現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

マシラ

2020-02-08 09:34:12 | 作品
 夕方の五時、閉園時間をむかえると、動物園は昼間の喧騒が嘘のように静かになった。
特に、今日のような日曜日には、昼間の騒がしさは平日の数倍にもなる。大勢の観客たちが、檻や囲いに押し寄せてくるからだ。
そのために、夕方には、動物たちはぐったりしてしまう。それで、いつもより静かになるので、昼間との落差はすごく大きい。ときおり、肉食獣の骨をかじる音と、かごの外のカラスが騒ぐ鳴き声が、遠くから聞こえてくるくらいだ。中でも、サル山周辺は、バイソンやラクダなどの草食動物が多いので、普段から静かな一帯だった。
サル山では、今日二度目の食事を、三か所に分かれて食べていた。わずか直径三十メートルばかりの、コンクリート製の「ヤマ」。そのまわりをかこんでいる、幅五メートルほどの空ぼりの「カワ」。こんな小さな場所に、大小五十三匹ものニホンザルが詰め込まれていた。
 第一のエサ場は、「ヤマ」の中央部にあった。
この日当たりの良いエサ場は、トウリョウが、ハハオヤやアカンボたちを従えて、忠実なフクトウリョウたちと共に占領している。今日も、トウリョウは四匹のフクトウリョウ、ハハオヤやアカンボたちとエサを食べていた。
 「ヤマ」の裏手にあたる第二の場所は、ワカモノガシラたちのエサ場だ。
時々、無鉄砲なアカンボが紛れ込むと、彼らはキバをむきだして追い返す。アカンボは大げさな悲鳴をあげて、自分のハハオヤの所へ飛んで帰る。騒ぎが大きくなると、フクトウリョウのうちの一匹が、そちらへ顔をのぞかせにいく。すると、居合わせたワカモノガシラたちは、さり気なくその場を明け渡す。やがてフクトウリョウが元のエサ場へ戻っていくと、何事もなかったようにワカモノガシラたちが再び集まってきた。
 最後のエサ場は、日当たりの悪いカワの中にあった。
そこに、群れの周辺部に住んでいるワカモノたちが集まってきていた。
「ああ、もううんざりしたな」
 今年で四才になるミミカケがマシラに話しかけてきた。ミミカケの左ミミは、前にワカモノガシラたちと争った時にかみきられて、ギザギザになっている。
「何の事だい?」
 マシラは、ホウのミをかじりながら聞き返した。
「早くワカモノガシラになりたいってことだよ。そうすれば、やつらに追いまわされずにすむ」
 ミミカケも、エサのどんぐりを食べながら答えた。ミミカケは、さっきも、こっそり「ヤマ」に行っているところを、ワカモノガシラたちに見つかり、あやうくのがれてきたのだった。マシラやミミカケのようなワカモノたちは、まったく日の差さない「カワ」にいることしか許されていなかった。
「おれは、ワカモノガシラになんかなりたくない」
 マシラがすぐに答えた。
「じゃあ、どうするんだ。ずっとこんな日の当たらない「カワ」でくすぶってるのか?」
 十一匹もアカンボが生まれたので、動物園のサル山はすっかり手狭になっている。 アカンボたちが「ヤマ」に加わるようになってから、ワカモノたちはぜんぜん「ヤマ」にいられなくなっていた。
 前には、冒険心にかられたワカモノたちが、ちょくちょく「ヤマ」に侵入を試みていた。天気が良く、みんながのんびりしている時などには、大目に見てもらえることも多かったからだ。
 でも、今では怒りっぽいワカモノガシラたちがすぐに攻撃してくるので、「カワ」だけで生活するようになっていた
「いいや、いつかきっとこんなニセモノではない「真の山」に行くんだ」
 マシラは、遠くを見つめるような表情を浮かべていた。
「あーあ、またマシラの「真の山」病が始まった」
 ミミカケはマシラに背を向けると、せっせとエサを食べ始めた。

 マシラは、今年三才になったワカモノだ。ニホンザルで三才といえば、まだ十分に大人になりきらない。そう、人間ならば、中学生ぐらいに相当するかもしれない。
 マシラは他のワカモノと同様に、オトナのサルのようなたくましい筋肉も、長い犬歯も持ち合わせていない。
 しかし、彼の体には、オトナたちが持たない柔軟性とスピードが備わっている。その点においては、マシラはワカモノの中でも群をぬいていた。今に立派なワカモノガシラ、いや、その先にはフクトウリョウかトウリョウになる可能性さえあると目されていた。
 マシラは、サル山の他のサルたちと違って、動物園生れではなかった。野生の群れ(といっても餌づけされているので、半野生といった方が正確かもしれないが)の中で生まれたのだ。
 ところが、マシラは生まれてすぐに、人間に捕獲されてしまった。そして、アカンボの間は、人間の手で育てられた。そのころ、人間の中に、ニホンザルの人工飼育を試みるグループがあったのだ。そのグループでは、動物園と野生のサルの群れから、生まれたばかりのアカンボを十匹ずつ連れ出して、一年間、人工的に飼育したのだった。そうした後、今度はそれぞれの出身とは違う場所へ戻した。人工的な環境で育ったことが、その後の生育にどうかかわるのか、追跡調査がなされていた。
 マシラも、そんなサルの一匹だった。だから、彼は自分がどこで生まれたかも知らなかった。生後一週間目に山から連れてこられたので、マシラの記憶は人間によって与えられたオリの中での生活から始まっている。
 飼育場でのマシラは、おとなしいアカンボであった。人間の手をわずらわせるようなことは、ほとんどなかった。それは、動物園に連れて来られてからも一緒だった。
 しかし、マシラの心の奥には、人間に飼われる以前のことがかすかに残っていた。それは、深く高い「真の山」の記憶だった。豊かな食物に恵まれ、自由に暮らせる。たしかに人間の手でエサ場も設けられていたが、そこに顔を出さなければ完全に自由に暮らすことができたのだ。マシラは、この狭苦しいサル山を抜け出して、もう一度その「真の山」へ戻ってみたいと思っていた。
 
 このサル山の群れはトウリョウのリュウを中心に、フクトウリョウ、ワカモノガシラ、ワカモノ、ハハオヤおよびアカンボで構成されている。
 フクトウリョウは壮年のサルたちで、リュウを補佐してヤマを取りしきっていた。
 ワカモノガシラは、七才から十才ぐらいまでの青年のオスザルだ。次代のトウリョウやフクトウリョウの座をねらっている。
 ワカモノは、二才から六才ぐらいまでの成長しきらないオスザルたちだった。
 ハハオヤは、子どもをうめるメスザルで、群れの中心部で生活している。
 アカンボは二才以下のコザルで、ハハオヤと共に行動し、群れの中ではこわいものなしにふるまっていた。
 本来、ニホンザルのトウリョウは、群れの生存に関して、非常に大きな責任を持つ。外敵からの防衛はもちろん、エサの確保、冬の寒さや夏の暑さに対する対処、群れ内での秩序の維持などが、彼の双肩にかかっている。
 ところが、動物園では、その責任の大半は人間が負ってくれている。エサは、きちんきちんと決まった時に十分な量が与えられる。外敵に対する注意といえば、時々、エサをねらいにくるあのあつかましいカラスに、アカンボがつつかれないように気をつければすむ。
 そこで、このサル山のトウリョウであるリュウの関心は、群れの秩序を守ることに集中されていた。本来、秩序の維持は、群れを危険におとしいれないために必要なのだ。
 でも、ここでは単なる自らの保身のためと化してしまっていた。そのため、まったくルーズな部分があるかと思うと、不必要に下位のものたちをしめつけたりもしていた。だから、サル山の下位のものたち、ワカモノやワカモノガシラの不満は、野生のサルたちにくらべてかえって大きかった。そして、一度サル山にクーデターがおこると、野生の世界にくらべてより凄惨なものになることが多い。野生では、けんかや闘争にやぶれたものには、ハナレザルになる道が残されている。
 でも、ここでは場所が狭いこともあって、かなり高い確率で死が決着になることが多かった。クーデターがおこったときに、トウリョウが取る道は二つ。できるだけ強力なフクトウリョウを味方につけて、共同で撃退する。あるいは一騎討ちでいためつける。ただし、この場合は、かなり実力の差がないとともだおれになるおそれが強い。このどちらにも失敗したトウリョウは、注意深い飼育員に決着前に隔離してもらう以外に生きのびる道はない。

 マシラは、頭の上の方で何かがゆれたような気がして、サル山の外壁を見上げた。短い秋の太陽は早くもしずみかかり、空はスモッグでうすよごれたバラ色にそまっている。
(おや?)
 カワの外壁のてっぺんに、何かがぶらさがっている。どうやら上の方では、少し風が出てきているようだ。それはユラユラとゆれていた
 外壁は高さが約五メートル。コンクリートのはだは、風化してざらざらしている。サルたちが外に出るのを防ぐためか、ネズミ返しのように垂直より少し内側にカーブしていた。これでは、よじのぼることに関しては人間の想像を絶するような技量を持つサルたちでも、さすがにはいあがっていくことはできない。
 ゆれている物のはじまでは、四メートル以上もあった。驚異的なジャンプ力をほこるマシラでも、とてもとどく高さではない。
「何を見ているんだい?」
 ミミカケが背後から声をかけてきた。
「あれだ、あれは何かな?」
 マシラは、ふりかえらずにこたえた。
 ミミカケも上をふりあおいだ。
「なんだろうな。ヤマの丸木橋をゆわえているナワのように見えるけど」
「そうだ。おれもそうじゃないかと思っていたんだ」
と、マシラはこたえた。

 外の世界への脱出。マシラは、このことを何度想像してみたことだろう。
 でも、現実的には、それは非常に困難なことだった。サル山と外とを結ぶ唯一の通路は、小さなグリーンの鉄製ドアによって遮断されている。
一日二回、二人の飼育員によって、このドアが開けられる。開園直前の朝の九時半と閉園直前の夕方の四時半だ。かれらは、五十三匹分のエサを三つに分かれたエサ場に運ぶ。それと同時に、サルたちのフンや観客に投げこまれたゴミなどを、きれいに掃除しなければならない。
 サルたちが、このドアをくぐって外部へ出ることは非常にまれだった。病気にかかって園内の動物病院に連れていかれる時か、年に数回行われるサル山の大そうじの時だけだ。ただし、ハハオヤたちは、お産のために別のおりへ行くこともあった。
 でも、いつも厳重な監視つきで、隙を見て脱出することはとてもできそうになかった。
(もしかすると、あのロープは、外の世界へ脱出する千載一遇のチャンスかもしれない)
 マシラは、なわを見上げながら考えていた。あのなわにつかまることができたら、壁をよじ登ることができるに違いない。ただ、あのなわが、きちんと自分の体重を支えてくれるかどうかが不安だった。
 もし、なわが手すりか何かにしっかりとつながれていなかったら、ぶらさがってもあっという間にはずれてしまうだろう。そうしたら、コンクリート製の床にまっさかさま。運良く死ななかったとしても、大怪我はまぬがれないだろう。

 あたりがすっかり寝静まった頃、マシラは動き始めた。それまでは、「カワ」でほかのワカモノたちといっしょに寝ているふりをしていたのだ。
 マシラは、他のワカモノたちをおこさないように気をつけながら、ゆっくりと移動していった。これから、「ヤマ」に侵入しようというのだ。
 「ヤマ」と「カワ」とは、ほぼ百八十度はなれた二か所の石段でむすばれている。
マシラは、石段までいくと、あたりをうかがった。
さいわい、ヤマに住んでいるリュウを初めとしたサルたちは、すっかり寝静まっているようだった。マシラは、体を低くしながら、慎重に石段を登っていった。
しばらくして、マシラは石段の上まで登りきった。あいかわらず、「ヤマ」は静かなままだ。今度は、マシラはヤマの外周に沿ってゆっくりと進んでいった。
(あった!)
 ロープは、あいかわらず外壁の手すりにぶら下がっていた。
 でも、風がやんだのか今はダラリとしたままだ。
外壁がこちらに向かってカーブしているおかげで、ロープまでの距離は4メートルほどしかなかった。ロープの下の端は、ヤマとちょうど同じぐらいの高さだった。
 助走をつけて思いっきりジャンプすれば、なんとかロープをつかむことができそうだった。
 しかし、もしキャッチできなかったら、……。
 そう思うと、さすがのマシラも、踏ん切りがつかなかった。
 マシラは、ロープをにらんだまま動けなくなっていた。

 ついに、マシラの足が、おもいきって岩をけった。全身のバネを使ったジャンプで、マシラの体は大きくこをえがいて、ぎりぎりかべに達した。
「ギャッ!」
 小さくマシラはさけんだ。四足でクッションをきかそうとしたが失敗して、いやというほどかべに顔をうちつけてしまった。
 でも、必死にさぐった左前足にロープがさわった。マシラはそれに一心にしがみついた。マシラの全体重がロープにかかる。 ギッと音がして、手すりがきしんだ。
 しかし、ロープは期待通りにマシラの体をしっかりと支えてくれた。
「マシラ、どこへ行くんだ?」
 ふりかえると、ミミカケがヤマのふちまでよってきていた。マシラの顔の痛みは、ほとんどおさまっている。血も出ていないようだ。
「どこって、外へさ。『真の山』をさがしてみたいんだ」
 マシラは、そういってロープをたぐりはじめた。
「そうか、やっぱり行くのか」
「ああ」
「おれも行こうかな」
 ミミカケがそういうと、マシラは意外な感じがした。今まで、ミミカケはマシラの「外の世界」の話に、あまり乗り気じゃなかったからだ。
 ミミカケは、意を決したように数歩うしろに下がった。そして、いきおいよく前へ走り出した。
 でも、「川」からの高さを恐れたのか、ミミカケは目をつぶって飛んでいた。そのためか、少しいきおいがつきすぎていた。
「ギャーッ」
 ミミカケは、もろにかべに激突してしまった。マシラは、とっさにミミカケの前足をつかんだ。そうしなければ、四メートル下の川へ墜落して、ミミカケは死んでしまったかもしれない。
「だいじょうぶか?」
「……」
 痛みのせいか、ミミカケはしばらく返事をすることもできなかった。

「おまえたち、どこへ行くんだ?」
 いきなり、うしろからトウリョウの声がした。ミミカケの悲鳴を聞かれてしまったのかもしれない。このサル山のトウリョウのリュウは、今年十七才になる堂々としたオスザルだった。
「外へ、外の世界へ」
 マシラが振り返って答えると、リュウのまわりでどよめきが起こった。いつのまにか「ヤマ」のがけっぷちには、フクトウリョウやワカモノガシラをつとめる主だったサルたちが集まってきていた。動物園生まれの彼らにとって、この狭いサル山がすべての世界だった。「外の世界」、それは恐怖に満ちたまったくの未知の世界にすぎなかった。
「ここを出ても、まわりは人間や猛獣がいるだけだぞ」
 トウリョウが冷たい声でいいはなった。
「違う。おれの故郷、「真の山」へ行くんだ」
「真の山!」
 まわりからふたたびどよめきがおこった。そういう彼らにも、どこかにサル山とは違う本物の山があるかもしれないといううわさは、伝わってきていた。
「馬鹿な。そんなものは、ありはしない」
 リュウは、みんなの動揺をおさえるように叫んだ。
 マシラは、リュウのいうことを無視して、ロープをよじ登り始めた。ワカモノの中でも群を抜いて敏捷なマシラにとって、2メートルばかりのロープを登るのはわけなかった。スルスルと、あっというまにてっぺんまでたどりついた。
「来いよ」
 マシラは、下でじっとしているミミカケに声をかけた。
 ミミカケはリュウたちのことを気にしているようで、その場にとどまっている。
 しかし、リュウたちに何かができるはずもなかった。マシラたちのようにロープへ飛びつくことも、ましてや恐ろしい外の世界へ行くことなど考えられなかった。
「馬鹿め。野垂れ死にすればいいわ」
 リュウはそう捨て台詞をはくと、その場を立ち去って行った。群れの他のメンバーもその後を追って行った。
 ロープにはマシラとミミカケだけが残された。
「来いよ」
 マシラが、もう一度ミミカケに声をかけた。
「うん」
 今度は、ミミカケもゆっくりとロープを登り始めた。

手すりをのりこえると、マシラはあたりの様子をうかがった。まわりの檻にいる動物たちの、静かな寝息がきこえてくる。わずかに夜行性の動物たちが、遠くで走り回っている足音が、かすかに伝わってきているだけだった。
 ようやく、ミミカケが手すりの上におそるおそる姿をあらわした。ミミカケの体が、月の光にてらされて白く光った。
「いくぞ」
 マシラはミミカケに低く声をかけると、未知の世界へ一歩を踏み出した。
 マシラは、気をひきしめながら前へ進んでいった。どちらに行ったらよいのか、まったくあてはなかった。
 少しためらった後、ミミカケも続いた。ミミカケは、さっき痛めたのか左後足をひきずっている。
 マシラは少し進んでは、後からゆっくりくるミミカケを待ってやった。
 ハーッ、ハーッ。
 まだ進み始めたばかりなのに、ミミカケの呼吸はもう荒くなっていた。痛めた左足のダメージは相当大きいらしい。

ゆっくりと進んでいたマシラが立ち止まった。
(何か恐ろしいものが前方にいる)
 マシラの直感がそう告げている。
プーンと、生臭いにおいが鼻についてきた。
「ガルルル、どこへ行くんだ」
 恐ろしげな低い声がした。
「外へ」
 マシラが答えた。
 そのとき、月を覆っていた雲がはれた。
 前方にいたのは、大きなトラだった。
 しかし、トラは檻の中だった。彼もまたとらわれの身なのだ。
 マシラは、おそるおそるその前を進んでいた。ミミカケも続く。
「ガオオ、ちくしょう」
 トラが悔しそうにほえた。
 途中でさんざん行き先を迷ったすえに、ようやく動物園を囲っているフェンスにたどりついた。その間も、猛獣の檻のそばを通るときにはドキドキしたが、彼らも自分たちと同じようにとらわれていることがわかったので、なんとか突破できた。さいわい人間には見つからずに、ここまでくることができた。

「先にのぼるぞ」
 マシラはミミカケに声をかけると、スルスルとフェンスのてっぺんまでよじのぼった。
「ちょっと待ってくれ」
ミミカケも、なんとか後に続いた。
 マシラは動物園のフェンスをのりこえた後、しばらくあたりのようすをうかがっていた。
真夜中になる少し前、まわりの家では、そろそろ電気を消して寝ようとしているころだろうか。マシラたちのいる道路は、電灯でぼんやりとてらされている。
 ブオーン。
百メートルほど前方に、いきなり強く光る物体があらわれた。
それは、大きな音とともにみるみるマシラたちに近づいてくる。マシラたちは、金縛りにあったかのように、そこにたちすくんでいた。
 パパーン。
その物体は激しい音を立てると、すごいスピードでマシラのかたわらを通りすぎていった。一瞬遅れて、まきおこした風がマシラたちをつつんだ。
(なんだろう?)
 自分たちには、目も留めずに行ってしまった。どうやら敵ではなさそうだ。
 マシラは、物音を立てないように気をつけながら、フェンスぞいを進んでいった。五、六メートル進んでは、ミミカケを少し待つ。ミミカケはあいかわらず少し左後足をひきずっている。

「ガウウ、誰だ」。
 いきなり近くでうなり声がしたので、マシラはとびあがってしまった。
前方に何かがいる。
 やがて街灯の下に姿をゆっくりとあらわしたのは、大きなブチイヌだった。舌をダラリとたらして、獰猛そうな顔でこちらをにらんでいた。犬は、動物園と地続きのヤマに住んでいる野犬だった。
 マシラは今までにも、その犬を見たことがあった。前に、どこからか園内に紛れ込んできたのだ。犬は、柵の外からサル山をのぞきこんでいた。サル山中に危険信号が発せられ、トウリョウのリュウ以下主だったサルたちが山から威嚇した。
 そのときは、カワまでの高さにはばまれて、犬はそのまま侵入してこなかった。
 でも、今日は、なんの障害もなくブチイヌはこちらにむかっている。マシラは、今までのサル山での生活がいかに安全であったかを思い知らされた。
「フェンスにのぼれるか?」
 マシラはブチイヌとにらみあったまま、ふりかえらずにミミカケにたずねた。
「ああ、なんとかのぼれそうだ」
 ミミカケが答えた。
 マシラの敏捷性をすれば、ブチイヌを振り切るのはたやすいことだった。
 でも、足をけがしているミミカケには無理だ。なんとか、ミミカケが逃げる時間をかせがなければならない。
「今だ、よじのぼれ」
 マシラはミミカケに声をかけると、わざとブチイヌの目の前に飛び出した。
  
「ワン、ワワン、逃げられないぞ」
 ブチイヌがとびかかる。マシラはそれをからくもかわして、懸命に走り出した。
 マシラは、必死に走っていた。こんなに全速力で走るなんて、はじめての経験だった。夜更けの人気のない道路をひたすら逃げていった。
 でも、平らなところを走ることにかけては、犬の方が一枚上手だ。ブチイヌはすぐに追いつくと、マシラの左ももにガブリとかみついた。激しい痛みが、マシラをおそってくる。
 しかし、マシラはけんめいに体をひねると、とっさに犬の右目をかきむしった。
「キャーン。いててえーっ」
 ブチイヌが、悲鳴をあげて口をはなした。すかさず、マシラはかたわらにあった電柱をよじのぼった。
「ワン、ワワーン。降りて来い」
 下ではブチイヌが、マシラめがけてとびついてくる。
 マシラは、すぐにへい越しに家の屋根へ乗り移った。ここならブチイヌのジャンプも届かない。
「ワオーン。ちくしょう」
 下の道路で、くやしそうにほえるだけだ。
 マシラは、家々の屋根を伝わりながら、どんどん前へ進んでいった。
 ブチイヌはしばらくマシラを追いかけていたが、やがてあきらめたのか、どこかへ行ってしまった。

しばらくの間、マシラは屋根の上でじっとしていた。ブチイヌは、もうもどってこなかった。
 でも、いつまで待っても、ミミカケも姿をあらわさなかった。
(どこに行ってしまったのだろう)
 どんなにたよりなくても、ミミカケはたった一匹の道連れだったのだ。いなくなってみると、なんだか心細かった。
 しかし、このままここにじっとしていることができないことは、マシラにもわかっていた。やがて朝が来たら、どんなに身を隠していても、人間たちに発見されてしまうだろう。
(人間たちがやってくる)
 そう考えただけでも、マシラには恐怖がつのってきた。
 マシラは、人間が自分に危害を加えるとは思っていなかった。今までも、人間たちはマシラの自由を奪うだけだった。
人間たちにつかまったら、おそらく動物園へ戻されてしまうだろう。そこには、メンツをつぶされたリュウを初めとした、サル山のメンバーがいる。きっとマシラは、ひどいリンチを受けるに違いない。もしかすると、殺されてしまうかもしれないと思った。
それに、真の山を目指さないうちに、おめおめとサル山に戻される気はなかった。
(なんとかしなくては)
 マシラは懸命に考えていた。

(あれはなんだろう?)
 道路の反対側にこんもりとした物があった。その後ろ側には、ポッカリと洞窟のように開いている。
(身を隠せるかもしれない)
 マシラはそろそろと屋根から下り始めた。 
 マシラの入った洞窟は、幅も狭かったが奥ゆきもそれほどなかった。はじの方には、何か油くさいにおいのする木箱が重ねてあった。
 マシラは奥まで入っていくと、そこに倒れこんだ。
 マシラは、床にころがったまま動けなかった。さいわい左もものかみ傷は、それほど深くなかった。血も固まりはじめている。
 しかし、さきほどからの激しい運動と極度の緊張のために、身も心もくたくたになっていた。
 薄れていく意識の中で、マシラはミミカケのことを考えていた。フェンスに上ってから、ミミカケはどうしただろうか。動物園に戻ったのだろうか。それならば、きっと飼育員に見つかって、無事にサル山に戻れるだろう。左後ろ足のけがのことを考えると、それがいいかもしれない。
 それとも、ひとりでどこかに向かったのだろうか。マシラには、戻っていったブチイヌのことが気がかりだった。
(もし、ミミカケがブチイヌに見つかったら、……)
 マシラは、ミミカケがブチイヌの追撃をふりきって、なんとか逃げてくれと祈った。
 しかし、それも長くは続かなかった。マシラは自分の体を小さくおりまげるようにして丸くなると、あとはコンコンとねむるだけだった。今、外敵におそわれたならば、のがれるすべはなかった。

「いけねえ、ドアを閉めるのをわすれちまったなあ」
 若い男が車の荷台のドアを閉めると、ガシャンと鍵をかけた。
「タカちゃん、荷物はOK?」
 建物から出てきた帽子をあみだにかぶった中年の男が、若い男に声をかけた。
「ええ、もうだいじょうぶです。昨日のうちに積んでおきましたから」
 若い男は荷台の後ろ側から、返事をした。
 二人は運転席に乗り込んで、いきおいよくドアを閉めた。
 エンジンをかける音がして、貨物トラックがゆっくりと動き出した。
 その荷台の中では、マシラがぐっすりと眠っていた。
マシラが洞窟だと思って入り込んだのは、ドアを閉め忘れたトラックの荷台だったのだ。
 トラックは、朝のすいている道路をどんどんとばしていく。
しばらくして、インターチェンジで高速道路に乗り込んだ。
トラックは、北西の方向にドンドン進んでいく。
東京を離れると、神奈川県、山梨県を経て、やがて長野県にたどりついた。

 二日後の新聞に小さな記事が出た。
「サル山から逃亡!? あえなく憤死!?」
 十四日深夜、動物園のサル山から二匹のニホンザルが逃亡した。翌日、飼育員が気づいたが、警備員によると、前夜十一時すぎにサル山でひとさわぎがあったとのことであるので、その時に逃げたものと思われる。そのうちの一匹(四才オス)が翌朝、五百メートルはなれたY町三丁目の民家のうえこみで死んでいるのを、その家の主婦が発見した。死因は野犬にかまれたものとみられる。なお、もう一匹逃走中の三才のオスザルは、まだ発見されていない」
 マシラとはぐれたミミカケは、あの後、引き返してきたブチイヌに見つかってしまった。傷ついた足を引きずりながらけんめいに逃げたが、とうとう追いつかれてしまった。
 ミミカケは激しく抵抗したものの、鋭い牙をもったブチイヌにかなわずにかみ殺されてしまった。
 一方のマシラは、そんなことは夢にも知らず、「真のヤマ」を目指して進んでいた。
 トラックが長野県の目的地に着いた時、マシラはすでに目をさましていた。
 ガタンガタン。
 激しく振動するトラックの中で、マシラは自分がどこにいるのかなかなかわからなかった。
 しかし、そのうちにかすかな記憶の中で、自分が小さいときに「自動車」に乗せられたことがあるのを思い出した。
 やがて、目的地に着いたトラックが停車した。マシラは入り口付近で隙をうかがっていた。
 若い男がドアを開いた。
「あっ!」
ドアが開いた瞬間に、マシラはいきおいよく外に飛び出し、一目散に逃げ始めた。
マシラの目指す「真の山」はもう目と鼻の先だった。


マシラ
平野 厚
メーカー情報なし


 
 

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