始まりに向かって

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エルサレムで、7天界の預言者達と会う・・ムハンマドの生涯(6・終)

2015-03-31 | エジプト・イスラム・オリエント


ひき続き、小杉泰氏の「ムハンマド・イスラームの源流をたずねて」のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

            *****

         (引用ここから)


「夜の旅」と「昇天の旅」

「夜の旅」とは、一夜のうちにムハンマドがメッカからエルサレムへと往復したことを指す。

「昇天の旅」とは、ムハンマドがその時、エルサレムにおいて、かつての「ソロモンの神殿跡」から7層の天に昇り、諸預言者たちに出会い、ついにはアラーの身元に達するという旅である。


ある夜、ムハンマドは天使ガブリエルの訪問を受けた。

彼は、ガブリエルに伴われて旅に立つ。

彼が乗った天馬は、一飛びで視界のかぎりまで進むという。

ムハンマドはエルサレムに向かった。


              ・・・

讃えあれ、その僕ムハンマドを夜の間に、聖なるモスクからアラーが周囲を祝福した。

遠方のモスクへと旅させた方アラーに。

それはムハンマドに神印を見させるためであった。

まことにアラーは全聞者、全見者である。「コーラン・(章名不明)」


             ・・・

当時のエルサレムはビザンツ帝国の支配下にあり、イスラエルの民の神殿は破壊されたままであった。

神殿の廃墟がある丘から、ムハンマドは天に上った。

第1天から第7天まで、順に昇る。

第1天では、ムハンマドをアダムが迎える。

アダムは人類の祖であるが、イスラム教の教えでは「最初の予言者」でもある。

アダムはムハンマドに向って「ようこそ、心正しき息子にして心正しき預言者よ」と言う。

第2天では、洗礼者ヨハネとイエス・キリストが迎える。

「ハディース」では、2人はムハンマドの母方のいとこと紹介されている。

2人はムハンマドに対して「ようこそ、心正しき兄弟にして心正しき預言者よ」と挨拶する。

この言葉は、天を上るたびに繰り返される。

第3天には、「旧約聖書」のヨセフがいる。

第4天には、イドリースがいる。

「旧約聖書」のエノクと考えられる。

第5天には、「旧約聖書」のアロン=モーセの兄がいる。

第6天には、モーセがいる。

そして最後の第7天に上ると、そこではアブラハムが待っている。

アブラハムは、アダムと同じ挨拶をする。

すなわち「ようこそ、心正しき息子にして心正しき預言者よ」と言う。


人類の父アダムが「息子よ」と言うのは当然であろうが、アブラハムの場合はどうであろうか?

ここでムハンマドを「息子」と呼ぶアブラハムは、〝諸預言者″の父としてのアブラハムであろう。


「昇天の旅」の物語が何を象徴しているかは、自明だろう。

これは〝諸預言者″の系譜の物語であり、ムハンマドがこれらの予言者たちの系譜をひき、彼らと同族であることを確認し、

そして彼らがアラーから命じられたのと同じ使命を、ムハンマドが果たしているということを確認しているのである。

第7天の先には、天使がアラーを讃える「館」がある。

ムハンマドはさらに「スィドラの樹」に至った。

いったい、どのような樹であろうか?


               ・・・

まことにムハンマドは再びガブリエルにまみえた。

さいはてのスィドラの元で。

そのそばには、安息所の楽園がある。

覆う者がスィドラを覆う時、視線はそれることなく、見過ぎることもない。

まことにムハンマドは、主の最も偉大な印を見たのである。(「星」章)

               ・・・


この体験のあと、ムハンマドは一日に5回の礼拝を命じたという。

ムハンマドが一夜のうちにエルサレムを往復したというこの話題は、彼らの間に疑念と動揺を生んだ。

これを契機に、ムハンマドは「深く信じる人」と呼ばれるようになった。

このような盟友の堅い信頼は、ムハンマドにとっては大きな財産であった。



この後、ムハンマドたちは協力して布教を行い、大きな成功をおさめた。

メディナの信徒たちは、わずか2年の間に「戦闘の誓い」を行うまでになった。

メッカでの布教に比べ、メディナでの布教が成功した理由には、いくつかあげられる。

まず、メディナにはユダヤ教徒が相当数おり、一神教的な考え方に慣れていたと考えられる。

また、メッカの人々にとって、ムハンマドの権威を受け入れることは、彼と彼の一族の覇権を認めることであった。

部族的な競争の原理からも、個々人の血統的な矜持からも、これは簡単に受け入れられるものではない。

また、コーラン形成の進展という要素もあった。

ムハンマドの教えは、アラーの啓示としてのコーランを認めよ、という点に尽きる。

彼が預言者であるということも、そのひとの一つの側面である。

その布教においては、コーランこそが最大の武器であった。

コーランは、メディナへの移動時期までに、ほぼ骨格が完成していた。

メッカの人々が次第に断片が結集してゆくコーランを見ていたのに対して、メディナの人々は「啓典」としてかなり熟成したコーランと出会った。

当時のコーランは書物ではなく、ムハンマドと信徒の記憶の中に保存されたコーランであるが、人々のさまざまな質問にコーランを充分に参照しながら答えたことであろう。

ムハンマドがメディナの地に到着したのは、622年のことであった。

ムハンマドはまず最初のモスクを建てた。

モスクの建設には、信徒たちが集まって働き、ムハンマド自身もレンガを運んだという。

これ以降のムハンマドは、新しい共同体の指導者として忙しい毎日を送ることになった。

あらゆる面での指導者としての暮らしが、彼を待っていたのである。


             (引用ここまで)

写真(中)はイスラームのタイル・イラン(AD8~16世紀)
            「岡山市立オリエント美術館カタログ」より
写真(下)は鈴木鉱司氏著「真実のイスラーム」より・メッカのカーバ神殿
     カーバ神殿に詣でる信者たち
         


               *****


イスラム教の成立史をひもといてみて、たいへん興味深く思いました。

要するに、イスラム教は、ユダヤ教の亜種ということになるのだろうか?と思いました。

ムハンマドは、ムハンマドが登場する以前からあったモーゼ・アブラハムへの一神教的信仰を復活させようとしたということでしょうか?

しかし同時にまた、イスラム教の神・アラーはムハンマドが登場する以前から存在したアラブ独自の神であり、しかし、アラブの人々はそれを信仰しなかったことを、神アラーは、ムハンマドを通じて戒めているということになるのでしょうか?

非常に複雑で、ナイーブな問題だと感じます。。

コンプレックスという概念を持ち出したのが、ユダヤ人フロイトであったことなども思い浮かびます。




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