世界中で2500もの言語が消滅の危機にある、というユネスコのデータを見ましたが、消滅危機言語の復活を試みる動きもあるようです。
下の記事は台湾原住民とケルト系原住民の言語復活の動きです。
読売新聞4月10日の記事です。
*****
「台湾の言語消滅民族、復活への興味」
女子美術大学教授 原聖
台湾では1997年の憲法改正によって、多元的文化を尊重し、先住民の言語文化を積極的に擁護・推進することが明記された。
コミュニティが維持され、言語も保存されている民族が、公的に認定されるようになったのだ。
当初は9民族だったが、2000年以降、次々と認定が増え、現在14民族に達している。
認定されると、様々な特典が付与され、それが民族文化の保護と振興につながっているのである。
わたしはこうした先住民の言語復興の状況を学ぶため、昨年の11月から3月まで台湾に滞在したが、今年になって興味深い動きが始まった。
“すでにコミュニティが失われ、言語も消滅している民族”の認定である。
2月24日、台湾西部の平野部に居住する先住民の認定に関する公聴会が、日本の内閣に相当する所で初めて行われた。
ユネスコは「国際母語の日」である2月21日にあわせて、「世界の“危機言語”の最新データ」を公表したが、台湾では8言語が消滅したとされた。
実は、その大半がこの平地の先住民なのである。
たとえば、台南県平野部のシラヤ人。
彼らは認定に最も積極的で、すでに2005年に県独自で民族的地位を承認し、言語の解説書も昨年12月に出版された。
文化的復興活動が進もうとしているのである。
これと関連して、わたしが思い起こすのは、イギリスとアイルランドに挟まれたマン島のケルト系言語、マン語である。
この言語は、今回のユネスコの「危機言語データ」で、“消滅言語”の一つとされた。
1974年に最後の話者が死んだことになっているのである。
ところが、復興運動がこの時期に始まり、2001年にはマン語を教育言語として用いる小学校が開設された。
わたしは半年前にこの学校を訪ね、実際にマン語の授業を見学してきた。
マン語の教育運動家たちは、このユネスコのデータが復活の現実に反すると抗議を行った。
台湾でもまさにこうした復興が始まろうとしているのは、きわめて興味深い。
*****
写真は参考
上・台湾地図
中・マン島地図
下・マン島の国旗(ケルトの太陽紋)
wiki台湾原住民より
台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、台湾に17世紀頃漢民族が移民してくる以前から居住していた先住民族の呼称。
民主進歩党政権になってから、原住民族の地位向上が推進され、2005年1月「原住民族基本法」が制定され、国営の原住民族テレビも2005年7月1日に正式に開局するなどしている。
さらに現在、民族自治区の設立にかかわる「原住民族自治区法」案の審議が進められている。
台湾では現在、平地原住民と山地原住民に分けられており、両者の変化はこの10年は小さく、山地原住民が52.9%である。
日本占領期間に山地原住民は高砂族(たかさごぞく)と呼ばれた。
太平洋戦争中に日本軍は原住民を高砂義勇隊として戦闘に投入し多くの戦死者を出した。
戦後、日本政府は台湾人を戦争被害の補償対象から除外し、現在でも多くの未払給与があり、一部の人が弔慰金を受け取ったのみである。
このことに対して原住民の人々による抗議活動があるが、日本と台湾との国交がないため補償協議は未だに行われていない。
wiki新港文書より・シラヤ語
新港文書(しんこうぶんしょ)とは別称を「新港文」とも言い、現在の台湾台南一帯の平埔族の間で伝わる土地売買及び租借に冠する契約文書である。
民間では「番仔契」とも称されている。
この文書で使用されている言語はローマ字で表記されたシラヤ語(新港語)であり、漢文とローマ字が対訳として記載されているものも存在している。
現存している「新港文書」は約140種であり、平埔族の文化や当時の生活を知る上で貴重な資料となっているが、現在死語と化した新港語であるため、「新港文書」を解読できる研究者が非常に少ないという問題が発生している。
Wikiマン島より
マン島は、グレートブリテン島とアイルランドに囲まれたアイリッシュ海の中央に位置する淡路島ほどの小さな島。
公用語は英語とマン島語。
マン島語は20世紀初頭、最後の日常的な話者が亡くなったが、1970年代以降、言語復権運動から現在は約1200人のマン島語識者がいる。
イギリスからの独立意識の高いマン島では、英語に次ぐ公用語として位置づけられ、国民にはマン島語による教育の機会も与えられている。
また2005年にはマン島語のみを教授言語とする初等教育の学校ができた。
イングランド法のベースとなった独自の法律を持ち、立法権を持つ立法議会と下院、行政権を持つ政府がある。
ティンワルドは世界最古の議会で、現在でも7月に青空議会が開かれている。
法案は英国女王またはその代理である総督によって裁可される。
wikiケルト人より
「島のケルト」は存在するか
遺伝子研究によって飛躍的な進歩を遂げた現代の考古学は「島のケルト」と称されていた人々が、ガリア北部や沿岸部のどの部族からも遠い遺伝子を持つ事、そしてむしろイベリア人からの影響が存在している事をつきとめた。
これは少なくとも彼ら「島のケルト」に「大陸のケルト」との混血は見られない(大規模な移民は行われていない)という事実を示している。
マン島の旗
写真参照。
イギリス王室の属領であるマン島の旗は、赤い地の中央に、マン島のエンブレムである三脚巴(トリスケリオン、triskelion)をあしらったものである。
マン島の三脚巴紋は、ヨーロッパにおける巴紋の一種で、鎧で覆われひざと足首を直角に曲げた三本の脚が、太ももの付け根の部分で接合した形になっている。
旗は、表裏両面とも足首の指す方向が時計回りになるように作られる。
三脚巴はケルト人が使った太陽を象徴する紋章であり、ミケーネやリュキアなど古代地中海の文明でも用いられている。
またシチリアの旗も、メドゥーサの首を中心に三本の脚をあしらった三脚巴である。
イギリスの商船旗レッド・エンサインに三脚巴をあしらったものがマン島の商船旗となっている。
wikiケルト人より
当初の宗教は自然崇拝の多神教であり、ドルイドと呼ばれる神官がそれを司っていた。
初期のドルイドは、祭祀のみでなく、政治や司法などにも関わっていた。
彼らは、その教えを文字にする事は正しくないと考え、口承で伝えたので、全てを暗記するには二十年もかかった者もいた、といわれている。
それ以外の記録の為には、ギリシア文字を借用していた。
後にギリシア語やラテン語を参照にして、ケルト人独自のオガム文字が生まれた。
しかし後世に、ケルト人がキリスト教化すると、これはラテン文字に取って代わられた。
キリスト教化したあとも、ケルト人独特の文化はまったく消滅したわけではない。
現代でもウェールズやスコットランドやアイルランドには、イングランドとは異なる独自の文化がいくらか残っている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます