ぶうちん村、風わたる。

風の吹くまま、気の向くままなんて、なかなかできませんが、楽しみを見つけながら過ごしたいものです。

国鉄・宮之城線の今 【薩摩永野のスイッチバックの謎】  その7

2010年03月31日 22時45分30秒 | Weblog
 今回の写真は、国土地理院が出している1974年当時の薩摩求名駅上空からのものです。
 鉄道の跡がしっかりと見てとれます。
 素晴らしい資料ですね。

 さて、前回、「政治的な配慮」によって、薩摩永野においてスイッチバックを設置することになったと、言いました。

 これまで何度か宮之城線跡をたどりました。
 それは単なるノスタルジーにかられた行為でした。
 ですから、ルートのとり方や施設についての意味を問うことはしませんでした。

 今回、たまたま宮之城線について調べることになったのですが、跡をたどっていけばいくほどに次第にいくつもの疑問が出てきました。
これは当初全く予想だにしていなかったことでした。

 どうして宮之城線はこのようなルートを残したのでしょうか。
 吉田恭一さんの「The Ruins of Rail」では、下記のように記されています。

 
勾配に弱い鉄道のルートは、必然的に川の流路に沿うことが多い。しかし、川内川の下流域は、河岸にそれほど平野部を発達させていないこともあってか、宮之城線は、しばしば川内川から「浮気」を繰り返すルートをとっていた。というよりもむしろ、ほとんど川内川に沿うことなく、近傍の集落を結んでいたといったほうが正しいくらいであった。
 最初の大きな「浮気」は、古くから開けた町である、樋脇と入来への立ち寄りである。そして、このあたりから、鉄道の痕跡も随所に見られるようになる。

吉田氏は「浮気」という表現を使っていますが、これは川内川という大河に頼らないルートを選択したという意味で使っています。

 ですが、私は「浮気」どころか、これは必然的なルート・「本気」のルートであったと考えます。
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国鉄・宮之城線の今  398

2010年03月31日 22時39分50秒 | Weblog
 これは、線路の南側にある山手の畑から写した工事中の路盤です。

 ちょっとしたタイミングなんでしょうが、ここには境界標や距離標など様々な遺構があったのでしょうが、それを画像として残すことができず、本当に残念です。
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国鉄・宮之城線の今  397

2010年03月31日 22時35分26秒 | Weblog
 立ち入り禁止で、重機が動いている現場に入るわけにはいきません。
 仕方なく、路盤の状況を見ることのできるポイントを探すことにしました。

 これは、穴川の橋台から国道を大口へ100mほど走ったところから写しました。

 山が削られてブルーシートがかけられている姿が、なんだか痛々しく感じられます。
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国鉄・宮之城線の今  396

2010年03月31日 22時16分13秒 | Weblog
 395の橋台のところにのぼってきました。

 路盤が削り取られていますが、その向こう側には広橋駅の跡地が見えています。

 今後、この橋台はどうなるんでしょう。
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国鉄・宮之城線の今  395

2010年03月31日 21時48分50秒 | Weblog
 穴川を渡り、対岸の橋台のそばにきました。

 コンクリートの巨大な塊は圧倒的な迫力を感じさせます。

 
 9月末に始まった宮之城線の探索が、やっとここまで到達した時、私は船木駅近くの工事中による立ち入り禁止以上に衝撃を受けました。

 
 というのは、ここも工事中につき立ち入り禁止だったからです。



 写真では橋台の左側の道路が舗装されていますが、11月初旬の時点では舗装されてはいませんでした。


 ここから薩摩永野駅に向かって東進していく線路跡は、車道として舗装はされているものの、かつての鉄道時代の幅のままであり、ちょっと薄暗い感じがいかにも山岳路線という雰囲気に満ちていました。

 この後、現在の様子を紹介しますが、かつてを忍ばせるものはもう何も見つかりません。
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国鉄・宮之城線の今 【薩摩永野のスイッチバックの謎】  その6

2010年03月31日 00時39分59秒 | Weblog
 今回の写真は、川内駅です。
 草がぼうぼうと生えている中にあるのは、貨物取り扱いの引き込み線です。
 
 貨物取り扱いは続いている川内駅ですが、なんだかわびしさを感じる光景です。

 手前のプラットホームは九州新幹線開通でJRから経営が分離された「肥薩おれんじ鉄道」の川内駅ホームです。
 奥には九州新幹線の川内駅が少し見えています。


 では、薩摩永野のスイッチバックについてのお話を始めたいと思います。



私は、結論から、最初に述べたいと思います。

 薩摩永野駅がスイッチバックの線形となったのは、急勾配の克服もあり、金山絡みの思惑もあり、鹿児島本線のルートの問題もありだと思うのですが、最大の理由は「政治的な配慮」にあるのではないかと思います。

この【特別編】のその2でWikipediaの分類を紹介しました。
 私は、それに対して「本当にそれだけか?」と意見をしました。

 なぜなら、5つの分類は、列車の走行をスムーズに行うための技術的な課題を中心になされているからです。そして、5つめにそれ属さない類のものを全部投げ込んでいるのです。なるほど、ここに属するスイッチバックの数が異様にふくらむはずです。

 私は、鉄道のことについては素人ですが、もう少し丁寧な分類をしてもいいのになと思いました。



さて、「政治的な配慮」を最大の理由にしたわけですが、これはこの時代特有のことではなく、現代でも似たような話はあるものです。

 例えば、来年3月に全線開通を控えた九州新幹線において、どう考えても不必要だと言われる駅が一つだけあります。
 ・・・筑後船小屋駅です。
 前政権の重鎮のK氏との関係で指摘されているわけですが、宮之城線が順次延伸していった大正~昭和初期のこの時代には「我田引鉄」という言葉が作られたように、政治力との関係も無視してはいけません。


現在の高速道路等のルート選定・建設でもそうですが、鉄道のような公共交通機関の設置という行為は、建設の技術力と財政的な裏付け、住民の要望や議員の有無といった政治力のトライアングルの微妙なバランスの上に成り立っていると思います。

本来、経営を維持・発展させることが最も重要だと思うのですが、これは目標というか前提にしかされません。
 これが結果的に、後世に多くの廃線を残してしまうことになってしまったのだと思います。
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国鉄・宮之城線の今  394

2010年03月30日 23時49分33秒 | Weblog
 駅舎跡、駅舎側の橋台を穴川の対岸から見ました。

 左側の孟宗竹の藪にうっすら隠れているのが駅舎跡の共同調理場です。
 そこから右へと路盤が伸び、橋台のところで、すぱっと切れています。

 こうして全体像を見てみると、現役当時の姿が浮かんでくるようです。
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国鉄・宮之城線の今 【薩摩永野のスイッチバックの謎】  その5

2010年03月29日 23時34分17秒 | Weblog
 今回の写真は、なんの変哲もない道路のそばにある境界標です。
 変哲もないのですが、よくよく見ると、道路の左右に境界標が立っているのです。ということは、境界がジクザクに走っていたのでしょうか・・・。

 この場所は、この連載が№100を迎えた樋脇駅の1㎞ほど上樋脇駅側にある道路です。線路跡の道路の横を走っている道路です。

 ちょっと場所をがらすと、線路跡の場所からだけでは分からない景色が見えてくるものですね。



 さて、最後に、取り上げるのは「魅惑の鉄道写真」です。

 この薩摩永野の地形はスイッチバックを必要とする程に急峻な地形ではなく、地元民の陳情により集落の中央に駅を設けた・・という説と、八代から“矢岳越え”を避けるべく新線を延ばし、この薩摩永野で合流させる計画があった・・という説がある。
 私としては後者の方に信憑性があるかな・・と思うが、“真実は藪の中”である。
 建設目的が“山越えルート”であった当時の鹿児島本線(現肥薩線)の代替ルートでしかなかった事で、現ルートが完成した現在は“目的を何ら持たない支線”となり、当然廃止対象に指定されてしまう。また、県都・鹿児島に向かうにしても薩摩大口や川内へ大きく迂回する形となり利用客を見込めるはずもなく、何ら廃止に抗する武器を持たぬまま、ひっそりと1987年1月に路線廃止となっている。
 これは肥薩線とのアクセスによって、より効率的な物流の推進や金山開発という点では有意義です。
 ただし、ここも地図を見れば分かると思うのですが、薩摩永野駅から精錬所のあったところまで平均30‰を駆け上がり、そこからトンネルにしたとしても、反対側の山ヶ野まで約3㎞と、薩摩求名~針持間以上に長大なトンネルが必要になってきます。
 それができず、反対方向へ線路を延伸せざるをえなかったのでないかとも言われています。


 氏は、薩摩永野~大隅横川間の急勾配と指摘されています。その通りだと思います。だからこそ「反対方向へ延伸せざるをえなかった」と薩摩町と大口市の間の「急勾配の克服」が紹介されています。
 そして、旧鹿児島本線(現・肥薩線)のルートの選定問題が、スイッチバックに影響したと分析された意見だと思います。
 
 その分析は当然だと思うのですが、ただ、私は「せざるをえなかった」のではなく、もっと積極的な意味を持っていたのではないかと思うのです。


 こういった先達の考えと多分重なってくるのでしょうが、次回からは私の意見を述べさせていただきたいと思います。
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国鉄・宮之城線の今  393

2010年03月29日 23時27分04秒 | Weblog
 年末にここを訪れたその時、草木の葉がずいぶんと落ち、見通しもけっこうありました。
 橋台の先に倒れかかっている孟宗竹が邪魔!って思うんですが、そのさらに向こうに見えている四角い建造物・・・

 そうです、手前の橋台から伸びた鉄橋を支えていた対岸の橋台です。

 こうして2つ同時に見ると、ここにかかっていた約50mの鉄橋の姿を想像できそうですね。
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国鉄・宮之城線の今  392

2010年03月29日 23時14分04秒 | Weblog
 葉が生い茂っていては見える物も見えないと思い、年末に改めて訪れてみました。

 橋台のすぐ下は、国道504号線が走っています。
 そして、そのすぐ隣りには穴川が流れています。

 久しぶりに出ましたが、「穴川」の名前は記憶されているでしょうか・・・。

 川内川の支流の一つですが、宮之城の市街地の東のはずれから始まり、日特宮之城工場の前を通り、佐志を抜けて、この場所に東進しています。
 この先、穴川は、現在、滞在型のアウトドアの名所である観音滝公園を通り、永野の中心部を抜けて、正月特別版でも紹介した永野金山に達しています。

 この川は、現在は冬の弱い太陽光をきらきらっと反射するのが美しい、ただの河川ですが、かつては、金の粒が流れていた川でもあったのです。
 別途、【薩摩永野のスイッチバックの謎】でも、改めてそのことは触れたいと思います。
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