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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

天野夏美/作 はまのゆか/絵「いわたくんちのおばあちゃん」

2019-09-20 08:02:41 | 作品論
 四年生のぼくは、六年のいわたくんと仲良しです。
 ぼくたちの学校は、原爆が爆発したところから一番近い小学校です。
 いわたくんのおばあちゃんは、絶対に家族と一緒に写真をとりません。
 ぼくは、いわたくんのおばあちゃんが、なんで一緒に写真をとらないのか知っています。
 それは、いわたくんのおかあさんが、「平和学習」の時間に理由を説明してくれたからです。
 いわたくんのおばあちゃんは、原爆が投下された1945年8月6日の直前に、両親と当時16才だったおばあちゃんも含めて四人姉妹全員で、記念写真を写真屋さんに撮ってもらいました。
 空襲を避けるための一家の疎開が間近に予定されていたので、焼けてしまうかもしれない家の中で最後の記念に撮ってもらったものです。
 しかし、原爆のために、いわたくんのおばあちゃんを除いて、家族全員が死んでしまいました。
 記念写真は、その後に写真屋さんからもらったので、今も残っています。
 おばあちゃんは、一緒に写った家族がみんな死んでしまったあの八月が忘れられなくて、ずっと家族と一緒にいたくて、孫のいわたくんたち今の家族と一緒に写真を撮らないのです。
 ぼくはこの話を聞いて、「大人になっても戦争はしない」と誓います。
 読み始めた時には、四年生が主人公の割には文章や本の作りが幼い子向けの感じがして気になったのですが、だんだんに作品世界に引き込まれました。
 広島弁を生かした淡々とした語り口が、静かに原爆や戦争の愚かさを告発しています。
 そして、それをたんなる過去の出来事の糾弾ではなく、未来への平和の誓いにつなげているのが特に良かった点だと思います。
 絵も優しいのんびりしたタッチで、未来への希望をうまく表現しています。
 巻末の実際の記念写真が、作品中の写真の絵と全く同じ雰囲気で、「事実」だけの持つ迫力を伝えてくれています。
 この本は2006年8月6日の原爆の日に発行されたものですが、こういった原爆体験を語る地道なボランティア活動を続けているいわたくんのおかあさん、作者、画家、出版社に敬意を表したいと思います。
 2012年10月に行われた日本児童文学学会第51回研究大会(その記事を参照してください)のラウンドテーブル「<記憶>の伝達を考える――「戦争児童文学」という枠からの脱出――(その記事を参照してください)」で、「記憶の更新」「次の世代に伝える工夫」が大事だということが話されましたが、この作品はまさにそれらの条件をクリアする新しい「戦争児童文学」だと思います。

いわたくんちのおばあちゃん
クリエーター情報なし
主婦の友社
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長崎夏海「星のふる よる」

2019-09-19 07:52:57 | 作品論
 一年生のかりんと一つ年上で同じ団地に越してきた少し不良っぽい(と言ってもまだ小学二年生ですけれど)カズくん(作者は不良っぽい男の子が好きですし、描くのもうまいです)との心の交流を描いた作品です。
 低学年向きの作品ですので紙数も限られていて、「星が瞬くときに「しゃらん」と鳴ったような気がした」、「黒い古傘に穴をあけてそこから漏れてくる太陽の光を昼間の星とする」、「「東京の空なんて(スモッグで汚れていて星が少ししか見えないから)うそなんだぜ」というカズくんに対して、「見えていないだけで、この中には、沢山の星が光っているんだ」と気がつくかりん」といった、少ないけれど作者ならではの優れたアイデアをつないで、都会に住むそれぞれは一見孤独に見える子どもたちの結びつきや、働くことの意味、さらに言えば長崎のジェンダー観までが描かれています。
 作者は、「児童文学の魅力 いま読む100冊ー日本編(その記事を参照してください)」にも入っていた「A DAY」や日本児童文学者協会賞を受賞した「トゥインクル」など学校をドロップアウトしかけている中学生たちを描くのが得意ですが、(「不良を描けばいい児童文学になるのかよ」と作者にかみついた1990年ごろがなつかしいです。)、最近は低学年ものの作品が多いようです。
 これには、児童文学界の出版事情があります。
 目黒強の論文の記事にも書きましたが、最近の小学校高学年や中学生の読書傾向では、伝記は相変わらず強いものの(ただし、男子はゲームの影響で三国志や戦国武将に偏っています)、世界名作やいわゆる「現代児童文学」はさっぱり読まれず、男子は「ズッコケ」や「ゾロリ」(中学生はライトノベル)、女子は児童文庫の書き下ろしラブコメやミステリーものなどが大半を占めています。
 「現代児童文学」の書き手にとっては、低学年向け作品は最後のフロンティアなのです。
 彼らの年代では、自分で買うよりも、媒介者(親、教師、図書館の司書など)から手渡されることが多いでしょう。
 そのため、まだ「現代児童文学」が参入できるマーケットがあるのです(挿絵が多いので、作者の印税は少ないですが)。
 私が本を出していた80年代や90年代でも、編集者からは「できるだけ低学年向けに」「女の子向きに」と口を酸っぱくして要求されていました。
 これは、様々なエンターテインメント(本などはごく小さなマーケットシェアしか占めてはいなくて、ゲーム、アニメ、コミックス、音楽、映画、そしてSNSなどが、小学校高学年以上の子どもの使うお金の大半でしょう)があふれている現代では、ビジネスを考えるとやむを得ないことかもしれませんが、ビジネスでない領域で作者の新しい思春期物を読みたいなと思っています。

星のふるよる (おはなしボンボン)
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ポプラ社
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新井けいこ「めっちゃ好きやねん」

2019-09-16 09:21:00 | 作品論
 神奈川県から大阪へ転校してきた男の子の奮闘記です。
 転校の経験のある子なら、誰もが新しい学校に慣れるまでに大変な思いをしたことでしょう。
 ましてや、コテコテの関西弁の飛び交う大阪では、まるで外国に来たようです。
 私にも経験があるのですが、大阪では普通の人でも、漫才のボケやツッコミやノリツッコミまで、鮮やかに使いこなせるのです。
 それは、この作品にもあるように、幼稚園や小学校のころから、毎日舞台稽古をやっているような日常会話で鍛えられるのでしょう。
 この作品の主人公は、そんな雰囲気になじめなかったり、無理になじもうとしてかえって浮いてしまったりして苦労します。
 最後には、自分らしさを出しながらだんだん周囲になじんでいく姿が、自然なタッチで描かれています。
 それにしても、作品に出てくる大阪の食べ物(特に友だちのうちの天ぷらがたくさん入ったうどん)のなんとおいしそうなこと。
 思わず、食べに行きたくなってしまいます。

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赤羽末吉「おおきなおおきなおいも」

2019-09-10 08:28:17 | 作品論
 1972年10月に初版が出た古典的な絵本です。
 私が読んだのは、2000年11月の76刷ですから、子どもたちにはおなじみのロングセラーになっています。
 この絵本も、児童文学研究者の石井直人が「現代児童文学の条件」(「研究 日本の児童文学 4 現代児童文学の可能性」所収、その記事を参照してください)において、田島征三の「しばてん」や長新太の「キャベツくん」などと並べて、「これらの絵本の画面には、およそ(読者の)「内面」に回収できない、とんでもない力が充溢している。」と、評しています。
 たしかに雨降りでいもほりに行かれなかった園児たちが途方もない空想を展開するお話ですが、「鶴巻幼稚園・市村久子の教育実践による」と但し書きがあるように、この本は大人よりも柔軟な読み手である子どもたちの「内面」には回収できるかもしれません。
 しかし、このようなあふれるエネルギーに満ちた絵本に出会えた子どもたちは幸せです。
 天気の日には園庭で力の限りに遊び、雨の日には部屋の中でこのような絵本を好きなだけ読む、そんな幼年の日々をすべての子どもたちに味わってもらいたいものだと、心から思います。
 やたらと教育的だったり、教訓的だったりする絵本があふれている現状では、媒介者(両親、先生などの子どもたちに本を手渡す人たち)は心して本を選択しなければいけないでしょう。

おおきなおおきなおいも―鶴巻幼稚園・市村久子の教育実践による (福音館創作童話シリーズ)
クリエーター情報なし
福音館書店
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レイモンド・ブリッグス「風が吹くとき」

2019-09-09 08:25:02 | 作品論
 1982年に出版された、核戦争が過去の物でなく現在でも起こり得ることに警鐘を鳴らした絵本(漫画)です(アニメにもなっています)。
 国家が喧伝する「戦争や核」が、実際に個人(名もなき庶民)が直面する「戦争や核」といかに乖離しているかを糾弾しています。
 1976年にイギリス情報局が出した「防護して生き残れ」という「核シェルターを自分で作って生き残ろう」というパンフレットどおりに行動して、国家の救援をむなしく待ちながら死んでいく老夫婦の姿を、ブラックユーモアも使いながら淡々と描いています。
 この作品が出版されたときに、日本では「原爆の恐ろしさを伝えていない」と批難されたそうですが、このような書き方の方が放射能汚染の恐ろしさをじわじわと伝えてより迫真性があります。
 日本の漫画を読みなれた目にはこまわりが細かくセリフを多いので、子どもたちには読みにくいかもしれませんが、ぜひ読んでほしい作品です。
 今後、広島や長崎の悲惨な実態をいかに克明に描いても、「過去の事」として受け取られてしまう恐れがありますが、このように近未来に起こり得る核戦争(あるいは原発事故)による放射能汚染の恐ろしさを描けば、今日の問題として受け取ってもらえると思います。
 また、福島第一原発事故で、東京電力や国家がいかに事実を隠蔽していたかを経験した我々にとっては、自分で正しく判断するための情報収集の必要性が重要だということもわかります。

風が吹くとき
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あすなろ書房
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岩瀬成子「きみは知らないほうがいい」

2019-09-07 08:55:39 | 作品論
 五年の時にクラスでシカトされて不登校になった経験のある、六年生の女の子が主人公です。
 今のクラスにも、からかいやいじめ(主人公も認識していますが、いじめられた子が自殺に追い込まれるようなひどいものではないです)が横行しています。
 いじめが原因で転校してきたがいつも正論を述べるのでこの学校でも孤立してしまっている男の子、太っていることを理由に男子に理不尽な目に合っている女の子、作文がネットに載っていたものをパクッたと疑われてクラスで孤立している女の子など、主人公以外にもからかいやいじめの標的になっている子どもたちがいます。
 子どもだけではありません。
 北から流れてきて南へ向かっているホームレス(この用語は作者は嫌いなようなので言い換えると自由人)の男性、作家志望でバーテンダーをやっている主人公の叔父、子どもたちの世話になりたくないと意地を張っている主人公の祖母など、大人たちも孤立しています。
 ラストでは、孤立している子どもたちが、それぞれ自立しながらも連帯していこうときざしを見せて、物語は終わります。
 作品のつくりは一種の成長物語で、そういう意味ではオーソドックスな「現代児童文学」なのですが、こうした作品が2014年に出版されていたことに驚きました。
 今でも、女の子には、こういったかたい作品(主人公と正論を述べる男の子は、とても小学生とは思えない大人っぽい考えや発言をしますし、大人の私が読んでも息苦しさを感じます)を読みこなす読者がいるのでしょうか。
 また、担任の教師があまりに無能なのには、イライラさせられました。
 作者には、教師なんかこんなものという固定観念があるように感じられました。
 それに、クラスの悪者が男の子ばかり(消極的な悪者は女の子にもいますが)なのも、女の子の読者には読んでいて気分がいいでしょうが、少々偏見があるようにも思えました。

きみは知らないほうがいい (文研じゅべにーる)
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文研出版
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神沢利子「ちびっこカムのぼうけん」

2019-09-06 08:46:20 | 作品論
 出版は1961年ですが、後半の「北の海のまき」は1960年に「母の友」に発表されています。
 石井桃子たちが「子どもと文学」で提唱した「おもしろく、はっきりわかりやすく」を体現した最初の作品と言われていますが、神沢は石井たちのグループとは直接的には関係なく、独自にこの世界を作り出したものと思われます。
 1975年に出た「現代児童文学作家案内」によると、神沢はもともとは詩人であったので、このような叙事詩的な趣を持った作品を作り上げられたのかもしれません。
 「児童文学宣言」や「子どもと文学」で否定された近代童話の大御所、小川未明も、かつて自分の童話を「わが特異な詩形」といっていましたが、そちらは典型的な抒情詩です。
 この作品のような散文性を持った叙事詩的な物語は、他の同時期に発表された児童文学の作品とは異なり、スケールの大きな新しい児童文学の可能性を拓くものでした。
 私が読んだ「新・名作の愛蔵版」の「あとがき」で神沢自身が述べているように、サハリンや北海道での幼少期の体験と、ステンベルクマンの「カムチャッカ探検記」を読んだことが、このカムチャッカを舞台にしたこの冒険物語を生み出したのでしょう。
 この作品は、カムがかあさんの病気を治すためにイノチノクサを探し出すために、クジラをつまみあげてあぶって食べているという大男ガムリイから金のユビワを奪いに行く「火の山のまき」と、ガムリイにシロクジラに変えられてしまったとうさんを救いに行く「北のまき」の二部に分かれています。
 とにかく冒頭から、冒険に次ぐ冒険で、読者に息つく暇を与えません。
 また、人間だけでなく、クマ、トナカイ、ジネズミ、ヤギ、シロタカ、オオワシ、サケ、アザラシ、クジラ、イルカ、タポルケ、シャチといった北方の動物たち、さらには、オニや岩の怪物などの超自然的なものまでが縦横無尽に活躍します。
 お話の型としては「桃太郎型」で、動物などの仲間をだんだんに増やしていって、最後には敵(この物語では大男ガムリイやシャチ)を成敗して、めでたしめでたし(この物語では病気のかあさんを元気にして、シロクジラになっていたとうさんをもとの姿に戻します)といった単純なものです。
 しかし、その過程で、子どもたちの大好きな繰り返しの手法を駆使して、たっぷりとハラハラドキドキさせて楽しませてくれます。
 また、山田三郎のスケールの大きなしかも緻密な挿絵が、物語世界の魅力を余すところなく伝えてくれます。
 そう、この本は、現代日本児童文学で最初に大成功をおさめたエンターテインメント作品なのです。
 私が読んだ本は、新・名作の愛蔵版の2001年1月の三刷ですが、1961年に出た最初の本は1968年までに22刷、1967年に出た名作の愛蔵版では1999年までになんと115刷、それ以外に文庫本も出ています。
 同じころに書かれた「現代児童文学」としてより評価が高かった作品(特に社会主義リアリズムの作品)は、とうに歴史に淘汰されて読まれなくなっているものが多い中で、この本は五十年以上にわたって読み継がれ売り続けられているロングセラーです。
 本の評価というものは本当に難しいものだと、つくづく考えさせられてしまいます。
 児童文学研究者の本田和子は、1975年に出版された「現代児童文学作品論」の中で、北欧神話の世界を舞台にしたリンドグレーンの「ミオよ、わたしのミオ」と比較して、以下のように否定的な評価を下しています。
「作者の提供した「神話的世界」とは、「その面白さ」が、ファクターアナライズ的に分析され、とり出された要因が合理的に組み合わされたもの。即ち「神話の要因と神話的形象を借りた『子どもの文学的』世界」だったのである。そして、この「子どもの文学的世界」が、余りにも公式的・モノレール的でありすぎたのであった。
 ここに、この作品の限界をみることが出来る。即ち、一九六一年という作品成立の時代は、「子どもと文学」による創作理論が、新鮮に、児童文学界を魅了した時代なのだった。」
 まず、この本のようなエンターテインメント作品を、リンドグレーンの作品群の中でも最も純文学的な「ミオ」と比較して否定的な評価を下すのは、フェアなやり方ではないと思います。
 おそらく当時の本田には(実は私自身もかつてそうだったのですが)、エンターテインメント作品を正当に評価する批評理論がなかったのだと思われます。
 また、引用文中の「子どもの文学的」といのは、前述した石井桃子たちの「子どもと文学」の創作理論に基づいて書かれた作品という意味で使われていると思われますが、先ほども述べたようにこの本の初出が「子どもと文学」が出版されたのと同じ1960年であることを考えると、本田の論には無理があるように思えます。
 本田に限らず実作経験のない児童文学の研究者や評論家は、新しい児童文学理論が出るとただちにそれが創作に反映されると考えがちですが、それは完全な誤解です。
 まず、児童文学論や評論を自分でやっていない純粋な創作者は、評論家や研究者が思っているほど児童文学理論や評論の影響は受けていません(だいいち読んですらいないことが、圧倒的に多いです)。
 また、仮に創作者が自分でも児童文学理論を考えていたり、同人誌などで研究者や評論家と一緒に活動している場合でも、その理論を創作に反映するには試行錯誤を経てある程度の時間がかかります。
 例えば、1953年の「児童文学宣言」で示された「少年小説」が初めてまとまった形になった山中恒の「赤毛のポチ」が発表されたのは、1955年前後でした(出版されたのはさらに遅く1960年です。)。
 また、先ほど述べたように、「子どもと文学」が出版されたのは1960年ですが、そのための議論は1955年ごろから始められていて、その成果としてメンバーのいぬいとみこの「木かげの家の小人たち」が出版されたのは1959年です。
 このように、創作者が新しい創作理論を自分のものとして消化し、作品に反映するのには数年はかかるものなのです。
 松田司郎は、1979年の「日本児童文学100選」で、この作品の「おもしろさ」と幼年の読者(読解力などの違いにより、現在では当時よりも年長の読者が中心になっていることでしょう)に着目して、ガネットの「エルマーのぼうけん」などを引き合いに出して、以下のように「子ども読者」の立場に寄り添った批評をしています。
「この作品の意図は小さな読者に冒険そのもの(冒険を支える魔法の世界)をスピーディに展開してみせることにあり、冒険後の目的成就もまさにハッピーエンド(物語完結の均衡)として徹底させている。」
 本田と松田の批評が出てからでも、すでに四十年以上が経過しています。
 先ほど述べたように、この本が今でも版を重ねているということは、少なくとも「子ども読者」の評価はこの作品を古典として認めていることになります。


ちびっこカムのぼうけん (新・名作の愛蔵版)
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理論社


 
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バージニア・リー・バートン「ちいさいおうち」

2019-08-17 08:29:38 | 作品論
 物語絵本の古典です。
 田舎の小さな丘の上に建てられた「ちいさいおうち」は、そこに住む人たちと田舎暮らしを楽しんでいました。
 前半は、田舎の美しい四季と楽しい暮らしが描かれています。
 ある日突然、それが変わります。
 開発の波です。
 広い道路がひかれて、馬車が自動車やトラックに変わります。
 路面電車が通り、高架鉄道ができ、さらには地下鉄までが通ります。
 野原の中の一軒家だった「ちいさいおうち」のまわりにも家が立ち並び、やがて高層ビル群に変わっていきます。
 それらに取り囲まれた「ちいさいおうち」は、やがて住む人もなく古びて痛んでいきます。
 それが、またある日突然、変わります。
 「ちいさいおうち」を建てた人の孫の孫の孫である女の人が登場したのです。
 「ちいさいおうち」は彼女によって都会から救い出され、元のような田舎の小さな丘に移設されました。
 「ちいさいおうち」は修理されてまた人が住むようになり、昔のように田舎の四季を楽しむようになります。
 この絵本から、いろいろなことを読み取ることができます。
 田舎暮らしと都会の比較。
 地方出身の人はよく引退すると故郷に戻られますが、そういった人々には「ちいさいおうち」の気持ちがよくわかることでしょう。
 私自身は、東京の下町育ちで今は自然の豊かなところで暮らしているので、逆に帰りたいのは都会のごみごみしたところ(例えば上野や池袋や新宿の繁華街)です。
 人の一生。
 この作品の前半の田舎暮らしは子ども時代、中盤の都会に発展するところは青春及び壮年時代、ラストの田舎に戻った後は老年時代に例えられるでしょう。
 変わらない価値。
 バートンは田舎の美しい四季にそれを求め、「ちいさいおうち」(おそらく石造り)もその象徴なのでしょう。
 日本の木造家屋ではこうはいきません。
 孫の孫の孫どころか、孫が住むのも怪しいものです。
 でも、地震や台風などの災害の多い日本では、家のスクラップアンドビルドもやむを得ないかもしれませんが。
 
ちいさいおうち
クリエーター情報なし
岩波書店

 
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神沢利子「ビー玉の骨」いないいないばあや所収

2019-05-21 17:18:18 | 作品論
 誰もが幼い時に考えたことがある「自分はこの家の本当の子ではないのではないか?」という疑問。
 この作品では、そんな子どもの心の動きを鮮やかに描いています。
 「お前は橋の下で拾われたんだ」というからかい、自分だけが両親に似てないという不安。
 最後に、主人公がとうさんと似ているささやかな特徴を発見してホッとする場面では、読者も自分の体験と重ねあわせて共感できることでしょう。
 また、兄弟の多い家の子が、子どものいないおじさんやおばさんに、「うちの子になってよ」とからかわれるのも、小さいころにしばしば経験することです。
 それを描いた児童文学の傑作は、アグネス・ザッパーの「愛の一家」(その記事を参照してください)でしょう。
 もっとも、「愛の一家」の兄弟は本作より仲が良く、おじさんにもらわれそうになる男の子を皆で団結して守ります。

いないいないばあや (岩波少年少女の本)
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岩波書店


愛の一家 (福音館文庫 物語)
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福音館書店
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村中李衣「デブの四、五日 ― 菜々子の場合」小さいベット所収

2019-05-11 08:45:03 | 作品論
 小学校六年生の四方菜々子は、拒食症で入院しています。
 どうしても食事を食べないで点滴だけで栄養を取っているので、看護婦さんたちからは名前をもじって「しかたないこ」と呼ばれています。
 菜々子が拒食症になった理由は明示されていませんが、どうやら両親への反発が理由のようです。
 菜々子は同室の子どもたちにも心を開きませんが、窓から見える病院の実験用に飼われている犬に「デブ」という名前を付けて眺めることを楽しみにしています。
 「デブ」は実験のために餌を与えられないのか、どんどん痩せていきます。
 菜々子たちの病室に新しく食事を運んでくるようになった係りのおばさんは、菜々子に何とか食事をとらせようとしますがうまくいきません。
 ある日、おばさんは菜々子を病室から抜け出させて、デブへ餌をやりに行きます。
 デブのような実験用の犬は、本当は餌を与えられないで、四、五日で殺されてしまいます。
 それを承知で、おばさんは餌をやりに行くのです。
 菜々子は、デブの一件以来三か月たちますが、そのことを忘れずに、「しかたないこ」から四方奈々子へ戻るための努力をしています。
 戦争中の病院の様子や実験用の犬の運命などが、一方的におばさんのモノローグで語られていて、菜々子が変わっていくきっかけになったことがもう一つ説得力を持っていません。
 また、精神科医の大平健のによると、拒食症はこの作品が描かれたころに非常に多かったようなのです(その記事を参照してください)が、この作品では拒食症の社会的な背景や菜々子がそれになったいきさつがはっきりと書かれていないので、菜々子がおばさんやデブとの一件で立ち直っていく理由がよくわかりませんでした。

小さいベッド (偕成社の創作(21))
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偕成社
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蜂飼耳「軽くなる日」のろのろひつじとせかせかひつじ所収

2019-04-27 08:45:06 | 作品論
 小沢正の文章で長新太が絵を描いた名作「のんびりこぶたとせかせかうさぎ」に極似したタイトルの本ですが、内容も絵も出来はかの作品にはるかにおよびません。
 タイトルで暗示されているひつじたちの性格の違いがまるで作品に生かされていませんし、作者が狙いとしているであろう二匹の友情もうまく描けていません。
 文章も絵も凡庸で、才能がまるで感じられません。
 
のろのろひつじとせかせかひつじ (おはなしルネッサンス)
クリエーター情報なし
理論社

のんびりこぶたとせかせかうさぎ (ポプラポケット文庫 (003-1))
クリエーター情報なし
ポプラ社
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ジェームズ・ドーハーティ「アンディとらいおん」

2019-04-22 09:25:39 | 作品論
 1938年に出版された物語絵本の古典です。
 主人公の少年アンディと、サーカスのライオンの友情がユーモラスに楽しく描かれています。
 古きよきアメリカのエネルギッシュで牧歌的な雰囲気が、力強いイラストと簡潔な文章で表現されています。
 ハラハラする展開と次のページへうまく繋ぐ文章とで、読者がどんどん読み進める工夫がこらされています。

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神沢利子「赤い靴」いないいないばあや所収

2019-04-22 08:52:35 | 作品論
 しょう紅熱、リューマチ熱、心臓病と次々に病気になり弱っていく一つ違いの姉。
 入学した小学校に、一日も通うことができなませんでした。
 父が樺太に先に行って不在の時に家族に訪れた不幸は、幼い主人公も、上の姉も、母も消耗させていきます。
 はたして、この家族にまた笑顔の日々が戻ってくるのか、読者も心配になってきます。
 幼い日の不幸の影を、作者は過度に感傷的にならずに小さなエピソードを積み上げることによって鮮やかに描いています。

いないいないばあや (岩波少年少女の本)
クリエーター情報なし
岩波書店
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蜂飼耳「王さまの町」のろのろひつじとせかせかひつじ所収

2019-04-20 08:42:50 | 作品論
 二匹が王さまの住む町へ旅に出る話です。
 二匹は王さまに会うつもりだったのですが、もう少しで食べられてしまうところでした。
 のろのろひつじが思い切ってコックさんに頼んだことで、二匹は逃げることができました。
 ピンチに陥った二匹が助かる場面があまりにもあっけなく、物足りませんでした。
 深刻にならないでほんわかしたムードを狙っているのでしょうが、これではのろのろひつじの良さしか出ていなくて、せかせかひつじの方の個性が生かされていません。
 もう少しお話し作りに工夫があってもいいのではないでしょうか。
 
のろのろひつじとせかせかひつじ (おはなしルネッサンス)
クリエーター情報なし
理論社

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日比茂樹「意外な二人」プールのジョン所収

2019-04-15 07:09:42 | 作品論
 児童文学の同人誌の老舗「牛の会」のメンバーが競作している短編集の巻頭作です。
 この本は、特に作品として統一テーマを持っているわけでないので、体裁としては同人誌をそのまま商業出版している形ですが、もしかすると自費出版や同人誌出版のように各自の自己負担分があるかもしれません。
 「ふろむ」という同人誌でも、出版分担金を出す形で、「キッチンくまかか」、「スノードームでさ・し・す・せ・そ」という本を商業出版しています(その記事を参照してください)。
 しかし、どちらにせよ、通常の同人誌と違って一般読者の目に留まるチャンスは格段に多いと思われるので、実力のある同人誌ならば、この形の出版を検討してもいいかもしれません。
 さて、この短編の作者は、数々の受賞歴のある児童文学界の大ベテランなので、さすがに子どもたちの世界を確実のとらえた優れた作品になっています。
 児童文学評論家の藤田のぼるは、「起承転結のはっきりした短編のお手本のような作品」と、解説でこの作品を評しています。
 お互いに意識し合う男の子たちと女の子たちの心の動きが、的確に表現されています。
 自分の名前に使われている文字を組み合わせて言葉を作る遊びを生かして、鮮やかなラストを作り出しています。
 登場人物たちが現代の子どもたちとしてはやや古風な感じはしますが、本を通してこういう感情を理解するのも大事なことだと思います。

プールのジョン (牛ライブラリー)
クリエーター情報なし
牛の会
 
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