ぶうちん村、風わたる。

風の吹くまま、気の向くままなんて、なかなかできませんが、楽しみを見つけながら過ごしたいものです。

健康管理をしっかりと。

2010年04月12日 22時48分41秒 | Weblog
 年を増すごとに、仕事のクオリティーは容赦なく高いことを求められ、精神的にもプレッシャーを感じるどころか、それが時には(というより、常時に近いけど)ストレスになっています。
 
 そんな中で、ジャイアンツの木村拓也コーチの死は身につまされる「事件」でした。
 天命がもっとあれば、どこかのチームの監督などをして球界の発展に寄与できる人物だった思うのですが、本当に惜しい方を亡くしたものです。

 とはいえ、「惜しい」と言われなくてもいいので、私は長生きしたいと思います。

 とりあえず、子どもの頃に恐怖心を覚えたノストラダムスの大予言の成就の行方は見届けたんで、次は2012年12月のフォトンベルトとかいうやつ。
 精神レベルがどうこうとかいっている本を本屋さんだ立ち読みしたけど、だとしたら、ぼくなんか2012年を待たずして、その波動にて来週あたり憤死しそう・・・(笑)
 本当かどうか分からないけど、本当に物理の現象として起こるならば、精神レベルまで影響出るのか見届けたい。
 生き延びて「俺って聖人君子?」と言ってみたいのです(意地でも)。

 そのためにも、今年は人間ドックの申し込みしました。
 
 
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国鉄・宮之城線の今  417

2010年04月12日 22時23分05秒 | Weblog
 414の踏切から約1㎞ほど盆地(谷)の南側の麓を走ってきた線路跡の車道は唐突に右側へ折れて下っていました。
 もちろん、線路がこんな急に折れ曲がるなんてありえません。

 ここからは左右の展望が開け、正面には国見岳など金山を含んだ山々が山並みを連ねている姿を見ることができます。

 写真正面の緑の塊は築堤です。
 その向こう側には最近建てられたばかりの家々が見えていました。

 ここから先は、薩摩永野駅まで約800m。
 田園風景の中を走っていきます。
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国鉄・宮之城線の今  416

2010年04月12日 22時19分38秒 | Weblog
 淡々と東側に向かって進みます。

 そうこうしていると、左側に穴川をはさんだ向こう側に見える山の麓を、薩摩永野駅から針持駅に向かう線路跡が見えてきました。
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国鉄・宮之城線の今  415

2010年04月12日 22時17分21秒 | Weblog
 盆地(谷)の南側の端をなめらかにたどるようにして、線路跡は車道になっていました。

 右側は山ですが、左側は何軒か民家の入り口になっています。
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国鉄・宮之城線の今  414

2010年04月12日 22時07分48秒 | Weblog
 1週間ぶりの通常版になりました。
 歓迎会だ、新年度準備だ、自治会の仕事だなんだと忙殺されているうちに、時間だけは淡々と過ぎ去っていきます。

 さて、南川を渡り、そのすぐそばの踏切跡は歩道過ぎると、切り通しのようになった区間で車道と線路跡が出会います。
 国土交通省の1974年頃の航空写真(国土情報ウェブマッピングシステム)を見てみると、約30°ほどの角度で鋭角的に交差した踏切だったようです。 

 この踏切を越えると、いよいよ薩摩永野駅のある盆地(谷)に入ります。
 スイッチバックは間もなくです。

 
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国鉄・宮之城線の今 【薩摩永野のスイッチバックの謎】  その16

2010年04月12日 21時40分15秒 | Weblog
 今回の写真は、佐志駅の南側にあった田んぼの中の小さな鉄橋跡の工事現場です。
 手前は線路跡です。こうして見ると、線路跡は歩道部分に重なっていることが分かります。
 この工事、この先はどうなっていくんでしょうか。


 さて、今日は薩摩永野から大隅横川までの延伸計画について考えてみたいと思います。

 私はこの計画案は肥薩線を通して多方面への物流ルートの展開、観光ルートの開発などおもしろいとは思いますが、現実味としては完全否定です。



永野の市街地から約2㎞ほど穴川に沿ってさかのぼったところに「金山」という集落があります。ここには金山全盛期には様々な遊興施設があったそうで、定住者も多くいました。
 「金山」集落とまでは言わなくても、精錬所の辺りまで、約30‰の勾配を駆け上がってくる鉄道を延伸することは可能だったと思います。

 しかし、ここで延伸しなかったのは、産出物が金だったからだと思います。
 石炭や鉄鉱石と違って、少量でも高価な金ですから、不特定多数の人間がたやすく出入りできるような鉄道を導くわけにはいかなかったのではないかと思うのです。
 そういった「政治的な配慮」が働いたのではないかと考えます。

 駅まで一定の距離をとって、金山を周囲から「隔離」するという意図があったのではないかと思うのです。この点については、永野金山はじめ全国各地の金山のセキュリテイーが
どのように確保されたのか研究された方のご意見をうかがいたいところです。

 さらに言えば、仮に別途何らかのセキュリテイーを確保したとしても、「魅惑の鉄道写真」の方がおっしゃっているように、反対側の山ヶ野まで3㎞と、長大なトンネルが必要になってきます。
 しかも、トンネルを通す場所は金山そのものです。蜘蛛の巣のようにトンネルが掘り尽くされた山の中に鉄道用の大きなトンネルを通すことの危険性は言わずもがなでしょう。
 私の知りうる限り、金山はもちろんその他の鉱山のど真ん中を貫いたトンネルというのはありません。

 
 計画としてはおもしろいのですが、実現性となれば、金山だからこそ建設の困難性、トンネル建設の資金・技術的な困難さによって完全に否定されるはずです。

 ということは、薩摩永野~大隅横川間の構想は、そもそも不可能ということです。

 以上のような事情から、薩摩永野駅の線形はスイッチバックになったのだと思います。

 つまり、金山との関わりを中心にした駅設置の目的に合致させるためには、スイッチバックが永野の谷の狭さからしてベストな線形だったと思うのです。

 スイッチバックは「やむをえず」という選択肢ではなく、「そうするべき」という選択肢だったと思います。



 メモをしてなかったのですが、この辺りの町か村の郷土史には下記のように記されていました。
 横川までの延伸は、金山の存在、社会情勢の変化でいつしか沙汰やみとなり、スイッチバックになったと。
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