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まちみちふうけい

間もなく10年目も通過点

No.1229 都の記憶(1)

2019-11-25 09:27:07 | 
おはようございます。










日本の初代天皇は神武天皇、天照大神から数えて6代目となる人物ですがそもそも実在したんでしょうかねえ、まあ始まりを追い求めるとニワトリが先かタマゴが先か?になってしまいキリがないのでそこはスルーしておきましょう。その神武天皇が宮としたのが今の橿原神宮のある所、近鉄橿原神宮前駅には黄色のポストがありその後ろにはここが日本のはじまりと言うパネルが・・・あれ、変わってしまってますねえ。
と言うことで始まりました、都巡り、「都」と言うよりは「宮」、天皇の住まいの事です、天皇は変わる度に宮を変えていたとのことで、今回その宮があった場所を巡ってみることにしました。宮がコロコロと変わっていたのは藤原京ができるまで、と言うことは持統天皇(41代)までなのでそれまでの40人についてと言うことになるのですが、その中には九州や滋賀など行くことができない所や、一人の天皇がいくつも宮を変えていることもあるので、また何回かのシリーズでのお送りとなると思います、それでは早速行ってみることとしましょう。





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って言いながら2代綏靖天皇・・・難しい漢字ですねえ、「suizei」と読みます・・・についてはいきなりスルーです、宮は「葛城高丘宮」で御所市にあるのですが結構山の中で行くことができませんでした。
(3)は3代安寧天皇「片塩浮孔宮」、大和高田市の近鉄南大阪線高田市駅前の神社の一角にそれを示す碑が立っている、片塩、浮孔は大和高田市にある地名だからこの場所はすぐに分かりました。
(4)は4代懿徳天皇・・・読めないねえ、この漢字も、「itoku」と読みます。宮は「軽曲峡宮」、場所は橿原市の白橿町付近で近鉄岡寺駅から少し西に行った所の住宅地の一角、結構分かりにくい場所に碑が立っている。
(5)は5代孝昭天皇、宮は「掖上池心宮」、(5)のゾーン1枚目にある写真は今年の花園出場を決めた御所実、この辺りが宮があった場所に当たるらしい。高校周辺で宮の碑を探したが見つからなかった、もしかしたら校内にあるのかも・・・と思って調べてみると正門の南側の畑にあったらしい、完全に見落としてしまいました。御所実はこれまで3回花園で準優勝、今回こそ優勝を目指して頑張ってほしいところ、ちなみに前回の準優勝はこのブログを始めた翌々日のことでした。
(6)は6代孝安天皇、宮は「室秋津島宮」、ここは前回お送りした巨勢山古墳群と同じ場所にあり、この宮跡がある神社の奥には室宮山古墳が控えている。
(7)は7代孝霊天皇、宮は「黒田廬戸宮」、ここまでは橿原や御所と奈良盆地の南側に当たる地域にあったが、この宮は中央部に当たる田原本町にある。場所は近鉄黒田駅の近く、駅前には太子道が通っているが聖徳太子がこの道を利用するようになるのはまだまだもっと後の事。
(8)は8代孝元天皇、宮は「軽境原宮」、近鉄岡寺駅前の踏切の前には写真にあるような碑が立っている。4代天皇の宮にも「軽」の文字があったしここから東に行った所には軽寺・・・今後このシリーズでも取り上げることになる寺院跡・・・もあるので「軽」の文字に由縁がある所でしょうか。ところで先代の恒例天皇から続く系譜でこの孝元天皇の兄妹に当たる人物の中に「倭迹迹日百襲姫命」の名がある、この人物の墓は桜井市にある箸墓古墳、と言うことはこの女性はもしかしたら卑弥呼?の可能性も。ただここまでの天皇については100年以上、中には130年以上生存していた人もいるとかでイマイチ実在性に乏しい、卑弥呼の実在性、邪馬台国の存在もまだまだロマンの霧の中と言った感じです。






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(9)は9代開化天皇、宮は「春日率川宮」、「春日」とあるから奈良市界隈か、奈良市の中心部を通るやすらぎの道沿いに率川神社と言う名の神社があってそこが宮跡とされている。と言うことで行ってみたのですが境内には宮の跡を示すものはなし、看板にはこの神社の始まりが593年、推古天皇の時代とあるから天皇の宮がこの場所にあったと言うことだけであまり関連はないのかも。
(10)は10代崇神天皇、宮は「磯城瑞籬宮」、場所は山の辺の道の終点となる桜井市の海柘榴市の近く。
(11)(12)はそれぞれ11代垂仁天皇、12代景行天皇の宮に当たる場所にある碑。垂仁天皇は「纒向珠城宮」、景行天皇は「纒向日代宮」、両方とも桜井市の国道169号線、相撲神社バス停から東へと緩やかな上り坂を進んで行った所にあってそれほど距離が離れていない。前回御所の古墳巡りで訪れた古墳の中に日本武尊の墓があったが、その日本武尊の父が景行天皇に当たる、ここまでの歴代天皇は世襲で受け継がれているが日本武尊は皇位には着いていない、東国平定の旅の途中で亡くなってしまったからだとあります。天皇はその後「志賀高穴穂宮」に滞在しそこで亡くなってしまい、その宮は子の13代成務天皇に継がれることになる。と言うことで次代の志賀高穴穂宮については未訪、更に14代仲哀天皇については宮が山口、福岡・・・熊襲討伐のための滞在で宮となっているらしい・・・、とても行ける場所ではないのでスルーとして、次回は15代天皇の宮からお送りしていきたいと思います、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。           まちみち









No.1222 藤原京廃寺巡り(2)

2019-11-11 10:21:04 | 
おはようございます。








今回は藤原京廃寺巡り、エリアは上の1枚目にある地図の黒枠の部分、ジオラマでは7つの色付きの〇で印をつけましたが、その中には地図の枠の中から外れた寺院もあります、まあその辺りは気にしないで早速行ってみることとしましょう。















まずは小山廃寺、ジオラマでは藤原宮跡のすぐ南にある薄い青色の〇で囲っている所、現地には紀寺跡の看板が立っている。その場所にはまるで廃寺の雰囲気を壊すかのようにたくさんの自転車が止められているが、これはその向かい側にテニスのグラウンドとクラブハウスがあるからで、前にお目当ての万葉歌碑をこのクラブハウスに阻まれて見られなかったことがあった、せっかくの歴史を感じる観光施設も台無しと言ったところです。次に巡ったのは雷丘付近、ジオラマでは黄色い〇印で囲んでいる所、ここは明日香村の入口となる場所で南側には甘樫丘が控えているが、この丘が藤原京の一番南の端となっている。その甘樫丘のすぐそばにあるのがピンク色の〇にある豊浦寺跡、その場所は今は向原寺となっている。この寺院の北側を通る道の向こう側には写真下3枚にある古宮遺跡、案内の看板にはカッコで小墾田宮と記されている、ここを都としたのが聖徳太子の叔母さんである推古天皇なのですが・・・さて、この辺りの話は都巡りを考えているのでまた別の機会でのお送りとしておきましょう。













豊浦寺から西へ少しだけ行った所にあるのが和田廃寺、ジオラマでは紫色の〇で示したがはっきりとその場所は分からない、ジオラマで寺院のあった場所へと行ってみるとそこは田んぼが広がる所、写真では水田にポカリと小さな丘があるがこれがその痕跡なのか古墳なのかは分からない。この辺りは近鉄橿原神宮前からは近いが民家が密集した辺りからは離れた田園風景が広がる所、その畑が広がる所を進んで行って小さな集落の中に入ると町中の小さなお寺の前にたどり着く。法満寺と掲げられた寺院の前には看板が立っていて、そこにはこの寺院の前身がジオラマでは赤色の〇にある田中寺であることが記されている。更にその看板の説明にもある通り、この寺院があった辺りが都であったことも記されているが、これについては先程と同じ、また別の機会でのお送りとしておきましょう。











近鉄橿原神宮前駅から東へ、明日香村へと至るのは県道124号線、地元の人の生活に密着している道路だが明日香村への最短ルートにもなるのでバスや車の通りも多い。その道の沿いに池がありその向こう側には古墳も見えている、この池の付近にあったのがウラン坊廃寺、ジオラマで寺院がある場所も現在では寺院跡の痕跡はなくはっきり特定はできない、目印になるのは池だけと言う感じ。この近くには舒明天皇の都があったから・・・先の田中宮、橿原神宮駅の東側にあったとされる厩坂宮のことだがどちらも飛鳥にあった都が消失したことによる仮の宮だったらしい・・・それに該当していたのかも知れないが、やっぱりよく分からない、名前もよく分からないですもんね、「ウラン」って、当時はどんな字を当てていたんでしょうか?ジオラマではそのウラン坊廃寺から南へ進んだ所、もう藤原京からは範囲が外れた所に緑色の〇で囲んだ軽寺と言う寺院がある。その場所に行ってみると、あ、この辺りは前に万葉歌碑巡りでも来た所だったなあ、その時訪れたのは神社だったがその神社を取り巻くようにあるのが上の写真にある法輪寺。寺院の前には看板があってそこにはこの寺院が軽寺跡だったと記されている、そしてこの寺院もまた都巡りの一環としてお送りすることになると思います。飛鳥、藤原の天皇や都がコロコロと変わっていた時代、今回は都巡りとダブってしまった所が多くちょっとややこしくて仕方ないところでしたが、また勉強し直して何とか形にしてここでお送りしたいと思います、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。           まちみち



No.1205 藤原京廃寺巡り(1)

2019-10-09 11:00:44 | 
おはようございます。









今回から3回に渡ってになりますが、藤原京廃寺巡りをお送りしていきたいと思います。まず写真1枚目、前に訪れた藤原京資料室にある藤原京のジオラマ、それまでは天皇が変わる毎に都の場所が移されていたのですが、持統天皇の頃になってここに一大都城を築いたと言うことで、日本で最初の条坊制の都城となりました。ただしその期間は短命でこの地で都が機能したのはほんの数年で、その後都は奈良平城京へと移されてしまいました、でもジオラマを見る限りその広さを実際の地に置き換えるとかなり巨大な都だったと言うのは分かります。写真2枚目にはその都にあった寺院の一覧、それを基にして廃寺巡りをしたのですがこれも平城京廃寺巡り同様、まあ薄く軽くでほとんどはあ~それだけか、と言う感じでの巡りとなっています。それに関してはご了承くださいと言うことで、早速行ってみることとしましょう、まず第1回目に巡ったのは一番下の地図の紫の枠で囲んだエリア、真ん中の写真では今回巡った寺院を色付きの〇で囲んでいます。









都の一番東北部に当たる部分は桜井市に当たり、その地にあったのが大福廃寺、ジオラマでは道が確認できない所なので耳成山からほぼ真東、東側の山を越えているクネクネした道・・・この道が桜井と明日香を結ぶ道で地図では山田道と記されている・・・を頼りに場所を探し当てた所にあったのが写真1枚目、2枚目にある三十八柱神社。この神社は以前万葉歌碑巡りで訪れたことがありました、はっきりした場所が特定できないのでここじゃないかな~と言う感じでたどり着いたのですが、実はこの神社、かなり重要なキーポイントになりそう、そのヒントは写真2枚目にある神社の説明が記された看板にありました。この神社の近くを通っているのが橘街道、何かこの街道名最近よく出てきますが、この道を南へと進むと天香久山へと差し掛かる。その手前にあったのがジオラマでは緑色の〇で記している膳夫寺、その名の通り膳夫町・・・zennhu町と読むのかな?・・・にある小学校の裏のひっそりとした場所にありました。読みは「kashiwate」寺、はあ~、難読だわ、これじゃ~検索も一苦労やな~と言うことで下4枚の写真がその膳夫寺、今も実在しています。「膳夫」と言うのは聖徳太子妃膳夫姫から来ているとか、このお姫様には聖徳太子の優しさを示すエピソードがあるとのことですが、そのお話についてはまた別の機会でのお伝えとしておきましょう。

















明日香村エリアへと入って天香久山のすぐそばの所にあるのがジオラマでは黄色の〇で囲った所にあるのが日向寺、聖徳太子建立の寺院だと言うことだが集落の中に溶け込むようにある寺院は、周囲の風景に紛れてただの民家のように見える。この辺りは狭い道が香久山に寄り添うようにクネクネと通っていて、この寺院の近くには天岩戸神社と言う、ちょっと奈良にはそぐわない感じの名の神社もある・・・と思ったが、この辺りには「天香久山」「天岩戸神社」「日向寺」と太陽に関した名の名所があるのも確かなこと、この辺りにも太陽の信仰があったのだろうか。日向寺から真っ直ぐ南へ、集落を抜けると展望が開けて田園風景が広がり、向こう側に明日香村の風景を見るようして先へと進んで行くと大官大寺跡へとたどり着く。今は何もない原っぱだがはるか1300年以上前には写真下3枚目にある立派な七重塔があったとは、古代のロマンに思いを馳せたくなる光景だったわけだがその寺院も平城京移転でその流れは大安寺・・・うちのめっさ近くにある寺院・・・に引き継がれその後は消失してしまった。








写真3枚目のジオラマにある寺院が奥山久米寺、その手前に見えている七重塔があるのが上のゾーンで取り上げた大官大寺だから、こう見ると目と鼻の先にあるように見えるが、今は原っぱの中の畦道を右へ左へとクネクネと進んで行かなければならない。そのジオラマでは立派な五重塔が見られるが、現在は上の写真にあるように古い町中にある普通の小じんまりとした寺院、五重塔が石の塔に変わってしまったと言ったところか。そんなわけでお送りしてきました藤原京廃寺巡り、廃寺と言っても今も形の残っている寺院もいくつかありました。今回の後半では明日香村エリアに入りましたが藤原京と言うとどうしても橿原市のイメージが強い、次回はその橿原市の南端に点在する寺院、廃寺を巡ってみようと思います、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。           まちみち


No.1189 誘う都

2019-09-04 08:22:36 | 
おはようございます。












とある休日の午前、今にも雨が降って来そうな空の下、とりあえず南の方へと相棒君を進めて行く。JR万葉まほろば線沿いを走っていると2両編成の新しい電車が走り抜けて行った、確か春に和歌山線に先行投入されたとのことだったがいよいよ万葉まほろば線にもお目見えとなりました、ただこうなると今まで主力として走っていた105系、いかにも古ぼけた感じでトロトロと奈良の都を駆け抜けていた車両もそろそろお役御免が近づいていると言ったところそれはそれでちょっと淋しい話です。桜井市に入ってやって来たのが香久山駅、以前は趣のある木造駅舎だったのが今では写真4枚目にあるようにこれが何とも寂しい姿になってしまった、別に壊さなくても良かったのに・・・って思うんですがいろいろな事情があったんでしょうねえ、でももったいないなあ。ホームは1本だけで電車は上下とも1時間に1本、北側を走る近鉄がビュンビュンと走っているのと比べると劣勢ははもう目に見えて明らか、駅名の由来になっている天香久山はと言えば・・・真正面に見えるはずが手前の畑のビニールハウスが遮ってしまって見えない、何もかもが不憫だ・・・







JR香久山駅の前を東西に通っているのが横大路、大阪堺からは竹内街道として大和に入り、桜井から先は初瀬街道、その後は伊勢街道となって伊勢神宮まで通じている古くからの参宮道です。ここを西へと走って行くと中ツ道との交差点、左へと曲がって線路を越えると間もなく藤原宮跡があった所へ、そこから都の中を貫く道を進んで行くと藤原京資料室へとたどり着く。今まではスルーしていた所だが、今回はこれからの勉強のこともあってと思い中へ入ってみることに、階段を上って2回へと行くと壁に万葉集に綴られた歌が掲げられていて、その先の部屋の中には大きな藤原京のモニュメント、平城京の方も廃寺巡りがひと段落したことだし、そろそろ藤原京に手を出して見ようかなとも思っていたので、このモニュメントを活用していろいろと勉強していくこととしよう。

























藤原宮跡の風景をズラリと並べてみました、まあ何もないただの原っぱと言う感じの所ですが、ここに宮殿が建てられ日本の政治の中枢となったのは確かなこと、持統天皇により694年に造営されたとのことです。それまでは天皇が変わる毎に都・・・政治の中枢となる天皇の邸宅がある所・・・は移されていたが、ここに唐に倣っての都城制の都が造られたことによってその流れも終わってしまうことになる。以降は平城京から平安京へと大きな都城による政治が行われて行くことになるので、藤原京はその礎を築いたことになる、とは言ってもここに都があった時期はほんの数年、都が奈良に移された後は一気に衰退したとのこと。大和三山に囲まれた広い原っぱは今は市民の憩いの場、春は菜の花、夏はハス、秋はコスモスと言った感じで、季節によって変わる花の見頃になるとそれを見にたくさんの人が訪れます。さて、先述した通り、このちょっと謎を秘めた藤原京、歴史的には平城京よりも古いわけだから奥が深い感じがします、一体どんな所だったんでしょう?また自分なりに軽く薄く短く小さくではありますが、いろいろと勉強してみようと思います、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。            まちみち









No.1177 平城京廃寺巡り(4)・・・左京北部、外京編

2019-08-16 07:47:55 | 
おはようございます。





平城京廃寺巡りは大安寺付近から右回りに右京を経由して、今回最終回を迎えることとなります、お送りしていくのは下の地図で色のついた枠の場所↓↓↓



まずは赤枠の部分を巡って行くこととしましょう。














写真1枚目のジオラマでは下半分が緑に囲われていて大きな古墳が並んでいます、この辺りが左記古墳群となりその上部が平城京の最北部となっています。そのすぐの場所に色のついた〇印が3つ並んでいるが、この3つの丸を含んだエリアが藤原不比等の邸宅があった所となっている、その中の一番大きな赤丸が現在では法華寺であり、ピンク色の丸の阿弥陀浄土院と緑色の丸の海龍王寺・・・写真では上から4枚目~6枚目にある寺院・・・が法華寺を囲むようにして建っていた。これらの寺院のすぐ横には平城宮があり、法華寺からさほど離れていない所に長屋王邸や藤原仲麻呂邸があったことから、都の重鎮の邸宅は平城宮の近くに集まっていたのだと思われる。その法華寺から東へと伸びる道が一条南大路、少しだけ進むと東三坊大路との交わる・・・現在では一条通りと国道24号線の交差点で一条高校がある所・・・ジオラマでは分かりにくいが茶色の丸が記している場所にあったのが阿シュク寺。その跡を示すかのように国道24号線の歩道には写真下から5枚目~4枚目にあるように、日本初の図書館であった芸亭伝承地の碑が立っている。国道は上り坂になって平城山へと差し掛かって行って、JR線の跨線橋を渡ると山の中に入って行って写真下3枚にある不退寺へとたどり着く、ジオラマではこれもかなり分かりにくいけどグレーの丸が記している所。都の中枢からはさほど離れた所ではないが、寺院は山の中にあって都心の喧騒など忘れそうなくらいな静けさが漂っている。


















ジオラマでは手前側が東、4つの丸が並んでいるエリアはこの間お伝えした外京に当たる、つまりこの部分が今の奈良の一番の中心部と言うことになる。手前の山の部分には2つの白い矢印が左右に向いているが、左向きにあるのがその先にある新薬師寺を示している、一方の右側に向いている矢印の先には写真ではほとんど切れて見えなくなっているが東大寺がある。ジオラマの写真では丸が3つ並んでいて一番左の青丸の上に朱色の丸が重なるようにあるが、その場所が写真2枚目、3枚目にある通りと町並、この朱色の丸の辺りには佐伯院、葛木寺と2つの寺院が並んであるとのことだったが今では写真にあるようにその痕跡は全く見られない。3つ並んだ丸の一番左側の青丸が紀寺跡、紀寺は町名、交差点名でここでよく取り上げたことがありますが、元は藤原京にあった紀氏の氏寺が平城京遷都の際にここに移転されたもの。今はこの地域が紀寺町となっているが、その町並の一角にひっそりとある璉珹寺が紀寺を前身とした寺院とされている。
この辺りは今で言うならまち界隈の一番南側に当たる所←「言うなら」ではなくて「言う」「ならまち」で切って読んでね。市内循環のバス通りの横断歩道を渡るとならまち界隈へと入って行くが、このジオラマではそのエリアは3つの丸の真ん中の茶色の丸の部分=元興寺に当たる、今はならまちの中にある小さな寺院だが訪れる人は多い。隣の紫色の丸に当たるのが興福寺、五重塔と猿沢の池でお馴染み、観光客がたくさん押し寄せる大きな寺院だが、ジオラマを見る限りではその大寺院よりも元興寺の方が広く大きな寺院だとうかがえる。元は蘇我氏が飛鳥に建立した法興寺=飛鳥寺が平城京遷都の際に移転された寺院、その寺院についてはここでも何度か取り上げたことがありますが、奈良時代以降東大寺、興福寺が隆盛していくのに対して元興寺は衰退していくばかり、一時はかなりの荒れ果てようだったとか、その辺りは藤原氏の氏寺である興福寺との因縁も感じてしまいそう。でもその隆盛、衰退の経路は1000年以上の時を経て、現代にならまちとしてたくさんの観光客をひきつける場所としてよみがえった、表面的な部分で訪れられる興福寺に対して、本質的な部分で訪れられる元興寺とでも言ったところでしょうか。さて、平城京についてはこれまで道や廃寺を巡ってお送りしてきましたがまだまだ奥が深い所があると思います、これからもいろいろとテーマを見つけて巡って行きたいと考えております、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。            まちみち