始まりに向かって

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柱について(1)・・イスラエルの最古の立柱遺構

2010-06-11 | エジプト・イスラム・オリエント
先に「ごみ屋敷体験記」を記しましたが、このごみ屋敷体験により、わたしは人間の「住み家」について、思いをはせることになりました。


ごみ屋敷から、ごみを取り去ると、何が残るのだろう?

人は、「住み家」で、何をしているのだろう?

人が住む所とは、どういう所なのだろうか?

柱とは?
壁とは?
床とは?

そこで、植田文雄さんという方の「古代の立柱祭祀」という本を読んでみました。

いろいろな所の「柱」について研究している方のようです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

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(引用ここから)

立柱祭祀の遺構をさがす手掛かりを求めて、「世界考古学地図」という本を見ると、最古の神殿として、イスラエルのエリコのテル最下層からみつかった遺構が紹介されていた。

そこには穴の掘られた二つの大きな石があり、トーテムポ-ルを立てるためのものと考えられる、とある。

紀元前11000年ころの狩猟採集民が、泉の側に立てたほこらと思われる、と書いてある。

日本列島ならば、縄文時代草創期で、小さな村さえない。
まだ家族単位で食糧を求め、野山を駆け回っていた段階だ。

最古の縄文集落として知られる「鹿児島県上野原遺構」でさえ、紀元前7500年頃である。

イスラエルのエリコは、仰向けに身体が浮くことで有名な死海の北西、ヨルダン国境に近い町である。

海抜よりマイナス350メートルと極端に低いが、紀元前8000年頃、世界で最初に小麦の栽培と羊の牧畜が行われていた、いわば農耕発祥の地である。

テルとは丘という意味で、長年にわたって人類の生活した遺跡が積み重なり、小高い丘になったもので、中東紛争でたびたび報道される、イスラエル最大の都市テル・アビブの語源も、このような古代遺跡にちなむという。

文明以前に農耕文化をもった西アジアの、しかもイスラエルならば、最古の神殿もあり得るかもしれない、とわたしは考えた。


エリコは旧約聖書にもたびたび登場するオアシスである。

エリコのテルは19世紀後半から100年以上、イギリスによって発掘調査されてきた。

中でも1952年の調査では、紀元前8000年紀の城壁に囲まれた集落が見つかり、世界中の注目を浴びた。


エリコの神殿は、この城壁よりもさらに古い地層からみつかっている。

報告書を読むと、神殿は長方形で、厚さ50センチの壁で囲まれている。

粘土壁が屋根を支える構造壁となり、木の梁を渡した建物だったとみられる。

内部には、日常的な要素が全くない。

石は、祭祀を行う時に木製のトーテムポールを立てた穴、あるいは柱を指し込むための基礎石だとされる。

報告書では基礎石について、「現在も国家儀式で国旗を立てるのと同じように、同族のあかしを示す旗を付けたトーテムポールが立っていた」と記される。

これが最古の神殿の実態である。


「世界考古学地図」の報告書では、神殿について、「旧石器時代の終わり、東方からやってきた狩猟民がエリコの泉に集まり、水源の神に祈りをささげた神殿である」とまとめられている。

紀元前9000年紀には西アジアのオアシスに狩猟民の神殿が作られ、儀式のシンボルとして木柱が建てられていた、ということである。

このような神殿を作るためには相当な労力を要したと想像できる。

これは縄文時代の立柱にも共通することで、初期の集落が、同族意識を強化していく中で、村人の求心力を保つための祭りの場を持ち、神聖な場所を演出する木柱が建てられたのであろう。

多少形は変われども、このような祭りの装備を、人類は早くから持っていたようだ。

(引用ここまで)


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また、2008年11月付けの「ナショナルジオグラフィック」には、「イスラエルで世界最古〈12000年前〉のシャーマンの遺体が発見された。」という記事がありました。


世界で最も古い“宗教の痕跡”の発見ということであり、大変大きな発見だと思います。



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http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20632348

(引用ここから)


最新の研究によると、現在確認されている中では世界最古となるシャーマンの墓がイスラエル北部で発見されたという。

発掘された墓は1万2000年前のもので、謎の多い中石器時代のナトゥフ文化に属する高齢の女性が、動物の部位や人間の足とともに埋葬されていた。

隣接地区でも複数の墓所が発見されているが、今回発掘されたシャーマンの墓は構造や埋葬物、そしてその並べ方が非常に独特なものだという。

研究チームのリーダーで、イスラエルのエルサレムにあるヘブライ大学のリーオア・グロスマン氏は、

「墓の状態や埋葬物から考えると、このようなナトゥフ文化の墓はこれまで発見されたことがない。
この女性が特別な社会的位置にいたことを示すものだ」と話す。

 発掘現場はイスラエルの地中海沿岸から14キロほど内陸に位置するヒラゾン・タクティット(Hilazon Tachtit)洞窟で、
この遺跡は1万1500~1万5000年前に地中海東岸で栄えたナトゥフ文化のものと考えられている。

これまで、イスラエル、ヨルダン、シリア、レバノンの各地で数百のナトゥフ文化の墓が発掘されている。

しかし、シャーマンと思われる女性が埋葬されていたのは今回グロスマン氏らが発掘した墓が初めてのことだ。

「シャーマン」という言葉はシベリア地方のツングース語に起源を持つが、神秘的な力によって霊を呼び出し宗教と医術を統べる者の存在は地球上のさまざまな文化で広く共通している。

 埋葬されていた女性は身長150センチで45歳と推定され、当時ではかなりの高齢だったはずである。

この女性は死亡した後、岩を敷き詰め泥で塗り固めた洞窟内部の墓穴の中に安置され、その上には穴を覆う大きな石板が設置された。

猟師や戦士、政治指導者の墓の場合には、埋葬品は日常的な小物や道具がほとんどである。

しかし、この女性の墓にはさまざまな人工遺物のほかに、きれいに並べられた50個のカメの甲羅、イノシシやワシ、ウシ、ヒョウ、テンといった動物の部位、そして人間の足が一緒に埋葬されていた。

「当時、ナトゥフ社会は遊牧民的な狩猟採集文化から農業主体の定住生活に切り替わっていた」とグロスマン氏は話す。

この移行は、ナトゥフ文化の社会構造が発達し、新しいルール・祭式・信条体系が生まれたことによって生じたものと思われる。


「この女性の墓から出土した埋葬物により、当時ナトゥフ文化でどのような祭式が行われていたのか、その特質がある程度明らかにされた」とグロスマン氏は話す。

例えば、カメは埋葬儀式の一部として食されたようだ。

そして、カメの甲羅は死亡した女性の周りに配置された。

イノシシの骨は割られており、骨髄を取り除いた後で女性の手の下に配置されていた。

墓を石板で閉じたのは、おそらく動物によって荒らされるのを防ぐための措置と思われる。


 アメリカにあるハーバード大学の人類学者オフェル・バル・ヨセフ氏は今回の研究を受けて、

「シャーマンの墓は貴重な掘り出し物だ。

ナトゥフ文化の墓を発掘しても、ほとんどが狩猟採集民のもので、シャーマンの墓は50個に1個あるかないかだ。

私もナトゥフ文化の遺跡の発掘を長年続けており、山ほどの墓を発見してきたが、今回のようなものは見たことがなかった。

今回発掘されたシャーマンの墓と埋葬物の調査を進めれば、文書記録としては残らなかったナトゥフ社会の新しい側面が明らかになるだろう。

文字の記録とほぼ同等の価値を持つものだ」と語る。

 また、バル・ヨセフ氏は次の点も指摘している。

「今回の発掘結果は、世界のほかの場所でシャーマニズム社会を研究している者にとっても大いに役立つだろう。

埋葬儀式は文化ごとに異なるが、シャーマンや宗教指導者の墓はどこであっても一般人の墓とは違い独特な特徴を備えているものだ」。

(引用ここまで)


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WIKIPEDIA「エリコ」より

死海の北西部にある町。

古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現した。

最古の町と評されることもある。
世界で最も標高の低い町でもある。

エリコは、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区に含まれる。
海抜マイナス250mの低地にある。

「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、人々が住み着いた。

エリコの名前は『旧約聖書』にも繰り返し現れ、「棕櫚(しゅろ)の町」として知られていた。

エリコには、異なる時代に形成されたいくつかの町があり、古代~『旧約聖書』時代のテル・エッ・スルタン、紀元前後のトゥルール・アブー・エル・アラーイク、現在の町があるテル・ハリ(に分かれる。


沿革

初期の町は小規模な定住集落で、時代区分上は新石器時代にあたる。

最古の町と評されることもあるが、後に現れるメソポタミア文明などの文明とは区別される。

1868年からヨーロッパの考古学者によって何度か調査が行われ、1952年にイギリスのキャスリーン・ケニヨンらが行った調査では前8000年紀のものと思われる周囲を濠と石積みの防壁で囲った集落跡が発掘された。

日本の弥生時代の環濠集落に似ているが、そうではなく、洪水を防ぐための防壁と解釈されている。

初期の痕跡はテル・エッ・スルタンにあり、紀元前約1万年前~前9000年前まで遡る。

テルは丘を意味するアラビア語で、人間の長期にわたる営みの積み重ねによって形成されたものと考えられている。

丘の規模は南北350m・東西150m・高さ2.5mである。

紀元前9000年頃の痕跡ではまだ住居跡はまだ現れないが、ナトゥフ期(Natufian)の石器・骨器や、祭壇と思われる基壇が現れた。

ナトゥフ期の次にケニヨンが「原新石器」と呼んだ時代を経て、「先土器新石器A」と呼ばれる層(前8350年頃~前7370年頃)からは、広さ約4ヘクタール・高さ約4m・厚さ約2mの石の壁で囲まれた集落が形成された。

この壁の1面には高さ8.5mの石の塔も建てられた。

この町は前7370年頃に放棄され、それまでとは異なる文化をもつ人々がエリコに定住した。

先土器新石器Bと呼ばれる層は、前7220年頃から前5850年頃まで続く。

これは前5850年頃に放棄され、しばらく無人の町となった。

前3300年頃には周壁を備えた都市が形成される。

前2300年頃に異民族の来襲によるものと思われる火災にあい、しばらく空白期間となる。

前1900年頃に再び町が建設され、町の領域は初期の壁の外にも拡大し、さらに外側により高い周壁が建設された。

前1560年頃にヒクソスの侵入にあい、大火災に見舞われて廃墟となった。

『旧約聖書』に記されたヨシュアによる破壊が史実に基づくものならば、この頃の話ではないかという推測もある。

前1550年頃~前1150年頃には、古代エジプトの圧迫を受けた。

『旧約聖書』では、預言者ヨシュアが人々に命じて一斉に吹かせたラッパの音により、エリコの城壁が崩れ落ちたと伝えられている。

ヘレニズム時代から『新約聖書』の時代になると、トゥルール・アブー・エル・アラーイクに町が形成された。

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