写真は430でも紹介した田の神様です。
これはあるサイトから勝手ながらいただきました(お許しを!)。
いよいよ【特別編】連載の最終回です。
他にも理由があると私は考えます。
それは、求名村や永野村といった薩摩郡と羽月村、西太良村など伊佐郡の間の人的・物的交流はとても少なかったことです。
現代でもさつま町方面からバス等で伊佐市内の高校に通う子どもがいますが、とても少ないのです。 これは、そもそもの生活圏が全く異なっていたということを表す事例の一つだと思います。
大口の人々にとっては、鹿児島へ向かうには宮之城線利用のルートと山野・肥薩線利用のルートがありましたが、肥薩線利用の方が距離が短いのです。
では、実際に現役時代の時刻表を見ると、川内~薩摩永野間、針持~薩摩大口間の区間列車が設定されていました。薩摩永野~針持間の山岳地帯の存在は、宮之城線の発展を大きく阻害するものでした。が、同時に、そこにレールを敷いた当時の人々にとっては、鉄道が走ることが村落の発展につながるものと大きな期待もかけられていたのだと思います。
単純に、経済効果だとかいう論理だけでは割りきれない人間くささを感じさせます。
歴史には「もし」ということはありえないのですが、もう少し時代をさかのぼって、ある「もし」の話を最後に述べてみたいと思います。
かつて私は八代~鹿児島のルートとして、人吉経由の山間ルートと出水経由の海沿いルートの2つのルートの話をしたと記憶しています。肥薩線の歴史について書かれた本にもそのことが紹介されています。
そんな書物の一冊である「大口市郷土誌」にはもう一本のルート案が紹介されていました。
人吉~大口ルートです。
おそらく久七峠を下を長大なトンネルでくりぬくというルートだと思われます。ここは平成の時代になってやっと久七トンネルが建設されて行き来が便利になったばかりです。
案が発表された1892(明治25)年当時の鉄道建設技術や資金力を考えれば途方もないものです。当然、この案は真っ先に見捨てられました。
実際に、現在開通している久七トンネルは3945mと無料道路としては九州で最長で工期が10年かかっています。
しかし、もし「人吉~大口ルート」が開通していたらと思うのです。海からの攻撃を避けるという点では鹿児島湾内も決して危険性はゼロではありません。
そこで、肥薩線ルートではなく、宮之城線ルートが大いに活用されたのではないかと思うのです。
薩摩大口を出発して、薩摩永野のスイッチバックは必然として、広橋から求名や薩摩鶴田にはよらず、穴川沿いにまっすぐ宮之城に向かいます。入来~川内間は支線となり、本線は入来から市比野・藤本を抜け郡山を経由して、鹿児島へ線路が至っていたのではないかと想像します。
もし、このルートが採用されていたとしたら、宮之城線のその後の行く末はもう少し違ったものになっていたのではないでしょうか。
最後は私の宮之城線・新ルート案で【特別編】を閉じることになりました。
薩摩永野のスイッチバックにとっては枝葉の話で閉めるのも変な話ですね。
ただ、「政治的な配慮」を中心として「建設技術・資金力の問題」「宮之城・大口間の勾配克服の問題」の結果的必然として、薩摩永野にスイッチバックが誕生したという私の主張については賛否両論受けたいと思います。
どうぞご意見ください。
これで【特別編】を終了します。