God is in the details ~神は細部に宿る~

一箱古本市専門店《吉田屋遠古堂》主人のぐうたらな日々。。。。

二つの断絶 一つ目の断絶

2013-01-25 23:13:20 | 日々の暮らし
ちょっと、まじめに考えてみた。

3月11日以降、被災地とくに福島第一原子力発電所付近を中心とした福島県浜通り地域は、
二つの深く大きな溝によって社会と断絶している。

東日本大震災およびそれにともなう福島第一原子力発電所爆発事故については
たくさんの記録が明らかにされ、活字や映像や音声によって、それらが伝えられている。
私自身、当日の様子を直接聴くこともあったし、様々なメディアを通して知ることもあった。
しかし、それらは震災から二年が経過しようとしている現在、
人々の関心が低くなってくるとともに、メディアに載る回数が目に見えて減少している。
それは予想されたことであり、かつある意味しかたのないことでもある。
ここではそのことを、とやかく言うまい。問題はそこではない。

現在でも東日本大震災の被害、とくに福島第一原子力発電所爆発事故について言及している人は
直接間接の被害者か、関心の高い人たちか、立場上関わらざるを得ない人たちであろう。

そこに大きな断絶がある。

震災や原発事故に直面した人たちからは、様々な証言が得られている。
それらは、想像を絶するものであり、かつきわめて深刻な内容でもある。
しかし、忘れていけないのは語られている、語ることのできることはその一部でしかないということである。
すべてが語り尽くされている訳では、無い。断じて、無い。
もっともつらい体験、もっとも恐ろしい体験、言葉にできない経験をしてきた人たちは
一言も語ること無く、死ぬまでその闇を心の底におさめていくこともあるだろう。
もちろん、語ることで心が軽くなる人もいるし、時間が彼らを癒すことだってある。
でも、それができない人だって、いる。

言葉にできない経験を、我々はどうやって知ることができよう?
彼らと我々の間には、どうしてもこえることのできない深い裂け目が横たわる。
そこから目をそらして、語られる言葉だけに頼って、復興はなし得ない。
われわれはそこに大きな断絶があることを直視しなければならない。
我々が知る術さえ持たないほどの経験があったことを、忘れてはいけないだろう。
被災者の言葉に耳を傾けるということは
推し量ることすらできない経験があるということを知った上ででなければいけない。
その経験をしたものと、していないもの。それが断絶なのではない。
言葉にできない経験をしたものと、言葉で理解しようとしかしないものと間にあるのが断絶なのだ。

もちろん、それは今回の震災に限ったことではなく、戦争や飢饉や、
もっとパーソナルな経験であっても、語れない闇は、あるのだろう。