現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

高橋源一郎「さよなら クリストファー・ロビン」さよなら クリストファー・ロビン所収

2018-06-13 07:28:01 | 参考文献
 童話、児童文学、漫画、映画などの登場人物を借りて書かれた連作短編集の表題作です。
 題名のクリストファー・ロビンは、有名なA.A.ミルンの「くまのプーさん」に出てくる少年で、ミルンの息子でもあります。
 「くまのプーさん」はクリストファー・ロビンのために書かれた作品で、続編の「プー横丁にたった家」のラストで、他の登場人物がクリストファー・ロビンに別れを告げた時に、くまのプーさんだけはクリストファー・ロビンと一緒に旅立つシーンが印象的です。
 少年時代の終わりと変わらぬ友情を象徴的に描いていて、あまたの児童文学の作品の中でも屈指のラストシーンだと思います。
 この高橋の作品でも、世界全体が虚無に取り囲まれた中で、クリストファー・ロビンとくまのプーさんというフィクションだけが最後まで友情を保つラストシーンは、原作のラストを踏襲していています。
 細かい点ですが、「くまのプーさん」の他の登場人物の名前が、日本でも古典になっている石井桃子の訳と異なっています。
 高橋が原書を読んでこれを書いたのならいいのですが、「まさかディズニーじゃないよな」と少し気になりました。
 この作品では、それ以外に「浦島太郎」、「七匹の子ヤギ」、「三匹の子ブタ」、「赤ずきんちゃん」、「不思議の国のアリス」といった古典的な童話や人気絵本の「あらしの夜に」のパロディもしているのですが、これらはもっと優れたパロディを知っているのであまり感心しませんでした。
 また虚無に対するフィクションという対置も、ミヒャエル・エンデの「ネバーエンディング・ストーリー」のパロディなのでしょうが、どこまで成功しているかは疑問に思いました。

さよならクリストファー・ロビン
クリエーター情報なし
新潮社
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池井戸潤「銀翼のイカロス」

2018-06-11 08:36:27 | 参考文献
 大人気の半沢直樹シリーズの第四弾です。
 今度の相手は、航空会社の債権問題で暗躍する再建屋の弁護士、政権交代直後の未熟な政治家たちです。
 明らかに、日本航空の再建問題や民主党による政権交代時のゴタゴタを参考にしています。
 登場人物のモデルが目に浮かぶようでそれはそれで面白いのですが、カリカチュアが過ぎて問題が個人の資質へと矮小化されていて政治風刺としては物足りません。
 もちろん、半沢直樹を初めとしたお馴染みのメンバー(銀行内部だけでなく、金融庁の黒崎も)の活躍は楽しいのですが、小説のオリジナルのキャラクターよりも、テレビドラマで俳優たち(堺雅人、及川光博、北大路欣也、滝藤賢一、吉田鋼太郎、片岡愛之助など)が演じたキャラクターに寄せて書いている感じがしました。
 その方が、テレビドラマを見た後で読み始めた新しい読者(私もそうですが)には受けるし、読みやすいのでしょう。

銀翼のイカロス (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラッタウット・ラープチャルーンサップ「カフェ・ラブリーで」観光所収

2018-06-10 08:51:50 | 参考文献
 11歳の少年が「子ども時代とサヨナラする一日」を、後日談も交えて、回想する形で描いています。
 そういった意味では、広義の児童文学といえるかもしれません。
 しかし、タイの状況は日本のそれと違って、かなり過酷なものです。
 家庭崩壊、貧困、シンナー遊び、売春宿、無免許バイク運転など、いずれも日本でもあることばかりですが、小学生の眼からは、特に児童文学の世界では、巧みに隠蔽されています。
 しかし、格差社会の広がりにより貧困に苦しむ子どもたちが急増している現在では、他人事ととはいえません。
 こういった現状を描く児童文学が日本でも誕生してほしいのですが、売れ線至上主義の現在の出版状況ではそれは無理なことでしょう。

観光 (ハヤカワepi文庫)
クリエーター情報なし
早川書房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学のエンターテインメント作品を書く上での最低条件

2018-06-08 08:01:49 | 考察
 児童文学でもエンターテインメントである以上は、大人向けのエンターテインメントと同様にその書き方の作法のようなものが存在します。
 楽しく読めなければ仕方がないので、典型的な人物配置、偶然の多用、荒唐無稽な設定、どんどん読み飛ばせる文章(余白、会話、擬音の利用や短いセンンテンスなど)、サービスシーン(恋愛シーン、イケメンや美少女などのビジュアル面)などは、余り目くじら立てないで許容されるべきでしょう。
 そうはいっても、最低限の守るべき条件のようなものがあると思います。
 例えば、偶然の多用においても、それが都合のいい大人の登場人物の存在だったりするのは問題でしょう。
 それでは、肝心の主役の子どもたちが活躍する余地が少なくなるので、彼らに感情移入して読んでいる読者の子どもたちはが欲求不満になってしまいます。
 登場人物も読者も、あくまでも子どもたちが主役なのです。
 登場人物の書き方においては、児童文学では大人向けよりもさらにキャラクター性が求められているので、もっと登場人物をデフォルメするためにライトノベルなどで使われている記号化の手法が用いられるべきだと思います。
 また、エンターテインメントとはいっても、最低限のリアリティは保証したほうがいいでしょう。
 頭の中だけで書き飛ばさずに、きちんと取材などの調査をして書く必要性は言うまでもありません。

ファンタジーのつくり方―エンターテインメントを創造するためのマニュアル (オフサイド・ブックス)
クリエーター情報なし
彩流社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

庄野潤三「二つの家族」庄野潤三全集第四巻所収

2018-06-07 18:21:31 | 参考文献
 この作品も、作者がアメリカの田舎町ガンビアに派遣されていた時の話です。
 二つの農家の家族の想い出について書かれていますが、どちらも一回会っただけで作者との関わりが浅すぎて、しかも創作度が低いのでまるで素人の日記のようです。
 こうした題材に特に魅力が見出せなく、しかも作者の対象への思いが深くない場合には、作者の創作方法の限界が露骨に表れてしまいます。

庄野潤三全集〈第4巻〉 (1973年)
クリエーター情報なし
講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学におけるメルヘンの復権

2018-06-07 07:24:55 | 考察
 1950年代にスタートした「現代児童文学」が終焉した現在、「現代児童文学」が批判した「近代童話」、中でもメルヘンが復権していると思われます。
 その外的要因としては、小学校高学年の子どもたちの本離れないしはエンターテインメント作品のみが消費されている現状では、児童文学の媒介者(両親、教師、図書館の司書、読書運動の活動家などの大人たち)の影響が大きい幼年児童文学(小学校三年生以下が対象)や絵本が、児童文学における最後のフロンティアであることがあげられます。
 そういった領域では、「現代児童文学」が追求してきた叙事性よりも抒情性が求められること多く、メルヘンの手法が有効です。
 また、愛情、友情、美などのような普遍的なテーマを描くのに(特に叙情的に描くのに)は、メルヘンの手法はより有効だと思われます。
 もちろん、メルヘンは日本でも百年を超える伝統を持ち、多くのすぐれた作品がすでにあるのですから、これらにはない書き手ならではの新しい発見、研ぎ澄まされた文章、洗練された表現などが求められることは言うまでもありません。

メルヘンの深層―歴史が解く童話の謎 (講談社現代新書)
クリエーター情報なし
講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津村記久子「苺の逃避行」ポースケ所収

2018-06-06 08:12:01 | 参考文献
 この短編では、冒頭の短編にも出てきた小学校五年生の女の子が主人公ですが、作品集全体の舞台である「喫茶・食事 ハタナカ」は出てこないで、彼女の学校が舞台です。
 「ハタナカ」にやってくる多彩な女性が出てこないせいか、全体に精彩を欠いています。
 ドッジボールの時に外野の方が好きで、飼育栽培委員の活動では顧問の先生の目を逃れて古いプランターに苺を植えている主人公は、なかなか魅力的なのですが、作品では十分に生かされていません。
 話の展開が、見つからないようにあちこち場所を変えて世話されている苺よりも、教師たちの三角関係の方に収斂されてしまってつまらなくなっています。
 アラフォーで、おそらく独身の津村には、働く女性よりも小学校五年の女の子の方が遠い存在だと思われるので、津村自身の過去の経験と想像に頼って書いているように思え、全体の描写に具体性が欠けていて、現代の小学校の女の子からは遊離してしまっているのかもしれません。
 ただ、女性群像の中に、大人だけでなく小学生も含めて描いているのは、大人と子どもの共棲が必要な現代においては、重要な試みだと評価できます。

ポースケ
クリエーター情報なし
中央公論新社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

用心棒

2018-06-05 15:12:02 | 映画
 黒澤明の作品の中でも、最も娯楽色の強い作品のひとつでしょう。
 ふらりと宿場に通りかかった風来坊の浪人が、宿場を二分して争っているやくざ集団の、どちらかに加担すると見せかけてうまくあやつり、最後はどちらも全滅させます。
 主役の三船敏郎はもちろんですが、志村喬、加藤大介などの黒澤映画おなじみの俳優たちが、個性豊かな悪人たちを演じています。
 中でも、まだ若手だった仲代達矢が、妙な色気を持った伊達男の悪党を演じて、むさくるしい感じの主役の用心棒と好一対で作品を盛り上げています。
 その後、イタリアで「荒野の用心棒」という西部劇に無断でリメイク(その後、オリジナルの配給元の東宝が、裁判に勝訴しています。)されて大ヒットして、マカロニウェスタンと言う新ジャンルを確立したのですから、この作品のエンターテインメント性がいかに優れていたかがわかります。

用心棒 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
東宝
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石井直人VS宮川健郎「『ズッコケ三人組』とは何か」ズッコケ三人組の大研究ファイナル所収

2018-06-05 08:03:40 | 参考文献
 三冊組の「ズッコケ三人組の大研究」のファイナルで編者の二人が、「ズッコケ三人組」シリーズ五十冊完結を受けて対談をしています。
 「ズッコケ三人組」シリーズは、作品の中での時間が進行しない「循環型」の典型だけど完結篇の「ズッコケ三人組の卒業式」では、作品の中での時間が進行していく「進行型」になったことを指摘しています。
 「循環型」はまんがやアニメでは常套的なやり方で、「サザエさん」や「こち亀」など、長期間続く一話読みきりの作品はみなこのタイプです。
 また、「コボちゃん」のようにネタにつまると、その時だけ「進行型」に変えて小学生にして妹の「ミホ」ちゃんという新キャラクターを登場させてプロットを複雑化させることも行われます。
 そのあたりは、児童文学研究者の佐藤宗子が、「幼年童話における「成長」と「遍歴」」(その記事を参照してください)という論文で、松谷みよ子の「モモちゃん」シリーズを中心にして詳しく解析しています。
 「ズッコケ三人組」シリーズの中では「子どもの遊びの世界そのものが全体になってしまったような作品」が子どもたちは好きだという分析がありますが、これもまんがやアニメの世界では常識で、その作品が人気がなくなると(児童文学と違って商品性にシビアな世界なので、読者投票や視聴率といったリアルタイムで客観的な尺度があります)スポーツものなら試合のシーン、ヒーローものなら戦闘シーンを多くする(特にトーナメント方式がうけます)のがカンフル剤として有効だと言われています。
 石井は、「『ズッコケ三人組』の児童文学としての特徴」として、以下の八点をあげています。
1.キャラクター(平面人物)(ここで平面人物とは、例えばハチベエならおっちょこちょいという面だけを造形した人物をさします)
2.漫画家・前川かずおの絵
3.シリーズ・フィクション
4.循環型(進行型ではなく)の時間
5.空想物語と日常物語
6.社会問題
7.三人称の客観的な文体
8.基本形としての探偵小説
 このうち、1から5はすでにマンガの世界ではすでに行われていたことであり、そういった意味では、「ズッコケ三人組」シリーズでは、「文字で読む」マンガというエンターテインメントの新しいジャンルを1978年に確立し、出版バブルであった80年代、90年代に爆発的にヒットし、多くの後継シリーズ(一番成功したのは「ゾロリ」でしょう)を生みだしたのです。
 6については、「ぼくらは海へ」などのシリアスな児童文学も書く那須正幹ならではの大きな特徴ですが、「教訓臭くなる」というもろ刃の刃でもあったと思われます。
 7は、1から5のマンガ化を文体として支えているわけですが、2000年代になると読者がついていけなくなっていたかもしれません(「ズッコケ三人組」シリーズは2004年で終わっていますし、友人のエンターテインメント作家によると、男の子より読書力のある女の子向けでもオーソドックスなラブコメは最近パッタリと売れなくなっているそうです。現在は、もっとキャラを強調し、文章もアニメのセリフ調の作品が、児童文庫を中心に売れ筋の主流になっています)。
8.に関しては、「ズッコケ三人組」シリーズが登場する前にエンターテインメントとして読まれていたのは、ルパンやホームズや少年探偵団といった子供向けの探偵小説だったので、まさに「ズッコケ三人組」シリーズはその後継者として王道をいっていたわけです。
 石井と宮川は、「ズッコケ三人組」シリーズの登場人物をアンチ・ヒーロー(弱点を持っているゆえに読者に親近感を抱かせる)に分類していますが、これもマンガの世界ではドラエモンののび太くんを筆頭にすでに確立されていました。
 以上のように、「ズッコケ三人組」シリーズは、「文字で読むマンガ」として大成功をおさめたわけですが、いつも疑問に思うのは、それならなぜ子どもたちはマンガそのものを読まずに、「ズッコケ三人組」シリーズを読むのかということです。
 それに対しては、「「マンガ」だと親に怒られるけれど本だと買ってもらえるから(親がマンガよりましだと思っている)」とか、「マンガのようだけど、それでも一冊の本を読んだことになるから(読書や読書感想文のノルマが教師などによって課せられている)」といった消極的理由がよく述べられますが、「文字で読むマンガ」ならではの魅力や読書動機について、ここでも言及がなく残念でした。
 エンターテインメント作品を正しく評価する上で、この疑問は非常に重要だと思っているので、これからも考察を重ねていきたいと思います。

ズッコケ三人組の大研究ファイナル―那須正幹研究読本 (評論・児童文学の作家たち)
クリエーター情報なし
ポプラ社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大学の児童文学サークルと児童文学研究

2018-06-04 08:48:00 | 考察
 高校二年の夏休みに、石井桃子たちの「子どもと文学」を読んで、大学では学部ではコンピューターサイエンスを、サークル活動では児童文学を研究しようと思いましたが、児童文学研究会に入会してその期待はあっさりと裏切られました。
「早大児文サークル史」を紹介する記事で、「児童文学研究会」が児童文学を研究する場でないことはすでに書きましたが、他の大学でも同様のようです。
 「日本児童文学2011年7-8月号」で、「学生の児童文学運動いまむかし」という特集がありました。
 そこでは、早稲田大学児童文学サークル(早大童話会、少年文学会、児童文学研究会)と東京学芸大学児童文学研究部の新旧会員による座談会が載っていますが、作家志望者はまだかろうじて残っているものの研究志向はまったくないようです。
 特集には、国学院大学児童文学会、東京大学児童文学を読む会、二松学舎大学児童文学研究会の紹介文ものっていますが、それらも含めてどこも研究会とは名ばかりで、好きな作家や作品について話したり、お話を作ったりする同好会的なサークルばかりのようです。
 あきらめが悪いようですが、念のために早稲田大学児童文学研究会の後輩に、児童文学研究をしたい学生がサークルにいるかどうかをきいてみました。
 予想通りに、児童文学をテーマに卒業論文を書くメンバーなどはいるものの、大学院に進んでまで児童文学研究を志す人はいないようでした。
 メンバーで児童書も含めて編集者を目指している人は多いようですが、彼らも大学院には進まずに(早稲田大学には編集者育成のための大学院の修士コースがあります)直接出版社に就職したいと就活をしているようです。
 それに、もし仮に大学院に進みたいと思っている人たちがいるとしたら、現状の児童文学研究会のレベルでは物足りないでしょう。
 現在の児童文学研究会には、児童文学に興味があって入る人よりも、小説が書きたかったり、たんに会の居心地がよくてという理由で入る人たちが多いようです(昔からそうでしたが)。
 また、児童文学研究会で一番共通に読まれている作家は会のOGの荻原規子で、その他では宮沢賢治、上橋菜穂子、梨木香歩などが人気なようですが、サークル員の全体数が増えたので、誰もが読んでいる作品を挙げることは難しいとのことです。
 そもそも「児童文学とはなにか」といったテーマ評論を行うぐらい、児童文学とYA(ヤングアダルト)、ライトノベルなどのジャンル分けがわからなくなっているようです。
 やはりここにも作家志望者はまだいるみたいですが(もう早稲田を卒業してから三十年近くもたつ、いとうひろしや荻原規子以降に、実際に専業の作家になった人がいるかどうかは知りませんが)、研究志向はますます弱くなっているようです。
 児童文学を専攻できる大学院は梅花女子大と白百合女子大(大学院は男性も入学できます)しかありませんし、他の大学の児童文学サークルもこのような現状ですから、児童文学を研究する場は本当に限られています。


日本児童文学 2011年 08月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラッタウット・ラープチャルーンサップ「ガイジン」観光所収

2018-06-03 15:16:51 | 参考文献
 タイとアメリカのハーフの若者の視点で、タイにおける「ガイジン」観光客(特にアメリカ人)たちの理不尽なふるまいを描いています。
 今までそういった視点で書かれた本は読んだことがなかったので、社科学的には興味深かったのですが、翻訳がまずいのか文芸論的にはあまり評価できませんでした。

観光 (ハヤカワepi文庫)
クリエーター情報なし
早川書房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同人誌の合評会に長編を出す場合の注意点

2018-06-02 09:59:23 | 考察
 同人誌の合評会に出される作品は短編が多いのですが、時には長編を合評してもらいたい場合もあると思います。
 その場合は、短編の時とは違った注意が必要です。
 例えば、冒頭部分だけが提出される場合がありますが、それでは読み手にはこれからどういう展開になるのかわからないので、適切な批評ができません。
 その場合のアプローチは、その長編がどういうタイプなのかにもよります。
 短編構想の長編の場合は問題ありません。
 まず短編として仕上げた段階で、合評会にだせばいいのです。
 そこでふくらませるアイデアを皆から得て、それも参考にして中編ないし長編に仕上げて、そこでまた合評会に提出して意見をもとめればよいと思います。
 作品の長さによっては、このプロセスを数回繰り返すこともあるかと思います。
 次に長編構想の長編の場合ですが、執筆に時間がかかることもあり、途中でアドバイスをうけたい場合もあると思います。
 その場合は、書きあげた所までの原稿に、全体の構想を示すシノプシスを添付すれば、より適切なアドバイスが得られるでしょう。
 また、どんな点で行き詰っているかなどの具体的にアドバイスを求めている事項を示せば、良い意見をもらうためにさらに効果的だと思います。

1週間でマスター 長編小説のかたち―小説のメソッド〈3〉未来への熱と力 (1週間でマスター―小説のメソッド)
クリエーター情報なし
雷鳥社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学における破天荒な登場人物

2018-06-01 08:59:41 | 考察
 児童文学において、破天荒な登場人物(主人公の場合も脇役の場合もあると思います)が設定されることがあります。
 しかし、それは単に反モラルな設定(例えば、未成年の登場人物や母親などが、たばこを吸ったり、お酒を飲んだりする)だけで、結果としてそれが悔い改めてモラリスティックな結末に終わるという展開の事が多いと思われます。
 それには、児童文学固有の教育的配慮という要素が大きいのかもしれません。
 本来は、そういった破天荒な登場人物が縦横無尽に活躍して、その人ならでは魅力を読者に感じとってもらわなくてはいけないでしょう。
 その魅力が結末に向ってどんどん拡大していくと、その作品は成功していると言えます。

あばれはっちゃく (山中恒よみもの文庫)
クリエーター情報なし
理論社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする