F老人の気ままな島暮らし日記

尾道市生口島で気ままな島暮らしの日々。

読書記録047「提督伊藤整一の生涯(吉田満)」

2011年08月28日 13時13分53秒 | 読書記録

数年前、神保町の軍事関連の古本屋「文華堂」で入手し積んでいましたが、ようやく読む気になりました。

著者吉田氏は東大法学部在学中海軍に入り、昭和19年12月副電測士(レーダーのオペレータ)として戦艦「大和」に乗り組み、20年4月の大和を含む最後の艦隊「第2艦隊」の沖縄特攻とも言われる天一号作戦で出撃、沈没する大和から救出された269名のひとりです。戦後は日本銀行の要職を歴任されました。1979年56歳という若さでなくなられますが、本書はその前年、1978年に書かれました。

第2艦隊司令長官であった伊藤中将(後に大将に昇任)は司令長官室にこもって大和とともに沈んでいきます。米海軍側の指揮官であったスプルーアンス中将は、かってワシントン勤務時の友人でした。本書ではスプルーアンス中将の生涯も綴られています。また、大和艦長であった有馬大佐についても海上武人らしさが詳しく記されています。

伊藤中将のちとせ夫人にあてた「いとしき最愛のちとせどの」で終わる遺書は暖かい人柄が推察されます。しかし、賢明、端正、沈着といわれた人が「一億総特攻の先駆けとなれ」と言われ、7,000人もの人命を預かって成算の無い出撃をするとは・・・。終戦後、多くの部下を伴って無意味な特攻をする宇垣中将らとともに、このような悲劇的な判断は私には理解できません。

戦国時代、信長の命により秀吉に攻められた備中高松城の清水宗治は、死と引き換えに篭城していた将兵を救いました。死により責任をとることは仕方ないとしても、日本再生の有為な人材を伴う必要はなかったのではないでしょうか。あるいは、日本の再生はありえないと考えていたのでしょうか。最後に破滅的な判断をした政府、軍部の指導者層の責任は計り知れなく大きいと思います。不様であっても未来に光明の見える終わり方ができなかったのでしょうか。

他にもいろいろ考えさせられることはありますが、現在の人たちの「なぜ?」という疑問に納得させられる答えはおそらくないのでしょう。

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