goo blog サービス終了のお知らせ 

まちみちふうけい

間もなく10年目も通過点

No.1315 都の記憶(5)・・・推古天皇の時代

2020-04-26 18:44:56 | 
よろしくお願いします。


















この前の『ブラタモリ』では2週に渡って奈良の特集をやってました、前に奈良に来たのが初期の桑子アナの時、近江さん、林田さんの時は来てくれないで新しい人に変わっての1回目が法隆寺、聖徳太子がクローズアップされた回でした。最近は実在性が疑われるほどに謎多き人物ですが、ここでも何度も取り上げさせてもらっている辺りは、やはり奈良にとっては重要な人物だったと言うことでしょう。前回の都巡りでは聖徳太子が通った太子道を取り上げましたが、今回もまず聖徳太子に関する場所から、と言うことで写真1枚目~3枚目にあるのは桜井市にある春日神社、その境内にあるのがこの万葉歌碑↓↓↓

「家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ」(聖徳太子・巻3-415)

この歌については前にもここで取り上げたことがありました、旅先で倒れた旅人を見て詠んだ歌だと言うことで『日本書紀』『拾遺和歌集』にもよく似た歌があるとのこと、いずれも行き倒れた旅人を哀れむ歌ですがそのミステリーなエピソードが聖徳太子を聖人と評されることにつながって行きます。
写真下5枚目にあるのは明日香村、飛鳥寺の外れた所にある蘇我氏の首塚、『ブラタモリ』明日香編では蘇我氏について触れられていました。蘇我氏と言うと豪族、何かその言葉の響きからちょっときつそうなイメージを抱いてしまいそうですが、実際にこの時代に君臨した人物として政治に踏み込んで来ては実権を我が物にしようとした辺りは、確かにきつそうな存在だったようです。この辺りについてはまたいずれ明日香村を訪れて・・・『ブラタモリ』の内容があまりにも興味深かったので・・・、いろいろと自分なりに調べてみようと思います、まあ素人の物好きいっちょかみ程度の話になると思うのですが・・・。








蘇我氏と言うとまず思い出し名前が蘇我馬子、こないだの古墳巡り桜井市編では崇峻天皇の暗殺に触れましたがその首謀者が蘇我馬子、それ以前にも天皇後継問題で皇子や他の豪族を滅ぼし、このクーデター後に推古天皇を推すことになります。日本で初めての女性天皇、まあ現在となるとが絶対阻止の動きをする感じだが、女性呪術師が実権を握っていた時代もあったからすんなりと受け入れられたのかも。推古天皇が即位したのが39歳の時、と言うから今で言えば広末涼子、田中麗奈辺りの年齢の女性が皇位についたと言うことになるのかな、その女帝をサポートするかのように甥である聖徳太子が摂政として政治に携わるようになり、冠位十二階、十七条憲法の制定、遣隋使などの政治の整備が行われます。元々は推古天皇の皇子への繋ぎのための天皇即位だったと言うことだったが、皇子が6歳で亡くなったために甥を皇太子として重用したことになる、それが現在の政治の礎になるわけだから、人間の思惑と運命が錯綜したものの結果オーライと言う簡単な言葉では終わらせられない。ちなみに上にある写真1枚目~3枚目にあるのが推古天皇を祀っている樋口神社、橿原市の耳成山の近くにあり推古天皇の耳梨行宮・・・行宮とは本宮が事情によって機能できない時の一時的な都となった場所、wikiには現在の皇居が行宮に当たるとも・・・の伝承地とされている所。4枚目、5枚目にも推古天皇社とあるがその場所が奈良市の大安寺の真横、天皇にさほど所縁のある場所ではないはずなのだが、境内には特に説明の看板もない、何でこの場所に推古天皇・・・?


















推古天皇の都があったのが豊浦宮、写真1枚目~6枚目にある向原寺が豊浦寺跡とされていて、推古天皇はこの場で即位したとのこと。政治を行った小墾田宮はこの寺院から北に少しだけ行った所、上の写真では7枚目以降にある場所にあったとされています。ところがちょっと分からんのやな~、下5枚の写真にあるのも小墾田宮跡、その場所は桜井市の天香久山の北側にある三十八柱神社でさっきの場所からはかなり離れている。境内にある説明の看板には推古天皇、聖徳太子の名が記されているから、ここが小墾田宮だったと言うこともできそうだがイマイチよく分からない。話は逸れますが「小墾田」と言って思い出すのがドラマ『鹿男あをによし』、児玉清が演じた教頭先生の名前が小治田だった。主要な登場人物には都にちなんだ名前が付けられていたが、当時は「oharida」と言うのが都の名だとは知らなかった。児玉清が珍しく悪役でコミカルなキャラクターを演じていたのが印象に残ったドラマだっただけに、早く亡くなられたのが惜しまれてなりません、「それではラストコール!!」、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。             まちみち









No.1310 平城京を流れていた川・・・菩提川

2020-04-17 10:04:43 | 
よろしくお願いします。








上の2枚は県立図書館前にある平城京条坊図の看板、上空からの写真に条坊の区割りが記されています、まあ実際に見ると結構分かりにくいんですけどね。その地図に目立つように記されているのが平城京を流れていた川の図、佐保川、秋篠川は今は水路の経路は変わっているものの当時からあったようです。その川の中で気になったのが旧菩提川、この川自体は奈良市内の住宅地の中を流れているのですが、地図を見るとその経路が奈良の中心部を貫いていますが現在はその図に当たる川は見ることができません・・・となると辿ってみたくなるのが僕の悪い癖、そんなわけで今回はその菩提川をなぞって行ってみることとしましょう。










まずは写真1枚目にある猿沢池、菩提川はこの池より東側にある奈良公園の方から流れてきてこの池の横を沿って町中へと差し掛かって行く。写真2枚目には橋の欄干みたいなのがあるが川は見えないのでこの辺りは暗渠になっているみたい、ちょうどその経路に当たるのがその写真の奥に写っている自転車が通っている所、この道を進んで行ってみよう。この細い道はすぐに餅飯殿商店街のアーケード通りを交差して、くねくねと進んで次に中ツ道・・・東向通から南へと至って来た道・・・を通り過ぎて写真一番下にある場所へとたどり着く。その場所には「率川橋」とあるから、ここに川が流れていて橋があったと思われる、多分今進んできた道の下に水路があるのだろう。ここを過ぎるとやすらぎの道、横断歩道を渡った所には率川神社がある、川は多分その横を暗渠となって流れているはず。
















三条通の南側の住宅地の入り組んだ所に自転車で行くのが精一杯という感じの細い道がある、多分これが川っぽいな~と思いながらそのクネクネ道を進んで行く。途中には公園があるがこれも何か川の跡っぽい、と思ったらその先に橋の欄干、更にフェンスに囲まれた場所も暗渠っぽい。ここは川を追えないので道を迂回して県道754号線のバス通りの横断歩道を渡る、その先にあるのが菩提川公園、更にJR線の高架をくぐって大宮方面へ。昔は国鉄奈良駅の車庫があった場所も高架化で再開発されて、この辺りも新興の住宅地と整備されたが、その中にある遊歩道には川の跡がうかがえる。



















猿沢池を出た所で姿を消してしまった菩提川はバスが通る道を過ぎた所でやっと姿を現してくれる、ここまでずっと暗渠として暗躍していたわけだ、ここからは存分にその存在を示してくれればいい。写真4枚目~6枚目にある道は平城京では東三坊大路に当たる道、ほんの少しだけ川はこの道を沿って、JR大和路線の踏切の手前でカーブしてJR線と並行して流れて行く。この辺りの風景はこの前走った時に撮ったものだが、川辺にはたくさんの菜の花が咲いていてなかなかいい雰囲気、ここまで隠れた存在だった菩提川もやっといい見所を与えてもらったかのよう・・・なのですが、その水路も間もなく佐保川へと注がれていく、ここが最初で最後の見せ場と言った感じでした。平城京を流れていた川については、興味を持ってしまったからには今後も追って行ってみようと思っています、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。          まちみち


No.1302 都の記憶(4)・・・聖徳太子の時代

2020-04-06 10:06:15 | 
よろしくお願いします。










今回の始まりは少し前にここでも取り上げた巨大な中井貴一、青空を黒い雲が覆ってきて何やら怪しい雰囲気を漂わせていますが、この中井貴一、もとい、聖徳太子が向いている方角がどうも中途半端なんだよなあ。東西南北を十字にスッキリとした方向や米印に八方だったらいいのだが、イマイチそうじゃない方角を向いている、と言うことでそれがどこを見ているかと言うと・・・↓↓↓












聖徳太子所縁の地である斑鳩の方を向いていると言うことです、まあ一番最初にこの像を見た時に不自然な方向だな~、と思ったがその不自然さが斑鳩の方だと言うのはすぐに分かった。写真1枚目~6枚目までは法隆寺の風景、聖徳太子が政務を行った斑鳩宮があった所です、そう言えば次回の『ブラタモリ』は法隆寺がテーマと言うことで、久々に奈良に来てくれるんですね、興味津々で見ることとしましょう。法隆寺に隣接してあるのが中宮寺、聖徳太子の母親の寺院として知られている所ですが・・・自分(一人称)は知らなかった、と言うかこれまで気にしてなかったのですが、実は実際の中宮寺はこの場所よりも東に行った所にあったとのこと、それが写真下4枚にある風景です。








最近は聖徳太子についてその実在性を何やかんやと言われているとのこと、「聖徳太子」と言う名も疑われているみたいです。そもそもは厩の前で生まれたから厩戸皇子と呼ばれていたとか、その名前については歴史の教科書でも出てくるのでよく知られています。では「聖徳太子」とは・・・となるとこの名前は厩戸皇子の死後に出てくるとのことで、生前はこの名前で呼ばれたことはなかったようです。まあ「聖徳」と言うのが名前と言うよりは位を表しているかのような感じですからね、生きてる間にそう呼ばれたら何か痒くなってきそうな気も、でもその働きはまさに聖徳のごとし、推古天皇、蘇我馬子と共に三位一体となっての政治を行っていきます。

今回は聖徳太子に所縁のある地と言うことで、太子道を巡って明日香まで行ってみようと思います。走ったのは正月が明けての4日、まだ休みの期間でとりあえずあてもなく法隆寺まで走ったのですが、一連の都巡りも中途半端な所で止まっていたのでこの機だと思って行ってみることとしました。法隆寺前から走り始めてまず立ち寄ったのは上の写真にある上之宮遺跡、写真4枚目にあるのは聖徳太子でしょうか、ここから南へ少しだけ行った所に森があり、フェンスで囲まれた中には太子道と彫られた碑が立っている。ここは今は廃寺になっているが、元は聖徳太子が晩年を過ごしたとされる飽波葦垣宮があったとされる所、だそうです、とちょっとあまりはっきりしない文で締めてしまっているのは・・・。
















写真1枚目~5枚目にあるのが安堵町にある飽波神社、太子道はさっき紹介した宮都があった所から東へ田園風景の中を突っ切って安堵町へと入る、町の中心部を通る道を交差して細い道へと入るとこの神社にたどり着く。宮都の名を冠した神社名からして聖徳太子に関わる所だと言うことがうかがえる、ここが宮だったと言う説もあったようです。境内の森の中にあるのは太子腰掛の石、説明板にはここで政治について思案をしていたのだろうと書かれているが、案外いっしょに政務に取り組んでいる伯母さん、おじさんのことを鬱陶しい奴やな~、と思いながら憂鬱な気分で斑鳩へ向かおうとしていたかも・・・って聖人君子の皇子はそんな事思うわけないか。さて、その伯母さんである推古天皇、おじさんである蘇我馬子とのタッグで行っていた政治とはどんなものだったのでしょうか、次回はその辺りを都を巡りながらうかがってみようと思います・・・って言っても堅苦しくなく一般市民的視線でお送りするつもりです、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。          まちみち




No.1283 都の記憶(3)

2020-03-02 11:07:14 | 
よろしくお願いします。














歴代天皇の都巡り、前回のお送りが1月の始め頃で長く間が空いてしまいましたが忘れていたわけじゃないですよ・・・ついでに更新も長く空いてしまいました、ちょっと体調がすぐれなかったものなので・・・、今回は26代継体天皇から始めて行くこととしましょう。まずは写真1枚目~5枚目、樟葉宮は京都府と大阪府の境界線の場所にありました、樟葉と言うと新興住宅地のイメージがあり、この宮も住宅地のど真ん中にあり結構探すのに苦労しました。継体天皇はその後都を現在の京田辺にあった筒城宮、更に長岡京の弟国宮・・・この間お送りした乙訓寺の辺り・・・と移して、晩年は奈良県桜井市の磐余玉穂宮へと移って来ます。その場所についてはどうもはっきりしなくてとりあえずここじゃないかな、と言う場所を写真に撮っておきました。





















27代安閑天皇は写真1枚目、2枚目にある勾金橋宮、場所は橿原市の北西部、横大路が通る辺りでJR万葉まほろば線の金橋駅が最寄りとなっている。
28代宣化天皇は檜隈廬入野宮、写真3枚目~5枚目にあった都は今の明日香村の中心部からは少し離れた所にあるのですが、近年はこの近くにあるキトラ古墳が観光施設として整備され、この場所にも観光客がやって来るようになりました。
29代欽明天皇は磯城島金刺宮、場所は桜井市の中心部から外れた所、そばを中和幹線の高架が通る大和川沿いにあり、山の辺の道の終点にあった海石榴市跡もこの場所から近い。
30代敏達天皇は百済大井宮・・・この場所についてはいろいろと候補になる地があり、その中には広陵町の百済寺付近との説もある・・・から上の写真の真ん中辺りにある訳語田幸玉宮へと移った。場所は桜井市の中心部に近い所、国道に沿う所にある神社の側にはここに都があった説明が書かれた看板が立っている。
31代用明天皇は磐余池辺雙槻宮、先述の磐余玉穂宮と同じ感じの場所と言うだけではっきりはしないんですよね~、付近を走っていると池尻、池ノ内と言う地名がありその地域には磐余池があったともされていたので、この場所が宮であったのだろう・・・。
32代崇峻天皇は倉梯柴垣宮、桜井市の中心部から南へ小高い所を上って行った所にある、西の方向に真正面に二上山が、ちょっとだらしなくも美しい姿を見せてくれています。













33代推古天皇については別枠で取り上げることとして、続いて34代舒明天皇は飛鳥岡本宮、田中宮、厩坂宮、百済宮と都を移していきます。百済宮については当の百済寺やその付近にここに都があったという説明を為されたものが何もないので、やっぱりはっきりしない状態です。
この後35代皇極天皇、36代孝徳天皇・・・と続いて行くわけですが、ちょうどこの辺りが大化の改新の時期に当たり、都も明日香村を中心とした場所へと置かれることとなります。そして40代天武天皇が造営工事を始めて41代持統天皇の時代に藤原京が完成、条坊制を備えた都が出来上がりそれが後の平城京、平安京へと受け継がれて行くこととなります。最後はちょっと駆足になりましたが都巡りはとりあえず今回で終了です、ただし都の存在についてはまだまだ奥が深い部分もあるので、また機会があれば探りに行ってみようと思っています、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。          まちみち



No.1279 お地蔵様で平城京巡り(2)・・・佐保佐紀路

2020-02-21 11:22:37 | 
よろしくお願いします。
















今回はお地蔵様で平城京巡りの第2回目、佐保佐紀周辺と都からはちょっとだけ外れた場所を巡りました。これまでもネタに困ったらここに行け、と言う感じで花や廃寺や古墳などをお送りしてきました、もちろんお地蔵様ともいろんなところで出会うことができました、早速行ってみることとしましょう。
写真1枚目、近鉄新大宮駅前にあるお地蔵様から巡り始めて北に向かって一条大路へ、バスが通る道を左に折れて一条高校前を通り過ぎると法華寺界隈へと入って行く。法華寺、海龍王寺を中心にして民家がひしめくようにして軒を連ねている地域、集落の中の狭い道を進んで行くと写真下3枚にある延命地蔵のお堂へとたどり着く。お堂の真ん中には大きなお地蔵様、その周りを小さなお地蔵様が取り巻くように集まって、まるで大きなお地蔵様を守っているかのよう。「延命」とあるから長寿を願うためのお地蔵様と言うのが分かる、やはり人は長く生きたいと願うもの、今日もたくさんの人が長生きを願ってお地蔵様へと訪れたのだろう。














奈良県あるあるの本で紹介されていたのが「奈良にはお地蔵様が道の真ん中にあって車の邪魔をしている」と言うもの、でもこれまで巡ってきたお地蔵様にはそう言うのはほとんど見かけなかったなあ~。しかしあるんですよ、しかも平城宮跡に近い所に2ヶ所も、確かかなり前にここで取り上げたことがあった所です。まずは近鉄西大寺駅に近い所にある二条町交差点、T字になった交差点・・・十字で北にも道が伸びているがそちらには車が入って行かない・・・のど真ん中に地蔵堂が建っている。写真を見ても分かるようにここは道が狭いうえに西大寺へと通じる道とのことで車の行き来が多い、運転手さんにしてみればちょっと忌々しいお地蔵様に見えるかも知れない。
ここから平城宮跡前を経て大極殿前の交差点を左へと曲がる、みやと通りから続くこの道は歌姫街道、ここをほぼ何も考えずに真っ直ぐ進むと自転車道に入り最終的には嵐山まで行くことができる道です。緩やかな上り坂を進んで行くと道のど真ん中にお地蔵様のお堂が現れる。なぜこんな場所にお地蔵様が・・・と思ってしまうが信心の対象になるだけに簡単に動かすわけにもいかないのでしょう、これもまた奈良の風景として残しておくのもいいでしょう。ここから先へと進むと歌姫峠、そこには大きな地蔵堂、更に北へと進むと京都府に入ってしまう、そろそろ戻ることにしよう。あれあれ、写真下2枚にあるお地蔵様、帽子を深くに被せられてお顔が見えなくなってしまっている、この日は夏の暑い日だったから熱中症予防のためでしょうか・・・















西大寺付近へと戻ってきて界隈をあちらこちらと巡って行きます、この辺りは大小の古墳が点在している所、お地蔵様もフッと木の陰から現れます。民家が入り組んだように軒を為し、車が通れないほどの狭い道が迷路のように張り巡らされている所、ここを抜けるとさっき通った歌姫街道、大きな古墳が3つ並んでいる所、見通しのいい風景の中、お地蔵様は野晒しにされていますが、それでも地元の人々の平安を穏やかなお顔つきで望んでくれているかのようです。平城京でのお地蔵様巡りはこの先もエリアを変えて続けて行きます、まあ近場ですからね、ネタに困れば都巡りってところでしょうか、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。            まちみち