通常は読後感想が常なのだけれども、その書籍の内容と自分の意見を比較したい時がある。そういう時には、事前に(書籍を読む前に)自分の考えを文章にまとめておくことも有効だ。
そうした自分の意見を一端纏めたりする場合には、読前感想なども書いたりする。
この派生であるのかもしれないが、読み途中の書籍の読中感想をやってみたい。
対象は「古市くん 社会学を学び直しなさい」である。
これのP132まで読んだ。
1.
共通した見解は、パーソンズやマルクスのグランドセオリーが崩れたので、崩壊後の個々事象の分析に皆向かっていること。
グランドセオリーとは、つまり何にでも利用できる一般理論のこと。
例えば、数学で言うと、円周率を計算したとすると、この円周率は地球上のいつ、どこで計算したとしても一定の解が導かれる。
当然だ。人間が認識する、宇宙の真理の一つだからだ。どのような状況であっても、人間にとって真理は万古不変で絶対不動、変化することのない揺ぎ無い法則である。
同様に、物理での第一宇宙速度は、発射角、発射方向、発射基地の位置緯度によって変化するかもしれないが、基本公式は変わらない。
化学では各電子殻に配置できる電子の数は決定しており、そこから動くことはない。それを使って、世界各地でセミコンダクターの集積回路が作られる。
だが社会学では? 人間はどう動く? 社会はどう形成される?
自殺はどのような時に発生する? そしてそれを防ぐにはどうすればいい?
あるいは富はどのように蓄積される? あるいは科学技術発展はどのような社会がしやすくなる?
あるいは戦争はどのような時に発生する? その危険度を緩和するにはどうすればいい?
外交はどのように締結すればいい? 短期的成功ではなく、長期的スパンにおいてどのようにすればいい?
短期的成功であれば、ヴェルサイユ条約のクレマンソーの要求は、確かに成功であったかもしれないが、しかし結果として、長期的なスパンにおいてヒトラーを生むに至った。
すると、時系列に変化する社会において、どのような選択を、どのような分析を、どのような政治決定を、どのような報道をするのがベストなのか。
あるいは、あるいは、あるいは、あるいは、あるいは、あるいは、あるいは・・・。
先日私がここで言及した、「人間は個々のコンピュータと見做すことが出来、そしてそれが集合した時の動き、即ち社会的な動きという法則は、そのコンピュータである人間自身があまりよく分かっていない」というのが私の課題で、それが分かれば社会の一般理論、即ちグランドセオリーに直結するはずであった。
数学を振り返ってみよう。19世紀以前は、代数論、幾何論、整数、自然数、虚数、群論などなど、種種様々な数論は独立して確固とした地位を築いていたが、しかしそれは独立したままで互いに影響することはなかった。我々が代数幾何とセットで学んだり、あるいは縦横無尽に横断的に各論をまたいだ理解をする、という、今で言う当然のことは昔は行われていなかったのである。
これを統一しようとしたのがダッフィ・ヒルベルトのヒルベルトプログラムであった。数学の横断的グランド・セオリーである。
(しかしそれはゲーデルの不完全性定理によって否定される)。
社会学に戻る。
この私が上記で書いた、「社会がどう動くのかについて、社会を構成する人間自身そのものがあまりよく分かっていない」というのが分かっただけで、実態としてはその一般的性質が分かっていないのだ。
しかし、これが分かればグランドセオリーは統一されるのではないのか。それこそ数百年のスパンで。
であるから、上野千鶴子さんがこの本での対談の中において、現実的な選択をしなさいと正している(P81)のは違和感があった。
即ち数年スパンで出せる結論でないと個人業績として出ないから、人生を超えるような研究はしなさんな、ということである。
ただ、グランドセオリーであるならば、別に個人一人がやるのではなく、チーム研究で数世紀スパンで研究してもいいのではないのか。
さながら、1882年に着工しながら未だ建設を完了していないサグラダファミリアのように。
それこそが学問が本来追い求める姿なのではないのだろうか。
間違っていてもいいから、情報集約的論を構築して、銀河の中心のように何となく中心軸を作り、そこから各論を修正・補正していく。
このアプローチは間違っているか。
2.
私がこの本をここまで読んで思うに、「皆きちんと勉強されているなあ」と言うことであった。
翻って、私のことを鑑みてみると、ここのブログでは「社会学が、社会学が」とは機会あるごとに連呼しながら、実は全くの基礎的勉強を怠っている劣等生であったことも確認した。
ではあるが、この劣等生から優等生を見るに、何やら違和感がある。
何がかと言うと、皆きちっと勉強しすぎているのである。
例えば、マルクスが正しいと信じていた頃は、皆マルクスを勉強していたが、マルクスが立てたグランド・セオリーが崩壊してからは、「これではいけない」と、崩壊後の道、すなわちグランドセオリーは元々立てられないものとして、各個別の対処可能なものへと課題を移して行ったように見える。
ただそれは、私から見ると、マルクスの信望形態から、「マルクスは間違っていた」という事後的な更なる信望形態へと移ったようにしか見えない。
マルクスの資本論には二つの魂があったと作家の佐藤優さんは言う。
一つは「社会分析の魂」、もう一つは「革命家の魂」。
この革命家の魂には、当然ながら、客観的分析ではなく、主観的信望、情熱が含まれていた。
この二つに分かれているだろう、ということを仮説の前提として言うが、本当は物理化学のように、現在事象を客観的に分析した結果を再応用すべきで、例えば人間社会はこう動く、というのと、だからこうすべき、というのがごった煮になってしまっているのが社会学ではないのか(そして、多くの社会学者は、観測者である自分がその観測対象たる社会に組み込まれているため、完全なる客観的分析は不可能だと諦めているようにも見える)。
マルクスを否定する、これはいい。だが、その否定というのは分析と革命願望のどちらを否定したのだろう。
そしてその否定の先には、やはり分析だけではなく、社会とはこうあるべき、こうすべき、という信望や情熱が入ってしまってはいないか。
この本を読んで覚える危惧はそこにある。
簡単にまとめると、皆、真面目に勉強しすぎてて、マルクスの否定をしながらも、ある種マルクスと同じ危険な轍を踏襲しているのである。
主観的信念の入り混じった分析がなされていることに諦観し、それでしか研究ができないとする。本当にそれでいいのか?
3.
宮台真司さんは逮捕されなかったが、島袋光年さんは逮捕された。両者の違いは何か。
そうした自分の意見を一端纏めたりする場合には、読前感想なども書いたりする。
この派生であるのかもしれないが、読み途中の書籍の読中感想をやってみたい。
対象は「古市くん 社会学を学び直しなさい」である。
これのP132まで読んだ。
1.
共通した見解は、パーソンズやマルクスのグランドセオリーが崩れたので、崩壊後の個々事象の分析に皆向かっていること。
グランドセオリーとは、つまり何にでも利用できる一般理論のこと。
例えば、数学で言うと、円周率を計算したとすると、この円周率は地球上のいつ、どこで計算したとしても一定の解が導かれる。
当然だ。人間が認識する、宇宙の真理の一つだからだ。どのような状況であっても、人間にとって真理は万古不変で絶対不動、変化することのない揺ぎ無い法則である。
同様に、物理での第一宇宙速度は、発射角、発射方向、発射基地の位置緯度によって変化するかもしれないが、基本公式は変わらない。
化学では各電子殻に配置できる電子の数は決定しており、そこから動くことはない。それを使って、世界各地でセミコンダクターの集積回路が作られる。
だが社会学では? 人間はどう動く? 社会はどう形成される?
自殺はどのような時に発生する? そしてそれを防ぐにはどうすればいい?
あるいは富はどのように蓄積される? あるいは科学技術発展はどのような社会がしやすくなる?
あるいは戦争はどのような時に発生する? その危険度を緩和するにはどうすればいい?
外交はどのように締結すればいい? 短期的成功ではなく、長期的スパンにおいてどのようにすればいい?
短期的成功であれば、ヴェルサイユ条約のクレマンソーの要求は、確かに成功であったかもしれないが、しかし結果として、長期的なスパンにおいてヒトラーを生むに至った。
すると、時系列に変化する社会において、どのような選択を、どのような分析を、どのような政治決定を、どのような報道をするのがベストなのか。
あるいは、あるいは、あるいは、あるいは、あるいは、あるいは、あるいは・・・。
先日私がここで言及した、「人間は個々のコンピュータと見做すことが出来、そしてそれが集合した時の動き、即ち社会的な動きという法則は、そのコンピュータである人間自身があまりよく分かっていない」というのが私の課題で、それが分かれば社会の一般理論、即ちグランドセオリーに直結するはずであった。
数学を振り返ってみよう。19世紀以前は、代数論、幾何論、整数、自然数、虚数、群論などなど、種種様々な数論は独立して確固とした地位を築いていたが、しかしそれは独立したままで互いに影響することはなかった。我々が代数幾何とセットで学んだり、あるいは縦横無尽に横断的に各論をまたいだ理解をする、という、今で言う当然のことは昔は行われていなかったのである。
これを統一しようとしたのがダッフィ・ヒルベルトのヒルベルトプログラムであった。数学の横断的グランド・セオリーである。
(しかしそれはゲーデルの不完全性定理によって否定される)。
社会学に戻る。
この私が上記で書いた、「社会がどう動くのかについて、社会を構成する人間自身そのものがあまりよく分かっていない」というのが分かっただけで、実態としてはその一般的性質が分かっていないのだ。
しかし、これが分かればグランドセオリーは統一されるのではないのか。それこそ数百年のスパンで。
であるから、上野千鶴子さんがこの本での対談の中において、現実的な選択をしなさいと正している(P81)のは違和感があった。
即ち数年スパンで出せる結論でないと個人業績として出ないから、人生を超えるような研究はしなさんな、ということである。
ただ、グランドセオリーであるならば、別に個人一人がやるのではなく、チーム研究で数世紀スパンで研究してもいいのではないのか。
さながら、1882年に着工しながら未だ建設を完了していないサグラダファミリアのように。
それこそが学問が本来追い求める姿なのではないのだろうか。
間違っていてもいいから、情報集約的論を構築して、銀河の中心のように何となく中心軸を作り、そこから各論を修正・補正していく。
このアプローチは間違っているか。
2.
私がこの本をここまで読んで思うに、「皆きちんと勉強されているなあ」と言うことであった。
翻って、私のことを鑑みてみると、ここのブログでは「社会学が、社会学が」とは機会あるごとに連呼しながら、実は全くの基礎的勉強を怠っている劣等生であったことも確認した。
ではあるが、この劣等生から優等生を見るに、何やら違和感がある。
何がかと言うと、皆きちっと勉強しすぎているのである。
例えば、マルクスが正しいと信じていた頃は、皆マルクスを勉強していたが、マルクスが立てたグランド・セオリーが崩壊してからは、「これではいけない」と、崩壊後の道、すなわちグランドセオリーは元々立てられないものとして、各個別の対処可能なものへと課題を移して行ったように見える。
ただそれは、私から見ると、マルクスの信望形態から、「マルクスは間違っていた」という事後的な更なる信望形態へと移ったようにしか見えない。
マルクスの資本論には二つの魂があったと作家の佐藤優さんは言う。
一つは「社会分析の魂」、もう一つは「革命家の魂」。
この革命家の魂には、当然ながら、客観的分析ではなく、主観的信望、情熱が含まれていた。
この二つに分かれているだろう、ということを仮説の前提として言うが、本当は物理化学のように、現在事象を客観的に分析した結果を再応用すべきで、例えば人間社会はこう動く、というのと、だからこうすべき、というのがごった煮になってしまっているのが社会学ではないのか(そして、多くの社会学者は、観測者である自分がその観測対象たる社会に組み込まれているため、完全なる客観的分析は不可能だと諦めているようにも見える)。
マルクスを否定する、これはいい。だが、その否定というのは分析と革命願望のどちらを否定したのだろう。
そしてその否定の先には、やはり分析だけではなく、社会とはこうあるべき、こうすべき、という信望や情熱が入ってしまってはいないか。
この本を読んで覚える危惧はそこにある。
簡単にまとめると、皆、真面目に勉強しすぎてて、マルクスの否定をしながらも、ある種マルクスと同じ危険な轍を踏襲しているのである。
主観的信念の入り混じった分析がなされていることに諦観し、それでしか研究ができないとする。本当にそれでいいのか?
3.
宮台真司さんは逮捕されなかったが、島袋光年さんは逮捕された。両者の違いは何か。