社を取り巻くようにあるのが上の写真にある法輪寺。寺院の前には看板があってそこにはこの寺院が軽寺跡だったと記されている、そしてこの寺院もまた都巡りの一環としてお送りすることになると思います。飛鳥、藤原の天皇や都がコロコロと変わっていた時代、今回は都巡りとダブってしまった所が多くちょっとややこしくて仕方ないところでしたが、また勉強し直して何とか形にしてここでお送りしたいと思います、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。           まちみち



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