今回の写真は、国土地理院が出している1974年当時の薩摩求名駅上空からのものです。
鉄道の跡がしっかりと見てとれます。
素晴らしい資料ですね。
さて、前回、「政治的な配慮」によって、薩摩永野においてスイッチバックを設置することになったと、言いました。
これまで何度か宮之城線跡をたどりました。
それは単なるノスタルジーにかられた行為でした。
ですから、ルートのとり方や施設についての意味を問うことはしませんでした。
今回、たまたま宮之城線について調べることになったのですが、跡をたどっていけばいくほどに次第にいくつもの疑問が出てきました。
これは当初全く予想だにしていなかったことでした。
どうして宮之城線はこのようなルートを残したのでしょうか。
吉田恭一さんの「The Ruins of Rail」では、下記のように記されています。
勾配に弱い鉄道のルートは、必然的に川の流路に沿うことが多い。しかし、川内川の下流域は、河岸にそれほど平野部を発達させていないこともあってか、宮之城線は、しばしば川内川から「浮気」を繰り返すルートをとっていた。というよりもむしろ、ほとんど川内川に沿うことなく、近傍の集落を結んでいたといったほうが正しいくらいであった。
最初の大きな「浮気」は、古くから開けた町である、樋脇と入来への立ち寄りである。そして、このあたりから、鉄道の痕跡も随所に見られるようになる。
吉田氏は「浮気」という表現を使っていますが、これは川内川という大河に頼らないルートを選択したという意味で使っています。
ですが、私は「浮気」どころか、これは必然的なルート・「本気」のルートであったと考えます。
鉄道の跡がしっかりと見てとれます。
素晴らしい資料ですね。
さて、前回、「政治的な配慮」によって、薩摩永野においてスイッチバックを設置することになったと、言いました。
これまで何度か宮之城線跡をたどりました。
それは単なるノスタルジーにかられた行為でした。
ですから、ルートのとり方や施設についての意味を問うことはしませんでした。
今回、たまたま宮之城線について調べることになったのですが、跡をたどっていけばいくほどに次第にいくつもの疑問が出てきました。
これは当初全く予想だにしていなかったことでした。
どうして宮之城線はこのようなルートを残したのでしょうか。
吉田恭一さんの「The Ruins of Rail」では、下記のように記されています。
勾配に弱い鉄道のルートは、必然的に川の流路に沿うことが多い。しかし、川内川の下流域は、河岸にそれほど平野部を発達させていないこともあってか、宮之城線は、しばしば川内川から「浮気」を繰り返すルートをとっていた。というよりもむしろ、ほとんど川内川に沿うことなく、近傍の集落を結んでいたといったほうが正しいくらいであった。
最初の大きな「浮気」は、古くから開けた町である、樋脇と入来への立ち寄りである。そして、このあたりから、鉄道の痕跡も随所に見られるようになる。
吉田氏は「浮気」という表現を使っていますが、これは川内川という大河に頼らないルートを選択したという意味で使っています。
ですが、私は「浮気」どころか、これは必然的なルート・「本気」のルートであったと考えます。