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藤村久和著「アイヌ、神々と生きる人々」を読んでみました。
ゆっくり読みたい良い本でした。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
本を手に取りますと、まずカバーに梅原猛氏の推薦文が書いてありました。
*****
(引用ここから)
人の一生を変えてしまうような出会いは、そう人生に何度もないが、わたしは藤村久和氏とそのような出会いを数年前にもった。
わたしは、日本の基層文化をとく鍵がアイヌ文化にあると漠然と考えていたが、藤村氏との出逢いによってそれはまちがいないと確信し、今その仮説を追求中である。
わたしの日本文化論は藤村氏との出逢いによって、新しい展開を得たのである。
藤村氏はいわば私の学問的恩人の一人なのである。
藤村氏は、まだ若い前途洋々たるアイヌ研究者であるが、彼の研究方法は大変変わっている。
アイヌ語をしゃべり、アイヌの伝承をよく知っているアイヌのじいちゃん、ばあちゃんを見つけると、彼はそこへ通いつめ、便所掃除までして、そのじいちゃんばあちゃんと親しくなり、その結果、じいちゃんばあちゃんは藤村氏を信用して、それまでだれにも語らなかったアイヌの伝承を語るのである。
そして彼はそれを一生懸命に学び、ついにその古老のように、アイヌ語でユーカラを歌い、アイヌのカムイノミの儀式を自ら行うことが出来るようになるのである。
それは従来の同情と侮蔑の混ざった目でアイヌを見、一段高い所からアイヌを研究する学者たちとは全く違った研究の仕方である。
今まで、アイヌは日本人と全く異なった人種であり、その結果言語も文化も宗教も全く異なった民族であると考えられてきた。
しかしこれはまったく大和民族の傲慢さが産み出した考え方であることが次第に分かって来た。
アイヌは土着の日本人であり、アイヌ文化は、日本の土着文化がもっともはっきり残存したものとして、日本文化と深い関わりを持っている。
自然人類学においては、この考え方は明らかにされてきた。
言語学や民俗学の研究は、まだそこまで行っていないが、わたしは21世紀までにはっきり実証されると思う。
この藤村氏が、長い間のアイヌの人たちとの尊敬と愛情に満ちた交わりを通じて知り得た、アイヌの宗教や世界観は、日本文化の根底をなしている宗教や世界観であり、
それを読むひとは自らの魂と思想の根底を見る思いがするにちがいない。
アイヌ文化研究は、日本文化研究のもっとも重大な要点であり、すべての日本人に関わりを持っているのである。
どちらかといえばものを書くことを億劫にしていた藤村氏が、多年の研究の結果を一冊の本にしたことは、まことに喜ばしい。
(カバー推薦文・ここまで)
*****
それでは、藤村氏の世界を少し拝見してみたいと思います。
*****
(引用ここから)
人間というのはどうあるのが本当なのだろうか?
これはアイヌの人たちの考え方を知る上で重要なテーマである。
(今の)人間はそれぞれ自らの欲求のもとに自分の好きなことをしているが、それは本来あるべき姿とは違うのではないか?
人間には人間としての役割がある。
すなわち神様やあるいはその人よりもっと能力の低い人たち(=道具類のこと)、あるいは人でも神でもないものとの関わり合いの中で、人間としてそれなりの役割を果たす必要がある。
人にはそれぞれ一人一人いろいろな生き方があるだろうが、まずそういう人間としての役割をこの世の中で全うすべきではないだろうかーーーとアイヌの人たちは考える。
「アイヌ」という言葉の対になっている言葉として「カムイ」がある。
「神のグループ」があり、「人間のグループ」がある。
そしてもう一つのグループがあると彼らは考えている。
それは神とも人間ともつかないものである。
では化け物かと思われるかもしれないが、そうではなく、「人間の能力よりも劣るもの」がそれにあたる。
石、河川、丘、あるいは沼、海、山などの自然は神の造ったものだと考えられる。
これらの神様の造ったものは「神のグループ」に含まれる。
一方人間よりも力が弱い劣るものというのは、主に人間が木や金属や石、動物の皮などをそれなりに加工して作った品物、日用品である。
これが「第3のグループ」になる。
つまり人間以上にすごい力をもっている神と、人間の仲間と、人間の能力にも及ばないもの(=日用品)、この三者が世の中で互いに育みあっている。
この三者で世の中は一体化していると考えている。
そういう考え方をすると、人間というものは神と関わりを持ち、人間の力に及ばないものとも関係を持たなければならない。
茶碗であれ、テーブルクロスであれ、それなりに人間の暮らしに役立っている。
そういうものに対しては壊れたから捨てるという考え方ではいけないことになる。
不要になったから捨てようというのではなく、今まで自分達の生活に大いに役立っていたものだ。
そこで最後ではあるけれども、たった一言でも感謝の言葉を述べる。
あるいは常日頃からそういった気持を自分の心に持ち合わせていることが大変大事なことである。
神というのは人間より能力が強いから強者である。
人間を真中にすると「第3のグループ」というのは弱者である。
人間というのは、強者や弱者と互角に付き合い、対等な付き合いをして、時には強い者に文句を言い、弱者を救う、一つの正義の味方のようなものとして、人間というものがある。
しかし単純に「俺は偉いんだ」という思い上がった考え方はすべきではない。
なぜなら神が見守っていてくれて、そしてその人の周りに色々なものがあるために、その人が豊かになるからである。
だから人間は勝手に生まれて、勝手に生きて、勝手にすきなことをやっていればよいというものではないんだよーーーということを、アイヌのおばあさん方はよく言うのである。
アイヌの人たちが人と神をどこで分けているのかというと、この定義付けは大変難しい。
分かりやすく言うと、人間が素手で立ち向かえない相手、それが神であると言っていいと思われる。
たとえば燃え盛る火は人間の素手で消すことは出来ない。
あるいは落雷も両手で支えることは出来ない。
したがってそういう自然現象などは神様になる。
風、雨、雪、こういう類はすべて神様と考えられている。
死んだ人も神の範疇に入る。
また浮遊している魂も神様のグループに入っている。
これは人間は魂をつかみこともできないし、死者を蘇生させることも出来ないからである。
動物も神と認められる。
植物の中でも毒をもっているものは神である。
巨木も神という称号を与えられている。
家も神様で女性だと考えられている。
私たちが家の中にいるというのは、家の神様の絹衣の裾に私たちが覆われていることになる。
神様というのは、自分達の生活にとってそれがなければ生活しにくいもの、人の生活に深く入り込んでいて切り離せないものが神様のグループに入るのである。
人間にはそれぞれ個性、能力があるのだから、わけへだてすることは不必要である。
むしろ仲間意識というか、手をつなぐことに大きな意味合いがある。
それと同じことを神様もやっている。
だから神様には上下ランクはない。
人間の方にも上下ランクはない。
そして仲良くすること、手をつなぐこと、それぞれの能力を発揮するような場所を作ること、それがこの世の人間社会でも、神の世界でも必要なのだということである。
神には人を守らなければならないという義務がある。
守った義務に対して、当然というわけではないが、お礼を受ける権利がある。
人間の方は神様に守ってもらう権利がある。
それと同時に神様にお礼をしなければならないという義務が生じる。
神と人間とはそういう関係にあるのだが、
人間が神との関係をきちんと保ち祀ってあげているのに、神様がなんら返礼してくれない、見守ってくれないという場合には、人間から報復措置をすることもできる。
その神様の悪口雑言などを言って、告訴するのである。
その時は火の神様を通じて、神の裁判所とでも言うべき所=神の国に告訴をし、その裁きは神にお任せする。
神同志の裁判の結果は、一般的には夢に現れ、夢の中で神様の方が謝るという形をとる。
また急に獲物が自分達の所に転がり込む、思わぬ幸いが転がり込む。
これは悪かったということの代償として、神からもたらされたものだというふうに考える。
悪い病が流行る時、村の上手と下手、入口と出口の所に大きな「ヌサ」という御幣をたてて、病気の神様の休息所を設ける。
その休息所である「ヌサ」を統治する神様は女性である。
病気の神様というのは、年中旅行しているのだが、いつも食べ物を持っていないそうである。
そこで村としては村中から穀類、お酒、干魚などを寄せ集めて対応の準備をするのである。
「この村は貧しくて病気の神さまとして充分な働きは何もできません。海の彼方にあるという国にはとても食べ物が豊かであると聞いています。またそこには悪い心の持ち主もいるそうです。ですからそちらへお行き下さい。」
村人はこのように病気の神様に伝えてくれるよう、休息所である「ヌサ」の女神にお願いする。
あとの接待はその女神に一任するのである。
その後、村に何も起こらなければいいのだが、そこで村人が一人死んだということが起こると今度は大変である。
「あなたをこの世の中の一番の能力者と信じて、そして私どもはあなたにすがることしか出来ないのに、あなたは私たちの村人の命をとうとう取られるようなことをしてしまった。
あなたの力を過信したわれわれもいけないかもしれないが、依頼を受けたあなたがそういうことをやってくれなかったこともいけない事だ。
とにかくあなたについては、わたしどもはもう信用できない。
これから以降、我々はあなたについては祀ることも出来ないし、このあなたのなされようをこの世の果てまでも我々は語り伝えるだろう。
あなたと私どもとどちらが正しいか、どちらが理にかなっているか、自分の職務を遂行しなかったのはどちらか、我々は火の神をつうじてあらゆる神々に訴える。
そしてあなたの地位や名誉をぜんぶはく奪しましょう。
それくらいやっても我々は飽き足りない。」
と言って、休憩所で病気の神を接待した「ヌサ」の女神にさんざんの文句を言う。
そして、こう続ける。
「とは言っても、あなたは一生懸命ちゃんと見守ってきてくれたにも関わらず、そのあなたの眼のすきまを狙い、良からぬ神がこういう不詳事を招いたに違いない。
だから本当に悪い奴はそいつなのだ。
一つあなたはそいつを探し、神がみの間でそいつをさんざんやっつけて、二度と悪いことをしないように神の前で目を見据えて懲らしめてください。
その神が何の神かということは私どもには分からないし、神のやることは神にお任せする。
必ずやあなた方は私たちの意を汲んで、私たちの期待するようなことをやってくれるでありましょう。
我々はただそれをひたすら願うものである。
あなたがそれをやってくれるとしたら、あなたのすばらしい能力を今度は我々は末代までも語り伝えるでありましょう。」
と今度は褒めるのです。
(引用ここまで・つづく)
*****
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などあります。(重複しています)
ゆっくり読みたい良い本でした。
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(引用ここから)
人の一生を変えてしまうような出会いは、そう人生に何度もないが、わたしは藤村久和氏とそのような出会いを数年前にもった。
わたしは、日本の基層文化をとく鍵がアイヌ文化にあると漠然と考えていたが、藤村氏との出逢いによってそれはまちがいないと確信し、今その仮説を追求中である。
わたしの日本文化論は藤村氏との出逢いによって、新しい展開を得たのである。
藤村氏はいわば私の学問的恩人の一人なのである。
藤村氏は、まだ若い前途洋々たるアイヌ研究者であるが、彼の研究方法は大変変わっている。
アイヌ語をしゃべり、アイヌの伝承をよく知っているアイヌのじいちゃん、ばあちゃんを見つけると、彼はそこへ通いつめ、便所掃除までして、そのじいちゃんばあちゃんと親しくなり、その結果、じいちゃんばあちゃんは藤村氏を信用して、それまでだれにも語らなかったアイヌの伝承を語るのである。
そして彼はそれを一生懸命に学び、ついにその古老のように、アイヌ語でユーカラを歌い、アイヌのカムイノミの儀式を自ら行うことが出来るようになるのである。
それは従来の同情と侮蔑の混ざった目でアイヌを見、一段高い所からアイヌを研究する学者たちとは全く違った研究の仕方である。
今まで、アイヌは日本人と全く異なった人種であり、その結果言語も文化も宗教も全く異なった民族であると考えられてきた。
しかしこれはまったく大和民族の傲慢さが産み出した考え方であることが次第に分かって来た。
アイヌは土着の日本人であり、アイヌ文化は、日本の土着文化がもっともはっきり残存したものとして、日本文化と深い関わりを持っている。
自然人類学においては、この考え方は明らかにされてきた。
言語学や民俗学の研究は、まだそこまで行っていないが、わたしは21世紀までにはっきり実証されると思う。
この藤村氏が、長い間のアイヌの人たちとの尊敬と愛情に満ちた交わりを通じて知り得た、アイヌの宗教や世界観は、日本文化の根底をなしている宗教や世界観であり、
それを読むひとは自らの魂と思想の根底を見る思いがするにちがいない。
アイヌ文化研究は、日本文化研究のもっとも重大な要点であり、すべての日本人に関わりを持っているのである。
どちらかといえばものを書くことを億劫にしていた藤村氏が、多年の研究の結果を一冊の本にしたことは、まことに喜ばしい。
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それでは、藤村氏の世界を少し拝見してみたいと思います。
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(引用ここから)
人間というのはどうあるのが本当なのだろうか?
これはアイヌの人たちの考え方を知る上で重要なテーマである。
(今の)人間はそれぞれ自らの欲求のもとに自分の好きなことをしているが、それは本来あるべき姿とは違うのではないか?
人間には人間としての役割がある。
すなわち神様やあるいはその人よりもっと能力の低い人たち(=道具類のこと)、あるいは人でも神でもないものとの関わり合いの中で、人間としてそれなりの役割を果たす必要がある。
人にはそれぞれ一人一人いろいろな生き方があるだろうが、まずそういう人間としての役割をこの世の中で全うすべきではないだろうかーーーとアイヌの人たちは考える。
「アイヌ」という言葉の対になっている言葉として「カムイ」がある。
「神のグループ」があり、「人間のグループ」がある。
そしてもう一つのグループがあると彼らは考えている。
それは神とも人間ともつかないものである。
では化け物かと思われるかもしれないが、そうではなく、「人間の能力よりも劣るもの」がそれにあたる。
石、河川、丘、あるいは沼、海、山などの自然は神の造ったものだと考えられる。
これらの神様の造ったものは「神のグループ」に含まれる。
一方人間よりも力が弱い劣るものというのは、主に人間が木や金属や石、動物の皮などをそれなりに加工して作った品物、日用品である。
これが「第3のグループ」になる。
つまり人間以上にすごい力をもっている神と、人間の仲間と、人間の能力にも及ばないもの(=日用品)、この三者が世の中で互いに育みあっている。
この三者で世の中は一体化していると考えている。
そういう考え方をすると、人間というものは神と関わりを持ち、人間の力に及ばないものとも関係を持たなければならない。
茶碗であれ、テーブルクロスであれ、それなりに人間の暮らしに役立っている。
そういうものに対しては壊れたから捨てるという考え方ではいけないことになる。
不要になったから捨てようというのではなく、今まで自分達の生活に大いに役立っていたものだ。
そこで最後ではあるけれども、たった一言でも感謝の言葉を述べる。
あるいは常日頃からそういった気持を自分の心に持ち合わせていることが大変大事なことである。
神というのは人間より能力が強いから強者である。
人間を真中にすると「第3のグループ」というのは弱者である。
人間というのは、強者や弱者と互角に付き合い、対等な付き合いをして、時には強い者に文句を言い、弱者を救う、一つの正義の味方のようなものとして、人間というものがある。
しかし単純に「俺は偉いんだ」という思い上がった考え方はすべきではない。
なぜなら神が見守っていてくれて、そしてその人の周りに色々なものがあるために、その人が豊かになるからである。
だから人間は勝手に生まれて、勝手に生きて、勝手にすきなことをやっていればよいというものではないんだよーーーということを、アイヌのおばあさん方はよく言うのである。
アイヌの人たちが人と神をどこで分けているのかというと、この定義付けは大変難しい。
分かりやすく言うと、人間が素手で立ち向かえない相手、それが神であると言っていいと思われる。
たとえば燃え盛る火は人間の素手で消すことは出来ない。
あるいは落雷も両手で支えることは出来ない。
したがってそういう自然現象などは神様になる。
風、雨、雪、こういう類はすべて神様と考えられている。
死んだ人も神の範疇に入る。
また浮遊している魂も神様のグループに入っている。
これは人間は魂をつかみこともできないし、死者を蘇生させることも出来ないからである。
動物も神と認められる。
植物の中でも毒をもっているものは神である。
巨木も神という称号を与えられている。
家も神様で女性だと考えられている。
私たちが家の中にいるというのは、家の神様の絹衣の裾に私たちが覆われていることになる。
神様というのは、自分達の生活にとってそれがなければ生活しにくいもの、人の生活に深く入り込んでいて切り離せないものが神様のグループに入るのである。
人間にはそれぞれ個性、能力があるのだから、わけへだてすることは不必要である。
むしろ仲間意識というか、手をつなぐことに大きな意味合いがある。
それと同じことを神様もやっている。
だから神様には上下ランクはない。
人間の方にも上下ランクはない。
そして仲良くすること、手をつなぐこと、それぞれの能力を発揮するような場所を作ること、それがこの世の人間社会でも、神の世界でも必要なのだということである。
神には人を守らなければならないという義務がある。
守った義務に対して、当然というわけではないが、お礼を受ける権利がある。
人間の方は神様に守ってもらう権利がある。
それと同時に神様にお礼をしなければならないという義務が生じる。
神と人間とはそういう関係にあるのだが、
人間が神との関係をきちんと保ち祀ってあげているのに、神様がなんら返礼してくれない、見守ってくれないという場合には、人間から報復措置をすることもできる。
その神様の悪口雑言などを言って、告訴するのである。
その時は火の神様を通じて、神の裁判所とでも言うべき所=神の国に告訴をし、その裁きは神にお任せする。
神同志の裁判の結果は、一般的には夢に現れ、夢の中で神様の方が謝るという形をとる。
また急に獲物が自分達の所に転がり込む、思わぬ幸いが転がり込む。
これは悪かったということの代償として、神からもたらされたものだというふうに考える。
悪い病が流行る時、村の上手と下手、入口と出口の所に大きな「ヌサ」という御幣をたてて、病気の神様の休息所を設ける。
その休息所である「ヌサ」を統治する神様は女性である。
病気の神様というのは、年中旅行しているのだが、いつも食べ物を持っていないそうである。
そこで村としては村中から穀類、お酒、干魚などを寄せ集めて対応の準備をするのである。
「この村は貧しくて病気の神さまとして充分な働きは何もできません。海の彼方にあるという国にはとても食べ物が豊かであると聞いています。またそこには悪い心の持ち主もいるそうです。ですからそちらへお行き下さい。」
村人はこのように病気の神様に伝えてくれるよう、休息所である「ヌサ」の女神にお願いする。
あとの接待はその女神に一任するのである。
その後、村に何も起こらなければいいのだが、そこで村人が一人死んだということが起こると今度は大変である。
「あなたをこの世の中の一番の能力者と信じて、そして私どもはあなたにすがることしか出来ないのに、あなたは私たちの村人の命をとうとう取られるようなことをしてしまった。
あなたの力を過信したわれわれもいけないかもしれないが、依頼を受けたあなたがそういうことをやってくれなかったこともいけない事だ。
とにかくあなたについては、わたしどもはもう信用できない。
これから以降、我々はあなたについては祀ることも出来ないし、このあなたのなされようをこの世の果てまでも我々は語り伝えるだろう。
あなたと私どもとどちらが正しいか、どちらが理にかなっているか、自分の職務を遂行しなかったのはどちらか、我々は火の神をつうじてあらゆる神々に訴える。
そしてあなたの地位や名誉をぜんぶはく奪しましょう。
それくらいやっても我々は飽き足りない。」
と言って、休憩所で病気の神を接待した「ヌサ」の女神にさんざんの文句を言う。
そして、こう続ける。
「とは言っても、あなたは一生懸命ちゃんと見守ってきてくれたにも関わらず、そのあなたの眼のすきまを狙い、良からぬ神がこういう不詳事を招いたに違いない。
だから本当に悪い奴はそいつなのだ。
一つあなたはそいつを探し、神がみの間でそいつをさんざんやっつけて、二度と悪いことをしないように神の前で目を見据えて懲らしめてください。
その神が何の神かということは私どもには分からないし、神のやることは神にお任せする。
必ずやあなた方は私たちの意を汲んで、私たちの期待するようなことをやってくれるでありましょう。
我々はただそれをひたすら願うものである。
あなたがそれをやってくれるとしたら、あなたのすばらしい能力を今度は我々は末代までも語り伝えるでありましょう。」
と今度は褒めるのです。
(引用ここまで・つづく)
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