現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

モスラ対ゴジラ

2020-12-18 13:55:17 | 映画

 1964年に作られた東宝の怪獣映画です。
 2014年は、1954年の作られた「ゴジラ」の60周年ということで、盛んに古い怪獣映画がテレビでも上映されました。
 この映画は、ゴジラシリーズでは第4作目で、先行して1961年に作られた「モスラ」と対決することになります。
 これは、第3作の「キングコング対ゴジラ」が好評だったのですが、キングコングはアメリカ産の怪獣だったので、東宝の自前の人気怪獣であるモスラと戦わせることにしたのでしょう。
 「ゴジラ」「ラドン」「モスラ」などの怪獣が単独で登場する初期の映画では、「核実験反対」「公害問題」「先住民問題」などの社会批判が作品に込められていましたが、対決シリーズになってからは、「人類の敵」ゴジラ対「人類の味方」モスラといった単純な構図になってしまい、娯楽色がさらに強くなりました。
 それでも、この映画のころまでは、ラストシーンなどに「より良い社会を作っていかなければならない」などの理想主義的なセリフがスローガンのように付け加えられていましたが、やがてそれもすっかりなくなりました。
 「現代児童文学」も同様ですが、当初は「社会の変革」などの意志を持って出発したどんなジャンルも、次第に商業主義に負けて娯楽色を前面に出していき、ついには陳腐なものに成り下がるようです。

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三大怪獣 地球最大の決戦

2020-12-18 13:53:36 | 映画

 「モスラ対ゴジラ」(その記事を参照してください)と同じく、1964年に作られたゴジラシリーズ5作目です。
 三大怪獣というのは、モスラ、ゴジラと、もうひとつ東宝の誇る怪獣スター、ラドンのことで、人気スターのそろい踏みです。
 実は、もうひとつキングギドラも登場するのですが、それは途中まで伏せられています。
 初めはけんかをしていたゴジラとラドンを、正義の怪獣モスラ(国会の要請により、平和の島インファント島からやって来ました)が説得して、金星の文明を滅ぼしたというふれこみの宇宙怪獣キングギドラを、地球の三大怪獣が力を合わせてやっつけるという怪獣ストーリーに、命を狙われている外国の王女(なぜか金星人になったり、日本語をしゃべれたりします)とボディーガード役の日本の警察官の恋と冒険のストーリー(「ローマの休日」の完全なパクリです)をからめた娯楽作です。
 この作品で、怪獣たちの擬人化度が格段に上がったこと、「人類の敵」であったゴジラが「人類の味方」へ変身したこと、怪獣だけではスト―リーが持たないので人間たちのドラマを付け加えたことなどで、ゴジラシリーズはこの後急速に堕落していきます。
 人間社会の個々の問題(当時であれば、東西冷戦、核実験、安保、公害など)を批判するのではなく、人類のためとか地球のためといった大きな(それゆえあいまいな)正義を持ち出して、悪(この映画の場合は金星を滅ぼした宇宙怪獣)をやっつけるといった構図は、児童文学でもファンタジー作品でよく用いられますが、たんなる娯楽作品以上の価値は持ちえません。

 

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長谷川 潮「子ども読者は何を受容するか(上)」日本児童文学2016年1-2月号所収

2020-12-18 13:42:59 | 参考文献

 子ども読者は、日本の児童文学だけでなく以下のような多様な文学を受容しているので、何を受容しているかについてはその総体として論じる必要があることを述べています。
1.日本の児童文学(絵本も含む)
2.外国の児童文学(絵本も含む)
3.日本の古典や一般文学の児童版
4.外国の古典や一般文学の児童版
5.日本の古典や一般文学(児童版化されていない)
6.外国の古典や一般文学(児童版化されていない)
 ただし、5と6は一般論として論じるのは不可能として除外しています。
 私自身の読書体験でも中学生の時は5や6の本をかなり読んでいましたが、具体的にどんな本が子どもたちに読まれていたかを調べるのは困難なので、筆者の意見に同意します。
 まず、2002年に出版された「子どもの本・翻訳の歩み辞典」を、日本の子ども読者が何を受容してきたかを知るために有益であることを紹介しています。
 この本には、翻訳書だけでなく、全962項目中72項目も日本の本が含まれているそうです。
 筆者は、大石真の「教室205号」(その記事を参照してください)とカニグズバーグの「クローディアの秘密」の翻訳が、同じ1969年に出版されていることに、「なるほどと思わせられた」と述べていますが、まったく同感です。
 「教室205号」の学校で疎外された子どもたちの悲劇的な結末に心を痛めた子ども読者たちが、「クローディアの秘密」も読んだら、家庭で疎外されていたクローディアのその後の生き方にどんなに励まされたことでしょう。
 同様に、「子どもの本・翻訳の歩み辞典」には、古典や一般文学も190(ただし同じ作品の翻訳が複数含まれています。例えば、「ロビンソン・クルーソー」は8回、「ガリヴァ―旅行記」は4回など)も入っています。
 次に、いわゆる「童話伝統批判」について、筆者の体験的な評価が述べられています。
 まず、佐藤忠雄の「少年の理想主義について - 「少年倶楽部」の再評価」(その記事を参照してください)については、読者の立場からの意見として紹介するにとどめています(児童文学史的には、他の研究者たちも同様の立場です)。
 石井桃子たちの「子どもと文学」(その記事を参照してください)の「おもしろく、はっきりわかりやすく」という主張に対しては、「読んだ時のおもしろさだけで歴史的評価を無視している。最大公約数的な読者像で、個性的な読者は見落とされている。主に幼児、幼年向きの者にしかあてはまらない。機能面、形式面に傾きがちである」と批判しています。
 早大童話会の「少年文学宣言」派の鳥越信の「子どもの論理、子どもの価値観にのっとったもの」「内包するエネルギーがアクティブなものが望ましい」という主張に対しては、「現実の子どもと作品の中の子どもを単純に結び付けている。現実の子どもはもっと複雑多様だと思う」と、やや控えめに批判しています(「少年文学宣言」派について論じるときには、理論の中心的な役割を果たした古田足日の主張(例えば「現代児童文学論」(その記事を参照してください)を紹介するのが一般的ですが、筆者は古田の論は難解すぎるとして、より分かりやすい鳥越信の主張を紹介しています)。
 日本の児童文学界においては、日本児童文学だけを個別に取り上げて議論することが多かったのですが、筆者が述べているように外国の児童文学や内外の古典や一般文学の影響を含めて総体的に検討する必要があるでしょう。
 例えば、他の記事にも書きましたが、ピアスの「トムは真夜中の庭で」が翻訳された後に日本でもタイムスリップ物がたくさん書かれるようになったり、トールキンの「ホビットの冒険」や「指輪物語」が斎藤敦夫の「冒険者たち」などに影響したり、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の若者の話し言葉を使った文体が日本の児童文学に影響を与えたりなど、興味深いテーマがたくさん見つかりそうです。

戦争児童文学は真実をつたえてきたか―長谷川潮・評論集 (教科書に書かれなかった戦争)
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梨の木舎
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小沢正「目をさませトラゴロウ」目をさませトラゴロウ所収

2020-12-18 13:33:36 | 作品論

 この短編集の表題作です。
 中編といってもいいぐらいの長さがあり、他の短編と違ってかなり風刺性が強く、幼い読者にはやや難しいかもしれません。
 トラゴロウ(実はサーカスのトラであるトラノスケ)を眠らせて、薬に使えるというトラの胆をとろうとする医者や猟師夫婦、さらにはサーカスの団長たちを相手に、トラゴロウをはじめとした森の動物たちとサーカスの動物たちが団結して戦います。
 悪い人間(大人)たちによって、檻(学校?)に入れられたり、搾取されたりしている動物(子ども)たちに、目をさまして戦おうと呼びかけ、最期は動物(子ども)たちの勝利に終わります。
 作者があとがきに述べているとおりに、作者の「ものの見かた・考えかた」が、この作品では特に色濃く表れています。
 その背景については、他の幾つかの記事に詳しく述べているのでここでは触れませんが、作中の「トラゴロウの目をさますうた」や「まちが かわる日のうた(他の記事に全文を引用しています)」の覚醒と連帯を求める痛切な響きは、現在の困難な状況(格差社会、貧困、差別、いじめ、ネグレクト、学校や親の過剰な管理、孤独など)にある子どもたちにとっても力になるものだと思います。
 作者があとがきに述べている「人間の成長とは、その人間のいまだ歳いたらぬ心の中に生れ出た、ものの見かた・考えかたの成長と発展にほかならない」という主張は、児童文学に携わるすべての人間が自覚していなければならないことですが、現在の商業主義に偏った出版状況の中では、「歳いたらぬ心の中に生れ出た、ものの見かた・考えかたの成長と発展」に資する作品のどんなに少ないかを嘆かなければなりません。

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村中李衣「『商品』としての幼年童話は……」日本児童文学1999年1-2月号

2020-12-18 13:31:02 | 参考文献

 児童文学者(作家、評論家、研究者など多面に活動しています)の著者が、幼年童話の古典的な作品と1990年代の商品化された幼年文学を比較して論じています。
 幼年童話で名作と言われている「くまの子ウーフ」、「いやいやえん」、「ながいながいペンギンの話」、「モモちゃんシリーズ」などにおいては、手渡し役としての大人の存在が必要だったとしています。
 読み聞かせにしろ、子どもと一緒に読む形にしろ、大人たちのリアクションが、物語に対する子どもたちの理解を助けるのに有効だったのです。
 子どもたちだけでは、物語の個々の場面には敏感に反応できても、物語全体を理解することは困難であったろうと推定しています。
 これらの物語が書かれてから三十年以上が経過して、親子関係や子どもたち自身の変化(働く女性の増加、子どもたちの識字能力の向上など)から、この論文が書かれた時点では、子どもが単独で本を読むことが増えてきたとしています。
 そして、この傾向に適応している作品として、「かいけつゾロリシリーズ」や「まじょ子ちゃんシリーズ」などをあげています。
 これらの本では、ストーリーで読ませるよりは、擬音語や擬態語を多用して、個々の場面の面白さで読ませているとしています。
 著者自身は、「かいけつゾロリシリーズ」や「まじょ子ちゃんシリーズ」に否定的なようですが、文中では明言していません(この論文のあいまいな表題にもそれが表れています)。
 その理由は、最後に述べられているように、これらに代わるものを彼女自身が提案できないからです。
 この論文を読んで、商品性を前面に出した幼年文学に対する著者の批判の歯切れの悪さが不満でした。
 たしかに、著者は研究者や評論家であるとともに幼年童話の実作者でもあるので、自分自身でこれらに代わるものを書けていない負い目はあるでしょう。
 しかし、それよりも彼女が児童文学業界の体制内の人間であることが、批判の刃を鈍らせているような疑いもあります。
 こうした児童文学界の業界内部への批判精神の欠如が、現在の児童文学の退廃(この論文が書かれてから20年以上がたった現在では、児童文学の商品化は幼年だけでなく全体を覆い尽くしています)を生み出したのかもしれません。

日本児童文学 2014年 12月号 [雑誌]
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小峰書店
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神沢利子「くまの子ウーフ」

2020-12-18 13:27:16 | 作品論

 1969年6月に出版された幼年童話の古典です。
 私が読んだ本は1989年5月の87刷ですから、今ではゆうに100刷を超えていることでしょう。
 また、「ウーフ」はシリーズ化されていて、いろいろと形を変えて多数出版されています。
 他の記事で紹介したように、日本児童文学者協会では、1979年と1998年の二回、現代日本児童文学史上の重要な作品を100冊選んでいますが、その両方に選ばれている作品は35冊しかありません。
 この「くまの子ウーフ」はその中の一冊ですから、児童文学の世界では評価が定まっている作品といってもいいと思います。
 さらに2010年に出た「少年少女の名作案内 日本の文学 ファンタジー編」(その記事を参照してください)の50冊の中にも選ばれていますから、時代を超えた日本のファンタジーの定番と言ってもいいと思います。
 動物ファンタジーとしては擬人化度が高く、ウーフは両親と一緒にまるで人間のように暮らしています。
 しかし、毛皮とか、ハチミツ好きとか、クマならではの特性もうまく生かされています。
 対象読者と同じかやや幼く設定されているウーフが、9編(「さかなには なぜ したがない」、「ウーフは おしっこでできているか?」、「いざというときって、どんなとき?」、「キツツキの見つけた たから」、「ちょうちょだけに なぜ なくの」、「たからが ふえると いそがしい」、「おっことさないもの なんだ?」、「? ? ?」、「くま一ぴきぶんは ねずみ百ぴきぶんか」)からなるオムニバス風の作品に中で、いろいろな発見をする様子には、読者は感情移入して読んでいけるでしょう。
 でも、この本は単なるかわいいお話ではありません。
 それぞれの話の肝の所には、「生きるとは?」、「自分とは?」、「他者とは?」、「死とは?」といった、作者の深遠な人生哲学の問いかけがあって、大人の読者も思わずうならせられてしまう奥深い内容になっています。
 1998年発行の「児童文学の魅力 いま読む100冊―日本編」で、この本の作品論を書いている詩人の坂田寛夫によると、「北海道や樺太で育った神沢にとって、クマはいのちそのもの」とのことですから、それも当然のことかもしれません。
 児童文学研究者で作家の村中季衣は、「あいまい化される「成長」と「私」の問題」(日本児童文学1997年11-12月号所収、その記事を参照してください)という論文の中で、擬人化された物語の中に「私」が消えずにいる例として、「くまの子ウーフ」の中から「ちょうちょだけに なぜ なくの」をあげて説明しています。
 少し長いですが、この本の本質をよくとらえているので以下に引用します。
「青い羽から光が零れるような蝶にひかれて夢中で追いかけるウーフはあやまって蝶を潰してしまう。泣きながら蝶のお墓をつくったウーフに共感した友だちの(うさぎの)ミミがドロップをお供えする。
 そこへきつねのツネタが(註:作品中でリアリストとしてキャラクター設定されています)やってきて「へんなウーフ、さかなも肉もぱくぱくたべるくせして、は、ちょうちょだけどうしてかわいそうなの。おかしいや。」という。
 ウーフは答えることができずに「うー、うーっ。」という。
 作者は、何も語らない。手を出さない。ウーフたちの論理とその葛藤を、じっと見つめている。
<中略>
 神沢利子は大人である。そしてもちろんウーフではない。だからウーフにじっと寄り添ってみる。ウーフがどんな行動に出るのか、どこで悩むのか、じっと待つことができる。目を凝らすことができる。
<中略>
 「私」がいる物語とは、つまるところ、他者の生命の連続性を見守ることのできる物語なのかもしれない。そこには必ず発見があり、喜びがあり、ひとりずつの、これまで大人たちが啓蒙的に使ってきたのとは違う意味の「成長」があると私は信じる。」
 私もこの村中の意見に全く同感です。

くまの子ウーフ (くまの子ウーフの童話集)
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ポプラ社
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大石真「教室205号」

2020-12-18 13:23:52 | 作品論

 現代児童文学のタブー(子どもの死、離婚、家出、性など)とされていたものを描いた先駆的な作品といわれています。
 1969年に出版されたのですが、その前に坪田譲治が主宰した同人誌の「びわの実学校」に連載されていたので、60年代半ばの子どもたちを描いた物と思われます。
 登場する子どもの死や家出以外にも、障害者、貧困、受験競争など、子どもたちを取り巻く様々な問題点を取り上げています。
 シリアスな題材なのに少しも暗くならずに力強く描いている点が、特に優れた点です。
 私の読んだ本は1992年で33刷ですから、読者にも長く支持されていたのだと思います。
 しかし、売れ筋作品最優先の現在の出版状況では、このような作品を出版することは困難でしょう。


教室二〇五号 (少年少女小説傑作選)
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実業之日本社
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