ぶうちん村、風わたる。

風の吹くまま、気の向くままなんて、なかなかできませんが、楽しみを見つけながら過ごしたいものです。

国鉄・宮之城線の今 【薩摩永野のスイッチバックの謎】  その13

2010年04月07日 22時14分09秒 | Weblog
私が目にすることのできる資料の範囲では、「沿線」候補の自治体が熱心な誘致運動を行ったということまでしか分かりません。

 「紛糾した」ということだけは書いてありました。
が、例えば国会議員の某がどうしたとか、議会や諸団体が請願や陳情をどのようにしたのか詳細なことは、分かりません。
 ただ、自治体間が紛糾という事態はただならぬことです。
 「薩摩町郷土史」には、政党も活発な動きを展開したと記されていました。


 A案・B案の決定に向けての「紛糾」はよほどだったのでしょう。
 1933(昭和8)年の春、遂に鉄道大臣・内田信也(写真の人物)が現地視察を行った上で、路線決定をすることになりました。


 さて、大臣が現地視察した頃、永野村の永野金山は金山ブームにわき、多くの従業員を抱え、採鉱・精錬に励んでいました。家族を含め1万人を越えていたと言います。現在の永野の様子からはとても信じられない状況です。
 【正月特別編】で、当時の永野金山の様子は触れましたが、現在にまで残されている写真からすれば、現在の山林の中の村というイメージではありません。山を含めて全体が工場といった趣です。
 これだけの産業を地域に抱えた場所は全国を見渡しても数少ないのではないかと思います。
 当然、永野村の人々の鉄道誘致運動は最も激しいものだったようです。


 また、求名村の人々も負けじと、求名小学校の講堂で大臣の講演会を開催したり、大臣が来訪した際には、村を挙げて歓迎の態勢をとり、小学生らが日の丸の旗を振って迎えたと「薩摩町郷土史」にあります。


 この結果、大臣は永野に駅建設を決定しました。そして、そのルートはA案の鶴田・求名ルートを延伸して、永野に立ち寄るということになりました。

 郷土史などの正史には出てきませんが、3大船成金でありかつ我田引鉄の立憲政友会所属の鉄道大臣の内田氏です。何事かあったことは確かでしょう。しかし、私の調査能力ではここまで調べるのが精一杯でした。
コメント
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