現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

夏の迷路

2020-12-24 15:45:29 | 作品

 隆志は宇宙船を旋回させると、敵の背後に回り込んだ。
 ババババッ。
 すかさずレーザー砲をたたきこむ。
 ズガガアーン。
 敵のロケットは、大爆発を起こした。
「これで、三機撃破したな」
 隆志は爆発に巻き込まれないように、愛機を急降下させながらつぶやいた。
(次のターゲットは?)
 隆志は愛機を加速させながら、あたりに敵がいないか、注意を払った。
(いた)
 前方に、敵の宇宙船を発見した。
 隆志は、全速力で追撃を開始した。
 
 真夏の昼下がり。あたりには誰もいない。今日も雲ひとつないかんかん照りで、気温は軽く三十度を超えている。隆志は、団地の中を一人で自転車を乗りまわしていた。いつの間にか、隆志の頭の中では、SFX映画やビデオゲームの中で、宇宙船を急旋回して敵と戦っている自分の姿が浮かんできていた。
 リリリリン。
 ベルを押すのは、レーザー砲の発射のつもりだ。
 ガチャガチャ
変則ギアを切り換えて、立ちこぎしてスピードアップしていく。
「グイーン」
これを、宇宙船がワープ航法をするのに見立てていた。
 団地内の道路は、ぐねぐねと入りくんでいる。自動車が通り抜けられないように、道路は行き止まりになっていたり、わざと遠回りしたりするように作られているからだ。
『住む人に優しい街』
 それが、この団地の設計コンセプトだった。おかげで、住んでいる人以外の車はめったに道路を通らないので、自転車を走らせるにはもってこいだった。いつか見た新規分譲用パンフレットの航空写真には、団地内の道路はうねうねとまるでパズルか迷路のようになっていた。
 隆志の愛車は、先月の誕生日に買ってもらったばかりの24インチのクロスバイク。五年生としては小柄な隆志には、サドルをいっぱいに下げても、少しつま先立ちにならなければ地面に足が届かない。隆志は、おかあさんが作っておいてくれた一人だけの昼食を食べ終えた後で、いつも自転車に乗りに来ていた。
 今度は、隆志は自転車での反転遊びに熱中しはじめた。幅の広い道路では、スピードをあげて大きな半円を豪快に描いてから、逆方向へそのままのスピードで進んでいく。もっと細い道路ではバランスを崩さないように注意を払って、道幅ぎりぎりに半円を描いていく。
足をつかずにうまく反転できた時には、
(やったあ!)
という達成感がこみ上げてきた。

 グオーン。
敵の巨大宇宙戦艦が迫ってくる。不意を突かれた隆志の宇宙船は、もう少しで宇宙戦艦と激突してしまうところだった。
「転回!」
 隆志は大声で叫ぶと、愛機をすばやく右へすべらせて敵から逃れた。
 ブッブーッ。
 大きくクラクションを鳴らして、隆志の自転車をかすめるようにして、宅配便のトラックが通っていった。
(あぶない、あぶない)
 隆志は、道路の脇に自転車を傾けて止めた。空想に夢中になりすぎて、自動車に気づくのが遅れてしまった。
 トラックは、排気ガスを吐き出しながら、ゆっくりと遠ざかっていく。
(行くぞ)
 隆志は、全速力でトラックを追いかけ始めた。
「ワープ!」
 変速機を操作しながら、大声で叫んだ。頭の中では、あっという間にトラックに追いついているところだ。
 でも、実際には、ますます引き離されていた。

夏休みに入って、早くも十日が過ぎようとしていた。明後日からはもう八月になってしまう。その間、隆志はいつも自転車を乗り回していた。
 隆志のクラスの友だちも、海や山や両親の実家などへ行っている人たちが多くなっている。だから、ここのところ、一人で遊ばなければならないことが増えていた。
 隆志の家は、おかあさんと二人暮しだった。両親は、隆志が幼いころに離婚している。隆志には、父親の記憶はほとんどなかった。
 おかあさんは、中学校の美術の教師をして、二人の暮らしを支えていた。
教師という仕事は、はたから見ているのとは違って、夏休みに入ってからも、やれ研修だ、やれ部活だと、なかなか忙しい。
おかあさんがまとまった休みが取れるのは、八月に入ってからだ。今年は、隆志と二人で、一週間ほど、八ヶ岳のリゾートホテルへ行くことになっている。
 親ゆずりで絵を描くのが好きな隆志は、写生の道具を持っていくつもりだった。
 でも、おかあさんの方は、のんびりと読書をするのを、楽しみにしているようだ。おかあさんが絵筆を握っているところは、もう何年も見たことがない。
 おかあさんがかつては画家を志していたと、祖父母から聞いたことがある。そんな夢は、日々の暮らしの中で、とうに忘れ去られてしまったのかもしれない。

 食卓にひろげた大きな画用紙いっぱいに、隆志はひまわりの絵を描いている。
 庭の花壇に一本だけ植えられたひまわりは、手入れが良かったせいか、とっくに隆志より背が高くなり、大きな花を咲かせていた。
 はじめは水彩絵の具で普通に写生をしてみたが、どうももうひとつ面白くない。外側の黄色い花びらはうまく描けるのだが、内側の蜜蜂の巣のような小さな花のかたまりの部分がうまく感じがでないのだ。
 次に、クレヨンを使って、スーラのような点描で描いてみた。
「ふーっ」
 この絵も気にいらなくて、大きなため息をついた。花のかたまりの部分の感じは少し出てきたが、全体に弱々しく、ひまわりの持つたくましい生命力が感じられない。
 隆志はクーラーを止めると、庭へのガラス戸を大きく開け放った。
 猛烈な暑さが、ドドッと部屋の中へ押し寄せてくる。
 でも、涼しい所でガラス越しに見ていたひまわりが、ぐっと自分に親しいものに感じられるようになってきた。
 隆志はさっき使った水彩絵の具のパレットをきれいに洗うと、その上に赤と黄色の絵の具をたっぷりと絞り出した。
 一番細い絵筆を取り出して、赤と黄色の絵の具を混ぜ合わせて、内側の花のかたまりを描き出した。
 混ぜ具合を変えながら、細く小さな円弧をたくさんたくさん描き込んでいく。
 レモンイエロー、だいだい、朱色、赤、…。
 線が重なって、予想もしなかったような様々な色彩が生まれるのが面白くて、いつの間にか隆志は夢中になっていた。

「似ているわ」
 おかあさんがポツリといった。その日の夕方、隆志が誇らしげに三枚目のひまわりの絵を見せた時だった。細かく描き込んだ様々な色の鋭い円弧が、ひまわりの生命力を表現していて、我ながらいいできだった。
「えっ、何に似てるって?」
 隆志がたずねると、
「…」
 おかあさんは、しばらくの間ためらっていた。
 でも、もう一度ひまわりの絵をじっと見つめた後で答えた。
「あなたのおとうさんの絵によ」
「ふーん」
 そう言われても、父親の絵など一度も見たことのない隆志には、まるでピンとこなかった。たしかに、父親もおかあさんと同じように、絵を描いていたことは知っていた。
 でも、家には、父親の絵は一枚も残っていなかった。
「どんな絵を描いていたの?」
 隆志がたずねても、
「そうねえ、遠い昔のことだから、…」
と、それ以上は話したがらなかった。

 隆志の両親は、彼がニ才の時に離婚している。父親は、その直後にアメリカに渡り、ほとんど連絡がないという。
 父方の祖父母はそれ以前に亡くなっていて、地方に住む親戚たちともほとんど付き合いがなかった。そのため、隆志にはほとんど父親の記憶が残っていなかった。
 それに、新生活への再出発のためか、おかあさんは父親の写真はおろか、身の回りの品物はすべて始末してしまったようだ。
 野沢吉雄。
 名前だけが、唯一のはっきりとした情報だった。
 それも、物心ついたころからずっと、おかあさんの旧姓であった「山本」を名乗っている隆志には、まったく親しみの感じられないものにすぎなかった。
 ただ、父親は画家になる夢を忘れられずにアメリカに行ったということだけは、いつか誰かから聞いたことがあった。
 はたして、その夢を果たしたのかどうかも、隆志は知らなかった。
 ただ、隆志の絵を描くことに対する情熱は、もしかすると、おかあさんではなく、父親から受け継いだものだったかもしれないと思うことがあった。美術教師でありながら、絵筆を握ろうとしないおかあさんからは、絵を描くことの情熱はまるで感じられなかった。

 その晩、自分のベッドに入ってから、隆志は父親の顔を思い浮かべようとしていた。
 なかなか思い浮かばない。それでも、心の奥底に沈んでいる父親の記憶を探ってみる。
 わずかに残る父親の記憶。
 それはあまり心地よいものではなかった。
 食卓でどなっている若い男。感情を爆発させて、声を震わせながらわめいている。
 しかし、どんな顔をしているのか、すこしも具体的なイメージが浮かんでこなかった。まるで目鼻のない、のっぺらぼうのようだ。
 テーブルを挟んで泣いている若い女。これははっきりしている。
 おかあさんだ。今よりもずっと若いけれど、顔もはっきり見えた。特徴的な大きな目に、いっぱい涙をためている。
 でも、時々、やはり大声で何かを言い返していた。すると、ますますのっぺらぼうの若い男は、いきり立ってどなり出す。
 奇妙なことに、そのそばで負けじと大声で泣くことによって、なんとか二人の言い争いを止めさせようとしている、幼い日の自分の姿までが見えてくるのだ。
 青いサロペットに、黄色い縁取りの小さなスタイをつけている。まるで現在の隆志が、窓からこっそりと三人の様子をのぞいているようだった。
 隆志は、もう一度父親の顔を想像しようとしてみたけれど、とうとう最後まで思い浮かばなかった。

 数日後、いよいよ明日から、母親が休みになる日の朝だった。
「あああっ」
 洗面所で顔を洗っていた隆志は、大きな泣き声がするのに驚いて、急いでダイニングキッチンへ戻った。
 おかあさんだった。すでに出勤のための着替えをすませていたおかあさんが、テーブルに両手をついて立ったまま泣いていたのだ。
「どうしたの?」
 隆志がのぞきこむと、おかあさんはだまってテーブルの上の新聞を指さした。そこには、小さな死亡記事がのっていた。
『新進画家、無念の早逝。
 三十一日、ニューヨーク在住の新進画家ダン野沢氏(本名・野沢吉雄さん、三十三才)が急死。死因などくわしいことは不明。
 野沢氏は、一昨年のニューヨーク国際美術展でグランプリを受賞し、いちやく注目を集めた新進の画家。その後も、ニューヨークとパリで個展を開くなど、精力的に活動を続けていた。これからの活躍がおおいに期待されていただけに、その早すぎる死を惜しむ声があがっている。…』
 記事の右上には、三十過ぎの見知らぬ男の笑顔が写っていた。
(これが、自分の父親か)
 隆志は食い入るようにその写真を見つめた。
 でも、悲しみも何も、特別な感情はわいてこなかった。

 ようやく泣きやんだおかあさんは、いすに腰をおろすと、父親のことを話し出した。それは、隆志にむかってというよりは、自分自身で思い返すためのものだったかもしれない。
 二人が美術大学で同級生だったこと。学生結婚したこと。卒業後も、父親の方は就職せずに絵に専念していたこと。隆志が生まれて、生活のためにやむなくおかあさんと同じ美術の教師になったこと。仕事に追われて絵をかく時間がなく、いつもいらいらしていたこと。
 隆志にとっては、初めて聞く話ばかりだった。
「普段は優しい人だったのよ。でも、感受性が鋭すぎたのね。どうしても、創作と実生活を両立していけなかったのよ」
「…」
「それに、二人とも若過ぎたのかもしれない。二十二才で結婚して、二十五才で別れたんだから」
 そういいながら、おかあさんは隆志にけんめいに笑顔を見せようとした。
 でも、うまく笑えずに、少しゆがんだ泣き笑いになってしまった。
「あらあら、いけない。完全に遅刻だわ」
 おかあさんは、ようやくいすから立ち上がった。
 洗面所で手早く化粧を直して戻ってくると、
「じゃあ、行ってくるからね」
と、おかあさんはまるで何事もなかったかのようにいった。
 でも、泣いたあとをごまかすためか、口紅もアイメイクも、いつもより濃くくっきりとさせていた。
 おかあさんがガチャリと音をたてて開けたドアの外は、すでに今日も猛烈な暑さだった。

 その日の昼ごはんの時、何気なくテレビをつけたら、思いがけない画面にぶつかってしまった。
『ニューヨーク在住の新進画家、孤独な死。
 死因は麻薬によるものか!?     』
 隆志は、スパゲティを食べていたフォークの動きを止めて、画面に見入った。
 その番組は、主婦向けのワイドショーだった。もちろんこのニュースが、その日のメインの話題なのではない。現地の映像も、「ダン野沢」の作品の紹介もなく、画面の写真も、新聞に載っていたのと同じ物を拡大しただけだった。
 二、三分の短いレポートの後で、司会者は、
「いくら絵の才能があっても、麻薬に溺れるようでは性格に問題があったのだろう」
と、簡単に締めくくって、次の話題に移っていった。
 隆志は、テレビの前に呆然として立ち尽くしていた。
 レポーターの説明の中に、こんな部分があったからだ。
「ダン野沢は、八年前に『妻と幼い息子を捨てて』、単身渡米し、…」
(おかあさんとぼくのことだ)
 その瞬間、隆志は思わずいすから立ちあがった。そして、初めて涙がこぼれてきた。
 でも、これは悲しみの涙ではない、当事者にとっては残酷な言い方を平気でする、軽薄なレポーターに対する悔し涙だった。
 番組では明るい話題に移ったらしく、お笑い芸人のジョークに、スタジオ内に並んですわらせられたおばさんたちが、陽気な笑い声をあげている。
(おかあさんが見なくてよかった)
 隆志は心からそう思っていた。

 隆志は、さっきの朝刊を、マガジンラックからテーブルの上に持ってきた。そして、「ダン野沢」の死亡記事の部分を、はさみでていねいに切り抜いた。
 「ダン野沢」は、隆志のてのひらの中でぼんやりと笑っている。その気弱そうな笑顔は、どうしても隆志の頭の中にある声を震わせて怒っている若い男のイメージと、結びつかなかった。
(どんな人だったんだろう?)
 隆志には、ますますわからなくなってしまっていた。
 このおとなしそうな人が、あの怒鳴ってばかりいた若い男だとは、どうしても思えない。
 おかあさんが言っていたように、いつもは優しい人だったのだろうか。
 もう一度、死亡記事を読み返してみた。
『…。なお、ダン野沢氏の作品は、その多くは海外の美術館にあるが、国内ではM区立美術館などに所蔵されている』
(美術館へ行ってみよう)
と、隆志は思った。
 「ダン野沢」の絵を見れば、何かがわかるかもしれない。

 ネットで調べたM区立美術館は、山の手線M駅から歩いて十分ほどの区民センターの中にある。
 あれからすぐに家を出た隆志は、電車を乗り継いでやってきていた。
 M駅からの長い坂道をのぼっていくと、前の方に黒い服を着た人たちが集まっているのが見えてきた。
(お葬式でもあるのかな)
 そう思いながら近づいてみると、そこは「曼陀羅(まんだら)」という名のライブハウスだった。
 黒いのは喪服なんかではなく、ただの黒い衣装だった。女の子たちが、出演するバンドを待っているようなのだった。
(「追っかけ」っていうやつなのかな?)
と、隆志は思った。
 この炎天下に、どういうわけかみんな黒ずくめの服を着ている。
 地下のライブハウスからは、エレキギターとドラムの音が響いてひびいていた。
 二十人近くのカラスのような女の子たちのそばを通ったとき、洋服のそでがレースでできているのに気がついた。
 黒く透き通る袖をとおして見えた女の子たちの腕は、ドキッとするほど青白かった。
 川の向こうに、区民センターの巨大な建物が見えてきた。
 水の少ない泥色に濁った川にかかった橋を渡ったとき、生ごみの腐ったような嫌な臭いが、隆志の鼻を強くうった。

区民センターは、思っていたよりもずっと大きな施設で、美術館だけでなく図書館や公民館、体育館や温水プールも同じ建物に入っていた。そのまわりも、広い公園になっている。
 白い大きな帽子をかぶったおばさんたちがドタドタと走りまわっているテニスコートを抜けると、目の前に大きな屋外プールが広がった。
 水の中もプールサイドも、驚くほど混み合っていた。
 プールの中は、まるで満員のお風呂のようで、とても泳ぐことなどできそうもない。そのまわりも、足の踏み場もないほどシートやタオルが広げられ、カラフルな水着をつけた人たちが日光浴をしている。
 隆志は圧倒されたような気分で、足早にプールのそばを通り抜けた。

 美術館の入り口は、たくさんの人々で混み合うプールや図書館とは対照的に、ひっそりとしていた。特別展がない常設展示だけのときは、あまり入場者がいないのかもしれない。
「ダン野沢の絵はどこですか?」
 隆志は、受け付けにいた眼鏡をかけた若い女の人にたずねた。
「えっ。ああ、ダン野沢なら、つきあたりを左に行った部屋の奥よ。ミニコーナーになっていて、天井から名前を書いたプレートが下がっているから、すぐわかるわ」
 女の人は、まだ「ダン野沢」が死んだことを知らないらしく、特に驚いた様子もなく答えてくれた。どうやら、テレビなども取材に来ていないようだ。

 隆志は、他の展示には目もくれずに、まっすぐ「ダン野沢」のミニコーナーに向かった。
 夏休みにもかかわらす、館内も観客はまばらだった。ミニコーナーにも誰もいないので、隆志はゆっくりと絵を見ることができた。
 思いがけずに、「ダン野沢」の絵は、花や風景を描いた写実的なものではなく、純粋にイメージだけを伝える抽象画だった。
 「イマージュⅢ」と名づけられた一枚目の大きな絵は、たてよこななめの鋭い直線で構成されていた。
 製作年が、横に書いてある。
(ぼくが小学校へ入学した年だな)
と、隆志は思った。
 二枚目の絵は、丸でも四角でもない奇妙にゆがんださまざまな色のかたまりを、大きなカンバスいっぱいに散らした作品だった。
 でも、それぞれのかたまりは、ホアン・ミロのようなにじんだものではなく、くっきりとした黒い線で縁取られている。
 この製作年は、
(ぼくが三年生のときだな)
そのころ隆志は、小さいころ罹っていた自家中毒が再発し、学校を二ヶ月も休んで入院していた。仕事と看病に追われて、おかあさんもげっそりやつれてしまっていた。

 三枚目の絵を見たとき、隆志のひまわりの絵を見て「おとうさんの絵に似ている」といったおかあさんの言葉が、頭の中に蘇った。
 そこには、ひまわりの絵で隆志が表現した世界が、より拡大され、より純粋に高められた形で存在していた。
 赤や黄色系統の色だけでなく、金や銀、青や紫といったさまざまな色彩が、鋭くとぎすまされた無数の円弧で描き込まれている。
 そしてひとつひとつの円弧が複雑に絡み合い、さらにさまざまな色彩を生み出していた。
 こうして見つめていると、色の渦の中に吸い込まれていきそうな気にさえなってくる。
 隆志は、作品とそれを生み出した「ダン野沢」の才能に圧倒されて、しばらくの間、絵の前から動けなくなってしまった。
「ダン野沢」の絵は、もう三枚あった。
 全部で六枚。ミニコーナーという名にふさわしい、本当にささやかなコレクションだった。
 その全部を見終えると、隆志は休憩コーナーにあった押しボタン式のウォータークーラーで、よく冷えた水を飲んだ。
 そして、かばんからあの新聞の切り抜きを取り出してみた。
 「ダン野沢」は、不鮮明な写真の中で、あいかわらず頼りなげに笑っている。
 隆志は切り抜きを手にしたまま、もう一度あの色の渦のような絵の前に立った。
 奔放に渦巻く色彩の迷路の前に、切り抜きの「ダン野沢」の写真を重ね合わせたとき、隆志は初めて「おとうさん」に出会えたような気がしていた。

       

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シベールの日曜日

2020-12-24 15:35:27 | 映画

 冒頭、第一次インドシナ戦争のシーンで始まります。
 戦闘機のパイロットだったピエールは、恐怖の表情を浮かべたベトナムの少女らしい子どもの姿を目にしたとたんに撃墜されてしまいます。
 この事故により記憶を失った30才のピエールは、病院で知り合った看護婦のマドレーヌと暮らしています。
 ピエールは、数少ない理解者の芸術家のカルロスの仕事を手伝ってわずかな小遣いをもらっていますが、生活面でも経済面でもマドレーヌの庇護下で暮らしています。
 そういう点では、マドレーヌはこの映画では母性を象徴しているかもしれません。
 ある夜、ピエールは、父親に修道院の寄宿舎に預けられる形で置き去りにされた12才の少女と遭遇します。
 日曜日、寄宿舎に出かけたピエールは、面会に来た父親と間違えられてしまいます。
 それから、日曜ごとのピエールと少女の交流が続きます。
 ふたりがいつも散歩する湖の景色が、白黒のスクリーンに本当に美しく描かれています。
 特に、少女が湖に小石を投げて波紋が広がる中にふたりの姿が映り、少女が「これが私たちのおうちよ」というところは、ため息が出るほど美しいシーンです。
 少女は修道院ではフランソワーズと呼ばれていますが、それは彼女のギリシアの女神から取った名前がキリスト教的でないというので変えられたのだと、彼女はピエールに言います。
 そして、教会の屋根の風見鶏を取ってくれたら、本当の名を教えてあげるとピエールに告げます。
 ところが、ピエールは記憶を失ったときの後遺症か、高いところにあがるとめまいに襲われてしまうのでした。
 二人の日曜日ごとの交流は、子ども同士のようにほほえましいシーンの連続です。
 ピエールは、事故のショックで記憶を失うだけでなく、子ども以上に純真な心の持ち主になっています。
 そのため、二人の会話は、いつも少女の方がリードして進められます。
「私がお母さんのかわりになってあげる。」
「私が12であなたが30、13で31」と、数えていって「私が18になったら、あなたはまだ36だから結婚しましょう……」
といった会話も交わしますが、二人の交流は子どもたちによる純真なものです。
 あとで二人の交流を知って不安を訴えるマドレーヌに、芸術家のカルロスだけはピエールに理解を示します。
 戦争で過去を失った男と、家族に捨てられた少女の、孤独な者同士の魂のふれあいという関係は、なかなかまわりからは理解されません。
 クリスマスの夜を、二人は一緒に過ごすことになります。
 カルロスの家からツリーを持ち出したピエールと、寄宿舎を抜け出した少女の、二人だけのささやかで暖かいクリスマスの晩をすごします。
 いたずらっぽくほほえんだ少女がピエールに渡したマッチ箱。
 その中の紙切れに、一言「Cybele」と書かれています。
 初めてピエールに明かした名前シベール。
 これが、少女の心からのクリスマスプレゼントでした。
 ピエールは、「あとで僕もプレゼントをあげるよ。」と秘密めかした笑顔で答えます。
 そのころ、不安に駆られたマドレーヌが同僚の医者に相談したことで修道院に連絡がとんて゛大騒ぎになり、警察が少女の行方の捜索を開始していました。
 カルロスが「なんて軽はずみなことを……」といったのも後の祭りでした。
 以前の約束を覚えていたピエールは、少女が眠っている間にナイフを片手に教会の屋根によじ登って、風見鶏を取り外します。
 その時、突然ピエールは、今まで自分を悩ませていためまいなどの発作が治っていることに気がつきます。
 シベールとの交流で、ついにピエールが戦争で負った心の傷(ベトナムの少女を殺してしまったと思いこんでいます)が癒えたのです。
 そして、ナイフと風見鶏を手に、シベールの所へ戻りかけたとき、警官にピエールは発見され、少女に害意を持って近づく変質者と思われて射殺されてしまいます。
 警官が無線で報告している声が聞こえてきます。
「危ないところでした。もう少しでナイフで少女を……」
 マドレーヌやカルロスたちが、現場に駆けつけたときは全てが終わった後でした。
 警官たちに起こされて「君の名前は?」と聞かれたシベールが、あたりの状況を見て、「もう、私には名前なんかないの。誰でもなくなったの!」と泣きながら叫ぶラストシーンが印象的です。
 そして、終始静かだった映画で最後のシベールの叫びに、いきなりかぶさってくる音楽が「miserere nobis」(我らを哀れみたまえ)なのでした。
 この映画は、1962年のアカデミー外国語賞をはじめとして、数々の賞を受賞しています。
 私が今は無きぴあ(当時は100円でした)を片手に、毎日のように都内各地の名画座や自主上映会で内外の名画を見てまわっていた1970年代には、「シベールの日曜日」は雑誌で人気投票すると必ず上位に入る(たしかぴあでは1位になったこともあります)ほどの有名な映画でした。
 当時はビデオ・レンタルもなく(だいたい家庭用ビデオレコーダーもありませんでした)、映画を見るためには自分でその場所へ行くしかなかったのです。
 その代わりに、フィルムセンターや名画座や自主上映会で、少なくとも都内に住んでいれば毎日どこかで名画を見られたので、商業主義全盛の今よりもむしろ環境は良かったかもしれません。
 話は脱線しますが、小劇場の演劇も今みたいに商業主義化していなくて、やはりぴあの情報をもとに毎週のように千円以下の低料金で見にいってていました。
 当時は、つかこうへい劇団と野田秀樹の夢の遊眠社(会場は東大の駒場キャンパスが多かったです)が全盛期でした
 話を映画に戻しますと、「シベールの日曜日」は2010年にDVDが出ているのですが、どこの宅配レンタルDVD会社も在庫を持っていません。
 名画を見る唯一の頼みの綱だったシネフィル・イマジカも、とうとう商業主義に屈して、2012年3月1日に名画専門チャンネルの看板を下ろして、イマジカBSという平凡な娯楽映画チャンネルになってしまいました。
「これはDVDをアマゾンで買うしかない」と思いかかっていたのですが、「第3回午前十時の映画祭」で「シベールの日曜日」を上映することが分かって、立川まで見に行くことにしていました。
 ところが、日曜日の朝刊を何気なく見ていたら、スターチャンネルの欄に「シベールの日曜日」の文字がありました。
 「第3回午前十時の映画祭」とのタイアップで、なんとその日の午前十時に放映されるのです。
 あわてて契約の手続きをして何とか時間までにスターチャンネルが映るようになり、「シベールの日曜日」を録画することができました。
 37年ぶりに見た「シベールの日曜日」は、少しも古びることなく二十歳ごろに見たときと変わらない感動を私に与えてくれました。
 当時は、冒頭のインドシナ戦争(アメリカでなくフランスとの間でおきました)でベトナムの少女を殺したと思いこんだことから始まっていることで、一種の反戦映画ともいわれていました(当時は日本だけでなく世界的に反ベトナム戦争運動が盛んでしたから、そういった映画もたくさんありました)。
 また、キリスト教の閉鎖性に対する批判という解釈もありました(修道院では、シベールがギリシアの女神の名前だという理由で、彼女は別の名前をつけられてしまいます。ラストシーンで、教会の風見鶏をピエールが盗みます。クリスマスの日に、ピエールは殺されてシベールは永遠に名前を失います。ラストシーンで、教会音楽の一節 「我らを哀れみたまえ」が流れます)。
 しかし、一番素直な解釈は、シベールとピエールという二つの孤独な魂が邂逅する物語だとする見方でしょう。
 その過程で、ベトナムの少女を殺したと思いこんでいたピエールの心の傷が、シベールという自分と同じように孤独な少女と触れ合うことによって癒され、ピエールが自己を回復していきます
 しかし、マドレーヌや同僚たちに象徴される世俗の人たちには、シベールやピエールという疎外されている人たちの心情を正しく理解することができません。
 ラストのピエールの死とそれによりシベールが永遠に名前を失う結末は、シベールのイノセンス(純真で無垢)な魂がやはりイノセンスなピエールの魂は救済したものの、世俗的な現実には受け入れられなかったことを象徴しています。
 イノセンスな魂による別の魂の救済というと、1956年に同じくアカデミー外国語賞をとったフェデリコ・フェリーニの「道」で、ジュリエッタ・マシーナが演じた知的障碍者の女性ジェルミソーナのイノセンスな魂が、アンソニー・クイン演じる凶暴な大男ザンパノの魂を救済したラストシーンを思い浮かべます。
 また、このイノセンスな魂による人や社会の救済というのは、映画だけでなく文学、特に児童文学にとって(狭義の現代児童文学だけでなく、近代童話や現在の作品も含めて)重要なテーマの一つだと考えています(ようやくこのブログの主題につながりました)。
 私は、イノセンスな魂と、いわゆる童心主義が同じものだと考えていませんし、イノセンスな魂というのは子どもだけに宿るものだとも思っていません。
 ただ、イノセンスな魂は、抑圧される側(大人より子ども、健常者より障害者、マジョリティよりマイノリティ)に宿りやすいとは信じています(あるいは、信じたいと思っています)。
 最後に余談になりますが、この映画の人気は、シベールを演じたパトリシア・ゴッジのちょっとおませでキュートな女の子の魅力に負うところも多いと思われます。
 そして、ピエールは、成熟した女性の魅力にあふれる同棲相手のマドレーヌでなく、まだ未成熟な少女のシベールを選択します。
 そのため、近年では「シベールの日曜日」とロリータ・コンプレックスを関連付けて語られることもありますが、実際に映画を見ていただければそんな単純な映画ではないことがよくわかります。
 

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森忠明「少年時代の画集」少年時代の画集所収

2020-12-24 13:35:49 | 作品論

 ぼくのおばあちゃんは、ガンで病院に入院しています。
 おばあちゃんが入院する前、家を建て直すために物置小屋を片づけていたおとうさんが、古いスケッチブックを発見します。
 今から三十年以上前のぼくと同じ小学校五、六年生だったころのおとうさんが、クレヨンで描いた数々の絵が画集に載っています。
 そこには、若いころのおばあちゃんがざぶとんで作ったサンドバッグの前で、ボクシングのポーズをとるおとうさんを描いた絵もありました。
 おばあちゃんがなくなり、おばあちゃんの遺体は、そこで暮らすはずだったできたてほやほやの隠居部屋に安置されます。
 おばあちゃんがお骨になって帰ってきた後の親戚だけの会で、おとうさんは十三歳も年上の義理のおにいさんをめちゃくちゃになぐりつけます。
 おじさんが、死んだおばあちゃんが臭かったと、不用意に言ったからです。
 ざぶとんのサンドバッグを前に美しいファイティングポーズをとっていた少年が、おとなになってからは弱い者に馬のりになってでたらめなパンチをあびせています。
 その姿を見て以来、ぼくはおとうさんのにこやかな顔や優しい言葉が信じられなくなります。
 自由画の時間に、ぼくはおばあちゃんの死に顔を描きます。
 しかし、図工の先生に、「おばあちゃんの昼寝顔にのどぼとけがあるのはおかしい」と、指摘されてしまいます。
 実際には、おばあちゃんののどには、死ぬ直前に男の人ののどぼとけのようなとんがりが出てきたのです。
「先生の大事な人が遠くのどこかへ旅立つ日、先生はぼくの絵がうそではないことに気づいてくれるのだろう」と、ぼくは思いました。
 1985年12月12日に発行された「少年時代の画集」の表題作です。
 「少年時代の画集」は、多感な子どもの目に映る世界を様々なタッチで描いた短編集です。
 この表題作は、この本以外にもいろいろなアンソロジーにも収められている、森忠明の短編の代表作です。
 他の作品と同様に、作者の実体験に基づいた独特の視点で、病的までに鋭い少年の感受性と、それに伴う大人たちへの不信感が鮮やかに描かれています。
 ただ、この作品では、おとうさんや先生に対する批判の描き方が、主人公の少年そのものの見方というよりは、大人になった作者の視点も一緒に表れてしまっているようで気になりました。
 おそらく、子どもの時にそのようなことを感じたことは事実なのでしょう。
 でも、この作品では、描き方が少し大人目線が含まれてしまっているような感じがします。
 それは、「きみはサヨナラ族か」(その記事を参照してください)や「花をくわえてどこへゆく」(その記事を参照してください)の主人公たちが、実際に行動として大人世界への拒否感を表したのに対して、この作品ではたんに批判的な視線をおくるだけなので、どこかシニカルな印象を読者に与えてしまうためだと思います。
 森忠明の一連の作品は、このあたりから質的な変化を遂げていきます。
 

少年時代の画集 (児童文学創作シリーズ)
クリエーター情報なし
講談社
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