両者の立場を両方解説する。
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宮崎駿監督、ドワンゴ川上量生会長を一喝「生命に対する侮辱」
投稿日: 2016年11月14日 12時15分 JST 更新: 2016年11月14日 12時16分 JST
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/13/miyazaki-hayao-dwango_n_12950618.html
11月13日に放送されたNHKスペシャル「終わらない人 宮崎駿」で、「スタジオジブリ」の宮崎駿監督が、ドワンゴの川上量生会長が持ち込んだCGを「生命に対する侮辱」と一喝する場面があった。
これは「スタジオ・ジブリ」のチームがCGで短編映画を制作し、宮崎監督が思うような動きを表現しようと苦闘する中で、ドワンゴ会長の川上量生氏が、自社の技術を説明に訪れた場面。
ドワンゴは「人工知能研究所 DWANGO ARTIFICIAL INTELLIGENCE LABORATORY」を2014年に設立している。そのCGは、人工知能で「速く移動する」ことを学習させたとしており、人体が頭を足のように使って移動するなど、グロテスクな動きを見せていた。
以下は番組内で交わされた川上会長と宮崎監督の会話。
川上量生会長
頭を使って移動しているんですけど、基本は痛覚とかないし、頭が大事っていう概念がないんで、頭を普通の足のように使って移動している。
川上量生会長
この動きがとにかく気持ち悪いんで、ゾンビゲームの動きに使えるんじゃないかっていう、こういう人工知能を使うと、人間が想像できない、気持ち悪い動きが出来るんじゃないか。
宮崎駿監督
あのう、毎朝会う、このごろ会わないけど、身体障害の友人がいるんですよ。 ハイタッチするだけでも大変なんです。彼の筋肉がこわばっている手と、僕の手でハイタッチするの。
宮崎駿監督
その彼のことを思い出して、僕はこれを面白いと思って見ることできないですよ。
宮崎駿監督
これを作る人たちは痛みとかそういうものについて、何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。そんなに気持ち悪いものをやりたいなら、勝手にやっていればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません。
宮崎駿監督
極めて何か、生命に対する侮辱を感じます。
川上量生会長
これって、ほとんど実験なので。世の中に見せてどうこうと、そういうものじゃないです。
宮崎駿監督
ええ、それは本当によく分かってるつもりですけど。
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ということで、ネットではドワンゴ川上バーカバーカという論が溢れているのだが、私はそうは思わない(セッティング例としては最悪だとは思ったけれども)。
まずは宮崎さんの論を見ていこう。
1.
元々、人間というのは社会的に集合した場合、上下関係を作り、ピラミッドを作る。階層を作り、同じ人間であるはずが、社会での格差ある待遇を受けたりする。
これを是正しようとしたのがフランス革命であり、後の人権思想である。
当初、フランス革命では、国王の浪費に伴う国内財政の悪化から、僧侶と貴族から税を取ろうとしたが失敗。
それじゃあ第三身分含めた会議が定められているからと言って、これを口実に(切り口に)税を取ろうとしたが、口実として呼ばれただけの第三身分の市民が不満に不満が噴出し、その後大暴れ(当時の税は8割が税として持っていかれた)。この為、革命に至った。
革命の余波は時代を経て、障碍者の人権などへの概念へと拡充していく。
しかしこのプレゼンはそうした理念をないがしろにしていた。それはやってはいけない。
この発露が宮崎さんの意見であった。
2.
川上さんのところは川上さんのところで、ある種技術向上のために、そうした倫理などの既成概念を取り払わねばならない面にも直面している。
アメリカやイギリスなどでは人が殺されるシーンに爆笑が起きるという倫理観があって日本にはなじまないのだが、しかしそういう国に出かけていって商売をせねばならない。
いや、まま合わぬ倫理観で嫌な商売を無理くりする必要もなく、日本がいいと思ったものはやっぱり世界で売れるのだから、自分がしたい商売というのをやればいいのだが、しかし世界の実情も理解しておかねばならないことも確かである。
3.
「人工知能で「速く移動する」ことを学習させた」というのは、ムニムニ教授の動画を見ると分かるように、モデルの動きの母数を膨大にして、早いパターンを抽出すればいいので、時間はかかるがしかし考え方は簡単である。ただこれは私としては「よくぞそこまで」というような形で賞賛したい。決して障碍者を侮辱するという意味ではなく、思考実験としてだ。
もしこれが否定されるのであれば、ターミネーター2で、シュワ扮するT-800(旧式ターミネーター)が、ロバートパトリックのT-1000(液体金属)の頭部を殴った時、それが変形して両手で掴んだ格好になったり、あるいは背面にたたき付けられたら、いつの間にか正面を向くように変形したりする、という映像が出来ない。そしてそれを否定しなければならない。
そしてドワンゴの技術は、そうしたことを加速させるだろう。私はこういう可能性は否定したくない。
宮崎さんの言うことも尤もなのだが、しかしここには可能性があって、無論、障碍者には気をつけなければならない。
何に気をつけなければならないか、というのは、映像作品での利益に影響があるから、ということではなく、製作者がどのような魂を持って作品を作るか、という倫理面においての問題についてである。
私が書きたいのは上記の個別事例単体のことではない。
上記の個別事例単体から次のことが導かれる。そのことを書きたい。
現在の日本では、上記のように、人権に関する倫理面と、それを打ち破ってしまいそうな技術の相反するジレンマによって映像作品が作られている。
しかしその結果、できあがるものは脆弱な作品ではない。
その両端に引く綱引きの拮抗は、さながら、ピンと張ったカンバスの布のように素晴らしい絵を描く土台になる。
そしてそこに載せられた絵の具は制約と躍動の中で、力強い拍動を描くだろう。
私はジブリにもドワンゴにも頑張って欲しいと思う。以上である。
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宮崎駿監督、ドワンゴ川上量生会長を一喝「生命に対する侮辱」
投稿日: 2016年11月14日 12時15分 JST 更新: 2016年11月14日 12時16分 JST
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/13/miyazaki-hayao-dwango_n_12950618.html
11月13日に放送されたNHKスペシャル「終わらない人 宮崎駿」で、「スタジオジブリ」の宮崎駿監督が、ドワンゴの川上量生会長が持ち込んだCGを「生命に対する侮辱」と一喝する場面があった。
これは「スタジオ・ジブリ」のチームがCGで短編映画を制作し、宮崎監督が思うような動きを表現しようと苦闘する中で、ドワンゴ会長の川上量生氏が、自社の技術を説明に訪れた場面。
ドワンゴは「人工知能研究所 DWANGO ARTIFICIAL INTELLIGENCE LABORATORY」を2014年に設立している。そのCGは、人工知能で「速く移動する」ことを学習させたとしており、人体が頭を足のように使って移動するなど、グロテスクな動きを見せていた。
以下は番組内で交わされた川上会長と宮崎監督の会話。
川上量生会長
頭を使って移動しているんですけど、基本は痛覚とかないし、頭が大事っていう概念がないんで、頭を普通の足のように使って移動している。
川上量生会長
この動きがとにかく気持ち悪いんで、ゾンビゲームの動きに使えるんじゃないかっていう、こういう人工知能を使うと、人間が想像できない、気持ち悪い動きが出来るんじゃないか。
宮崎駿監督
あのう、毎朝会う、このごろ会わないけど、身体障害の友人がいるんですよ。 ハイタッチするだけでも大変なんです。彼の筋肉がこわばっている手と、僕の手でハイタッチするの。
宮崎駿監督
その彼のことを思い出して、僕はこれを面白いと思って見ることできないですよ。
宮崎駿監督
これを作る人たちは痛みとかそういうものについて、何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。そんなに気持ち悪いものをやりたいなら、勝手にやっていればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません。
宮崎駿監督
極めて何か、生命に対する侮辱を感じます。
川上量生会長
これって、ほとんど実験なので。世の中に見せてどうこうと、そういうものじゃないです。
宮崎駿監督
ええ、それは本当によく分かってるつもりですけど。
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ということで、ネットではドワンゴ川上バーカバーカという論が溢れているのだが、私はそうは思わない(セッティング例としては最悪だとは思ったけれども)。
まずは宮崎さんの論を見ていこう。
1.
元々、人間というのは社会的に集合した場合、上下関係を作り、ピラミッドを作る。階層を作り、同じ人間であるはずが、社会での格差ある待遇を受けたりする。
これを是正しようとしたのがフランス革命であり、後の人権思想である。
当初、フランス革命では、国王の浪費に伴う国内財政の悪化から、僧侶と貴族から税を取ろうとしたが失敗。
それじゃあ第三身分含めた会議が定められているからと言って、これを口実に(切り口に)税を取ろうとしたが、口実として呼ばれただけの第三身分の市民が不満に不満が噴出し、その後大暴れ(当時の税は8割が税として持っていかれた)。この為、革命に至った。
革命の余波は時代を経て、障碍者の人権などへの概念へと拡充していく。
しかしこのプレゼンはそうした理念をないがしろにしていた。それはやってはいけない。
この発露が宮崎さんの意見であった。
2.
川上さんのところは川上さんのところで、ある種技術向上のために、そうした倫理などの既成概念を取り払わねばならない面にも直面している。
アメリカやイギリスなどでは人が殺されるシーンに爆笑が起きるという倫理観があって日本にはなじまないのだが、しかしそういう国に出かけていって商売をせねばならない。
いや、まま合わぬ倫理観で嫌な商売を無理くりする必要もなく、日本がいいと思ったものはやっぱり世界で売れるのだから、自分がしたい商売というのをやればいいのだが、しかし世界の実情も理解しておかねばならないことも確かである。
3.
「人工知能で「速く移動する」ことを学習させた」というのは、ムニムニ教授の動画を見ると分かるように、モデルの動きの母数を膨大にして、早いパターンを抽出すればいいので、時間はかかるがしかし考え方は簡単である。ただこれは私としては「よくぞそこまで」というような形で賞賛したい。決して障碍者を侮辱するという意味ではなく、思考実験としてだ。
もしこれが否定されるのであれば、ターミネーター2で、シュワ扮するT-800(旧式ターミネーター)が、ロバートパトリックのT-1000(液体金属)の頭部を殴った時、それが変形して両手で掴んだ格好になったり、あるいは背面にたたき付けられたら、いつの間にか正面を向くように変形したりする、という映像が出来ない。そしてそれを否定しなければならない。
そしてドワンゴの技術は、そうしたことを加速させるだろう。私はこういう可能性は否定したくない。
宮崎さんの言うことも尤もなのだが、しかしここには可能性があって、無論、障碍者には気をつけなければならない。
何に気をつけなければならないか、というのは、映像作品での利益に影響があるから、ということではなく、製作者がどのような魂を持って作品を作るか、という倫理面においての問題についてである。
私が書きたいのは上記の個別事例単体のことではない。
上記の個別事例単体から次のことが導かれる。そのことを書きたい。
現在の日本では、上記のように、人権に関する倫理面と、それを打ち破ってしまいそうな技術の相反するジレンマによって映像作品が作られている。
しかしその結果、できあがるものは脆弱な作品ではない。
その両端に引く綱引きの拮抗は、さながら、ピンと張ったカンバスの布のように素晴らしい絵を描く土台になる。
そしてそこに載せられた絵の具は制約と躍動の中で、力強い拍動を描くだろう。
私はジブリにもドワンゴにも頑張って欲しいと思う。以上である。