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大天使ガブリエル、アラーの言葉を告げる・・ムハンマドの生涯(2)

2015-03-14 | エジプト・イスラム・オリエント




ひき続き、小杉泰氏の「ムハンマド・イスラームの源流をたずねて」のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****

           (引用ここから)


ムハンマドが結婚し、長女が生まれたのは、結婚して5年が過ぎた頃である。

続いて女児3人、男児2人が産まれた。

男子2名は夭折した。

ムハンマドが35歳のころ、末娘が産まれ、4人の娘と妻とメッカで過ごした。

40才になる頃には、メッカ社会の現状を憂いて、度々ヒラーの洞窟に籠って瞑想にふけっていたとされるが、夫、父としての責務をおこたっていた様子はうかがえない。


しかし彼が「アラーの使徒」であると自覚するに至って、生活は大きな変化をとげる。


ムハンマドは、初めて「啓示」をうけた頃、定期的にメッカ郊外のヒラー山に籠って瞑想にふけっていたという。

この洞窟で天使ガブリエルの訪問をうけ、預言者としての暮らしが始まることになる。

40才のムハンマドは、メッカのクライシュ族の中で、指導者として必ずしも傑出していたわけではなかったが、信頼される人物であった。

彼の瞑想の本拠地ヒラー山は、徒歩小1時間で登れるほどの高さである。

今日では「光の山」と呼ばれ、洞窟が「ヒラーの洞窟」とされる。




「預言者伝」の中の描写を示す。

            ・・・

わたし(ムハンマド)が眠っている間に、天使ガブリエルが一冊の本を入れた錦織の手提げ袋を持って私のところにいらっしゃって、「朗読せよ」と私にお命じになりました。

わたしが「何を朗読するのですか?」とたずねると、彼はその手提げ袋で私を押さえつけたので、わたしは今にも死ぬかと思いました。

やがて彼はわたしを許し、また、「朗読せよ」とお命じになりました。

わたしが「何を朗読するのですか?」と尋ねると、彼はその手提げ袋でわたしを押さえつけたので、わたしは今にも死ぬかと思いました。

やがて彼はまた「朗読せよ」と言われました。

そしておっしゃいました、

「読め!

創造なされた汝の主の御名によって。

彼は、凝血から人間を創られた。

読め!

汝の主はもっとも尊貴なお方。

彼は、筆によってお教えになった方。

人間になることをお教えになった。

               ・・・


ムハンマドは誰もいないヒラーの洞窟で一人すごしていた。

誰も来るはずのない場所である。

そこに突然、誰かが現れた。

しかも唐突に「読め!」と命じる。

何のことか分からなかったに違いない。

そもそも当時のメッカの住民がほとんどそうであるように、彼は読み書きができなかった。

読み書きのできない自分に、読むものも無い洞窟で、「読め!」とはいったい何の話なのか?


「何を読めというのですか?」

ないしは「わたしは読むことができません」と彼は抗弁したのであろう。


相手は命令に従わないムハンマドに満足せず、実力行使に出た。

この時点では、相手が人間であるのか、天使や霊精の類であるのかも判然としない。

締め付けられたムハンマドが、殺されるのかと思っても、不思議はないであろう。

3度、死ぬ程苦しい目にあって、訳はわからないが言うことを聞くしかない、と思ったであろう。

神はムハンマドに、不思議の言葉を言い聞かせた。

ムハンマドは、恐れおののいて洞窟を後にした。


「預言者伝」の表現では、以下のようである。

            ・・・

山の中腹まで降りると、天から声が降ってきた。

「ムハンマドよ、汝はアラーの使徒なり。

そして、我はガブリエルなり」。

見上げると、両足で地平線をまたいだ巨大な男性の姿がそこにある。

その者はふたたび、

「ムハンマドよ、汝はアラーの使徒なり。

そして我はガブリエルなり」と呼ばわった。

             ・・・




天使は、ムハンマドが唯一神アラーによって人類への使徒として選ばれたことを宣言したわけである。

しかし、ムハンマドはその意味をまったく理解していなかったであろう。

ムハンマドはその姿を見つめて、動くこともままならなかったという。

かろうじて顔を動かして反対方向を見ると、どうやって移動したのか、そこにも天地の間に屹立する同じ姿が立っているのである。


あまりに帰宅が遅いので、妻が人をやって夫を探させるほど、時間が過ぎた。

そして震えながら家に帰ったムハンマドは、妻に「私に衣を被せてくれ。私に衣を被せてくれ」と叫んだ。

彼女に衣で覆ってもらった彼は、やがて愛妻の傍らで平静を取り戻し、事件を語った。


衣を被っている姿は、「コーラン」の次の章句に言及されている。


               ・・・

衣をかぶる者よ。夜は礼拝に立て。わずかの時を除いて。

夜の半分、あるいはそれより少しだけ少ない礼拝に立て(「衣を被る者」章1-3)

                ・・・


ムハンマドは妻に、率直に自分がおかしくなったのではないかとの恐れと不安を訴えたようである。

それに対して15才年上の妻は、夫への親愛をあらわにし、勇気づけた。

妻は「めっそうもない。アラーは決してあなたを辱めなでしょう。

あなたは身内の者に良くし、弱い者を支え、貧しい者に施しをし、旅人を暖かくもてなし、世の転変の犠牲となった人々を助けているのですから」と言った。

ちなみに彼女が挙げたムハンマドの美質は、当時のアラブ人の美徳観を示している。

これらはイスラームにも継承された。

弱者や貧者の救済、旅人へのもてなしなどは、今のアラブ世界でも人間味あふれる振る舞いとして、私たちは出逢うことができる。


妻は夫をなぐさめるだけでなく、いとこのもとに相談に行った。

彼は、当時のメッカには珍しいキリスト教徒だった。

彼は「ムハンマドを訪れたのは大天使にちがいない」と断定した、と伝えられる。

ムハンマドは、「啓示の器」たることを引き受けた。


          (引用ここまで)

         写真(中)はヒラー山。
         写真(下)はヒラー山の洞窟を訪れる信徒たち。
         いずれも同書より。


             *****


この場面は非常に有名な場面であるようです。

たしかに一読すると、忘れられない強いインパクトがあります。

7世紀のアラビア半島で、このようなできごとがあったのだということを疑うことはできません。

しかし、なぜ、彼のもとを訪れた者が「大天使ガブリエル」なのか?ということは、率直に言って、今の私にはよく分かりません。

もし、ユダヤ教にもキリスト教にも関わりのない、土着の〝天使″であったなら、今の中東問題の混乱もなく、イスラム教徒たちだけの平穏な世界が保てたのではないかと思ってしまいます。



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ムハンマドの生涯(1)・・40才、イスラームの預言者となる

2015-03-07 | エジプト・イスラム・オリエント




小杉泰氏の「ムハンマド・イスラームの源流をたずねて」という本を詠んでみました。

表紙には、本の要旨がわかりやすく書いてありました。

             ・・・

            (引用ここから)

世界の人口のうち、13億人が帰属するイスラーム。

広大な地域におよぶこの宗教は、唯一真への絶対帰依を説き、その教えは社会のすべての面におよぶという。

その源流は開祖ムハンマドにあるが、彼の実像は日本人には縁遠い。

現在も信徒たちは、彼を人生と社会の規範として仰ぎ見る。

その影響力の秘密はどこにあるのだろうか?

ある時代を生きた一人の人間であるとともに、大きな思想現象として人類史に衝撃を与えたムハンマドの核心に迫ってみよう。

            (引用ここまで)

              ・・・

ムハンマドの人生を、私も辿ってみたくなりました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

               *****


              (引用ここから)


イスラームの伝承によれば、メッカにカーバ神殿を建てたのは、イブラーヒム(=「旧約聖書」に書かれている族長時代のアブラハム)であり、メッカはその頃から人が住めるようになったという。

水がなければ、乾燥地帯で生命を維持することはできない。

人が住めるようになったのは、湧水のおかげであった。

有名な「ザムザムの泉」は、今日でもカーバ神殿の近くで湧いている。

こんこんと湧き続ける「ザムザムの水」を、人々は神の恩寵と讃えている。

しかしザムザムをはじめとする泉によって、居住可能な地となったものの、これらの地下水は農業を可能にするほど豊かではなかった。

メッカの街は、イスラーム以前の多神教時代にもイスラーム時代にも農業産品を他から輸入して食料としている。


イスラームの教えは、時を超えるものとして、人類すべてにもたらされたとされる。

木々に恵まれた庭園は美しいが、枯れない木はない。

むしろ緑のない砂漠、木の無い山は、姿を変えることない。

〝時を超えていくもの″、ということがポイントとされる。

イスラームは変わらぬ真理を示すことを目指したのであり、アラビア半島の舞台装置は、そのためにこそ役立つという解釈を聞かされたとき、わたしの前でイスラームが生まれた世界へ、大きく扉が開かれたように思われた。





ムハンマドが予言者として活動を始めたのは、およそ40才のときである。

それ以前については、資料がきわめて乏しく、さほどの記録は残されていない。

彼の一挙一動に注目が集まるようになったのは、「イスラームの予言者」と名乗ってからである。

それ以前の記録としては、彼が35歳の時に、カーバ神殿の建て替えの際のエピソードが残されている。

当時、この正殿には黒石がはめ込まれていたが、建て替えの際に黒石をはめ直す大役を誰が果たすかで、彼らはもめた。

ムハンマドはアーミン(正直者で信頼できる者)として知られた若者であり、彼なら調停者としてよかろうと皆が納得したという。


当時のアラビア半島は、部族を単位とする集団に分かれていた。

部族は共通の祖先から出た子孫たちと考えられ、確固たる実態を持つ社会集団で、強い同族意識をもっていた。

アラビア半島に統一的な国家はなく、部族を最大の単位とするアナーキーな状態にあった。


メッカを支配していたのは、クライシュ族である。

ムハンマドはその一員であった。

ムハンマドが生まれた時、父はすでに亡くなっていた。

そのため祖父が保護者となった。

しかしさらに母も6歳の時に亡くなり、彼は完全な孤児になってしまった。

しかし祖父は手厚い保護を与えた。

祖父は8才の時に亡くなった。

部族が保護をするということは、保護された者に他部族が危害を加えるならば、部族全体でその他部族と戦うという意味である。

この報復の原理が抑止力となって、互いにやたらと危害を加えない仕組みとなっていた。

部族の保護を受けられなければ、命を長らえることもままならない時代であった。


ムハンマドは、血を分けた兄弟はいない。

若い頃のムハンマドは、羊を飼う仕事を手伝ったりもした。

おとなになってからは、キャラバン貿易の仕事をするようになった。

メッカは商業都市である。

彼らの部族は、もとは遊牧民だったが、定着してキャラバン貿易に従事するようになった。


25才の時、15才年上のハディーシャと結婚した。

40才の彼女から求婚したとされる。

しっかりした判断力をもち、若々しく容姿端麗な女性だったようだ。


ムハンマドが「啓示」を受けるまで、およそ15年が過ぎる。

その間、夫婦の生活はキャラバン貿易からの収入に頼っていたにちがいない。

ムハンマドは、ハディーシャと結婚してからは生活も安定した。


「コーラン」は、ムハンマドが40才で預言者となって以降、アラーの「啓示」、すなわち天使が直接運んできた神の言葉として、弟子たちに伝え、彼らに記憶または記録させたものである。

「コーラン」を憶えることは、ムハンマドに従うイスラームの信徒たちにとって最も重要な宗教行為だった。


ムハンマドの死後20年ほどで、「コーラン」の全体を書き記した聖典が作られた。

聖典の結集を命じたのは、第3代カリフとなったウスマーンであった。

彼は聖典の複製をいくつか作らせ、それを主要都市に送って、それ以外に「コーラン」を記載したものがあれば、すべて焼かせた。

そのため今日に伝わる「コーラン」はすべてウスマーン版と呼ばれている。

焼却が徹底していたことは、ウスマーン版と異なる版が存在していたことは記録されているのに、実物は一つも後世に残されていないことからもわかる。

これを他の宗教の事例と比べてみれば、聖典化作業の速さがよく分かる。

たとえばユダヤ教の聖書(=「旧約聖書」)をみると、紀元前13世紀の「モーセの律法」が正典化したのは紀元前500年ごろとされる。

さらに、ユダヤ教の聖書全体の聖典が確定されたのは、紀元後1世紀末のことである。

また「新約聖書」をみると、「共観福音書」の成立は紀元60年~70年のことと考えられている。

そのいずれも原典は残っておらず、最古の写本でも4世紀のものである。


「コーラン」はおよそ23年間にわたって、さまざまな時期に、天使がムハンマドにもたらした「啓示」を総集したものとされる。

しかしそれぞれの「啓示」がいつどこでどんな環境でもたらされたかといった記述は「コーラン」の中には一切ない。

ムハンマドが、「コーラン」を他の言葉と一緒に記録したり覚えたりすることを禁じたため〝天使が・・と伝えた″、〝ムハンマドが・・した時″、というような説明すらないのである。

思想的な内容についていえば、「コーラン」は全編に渡って非常に雄弁である。

来世や不可視世界についても、人間の生き方、社会の在り方についても、極めて雄弁に語っている。

 
            (引用ここまで)

写真は鈴木鉱司氏著「真実のイスラーム」より・メッカのカーバ神殿


              *****

しかし、メッカの「カーバ神殿」が、ユダヤ教の「旧約聖書」に登場するアブラハムによって創られた、とされているという事実には、やはり驚きを禁じ得ません。



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アラブの怒り、日本にも責任・・野中章弘氏

2015-02-16 | エジプト・イスラム・オリエント



1月22日付朝日新聞に、「「イスラム国」邦人人質の衝撃」という識者たちの意見が並んでいる記事がありました。

その中の一つの意見を、載せておきます。

 
               ・・・・・



「アラブ社会の怒り、日本にも責任・・早大教授・野中章弘氏」(イスラム国、邦人人質の衝撃)
                        朝日新聞2015・01・22


1983年からアフガニスタンやパレスチナ、パキスタンを長く取材してきました。

その経験から今回の「イスラム国」による人質事件への日本政府の対応を見ると、日本の外交力が非常に弱くなっていると感じます。

日本人がターゲットになるのは、当然予測できました。

このようなことのために外交官は、常日頃から部族長といった、地域の有力者との親交を持っていないといけません。

しかし2004年にイラクでボランティア活動家3人が誘拐されたときも、日本政府の交渉は十分機能しませんでした。

こうした土着の実力者とのパイプ作りが必要だったのに、日本の外交官は東京の本省ばかり見ているのではないでしょうか?

アラブ社会から日本がどう見えているのか、という視点も大切です

「イスラム国」、アルカイダは100%われわれの理解を超えたテロリストにしか見えません。


なぜ欧米がターゲットにされるのか?

安倍晋三首相は今回の中東訪問で、地域全体に新たに約2940億円相当の支援を表明しました。

しかしたとえば昨年パレスチナがイスラエルから受けた攻撃で、2000人以上が死亡し、このうち約500人は子どもでした。

明らかに戦争犯罪ですが、イスラエルの責任は国際社会では問われません。

今回のような事件では大きな騒ぎになるのに、パレスチナで多くの市民が殺されても日本政府は問題視しているようには見えない。

多くの市民、子ども達が殺されたパレスチナからすれば、非常に不条理なことですが、国際社会はイスラエルの責任を全く追求しようとしない。

このようなダブルスタンダードに対するアラブ社会の怒りを、我々は知ろうとしません。

アフガニスタンで私が取材した高校の先生は、米国の攻撃で子供を殺されて、生き残った一番下の子に「お前が生きている限り、アメリカに報復しないさい」と言いました。

このアフガニスタンの家族からすれば、米国の攻撃は国家テロです。

このようなイスラム社会にある反発を生み出した責任の一端は欧米、そして日本にもあるのです。

「イスラム国」の在り方には激しい怒りを感じますが、軍事力でたたいても対症療法に終わるだけです。

事件の背景を、根源的に考える必要があります。


                ・・・・・


>しかしたとえば昨年パレスチナがイスラエルから受けた攻撃で、2000人以上が死亡し、このうち約500人は子どもでした。

>明らかに戦争犯罪ですが、イスラエルの責任は国際社会では問われません。

>今回のような事件では大きな騒ぎになるのに、パレスチナで多くの市民が殺されても日本政府は問題視しているようには見えない。

>多くの市民、子ども達が殺されたパレスチナからすれば、非常に不条理なことですが、国際社会はイスラエルの責任を全く追求しようとしない。

>このようなダブルスタンダードに対するアラブ社会の怒りを、我々は知ろうとしません。



上記のような現実に対して、もっと謙虚であるべきではないかと、思われてなりません。


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西欧の原理を押しつけるな・内藤正典氏・・連続テロの底に

2015-02-10 | エジプト・イスラム・オリエント


今や、遠い昔の感がありますが、フランスの雑誌社がテロの対象となった事件について、内藤正典氏が述べているものです。

西欧の論理があり、ムスリムの論理もある、という明白な事実を理解しようと思っています。

私達東洋人から見ると、近親憎悪にしか見えない時もあり、また、西欧とムスリムはどうしても共存できない仕組みになっている、という側面もあると思います。

同じ聖地を分かち持ち、同じ預言者を分かち持ち、同じ先祖を分かち持つという人々が殺戮し合うという不可思議な現象が、なぜ起きてしまったのか?

悲劇としか言いようがない人類の歴史に、胸が痛みます。


               ・・・・・


「連続テロの底に・・内藤正典氏・西欧の原理を押し付けるな 」
                        2015・01・20朝日新聞


「シャルリー・エブド」は、14日に発売した特別号にも預言者ムハンマドの風刺画を載せました。

日本のテレビ局はムスリム(イスラム教徒)に見せて感想を聞いていたが、見せることによる暴力性を考えていない。

あの絵は侮蔑的なものではなかった、とするのは、非ムスリムの解釈で、預言者を嘲笑してきた同紙が何を書いても、ムスリムの嫌悪は消えません。

フランスでは人種や民族への侮辱は表現の自由として認められないが、宗教は冒涜を許される。

「厳格な世俗主義」を国是とし、公共や言論の場は非宗教的だから、神や予言者を風刺するのは権利だと考える。


しかしムスリムにとって、ムハンマドは、自分の心身と一体化している存在。

預言者を哄笑されることは、自分を否定されるように感じる。

彼らが「ヘイトだ」と受け取っている以上、差別なんです。

心底見たくないものを見てから議論しろ、と言うなら暴力です。


フランスは第2次世界大戦後、旧植民地から大量の移民を受け入れました。

移民1世は、生活に必死で信仰実践に熱意はなかった。

しかしフランス国籍を持つ2世,3世達の、イスラムへの回帰が目立つようになると、フランス社会はひどくいらだった。

「フランス的な自由」から逃避して信仰に邁進することが、理解できないからです。

だが若者にしてみれば、多くが社会的、経済的に底辺に滞留し、「自由・平等・博愛」など実感できない。

彼らは移民のイスラム共同体で初めて、自由や平等を知り、癒されていると実感したんです。



「怒りを胸に秘め」


イスラムに聖俗分離の概念はなく、信仰実践を個人の領分に留めない。

女性はスカーフやベールをかぶって公の空間に出る。

スカーフはイスラムの教えに従うもので、頭髪などに羞恥心を感じる人は被る。

だが、フランス人はこれを、イスラムのこれ見よがしなシンボルとして排除しました。

フランスの原則に異を唱えると、即座に激しい批判に直面することを、移民は思い知らされました。

外へ目を向ければ、中東情勢が極めて悪化している。

フランスに居場所が無いのならイスラム国などの戦闘的ジハード(本来は「信仰を正す努力」)の呼びかけに応じようとする若者が出てくる。

だがそれはフランスのムスリム500万人のごく一部です。

大多数のムスリムは、信仰を否定される怒りを胸に秘めたまま、フランスで生きています。


2001年の米同時多発テロ以降、欧州では「反イスラム」感情が高揚した。

だがイスラム排斥の論理は国によって違う。

フランスは同化圧力が強く、「国民戦線」のような極右に限らず、共和国の原理に従わないなら出て行けと言う。

オランダは多文化主義で、同化を求めない。

排外主義者はむしろリベラルを自認していて、イスラムは抑圧的な宗教だから排除しろと言う。

とはいえ、今回の事件をきっかけに「表現の自由を守れ」、「反テロ」という論理で一色になる可能性は高い。


「テロとの戦い」として中東で軍事力を行使すれば、テロリスト以外のムスリムの命も奪う。

すでにシリア・リビア・ガザ地区で多くの市民の犠牲が出ている。


中東は崩壊の危機にあり、ムスリムの殺戮に欧米諸国は加担しています。

「シャルリー・エブド」の犠牲者を追悼する大行進に、ムスリムに犠牲を強いる国の指導者が参加したことはオランド政権の失策でした。

テロを根絶するには、中東の安定化が不可欠。

欧州のムスリム移民は、自分達の国での生きづらさから、怒りの矛先を中東にも西欧にも向けています。



「共存の道を探れ」


西欧とイスラムは、パラダイム(構成原理の体系)が違う。

西欧、特にフランスでは、「神から離れる」ことで自由を得た。

イスラムでは、「神と共に在る」ことで自由になれる、と考える。

神の法が認める範囲で、人は欲望を満たし、人生を楽しむことが許されるからです。


パラダイムが異なる両者は、「共役不可能」な関係にあり、一方の原理を押しつけても、他方には通じない。

暴力の応報を断つためには、パラダイムの違いを認識した上で、一から共存への道を探っていくしかない。

啓蒙が西欧の普遍的な価値だとしても、圧力でイスラムが変わることは決してありません。


               ・・・・・


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「中田考氏「イスラームのロジック」(1)・・先祖アブラハムの血を分けた兄弟」(3)まであり

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〝十字架″としての、十字軍・・中田考氏「イスラームのロジック」(3)

2015-01-14 | エジプト・イスラム・オリエント


中田考氏の「イスラームのロジック」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****

             (引用ここから)


「十字軍パラダイム」

西欧の基調低音

アメリカの同時多発テロ事件に際して、ブッシュは即座に「十字軍による報復」を口にした。

世俗国家の建前の裏にある、アメリカの白人中心主義、キリスト教絶対主義の本質が露呈した歴史的瞬間であった。


「十字軍」の呪縛は、現在においてもなお西欧諸国の行動様式を規定している。

12世紀が、西欧がイスラム文化を吸収し、イスラム文化を通してギリシャ科学を発見した「異文化間文化交流の時代」であったと同時に、イスラムによって浸食される一方であったキリスト教世界の反撃の開始=「十字軍の時代」でもあったことを忘れてはなるまい。

「十字軍」とは、1095年に教皇ウルバヌス2世が南東フランスのクレルモンで「〝聖墓への道″を確保し、それを邪悪な種族から奪い返し、彼らを服従させるよう」に、キリスト教信徒たちに訴えたことに始まった。

11世紀末から13世紀後半過ぎまで、8回に亘って行われた聖地回復のための遠征であった。

1099年にエルサレムを攻略した「十字軍」は、2日間に亘って老若男女の別なく、イスラム教徒のみならず、ユダヤ教徒をも殺戮した。

この時に殺害されたイスラム教徒とユダヤ教徒の数は、4万人に上り、そのほとんどが非戦闘員であった。



律法を持たない、無法なキリスト教徒の「十字軍」の野蛮さは、最後の普遍宗教としてのイスラム教が、異教徒を庇護民として受け入れる、他宗教との共存システム、非戦闘員の殺害の禁止などを法制化していたこと、

また、概して実際にも守られていたのと好対照をなしていた。

また一方、イベリア半島では、イスラムの支配を脱するための再征服=レコンキスタが展開された。
レコンキスタもまた「十字軍」の名でよばれた。


実際にはレコンキスタは11世紀に至って後ウマイヤ朝(755~1031)が没落し始めると共に進展し、13世紀中葉までには、グラナダを除いてスペインの再征服はほぼ完了した。

最後に残ったグラナダのナスル朝も、最後の21代スルタン=モハマド・ブン・アブドッラーが、キリスト教徒の征服者の法律下でも人格を保護され、宗教の自由を持つことを条件に、1492年アラ
ゴンの王に降伏して滅亡した。

しかしイスラム教の信仰の自由の保障は守られず、1501年以来、スペインのイスラム教徒に対して、改宗か追放かの二者選択を迫る勅令が発布された。

1609年のフェリペ3世による最終的なイスラム教徒追放令により、約50万人の全イスラム教徒が追放され、スペインにおけるイスラム教徒の「民族浄化」は完了した。


グラナダ陥落以来、この間に約300万人のイスラム教徒が、処刑か追放の運命にあったと見積もられている。

レコンキスタの結果として、スペインは宗教の共存を許すイスラムの統治システム下の多元社会から、カトリック教会の異端審問の嵐の吹きすさぶ全体主義社会に変質するのである。


西欧内部のユダヤ人も含めて、イスラム世界を敵対視する、この「十字軍」の思想は、イベリア半島におけるレコンキスタや15世紀以降のいわゆる大航海時代の戦略を支え、以後曲折はあっても、現代西欧の「対パレスチナ政策」や、アメリカの「対中東政策」にまで尾をひいている。

イスラムを敵対視するヨーロッパのイスラム認識の基調低音となる「十字軍パラダイム」は、この時期に形成されたのである。


        (引用ここまで・写真下はイスラムのお守りファティマの手)

              *****

歴史の教科書のようですが、たしかにブッシュ大統領が「十字軍」という言葉を使っていたことは記憶にあります。

あの9・11のテロ攻撃がどういう人々が起こしたものであるのかは、いまだ判明していないと思いますが、西洋社会の内包する矛盾は深いと思います。

世界にはたくさんの民族がいるのだから、単一の理論で一括りにすることはできない、、これは先住民族を圧殺して成立している現在の文明社会全体のもつ苦しみでもあると思います。



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イスラムこそ、ヘレニズムとヘブライズムの正統な継承者である・・中田考氏「イスラームのロジック」(2)

2015-01-11 | エジプト・イスラム・オリエント



イスラム教について書かれた、中田考氏の「イスラームのロジック」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

              *****

             (引用ここから)


「イスラム文明は、2大文明の正嫡」

一方ヘレニズムについても、「アリストテレスの理論学書「オルガノン」」は、アラビア語の文法と並んでイスラム世界における人文研究の基礎としての地位を占めるにいたった。

そしてこの状態は現在まで続いている。

預言者モハメッドの宣教開始時の中東で「文明」といえば、ローマ帝国とササン朝ペルシャであったが、モハメッドの生まれたアラビア半島はこの両帝国の支配にも服さない、いわば文明の辺境に位置した。

しかしそれは、アラビア半島がこの2大文明圏からまったく孤立していたことを意味しない。

イスラム教は成立当初より、ヘレニズム文化と関係を有していた。

モハメッドは12才と25才の時、隊商貿易のため、当時のローマ帝国の領土であったシリアのブスラの町に旅している。

またローマ出身のギリシャ人の名が、モハメッドの高弟の中に数えられている。


モハメッドの直弟子の時代には、ヘレニズム世界の北半分はイスラム世界に組み込まれる。

シリアの征服は、初代カリフの時代に始まるが、第2代カリフの時代にはキリスト教最大の聖地エルサレムはイスラム軍によって占領され、次いでエジプトもイスラム国家に編入された。


ヘレニズム文化というと、我々はついギリシャ本土を思い浮かべがちであるが、ヘレニズム時代に古典を研究する文献学の中核を占めたのは、ユーグリッド、アルキメデス、アポロニウス、プトレマイオスらに代表されるエジプトのアレキサンドリアの学者たちである。

地理的にもこのエジプトこそが、ヘレニズムの文化の中心地だったのである。


ヘレニズム世界の南半分が、イスラム帝国の支配下に入ったことは、世界史に大きな影響を与えることになる。

すなわち反知性主義的な西方キリスト教会の支配下で、衰退の一途を辿っていたギリシャ文化の遺産が、イスラム文明によって継承されたのである。

ヘレニズム文化が本格的にイスラム文明に同化されるのは「翻訳の時代」とも呼ばれる約1世紀(750~850)である。

この時代に、シリアのキリスト教徒やサービ教徒の翻訳家たちの手によって、ユーグリッドの「幾何学原理」、プトレマイオスの「天文学大全」、ガレーノスやヒポクラテスの医学書、そして、「範疇論」、「命題論」、「形而上学」、「自然学」、「霊魂論」などアリストテレスの現存したほぼ全著作が、アラビア語に翻訳された。

これらのギリシャ語作品の中には、アポロニウスの「円錐論」のように、ギリシャ語原典が失われ、アラビア語訳のみが保存されているものもある。


この時代の西欧には、これらのギリシャの文書はほとんど知られていなかった。

西欧は11世紀以降、イスラム世界を通じてこれらのヘレニズム文化を知り、ヘレニズム文化、およびそれを発展させたイスラム文化が11~12世紀の「翻訳の世紀」に、アラビア語訳から、あるいはギリシャ語原典からラテン語に訳され、それが西欧のルネサンスを準備することになったのである。



ギリシャ文明の延長上に西欧を位置づける西欧の自己イメージ、歴史観は、今日修正を迫られている。

科学史家・伊東俊太郎が以下のように指摘するとおり、西欧のギリシャ文化継受は、イスラムを経由したものである。

「我々は、西欧文明というと、ユーグリッドやアルキメデス、アリストテレスくらいは初めから知っていた、早くからギリシャ科学、ギリシャ文明はヨーロッパに入っていただろう、と思いがちなんですね。

特にヨーロッパの学者は、〝ギリシャ以来3000年の西欧文明だ″、と言うわけですが、とんでもないことです。

そこのところに、実は大きな断絶があるのです。

ギリシャ科学は、西欧世界では一旦途絶えてしまいます。

12世紀になって初めて、彼らはアラビア語を一生懸命勉強して、アラビア科学や哲学の文献を、ラテン語に翻訳する。

またギリシャ語からも翻訳する。

そういう大運動を起こしました。

そこでギリシャやアラビアの進んだ学術を我が物とし、その後の発展の知的基盤を獲得するということになったのです。


西欧思想の2大源流と言われるヘブライズムとヘレニズムは、実はイスラムもまた、共有する伝統である。

いやむしろ、〝イスラムこそヘブライズムとヘレニズムの正統な継承者″なのである。

西欧は〝ヘブライズムの正統な継承者たるキリスト教徒″、〝ヘレニズムの遺産たる文明の担い手″としての自己のアイデンティティを確立するために、どうしても一旦イスラムを邪教・未開として否定し、貶めねばならない内在的必然性があったのである。


ですから、西欧文明なるものの形成そのものが、このような文明圏との接触を通じて初めて勝ち取られたものであるということが、忘れられてはならないと思うのです。

ヘーゲル以降の19世紀に作り出された西欧中心主義の歴史観は、このような事実をしばしば覆い隠してしまい、ヨーロッパ文明の単純な連続性というようなドグマを作ってしまいます」。


伊東氏が看破したように、西欧科学はイスラムの影響なしには存在し得なかったが、それを認めることは「ギリシャ文明の正嫡としての西欧」のアイデンティティの根幹をゆるがすことになる。

それゆえ西欧はことさらに西欧へのイスラムの影響を隠微し、「異質なイスラム」というオリエンタリズムの言説をつむぎ出し続けなければならないのである。


        (引用ここまで・写真下はイスラムのお守り ファティマの手・ハムサ)


            *****


西洋とイスラム圏の、近親憎悪的な関係が感じられます。

たしかに、イスラム文明は不当評価されてきたという気がします。

「イスラム国」のやり方では、誰をも納得させることはできませんが、イスラムにはイスラムの原理があり、それが西洋の基盤でもあったというのは、事実なのだと思います。



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中田考氏「イスラームのロジック」(1)・・先祖アブラハムの、血を分けた兄弟

2015-01-02 | エジプト・イスラム・オリエント



あけまして おめでとう ございます。

今年も どうぞ よろしくお願い申し上げます。

                veera拝



このところ、怪しい雲行きの「イスラム国」の出現などに心底びっくりしておりますが、彼らが何を怒り、何をしようとしているのかを考えてみたくなりました。

中田考氏著「イスラームのロジック」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****



          (引用ここから)

イスラムとヨーロッパ文明

地理的に定義されたヨーロッパは、なにも西側ヨーロッパ、西欧だけに限られたものではなく、東欧とよばれた地域や、地中海沿岸のアフリカ大陸までをも含むことに注意しなくてはならない。

ところが地中海に面するモロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア、エジプト、シリア、トルコといった諸国はイスラム教の国々である。

つまりイスラムとヨーロッパの関係を理解するためには、ヨーロッパを単純に「キリスト教文明圏」とみなす我々の常識を、まず根本的に改める必要があるのである。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「一神教諸派・複合」を文明の基礎とする西アジア、北アフリカ、地中海、ヨーロッパを「西洋」としてくくり、「儒教、仏教、道教・複合」の「東洋」、「仏
教、ヒンズー教・複合」の「南洋」と対置する中東史家・三木亘によれば、

「中世のヨーロッパは、アラブ・イスラム教徒主導下の「一神教諸派・複合文明」と言える「西欧」の普遍文明の、むしろ周辺の一要素であり、文明としてのヨーロッパというようなアイデンティティが生まれるのは、はるか後世の18世紀なのである」。


ではなにゆえヨーロッパとイスラム世界を、同一の文明と呼ぶことが可能なのか?

それは西欧思想の2大源流は「ヘブライズム(ユダヤ思想)」と「ヘレニズム(ギリシャ思想)」であると言われるが、「ヘブライズム」と「ヘレニズム」はイスラム文明の源流でもあるからである。

ヘブライズムとは、要するに「旧約聖書」の思想を意味し、それはイスラムと起源を同じくする古代中東のアブラハムの伝統の一部であり、ヘレニズムもまたイスラム文明の一支柱を成している。

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ。。」(マタイ福音書)

日本語の「新約聖書」の冒頭、「マタイの福音書」の1章1節はこのように始まる。


なぜ、アブラハムなのだろうか?

「新約聖書」の冒頭に置かれたアブラハムとは、いったい何者か?

アブラハムは、「ノアの方舟」で有名なノアから数えて11代目(創世記による)の子孫である。
アブラハムは、エジプト人のはした女ハガルとの間に長男イシュマエルをもうける。

「旧約聖書」の「創世記」には、次のように記されている。


「ハガルはアブラム(アブラハムの旧名)に男の子をうんだ。

アブラムはハガルがうんだ男の子をイシュマエルと名付けた」


「マタイ伝」にあるイサクの名は、ここに初めて現れる。

このアブラハムの嫡男イサクの子孫が「イスラエル(イサクの嫡男ヤコブの別名)の民」、すなわちユダヤ人であり、アブラハムの長子・シュマエルの子孫がアラブ人なのである。

「マタイ伝」が、アブラハムにいたるイエスの系図をその冒頭に置いたのは、モーゼの律法に基礎を置く既成のユダヤ教に対して、その正当性を主張するために、モーゼよりさらにさかのぼるユダヤ教の大祖・アブラハムの教えの正統な継承者であるとする、原始キリスト教会の自己理解を表現しているのである。

有名なフランスの哲学者パスカルの改心体験における「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であり、哲学者、学者の神ではない」との言葉の意味も、こうした文脈において初めて理解される。


イスラム教もまた、アブラハムの宗教の再興をうたう。

アブラハムは、ユダヤ教徒ではなく、キリスト教徒でもなかった。

「彼は邪教を離れたムスリムである、多神教徒ではなかった(コーラン3章)」




マホメッドは、アブラハムの長男イシュマエルの子孫・・すなわちアラブ人に遣わされた預言者であった。

イシュマエルの子孫たちは、アブラハムの教えを奉じていたが、西暦1世紀の末頃にマッカのカーバ神殿の守護職アムル・ブン・ルハイユによって、偶像崇拝が導入されたと言われる。

イスラエルの民、つまりイサクの子孫たちが、アブラハムとの契約を破り、バール神、アシュタロテ神などの偶像崇拝に陥ったのと同じことが、イシュマエルの子孫にも起こったのである。


イサクの子孫たちをアブラハムの正しい教えに引き戻すために、幾多の予言者たちが遣わされたように、イシュマエルの子孫たちをアブラハムの教えに立ち返らせるために、預言者・モハメッドが遣わされた。

それゆえコーランにはサーリフ、シュアイブなどのイシュマエルの子孫と共に、ヤコブ、モーゼ、ダビデ、ソロモンらイサクの裔、ユダヤ教の予言者たちの物語に満ちているのである。

イスラム教は、ユダヤ教徒の「教祖」モーゼ、キリスト教の「教祖」イエスを、「イスラエルの民」を正道に戻すために遣わされた「民族的」預言者とみなす。

モハメッドはアラブに遣わされた預言者である。

ただしモハメッドのメッセージは、アラブ民族だけのものでなく、人類全体に向けられたものと理解されているのである。


キリスト教は、ヨーロッパ経由で日本にもたらされた。

それゆえ、キリスト教はヨーロッパの宗教である、といった誤ったイメージが日本には定着している。

しかしイエスの活動したキリスト教の発祥の地は、中東であり、今日にいたるまで最も古い形態のキリスト教が保存されているのはイスラム世界においてである。

イエスの時代には、「旧約聖書」のヘブライ語は、日常語としてはすでに死語となっていた。

イエスが話していた言葉は、ヘブライ語でもなく、ましては語族の違うインド・ヨーロッパ語族に属する「新約聖書」のギリシャ語でもなく、ヘブライ語やアラビア語と同じくセム語族に属する、当時の中東の共通語アラム語であった。

そして今日に至るまで、シリア正教会の典礼では、イエスが語ったアラム語が用いられており、信徒は立ってはひざまずき、ひれ伏し、イスラム教徒と同じ 姿で礼拝を捧げているのである。

イエスの説いた本来の教えは、中東のアブラハムの伝統に連なるセム語文化圏の宗教であり、今日のヨーロッパ化されたキリスト教とは全く異なっており、むしろイスラム教に近いものであったのである。

         (引用ここまで・写真下はイスラムのお守り ファティマの手・ハムサ)

  
             *****


教科書のように堅い本ですが、発想の転換を促されて、なかなか面白いのではないでしょうか?

イスラム教の、西洋世界に対しての、堂々たるパワーを感じさせます。

現実は、今見えるようにしか見えない、と決まったものでもない、、という気持ちになりました。


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「契約の箱」に入っていたのは?・・グラハム・ハンコック・ダイジェスト(2)

2014-11-30 | エジプト・イスラム・オリエント



グラハム・ハンコック氏の著作全体を俯瞰するような対談の本を読んでみました。

題名は、「人類の発祥、神々の叡智、文明の創造、すべての起源は「異次元(スーパーナチュラル)」にあった」といいます。

対談の相手はエハン・デラヴィ氏です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****


             (引用ここから)


○ハンコック

「契約の箱」は、とても奇妙なもので、テクノロジーとしての側面があるのです。

3000年以上前の「契約の箱」の使用方法は、ある種のハイテク兵器だったと結論づけなければならないでしょう。

「聖書」には、「契約の箱」について200か所以上の記述があります。

それらから分かるのは、「契約の箱」が殺人兵器のようなものだったという可能性です。

「契約の箱」に触るだけで、死を引き起こすほどです。

たとえばイスラエル人の敵だったペリシテ人が、戦争で「契約の箱」を奪った際、彼らはそれを彼らの都市に持って行き、公開の場で見せました。

そしてそれを開けたのです。

何万人というペリシテ人が、それを見るためにやって来たが、全員が死んでしまった。

「聖書」では、彼らは悪性の腫瘍で苦しみ、恐ろしい状態で死んだ、と書かれています。

まるでそれはある種の放射能のように思えます。


「契約の箱」が地上から上昇し、唸り声を上げながらイスラエルの敵めがけて突進する描写を読む時、私たちはそれをどう理解すべきなのか?

「契約の箱」の蓋には「ケルビム」と呼ばれる2つの人形のようなものが取りつけられています。

閃光が飛び交い、ときにはその付近に霧が立つ。。

「契約の箱」から声が聞こえる。。

こういった古代の文献に見出せる描写を、どう理解したらいいでしょうか?


モーゼは恐らく、「契約の箱」をどう作るかの青写真をシナイ山で神から指示されたはずです。

モーゼ自身は、エジプトのファラオの家庭で育てられ、将来ファラオになるべく教育されていました。

彼はファラオが知るすべてのことを学んできたのです。

エジプトのカルナック神殿の壁には、人々が「契約の箱」とそっくりのものを運んでいる行列のレリーフがあります。

またエジプトの古典に「契約の箱」と似た箱の説明もあります。

木製の箱の中にもう一つ、金の箱が入ったもので、「契約の箱」が引き起こしたのと同様に、強烈なダメージを人々に与えます。

また、「契約の箱」は、神と話すための「ラジオ」なのかもしれない、とも思います。

エジプトを経由して、イスラエル人のモーゼに伝わった「古代の失われた科学技術」なのでしょう。


だから次にわたしは、古代エジプト文明とその起源について、私たちはいったい何を知っているのか?と考えさせられたのです。

「契約の箱」はある意味、「失われた文明」の遺産だと思っています。


○エハン・デラヴィ

「契約の箱」は、物質の重量を軽減できる反重力装置のようなものだったと思います。

それを可能にする、ある物質が存在するのです。

聞いたこと、ありますか?

それは、「ホワイトゴールド」と呼ばれる物質です。

エジプト人が「ムフクジット」と呼び、シュメール人が「シェム・・アン・ナ(星の火)と呼んでいたものです。

金が3次元の物質から高次元に変化したもので、白いパウダー状です。

「契約の箱」は、その「ホワイトゴールド」を入れて運ぶためのものだったのです。

それが「契約の箱」の正体です。

「賢者の石」や「聖杯伝説」などにも関連しています。

モーゼは古来の錬金術をエジプトで学び、「ホワイトゴールド」を操ることができたと、私は推測しています。

「聖書」にあるモーゼによって起こされた奇跡は、それなしでは考えられません。


○ハンコック

モーゼはファラオが知り得ることをなんでも知っていたと、結論づけられます。

エジプトのファラオたちは、「魔術」のマスターだったからです。

「魔術」とは、近代技術にはない方法で「人間の心のパワー」を利用する技術だったのではないでしょうか?

遠い昔の、より高度な文化は、今日の私たちが「超能力」と呼び、科学者が避けたがる能力を発達させていたのでしょう。

もう一つは、人間の心には「超自然的なパワー」があったのではないでしょうか?

それは驚異的な結果を出すために、古代文明が開発したものなのでしょう。

    
          
           (引用ここまで)

  
             *****


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グラハム・ハンコック・ダイジェスト(1)・・「契約の箱」はエチオピアに運ばれた

2014-11-26 | エジプト・イスラム・オリエント



グラハム・ハンコックは魅力的な作家で、何冊も読んでいるのですが、それら彼の著作を俯瞰する形でまとめられた対談本を読んでみました。

題名は「人類の発祥・神々の叡智・文明の創造・すべての起源は「異次元(スーパーナチュラル)」にあった」というものです。

「スーパーナチュラル」と題された彼の最新作の宣伝用のイベントに合わせて、徳間書店から出版されています。

個別の本は改めて研究したいと思いますが、このテーマに至るまでの彼の仕事が並んでいますので、ハンコックの仕事をざっと眺めてみたい、という気持ちで、この本を読んでみました。

対談の相手はエハン・デラヴィ氏です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


最初は「神の刻印」(1992年)の、エチオピアに眠る古代イスラエルの宝「契約の箱」をめぐる話し合いです。


              *****


            (引用ここから)

○エハン・デラヴィ

グラハムさんは、これまでの多数の著作のなかで古代文明の知られざる叡智を紹介してきました。

「神々の指紋」は日本でも話題になりました。

そもそも古代文明を調査しはじめたのは、エチオピアでのある体験がきっかけだったそうですね?

○ハンコック

話は20年以上前になります。

わたしはケニアのナイロビに勤務していました。

1980年代のエチオピアは紛争や飢饉の話題などで、特派員として出かけることが多かったのです。

そしてエチオピアの文化の中心に横たわる、驚くべき伝統に出会ったのです。

エチオピアは古くからキリスト教の国でした。

イギリスより前にキリスト教に改宗しました。

原始キリスト教の風習のいくつかは、現在でもそのまま残っているのです。

エチオピア正教会は、紀元前の遺物をいくつも持っていると主張しています。

エチオピア正教会内部にあって、すべてについて中心的で原理原則そのものとされる紀元前の遺物とは、「契約の箱」です。

映画「レイダーズ 失われたアーク(聖棺)」のインディ・ジョーンズで有名になった「契約の箱」そのものであるというのです。

「契約の箱」は「旧約聖書」でも、極めて中心的な伝説となっています。

「旧約聖書」の初めの方のモーゼ時代に、〝木材と金属の棺からできており、神が自らの手で「十戒」を書いた2枚の石版を持つ″と書かれています。

それは〝2枚の石版がついた単なる箱″以上の意味があり、地上に存在する神の化身とされていました。

更に神の証しとしての「契約の箱」は、モーゼに導かれてイスラエル人が「約束の地」を獲得するために使われた戦争用のおそろしい道具でもありました。

「旧約聖書」には、〝イスラエル人はこれで人々を打ち殺し、悪性の腫瘍を彼らの敵に与える″といった髪の毛が逆立つようなすごい描写が書かれています。

そしてこの箱は、紀元前950年ごろ、エルサレムにあるソロモン神殿に安置されました。

しかしその後この箱についての記述は「聖書」の物語から、不思議なことに消えてしまいます

語られることはまったくなく、紀元前587年ごろには、なんとそれが神殿から消えてなくなってしまった、との記述があるのです。

そこにはもう無いので、歴史家や学者たちは皆これを「失われた遺物」だと認識しているのです。

1980年代初頭、わたしはエチオピアで、その「失われた契約の箱(アーク)」の伝説を聞いたのです。

エチオピアの文化を調べたならば、「契約の箱(アーク)伝説」を無視することはできません。

事実エチオピアにあるすべてのキリスト教会には、2万以上の各教会の至聖所(宗教的建築物のいちばん神聖な場所)に「契約の箱」のレプリカあるいはそのシンボルがあるのです。

もしそれが取り除かれたら、その教会は教会でなくなるほど重要な意味を持っています。

そしてその本物の「契約の箱」が実際に保管されているという場所、それがエチオピアのアクスムです。

わたしがジャーナリストとしてこの伝説に出会ったきっかけはアクスムを報道したことでした。

そしてそこで「契約の箱」の守り神のような番人に会いました。

「契約の箱」の番人はとても負担の大きい仕事です。

なぜならいったん司祭が「契約の箱」の番人として任命されると、「契約の箱」のある場所から数メートルのところで一生暮らさなければならないからです。

そしてわたしは、この古代から抜け出てきたような番人に、有無を言わさず感動させられました。


深く探り始めるにつれ、エチオピアの人々が「契約の箱」を所有すると主張するミステリーには、関連する話が他にもあることに気づき始めました。

そのうちの一つ、非常に重要なものは、古代エチオピアでのユダヤ人コミュニティの存在です。

彼らエチオピア系ユダヤ人は「素性の知れない人」、「イスラエルの家」と呼ばれています。
言葉や外見の点で他のエチオピア人となんら区別がつきませんが、彼らの信仰はユダヤ教です。

しかも非常に古い時代のユダヤ教の様式を、今でも持っています。

わたし達が常識的に知っているようなユダヤ教ではありません。

近代のユダヤ人が使っている「タルムード」を彼らは知りません。

彼らが知っているのは「トーラー(「旧約聖書」のうち「創世記」・「出エジプト記」・「レビ記」・「民数記」・「申命記」の「モーゼ5書」)」だけです。

2000年来、ユダヤ人はもはやソロモン神殿が無いので、犠牲を捧げる習慣を捨て去ってきました。

しかしその習慣はエチオピアのユダヤ人によって、いまだに実行されているのです。

それはあたかも「旧約聖書」の一部が保存されたような世界でした。これらの人々はどこから来たか調べなければならない。



聖書研究者から支援を受けながら私が考えたことは、古くから信仰に忠実だった聖職者たちは、異教の偶像崇拝によるしきたりの穢れの中に留まることに耐えられなかったのではないか?、ということです。

それで彼らは「契約の箱」を至聖所から運び出さなければならなかった。

そしてちょうど同時期、紀元前650年頃に不思議なことが起こります。

エルサレムから遠く離れたエジプト南部の、現在ではアスワンと呼ばれる町の近くのエレファンテネ島で、突然ユダヤ教神殿が建造された。

これは偶然ではないと確信します。

その後の200年、神殿はそこにありましたが、紀元前400年頃、また破壊されます。

彼らは「契約の箱」を担いで、ナイル川水系を南へと逃げた。

そして青ナイル川の源のタナ湖があるエチオピアの高原までひたすら進んだ。

だからタナ湖はエチオピアでのミステリーの核心なのです。

現在も、そこにはとても古い修道院があります。

彼らの話によれば、こういうことです。

・遠い祖先たちは、以前はユダヤ人だった。

・祖先達は紀元前400年頃、「契約の箱」をエチオピアのタナ湖の島まで運び、安置した。

・エチオピアがキリスト教に改宗する西暦200年代まで、その島に存在した。

・その時期、キリスト教に改宗したエチオピアの王がタナ湖に来て、無理やり「契約の箱」を奪い取り、はるか遠くの首都アスクムまで運んだ。

・以来「契約の箱」は、ずっとアスクムにある。


エチオピアに、古来の「旧約聖書」のしきたりを守るユダヤ人が今でもいることと完璧に一致します。

そして、ユダヤの遺物が、なぜエチオピアのキリスト教に吸収され、教会のシンボルになったのかを理解できるのです。

            (引用ここまで)


              *****


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最古の鉄鋼生産か・・トルコで発掘 前期青銅器時代

2014-01-22 | エジプト・イスラム・オリエント


      *****

2012年4月3日 朝日新聞

「最古の鉄鋼生産か・・トルコで発掘 前期青銅器時代」

中近東文化センターが発掘調査を進めているトルコのカマン・カレホユック遺跡で、紀元前2100年~前1950年ごろ(前期青銅器時代)の地層から出土した遺物に、鉄器の原料となる鉄鉱石や、製鉄や精錬の際に出る不純物である鉄滓が含まれていることが、岩手県立博物館の赤沼英夫氏の分析でわかった。

この層からは鋼の鉄器も出土しており、世界最古の鋼の生産が行われていた可能性が強まった。

確認されたのは、破砕された鉄鉱石が2点と鉄滓が2点。

鋼と推定される鉄片も新たに1点みつかった。

また鉄鉱石から鉄分の少ない部分を取り除いたとみられる岩石片もみつかっており、赤沼さんは「選鉱も行われていた可能性がある」と見ている。

中近東文化センター付属アナトリア考古学研究所の大村所長は、「注目すべき発見だ。今後出土した遺物の年代測定を行うとともに、鋼の生産遺構の発見に努めたい」と話している。


             ・・・・・


「アナトリア発掘最前線」と銘打って、「中近東文化センター」の27年に及ぶ活動を記した記事もありました。

            ・・・・・



「鉄の起源、謎に迫る発見・・炉跡と土器、並んで出土」
                         読売新聞2012年9月19日

トルコ中部のアナトリア高原で、日本の中近東文化センター付属アナトリア考古学研究所が27年にわたって発掘調査を続けている。

世界史の再構築を目指す現場から報告する。

幾多の民族が興亡を繰り返した舞台とはとても思えない。

見渡す限り小麦畑ののどかな高原を、首都アンカラから車で2時間。

直系280メートル、高さ16メートルの平たい丘が現れた。
カマン・カレホユック遺跡だ。

アナトリアには、町の跡に新たな町を作ることが繰り返されて丘になった「遺丘」が無数にある。

遺跡の南側に、車一台が通れる幅しかない道が東西に延びる。

農道かと思っていると、「西はエーゲ海岸、東はタシケント(ウズベキスタン)に続く古道です」と教えてくれた。

交通の要所で水辺に近い場所を選び、人々が連綿と住み続けたのだ。

遺丘には、石器時代から現代まで、9500年に及ぶ歴史が堆積しており、ここでの発掘が世界史の定説を少しずつ塗り替えつつある。

史跡南側の調査区では、約2500平方メートルの広大な面積で「暗黒時代(紀元前1200年から前750年ごろ)」の都市の姿を明らかにしようと発掘が進む。



他の遺跡で生活の痕跡がみつからず「暗黒」と呼ばれていた時代に文化が存在していたことを、カマンでの調査が明らかにした。

北東の角だけが丸い奇妙な形の住居で、ギリシャのミケーネ文明(紀元前1600年~前1200年頃)と同じ波形文様の土器を使った人々の暮らしが姿を現している。

今カマンで最も注目されているのが、鉄の起源に関わる数々の発見だ。

製鉄技術は紀元前1750年~前1200年頃にアナトリアで栄えたヒッタイトが独占し、その帝国崩壊とともに技術が各地に拡散したとされてきた。

だが、カマンではヒッタイトより古い紀元前1950年~前1750年のアッシリア商業植民地時代や、その下の紀元前2100年~前1950年頃の前期青銅器時代の層からも、鉄や鋼が出土し、世界最古の鉄生産がヒッタイト以前に始まっていた可能性が高まっている。

前期青銅器時代まで掘り進んでいる北側の調査区では、この8月も鉄の謎につながる発見が続いた。

20メートル四方を超えるとみられるアッシリア時代の大型建物内で、金属を溶かした炉跡とみられる直径約40センチの穴と冷却用の水を入れたと推測される同約50センチの土器が並んでみつかった。

近くの前期青銅器時代の層からは、鉄鉱石と鉄を精錬する際に出る鉄滓が出土した。

大村さんは「この建物周辺はアッシリア時代以前から、金属の二次加工などが行われてきた重要な場所である可能性が高い」と言う。

では製鉄はどこで行われたのか?

午後10時。「風が吹き始めましたよ」という大村さんの声で研究所の外に出ると、遺跡から離れたバランヌ山から、ゴーという音とともに冷たい風が吹き下ろしてきた。

南から吹くのに「冷たい北東風」と地元で呼ばれるこの風は、8月中旬から9月中旬の夜に吹き、治まるとアナトリア高原に秋が訪れる。

「建物が並ぶ街中ではなく、風が吹き抜ける山間地に炉を作って製鉄に必要な高温の火力を得て、この季節だけ鉄を作っていたのではないか。」

炉の遺構こそまだみつかっていないが、大村さんはそう見ている。

               ・・・・・

「中近東文化センター付属アナトリア考古学研究所」HP


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「出エジプト」を祝う年中行事・・ユダヤ教徒の祈りの生活(2)

2014-01-16 | エジプト・イスラム・オリエント


引き続き、「ユダヤ教の基本」という本のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


              (引用ここから)


「聖なる一めぐり」

伝統によって定められている「祭り」と「聖日」は、次のとおりである。


★「安息日」

「天地創造」と「出エジプト」の記念日である。

人も動物も、奴隷も自由人も、みな同様に休むのである。

この日にはすべての労働と争いと心配事が中断され、人は古代ラビたちの気の利いた言葉を借りれば、「来たるべき、より良い世界を前もって味見する」ことができるという。

安息日は、人類の歴史を見ても、解放と休息の日を定期的に定める必要があるという人間の欲求に応えた最初の制度である。

その欲求の普遍性を認識したという点において、注目に値する。

そのためヘブライ精神が個人の幸福と社会の福祉のためにもたらした貢献の中でも特に素晴らしいものとして挙げることができる。

シナゴーグは讃歌と凝った礼拝に彩られ、家庭でめいめいが最も上等な明るい服を着て、まず夕暮れ時にろうそくを灯すことから始まる。

ワインの盃の上で開始の祈りが唱えられ、ごちそうと食卓での歌、安らぎと会話、非公式な学習などが持たれる。

そして安息日の最後はハブダラという美しい分離の儀式で締めくくられる。

ワインの香りと甘い香料の匂い、そしてろうそくの火をもって、喜ばしい聖なる日が閉じられるのだ。

ユダヤ教の安息日はそれ自体が美しいのだが、その美しさをさらに強調するように、この日は豊かな伝説が花を添える。それは例えば、美しく純粋な花嫁が日没の光と共に降りてくるというたとえや、安息日の夕べに家長がシナゴーグから家に帰る途中で2人の天使がそれに付き添うという伝説。

安息日の間ずっと敬虔なユダヤ人にはもうひとつの魂、いわば普段より一回り大きな精神が与えられるという信仰など。その他にも想像力豊かな人々の伝説作りの能力が開花して生まれた、深く親しまれてきたこの安息日という制度を包み込む、風変わりな、あるいは荘厳な、情緒的な、あるいは啓発的な、様々な詩的な考えが存在する。

忠実なユダヤ教信者にとっては喜びと薬である安息日は、さらに別の意味をも持っている。

安息日はユダヤ教とユダヤ人集団の元気を回復させる。

この健康増進剤としての効力は非常に高く、近代のユダヤ思想家アハド・ハアムの述べた「イスラエルが安息日を守ってきた以上に安息日がイスラエルを守ってきた」という警句も、文字通りに適切な表現である。


★「新年祭」

新しい年の始まりを祝い、世界の創造という物語を記念する日である。

そして当然ながら神の主権を再確認し、心の再生を追求する機会として伝統によって定められた日である。


★「贖罪日」

厳かな「白い断食日」で、夜明けから日暮れまで信仰深い人は懺悔のしるしになにも飲み食いせず、祈りと告白を通して人生を振り返り、悪い行いを捨てることを誓い、神と善とに立ち返る再生の時を求めるのである。


★「仮庵の祭り」

9日間行われる楽しい祭りで、最初の8日間は収穫の完了と、古代イスラエル人たちが砂漠で仮小屋の中に住んだこと、そして人間が神の翼の隠れ家に永遠にとどまることができることを記念し、祝う。

最後の日の律法感謝祭では、シナゴーグで一年かけて続けたトーラー朗読の完結と新たな始まりを記念する。


★「過ぎ越しの祭り」

春の到来と、エジプトからのイスラエルの民の解放という二つの事柄を記念する行事であり、将来イスラエルと人類すべてに与えられる救済の約束という喜びを確認する時である。


★「7週の祭り、ペンテコステ」

一つの意義は穀物の収穫と最初の果物の採りいれ時を祝う農業祭であり、もう一つは、シナイ山での啓示を記念する歴史的・道徳的な聖日である。


★「光の祭り」

昔、良心の自由のために戦ったマカベア家の勝利を思い出す日であり、人間の不屈の魂の象徴である。


★「くじの日」

イスラエルの民が、ペルシアの悪人ハマンの手から救われた経験を思い出し、いつの時代のハマン達にも負けない自分達の力を再び確信する日である。


★「アヴの月9日」

「黒い断食日」で、エルサレムの第一及び第二神殿が破壊されたことを嘆いて過ごす日である。


このようにユダヤ人の一年は、様々な色彩と詩情に彩られている。

眠気を払って、魂を呼び覚ます牡牛の角笛。

清浄と再生の象徴であるトーラーの巻物を覆う白い布。

シュロの枝やシトロン。

毎夜火がともるのが増えていく、8本に枝分かれしているハヌカの燭台。

迫害者(ハマン)の名前をかき消すための騒がしい道具。

救い主メシアの先駆けである、エリアに対して開かれる扉。

哀歌の悲しい詠唱。

預言の7つの慰めの教え。

懺悔の時期の始まりを告げる、不気味な深夜の礼拝。


イスラエル民族の過去と、常に変わらぬ人間の情熱と、将来に対するイスラエルと全人類双方の希望とを反映して、一年間もまた、楽しくかつ厳しい聖なる時の一めぐりに姿を変えるのだ。


              (引用ここまで)


                *****


wikipedia「過越」より

過越(すぎこし)またはペサハ (pesach) とは、聖書に記載されているユダヤ教の祭り。

聖書の出エジプト記 12章に記述されている、古代エジプトでアビブ(ニサン)の月に起こったとされる出来事と、それに起源を持つとするユダヤ教の行事のことである。

イスラエル人は、エジプトに避難したヨセフの時代以降の長い期間の間に、奴隷として虐げられるようになっていた。

神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して約束の地へと向かわせようとするが、ファラオがこれを妨害しようとする。

そこで神は、エジプトに対して十の災いを臨ませる。

その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」というものであった。

神は、戸口に印のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。

つまり、この名称は、戸口に印のあった家にはその災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来する。

3月末から4月はじめの1週間、ユダヤの人びとは「出エジプト」のときの多忙を忘れないよう、イースト菌入りの食品を食べない。パンもイーストなしである。


wikipedia「仮庵の祭り」より

仮庵の祭り(かりいおのまつり)は、一般に太陽暦10月頃に行われるユダヤ教の祭りである。

過越祭(ペサハ)と七週の祭り(シャブオット)とともにユダヤ教三大祭の一つ。

ユダヤ人の祖先がエジプト脱出のとき荒野で天幕に住んだことを記念し、祭りの際は仮設の家(仮庵)を建てて住んだことにちなむ。

聖書では、祭りの際にイスラエルの地のユダヤ教徒の成人男性には、エルサレム神殿へ巡礼することが要求されている。

秋の収穫祭の側面ももつ。

初日から7日間、みな仮庵に住む。

また毎日「焼き尽くす捧げ物」が献じられる。

神殿破壊以後は犠牲は行われていない。

捕囚期後、イエスの時代には、祭りの期間中、毎日エルサレム神殿へ市内のシロアムの池から黄金の器で水を汲んで運び、朝晩二回行われる犠牲の際、供え物とともに祭壇に水を注ぐ行事が行われた。

『ヨハネによる福音書』7章37節から38節で言及される「私を信じる者のうちから、生きた水が……流れ出る」は、この行事を背景とした記述である。

現代のイスラエルにおいてもスコットの期間中はいたるところで仮庵が設置されている。


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ユダヤ教徒の祈りの生活・・「旧約聖書」とつながる

2014-01-14 | エジプト・イスラム・オリエント



紀元前後のイスラエルの建築物の遺構が発見されたという記事を、前回ご紹介しました。

ユダヤ教についてもう少し詳しく知りたく思い、ユダヤ教について書かれた本を探してみました。

「ユダヤ教の基本」という本をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

  
               *****


            (引用ここから)

日々の生活規則

典型的なユダヤ人の一日を紹介してみたい。

これは過去にはすべてのユダヤ人が、そして現在では正統的ユダヤ人が過ごす生き方で、伝統によってその輪郭が描かれてきた。

つまりこの宗教生活は主に、儀礼的律法の問題として、あらかじめ定められているものである。

朝目覚め、まだ体を動かさないうちにユダヤ人は、命を与え、意識を回復させてくださった神に感謝する。

「あなたの御前に感謝を捧げます。

永遠に生きたもう王よ、

あなたは慈悲深く、私の魂を取り戻させてくださいました。

あなたの信実は偉大です」

と祈る。

それから起き上がり、朝の一連の行動一つ一つの中に、決められた祝福の祈りを称える。

最初の勤めとして定められている、洗顔、手洗いの時、地に足を降ろす時、トイレ、トーラーの定めた房で飾られた下着を身に着ける時。

このように、ユダヤ人はすべてのしぐさについて神を思い、獅子のように力強く、鹿のように素早く、天にいます父なる神の御意を行うことができるように、との神の教えに従おうとするのである。


それから彼は、正式な礼拝の準備をする。

彼は、再び房のついた衣装で身を包む。

ただし今回はもっと大きい、外に羽織る祈祷用のショールであるが、これは宗教儀式や神聖な勉強の時にのみ身につけるものである。

次に彼は、小さな二つの小箱に聖書の言葉が収められたものを、それに付いている皮ひもで自分の身につける。

これは「あなたはこの言葉を腕につけてしるしとし、額につけて憶えとしなさい」という聖書の掟をまったく文字通り守っているのだ。

二つの箱のうち一つは左の腕、すなわち心臓の横に結びつけられ、心と手が神の御意に従うことを象徴する。

もう一つは目の上の額に付け、同様に知性が聖別される。

最後に彼は皮ひもで、神の名前を意味する不思議な結び目を作って左手に結びつける。

そしてこれら一つ一つのしぐさと並行して、ふさわしい祝祷を述べる。

そしてさらに指をからませる最後のしぐさと共に、「ホセア書」の格調高い魂の婚礼の言葉をもって神に誓う。

「私は永遠にあなたと契りを結ぶ

正義と公平と慈しみと憐みとをもって、あなたと契りを結ぶ

私は真実をもってあなたと契りを結ぶ

そして、あなたは主を知るようになる」

このように神に結び付けられ、神の御意と契りを交わしたところで、ユダヤ人の朝の礼拝の準備が整う。

礼拝は、詩編の朗読、個人的な事柄や集団的信仰、イスラエルの理想などに触れた祈り、そして宗教的学
習の目的で加えられた聖書やラビ文学の朗読などから構成される。

伝統はこの礼拝の式次第がシナゴーグにおいて会衆と共に執り行われることが望ましいとしているが、個人的に行われることも認められている。

どこでなされようと、礼拝は決して短くはない。

伝統的祈祷書の普及版に印刷されている祈祷は約90ページにも及び、すべて読むだけで1時間はかかるものである。

これが終了し、皮ひもが外されるまで、ユダヤ人は食べ物を口にすることができない。

しかも儀式はまだ続いており、朝食の間も、いや実際他の食事の時にもついてまわる。

手を洗い、パンを裂く前に短い祈りを称える。

食事の後には、長めの感謝の祈りをする。

さらに儀式はこの後も続く。

その後午後に1回、夕方に1回の合計2回、ユダヤ人は正式な礼拝を持つ。

その合間にもユダヤ人は神の名前をしょっちゅう思い出さなければならない。

なぜなら伝統は、生活のすべての節目に祈りを持つことを命じているからだ。

食事と食事の間に食べ物を口にしたり、新しい衣服を身に着けたり、旬の果物を味わったり、稲妻を見たり、雷を聞いたり、海や虹や春の木々の新芽を垣間見たり、トーラーや世俗の学問に卓越した人物に出会ったり、良い知らせを聞いたり、悪い知らせを聞いたり。。

これらの思いつく限りほとんどすべての出来事に、短いながら適切な祈りの言葉が存在するのである。

そしてさらに、ユダヤ人には個人的にあるいはグループの教室で、毎日ある程度の時間を伝統の学習に当てることが求められている。

そして夜、寝床に着く時にもまた、眠りを与えられる感謝と、自分の信仰の確認、そして神の御手に自分をゆだねることを祈る。

このようにして、ユダヤ人の一日は、始まりと同じように神を意識しながら終わるのである。


あるいは、仕事や遊びの時間がどれほど残るか心配する向きもあるかもしれない。

当然ながら宗教行為の少ない、または全くない人に比べれば、仕事や遊びの時間は減る。

しかし実際は思った以上に多いのだ。

ここで述べたほとんどの儀式はその都度行われる行為と並行して行われ、全く時間を取らない。

またその他の多くのことも、ほんの一瞬で終わる。

そして残りのことには、伝統は干渉しない。

何が人間存在の究極的なテーマなのか、と伝統は問う。

神そして善ある生活のことではないか?

ならば、それらを追求すること以上に有効な時間の使い道などあるはずがあろうか?


              (引用ここまで)

 
                *****


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ローマ時代のイスラエル北部・・ユダヤの公共建築物か

2014-01-12 | エジプト・イスラム・オリエント



ユダヤ教の記事がありました。
パレスチナ問題などはよく目にしますが、文化遺跡の記事は珍しいと思いました。

               ・・・・・

「ローマ時代のイスラエル北部・・ユダヤの公共建築物か」
                        読売新聞2013年10月9日


イスラエル北部・下ガリラヤ地方の都市遺跡遺構を発掘調査している日本の調査隊が今夏、古代ローマ時代の石積みの大型建物跡で、ランプやコインなどユダヤ人が使った遺物を発見した。

さまざまな民族が混在していた紀元前後のこの地方に、ユダヤ人が重要な公共建築を持っていた可能性が高まった。



同遺跡は南北約350メートル、東西150メートルの卵型で、紀元前3000年ごろから紀元後200年ごろにかけて人々が生活した跡が積み重なって丘状になっている。

ローマ時代の建物跡はこれまでに約10メートル四方を発掘、5部屋がみつかっており、階段の一部が残ることから2階建てだったことが分かっている。

細長い石材を連続した窓のように組んだ「ウインドーウォール」と呼ばれる、格式の高さをうかがわせる建築手法の壁も用いられていた。

今年、建物跡からユダヤ人が用いた独特な形式のランプと、ユダヤ教で汚れを免れるとされる石製容器の多数の破片、コインなどが発見され、ユダヤ人の建物だったことが確実になった。

ランプなどの形式から、紀元前1~後2世紀ごろのものの可能性が高い。

この時代は、ローマ帝国へのユダヤ人の反乱が元で起きた2次に亘る「ユダヤ戦争」の時期にあたる。

紀元後66年に起きた「第一次ユダヤ戦争」では、エルサレムのユダヤ教神殿が破壊され、ユダヤ教の主流が神殿祭祀を行わず共同体ごとにシナゴーグ(礼拝所)を持つ形への変化が進んだとされる。

更に多くのユダヤ人がエルサレム周辺から追われて、ガリラヤ地方に散ったと言われる。

月本昭男・立教大教授(旧約聖書学)は「紀元後132年に始まる「第二次ユダヤ戦争」で放棄されるまで建物が使われた可能性がある。近くで最古級のシナゴーグがみつかる可能性もある。ユダヤ人社会が大きく変化する中で、農村部でユダヤ教がどのように信仰されたかを示す遺跡だ」と話す。

一方、同遺跡内の別の調査では、少なくとも55メートル四方に及ぶ鉄器時代の大型建物の発掘が進んでいる。

今年出土した土器などから、紀元前7~紀元前6世紀頃の建物だったことが判明した。

当時新バビロニアの傭兵としてオリエントに入っていたとされる、スキタイ人に特徴的な青銅製の矢じりも出土した。

この建物の時代は、当初はアッシリア、次いでバビロニアがこの地域を支配したとされる。

イスラエル北部では、これまでみつかった同時期の最大規模の建物で、長谷川修一・盛岡大准教授(聖書考古学)は「軍事キャンプのような施設だったのでは。帝国の交代期にどのような属州の支配が行われていたかを解明する手がかりになる」と期待している。


               ・・・・・

wikipedia「シナゴーグ」より

シナゴーグとは、ギリシャ語のシュナゴゲー(集会所)に由来するユダヤ教の会堂のことである。

聖書には「会堂」の名で登場し、ユダヤ教会と俗称されることもある。

キリスト教の教会の前身であるが、役割はやや異なる。

もともとは聖書の朗読と解説を行う集会所であった。

現在では祈りの場であると同時に、各地のディアスポラのユダヤ人の礼拝や結婚、教育の場となり、また文化行事などを行うコミュニティーの中心的存在ともなっている。

エルサレム神殿破壊後はユダヤ教の宗教生活の中心となる。

ディアスポラ民族主義者や改革派は「神殿(Tempel)」という言葉を用いることがあるが、正統派の中にはこういった「擬似神殿」の敷居を跨ぐことを拒否するものもいる。

ディアスポラの地では改革派から超正統派までディアスポラの立場を取る者たちなどによって守られているが、イスラエルへの移住によって無人のシナゴーグ も多く出てきている。


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「口開けの儀式」を受けて、復活のしたくをする・・エジプトのミイラ(4・終)

2014-01-08 | エジプト・イスラム・オリエント


吉村作治氏の「貴族の墓のミイラのご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****


            (引用ここから)


完成したミイラを墓に納める埋葬の儀式が行われるのは、死後70日以上が経過してからであった。

というのはミイラ制作の一連の行程を終えるには、ヘロドトスが記しているように少なくとも70日を要したからである。

古代の記録によると、ミイラ師は内臓を取り出した死体の脱水と乾燥に52日を費やし、続く16日を包帯巻きに当てたという。

一体のミイラを作るのにこれほどの時間が必要だったのは、脱水や乾燥を完全に行うということもあったが、ミイラ作りの各段階で死者の視力や聴力、呼吸、歩行などの体の各部分が生前と同じ力を回復するように、神官が必要な時に必要な呪文を唱えたり、定められた箇所に護符を置いたりすることが義務付けられていたからである。

たとえ完璧なミイラが完成しても、制作段階で必要な儀式を受けていなければ、死者は再生できないと考えられていた。

儀式は非常に形式ばっており、すべて決められた手順で決められた呪文を唱えなければならなかった。

その上その数も非常に多かった。

おそらくミイラ制作に要した時間の内、少なくとも半分は儀式のために費やされたであろう。


埋葬は、ミイラの完成後三日目に行われた。

完成したミイラは、葬儀の準備の整った葬祭殿に運ばれる。

死者が王や高位の人物だった場合、葬祭殿に向かう葬列には数百人の人間が加わった。

こうした埋葬の行列の様子はルクソール(古代のテーベ)の貴族の谷にあるラモーゼの墓の壁に克明に描かれている。


死者のミイラはみごとな彫刻で飾られた人形棺に納められ、四頭の赤毛の牛が引くそりの上に乗せられた。



列の先頭には再生の神ケプリ(スカラベ)の模型を載せたそりが進み、その後を死者のそりが続き、更に死者の内臓を納めたカノポス壺を乗せたそりが従った。

棺の前を行く神官長は絶えず儀礼書を朗読しながら、手に持った水差しから清めの水を地面に撒いて行った。

列の中ほどには、王の9人の友が儀式用のマントをまとい、柄頭のある杖を持って行進し、宗教的役割をもった貴族たちは白いサンダルを履いて従った。

葬儀に参加したすべての人は、伝統に従って白の葬衣を身に着けていた。


ミイラが葬祭殿に到着すると、今度は葬儀にまつわる儀式の中で最も重要な「口開けの儀式」が行われる。



古代エジプトの人々は神や彫像に命を吹き込もうとする時、彫像の口を開くことによって霊魂が入ると信じていた。

この考え方はミイラに対しても同様で、ミイラとなった死者は「口開けの儀式」を行うことで、再び生前と同じ活動ができると考えられた。

したがって、「口開けの儀式」といっても、口を開けるだけでなく、目、鼻、耳など人間の五感を司る穴はすべて開けられたのである。

「口開けの儀式」は葬祭殿の広場や、死者が葬祭殿を持たない場合は墓の前庭で行われた。

ミイラは棺に納められたまま、所定の場所に垂直に立てられた。

儀式の指揮官は神官長で、彼はその役割を示すためにヒョウの毛皮を身に着けていた。


儀式が始まった。

香がたかれ、清めが終わると、いよいよ神官長によるミイラ再生のための魔術が行われる。

一匹の動物が犠牲にされ、その心臓と足肉が死者に捧げられた。

次に神官長はミイラの前に立ち、手にもった儀式用の“ちょうな”でミイラの口を開けるしぐさを何度も繰り返した。

目や鼻や耳に対しても同様のしぐさが繰り返された。

さらにぶどうと葡萄酒が死者に供えられ、最後に神官長はダチョウの羽でミイラを扇ぐ。


こうして「口開けの儀式」が終わると、もはやミイラは沈黙の状態から脱して、しゃべることも見聞きすることも、ものを食べることすらできるようになったとされたのである。


ツタンカーメン王墓の玄室、奥の壁には同王の「口開けの儀式」の場面が描かれている。

そこでは、死した王の後継者であるアイが神官長の役割を担って、“ちょうな”でツタンカーメン王のミイラの口を開けている。

儀式が終了すると、死者は再び葬列に守られて墓に向かった。

その後、神官長によって最後の祈りが捧げられ、墓は閉じられるのである。

儀式から埋葬に至るまでの間、神官たちが死者の再生を願う呪文を絶えず唱えていたことは言うまでもない。

           (引用ここまで)


               *****

写真は「大英博物館 古代エジプト展カタログ」より


私は去年の夏、「大英博物館所蔵の「死者の書」で読み解く来世への旅」という企画展に行ってきました。

本物の「死者の書」のパピルスやミイラを見て、いろいろなことを感じました。

エジプトの文明についての様々な神秘的な話も頭に浮かびました。

ピラミッドとシリウス星の関係も思い出しました。

「死者の書」はチベットにもありますので、チベットのことも頭に浮かびました。

「出エジプト」から始まるイスラエルのことも思い浮かびました。

これからも、続きを書いてゆきたいと思っています。


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ナイル川の西岸で、死者の復活儀式が行われる・・エジプトのミイラ(3)

2014-01-06 | エジプト・イスラム・オリエント



吉村作治氏の「貴族の墓のミイラたち」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

               *****

             (引用ここから)


古代エジプトにおける葬儀は、既に死者が出た時から始まる。

ヘロドトスが記しているように、死者の家族は大声で泣きわめき、近所隣りに死者が出たことを知らせる。

嘆き声は隣から隣へと広がり、死者の家の周りにはまるで合唱のように鳴き声が響き渡った。

女たちは泣きながら足元の泥をつかんで頭にふりかけ、男たちは喪中であることを示すため、髭を伸び放題にする。


王が亡くなった場合、儀礼は更に多岐にわたった。

ディオドロスは次のように述べている。

「王が亡くなった時、国民のすべてが泣いて衣服を引き裂いた。神殿は閉ざされ、国民は72日の間悲嘆のうちに過ごした」


さて死者の家族は泣いて過ごした後、ミイラ制作のために死体を「死者の町」の住人に引き渡す。

彼らはテーベ(現在のルクソール)の墓地とされていたナイルの西岸に住み、ミイラ制作にまつわる仕事で生計をたてている者達である。

運搬人は家で泣き崩れている家族を残して、死体をナイルの船着き場まで運び、そこに待ち受けている船に乗せる。

この船は、死者をナイルの西岸に運ぶ葬祭船で、大きなパピルスの束をいくつもつなげて作られていた。

船の中央には4本の柱に支えられた円屋根がついており、死体はこの下に置かれた。

そして船頭二人、漕ぎ手一人、泣き女二人、主任ミイラ師と彼より下級のミイラ師が各一人、それに神官一人の計8名が乗り込むと、葬祭船は木製の小舟二隻に引かれて川岸を離れた。

船が東岸から西岸へ移動していく間、神官は棺の傍らで宗教文章を朗読し、泣き女は円屋根のそばに座って、声を張り上げて、歌うように泣き続けるのである。


船が西岸に着くと、死体はライオンをかたどった棺台に載せられ、三人の男によって川岸近くに建てられた「清めの天幕」まで運ばれる。

そこで死者の清めと再生のための儀式が行われるのである。

儀式が始まると、二人の神官が死体に清めの水をふりかける。

これはヘリオポリスの神学でうたわれている、太陽がそこから生まれたという、暗く冷たい海、「ヌン」を象徴してあものであった。

したがってこの儀式は死者の再生を助けるために行われたのである。



しかし死者の再生は、単に一回の儀式だけでは達成されなかった。

ミイラ制作と、続く埋葬の際にもさまざまな儀礼を行なわなくてはならなかったのである。

間もなく神官たちは死体を再び棺台に戻し、ミイラ師たちの仕事場に運んだ。

死体とそれに付き添う人々の葬列が到着する時、ミイラ師たちの仕事場には多くの食料品や葡萄酒などが用意されていた。

死者に安らぎをもたらす神聖な儀式のためである。



神官は新しい死体を前に、パピルスを開いて定められた呪文を唱えた。

その後葬列に従ってきた人々は引き上げるのだが、ミイラ師と神官は更に儀式を続けた。

時には神話の中でオシリス神を復活させたイシス女神とその妹ネフティス女神に扮した女性が儀式に加わることがあったが、これは死体に対して行われる儀式が、すべて死者の復活を願うものだったからである。

そして死者は、既に述べたような方法でミイラにされたのである。


            (引用ここまで)

             *****

大英博物館 古代エジプト展のカタログには、上記のことが、以下のように記されています。


               *****


             (引用ここから)



この世の生を終えた死者は、家からミイラ作りが行われるナイル西岸へと移された。

墓に描かれる「葬送の場面」では、死者は舟で西岸へと運ばれる。

これは、死者が神々の住む世界へ移行することを象徴している。

ミイラ作りの目的は、完璧で永久的な体に作り替えて聖なる存在へと高め、復活を成し遂げたオシリス神の体と同じ状態にすることだった。

オシリス神の遺体を再生し、保存したのはアヌビス神とされ、関連する場面にはしばしばジャッカルの頭を持つ姿で登場する。


              (引用ここまで)

     
                *****

写真は、護符と呪文と内臓を納める壺 (大英博物館 古代エジプト展カタログより)

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