よろしくお願いします。












この前の『ブラタモリ』では2週に渡って奈良の特集をやってました、前に奈良に来たのが初期の桑子アナの時、近江さん、林田さんの時は来てくれないで新しい人に変わっての1回目が法隆寺、聖徳太子がクローズアップされた回でした。最近は実在性が疑われるほどに謎多き人物ですが、ここでも何度も取り上げさせてもらっている辺りは、やはり奈良にとっては重要な人物だったと言うことでしょう。前回の都巡りでは聖徳太子が通った太子道を取り上げましたが、今回もまず聖徳太子に関する場所から、と言うことで写真1枚目~3枚目にあるのは桜井市にある春日神社、その境内にあるのがこの万葉歌碑↓↓↓
「家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ」(聖徳太子・巻3-415)
この歌については前にもここで取り上げたことがありました、旅先で倒れた旅人を見て詠んだ歌だと言うことで『日本書紀』『拾遺和歌集』にもよく似た歌があるとのこと、いずれも行き倒れた旅人を哀れむ歌ですがそのミステリーなエピソードが聖徳太子を聖人と評されることにつながって行きます。
写真下5枚目にあるのは明日香村、飛鳥寺の外れた所にある蘇我氏の首塚、『ブラタモリ』明日香編では蘇我氏について触れられていました。蘇我氏と言うと豪族、何かその言葉の響きからちょっときつそうなイメージを抱いてしまいそうですが、実際にこの時代に君臨した人物として政治に踏み込んで来ては実権を我が物にしようとした辺りは、確かにきつそうな存在だったようです。この辺りについてはまたいずれ明日香村を訪れて・・・『ブラタモリ』の内容があまりにも興味深かったので・・・、いろいろと自分なりに調べてみようと思います、まあ素人の物好きいっちょかみ程度の話になると思うのですが・・・。





蘇我氏と言うとまず思い出し名前が蘇我馬子、こないだの古墳巡り桜井市編では崇峻天皇の暗殺に触れましたがその首謀者が蘇我馬子、それ以前にも天皇後継問題で皇子や他の豪族を滅ぼし、このクーデター後に推古天皇を推すことになります。日本で初めての女性天皇、まあ現在となると
が絶対阻止の動きをする感じだが、女性呪術師が実権を握っていた時代もあったからすんなりと受け入れられたのかも。推古天皇が即位したのが39歳の時、と言うから今で言えば広末涼子、田中麗奈辺りの年齢の女性が皇位についたと言うことになるのかな、その女帝をサポートするかのように甥である聖徳太子が摂政として政治に携わるようになり、冠位十二階、十七条憲法の制定、遣隋使などの政治の整備が行われます。元々は推古天皇の皇子への繋ぎのための天皇即位だったと言うことだったが、皇子が6歳で亡くなったために甥を皇太子として重用したことになる、それが現在の政治の礎になるわけだから、人間の思惑と運命が錯綜したものの結果オーライと言う簡単な言葉では終わらせられない。ちなみに上にある写真1枚目~3枚目にあるのが推古天皇を祀っている樋口神社、橿原市の耳成山の近くにあり推古天皇の耳梨行宮・・・行宮とは本宮が事情によって機能できない時の一時的な都となった場所、wikiには現在の皇居が行宮に当たるとも・・・の伝承地とされている所。4枚目、5枚目にも推古天皇社とあるがその場所が奈良市の大安寺の真横、天皇にさほど所縁のある場所ではないはずなのだが、境内には特に説明の看板もない、何でこの場所に推古天皇・・・?















推古天皇の都があったのが豊浦宮、写真1枚目~6枚目にある向原寺が豊浦寺跡とされていて、推古天皇はこの場で即位したとのこと。政治を行った小墾田宮はこの寺院から北に少しだけ行った所、上の写真では7枚目以降にある場所にあったとされています。ところがちょっと分からんのやな~、下5枚の写真にあるのも小墾田宮跡、その場所は桜井市の天香久山の北側にある三十八柱神社でさっきの場所からはかなり離れている。境内にある説明の看板には推古天皇、聖徳太子の名が記されているから、ここが小墾田宮だったと言うこともできそうだがイマイチよく分からない。話は逸れますが「小墾田」と言って思い出すのがドラマ『鹿男あをによし』、児玉清が演じた教頭先生の名前が小治田だった。主要な登場人物には都にちなんだ名前が付けられていたが、当時は「oharida」と言うのが都の名だとは知らなかった。児玉清が珍しく悪役でコミカルなキャラクターを演じていたのが印象に残ったドラマだっただけに、早く亡くなられたのが惜しまれてなりません、「それではラストコール!!」、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。 まちみち












この前の『ブラタモリ』では2週に渡って奈良の特集をやってました、前に奈良に来たのが初期の桑子アナの時、近江さん、林田さんの時は来てくれないで新しい人に変わっての1回目が法隆寺、聖徳太子がクローズアップされた回でした。最近は実在性が疑われるほどに謎多き人物ですが、ここでも何度も取り上げさせてもらっている辺りは、やはり奈良にとっては重要な人物だったと言うことでしょう。前回の都巡りでは聖徳太子が通った太子道を取り上げましたが、今回もまず聖徳太子に関する場所から、と言うことで写真1枚目~3枚目にあるのは桜井市にある春日神社、その境内にあるのがこの万葉歌碑↓↓↓
「家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ」(聖徳太子・巻3-415)
この歌については前にもここで取り上げたことがありました、旅先で倒れた旅人を見て詠んだ歌だと言うことで『日本書紀』『拾遺和歌集』にもよく似た歌があるとのこと、いずれも行き倒れた旅人を哀れむ歌ですがそのミステリーなエピソードが聖徳太子を聖人と評されることにつながって行きます。
写真下5枚目にあるのは明日香村、飛鳥寺の外れた所にある蘇我氏の首塚、『ブラタモリ』明日香編では蘇我氏について触れられていました。蘇我氏と言うと豪族、何かその言葉の響きからちょっときつそうなイメージを抱いてしまいそうですが、実際にこの時代に君臨した人物として政治に踏み込んで来ては実権を我が物にしようとした辺りは、確かにきつそうな存在だったようです。この辺りについてはまたいずれ明日香村を訪れて・・・『ブラタモリ』の内容があまりにも興味深かったので・・・、いろいろと自分なりに調べてみようと思います、まあ素人の物好きいっちょかみ程度の話になると思うのですが・・・。





蘇我氏と言うとまず思い出し名前が蘇我馬子、こないだの古墳巡り桜井市編では崇峻天皇の暗殺に触れましたがその首謀者が蘇我馬子、それ以前にも天皇後継問題で皇子や他の豪族を滅ぼし、このクーデター後に推古天皇を推すことになります。日本で初めての女性天皇、まあ現在となると
















推古天皇の都があったのが豊浦宮、写真1枚目~6枚目にある向原寺が豊浦寺跡とされていて、推古天皇はこの場で即位したとのこと。政治を行った小墾田宮はこの寺院から北に少しだけ行った所、上の写真では7枚目以降にある場所にあったとされています。ところがちょっと分からんのやな~、下5枚の写真にあるのも小墾田宮跡、その場所は桜井市の天香久山の北側にある三十八柱神社でさっきの場所からはかなり離れている。境内にある説明の看板には推古天皇、聖徳太子の名が記されているから、ここが小墾田宮だったと言うこともできそうだがイマイチよく分からない。話は逸れますが「小墾田」と言って思い出すのがドラマ『鹿男あをによし』、児玉清が演じた教頭先生の名前が小治田だった。主要な登場人物には都にちなんだ名前が付けられていたが、当時は「oharida」と言うのが都の名だとは知らなかった。児玉清が珍しく悪役でコミカルなキャラクターを演じていたのが印象に残ったドラマだっただけに、早く亡くなられたのが惜しまれてなりません、「それではラストコール!!」、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。 まちみち