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昨日は、大変な大雪で驚きました。
吹雪で視界もほとんどなくなるほどになり、夕闇が迫り、白と黒の二色しかない世界の中で、風の音を聞いていると、なぜか心が落ち着いて、無性になつかしい気持ちがしました。
一夜明ければ、なにごともなかったかのような日常が戻ってきました。
寒い地域に住んでいらっしゃる方には日常のことと思いますが、私にとっては大変非日常的な一日でした。
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「オホーツク文化に情熱・・米村喜男衛(北海道網走市)」
2013・10・17朝日新聞
冬には流氷が接岸する北海道網走市に、5世紀から9世紀、縄文文化でも弥生文化でもない古代文化があった。
動物の骨で漁具を作り、アザラシなどを狩って暮らす「オホーツク文化」は、ロシアのサハリンから伝わったとされる。
大正から昭和にかけて、この文化の研究に情滅をそそいだ理髪店主がいた。
国指定史跡「モヨロ貝塚」を発見した米村喜男衛である。
作家の司馬遼太郎は「オホーツク海道」で、伝説の聖都市トロイアの存在を実証したドイツ人シュリーマンになぞらえ、功績をたたえている。
「知られていた“歴史的日本人”とは違う人々が住んでいたことを発見した」
米村は青森県出身。
子どもの頃に畑で石器を拾い、考古学に興味を持った。
経済的な事情で11才から奉公に出た。
弘前市や東京の理髪店で働きながら、古本で考古学を学び、遺跡の発掘調査に参加した。
そこで知り合った東京帝国大・人類学教室の鳥居龍蔵に影響を受け、アイヌ文化に引かれた。
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1913年(大正2年)9月、21歳で網走を訪ねた米村は網走川河口近くを散歩中、砂丘の断面で貝殻の層の堆積を見つけた。
棒の先でそっと崩すと、貝殻や骨角器、土器片などが出てきた。
米村は、落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせながらさらに調べた。
土器片には、縄文・弥生式土器とは異なる文様があった。
新発見を確信した米村は、遺跡の近くに理髪店を構え、仕事の合間に貝塚へ日参して、徹底して調べた。
店の2階は、土器、石器、人骨など多数の出土品の収蔵庫になった。
国の史跡となった1936年(昭和11年)、出土品を中心に「郷土館」(のちに「網走市郷土博物館」)が設立された。
米村は10年後に館長に就任した。
米村の孫で現在の館長・衛さんは「祖父は自慢めいた話は一切しませんでした」と振り返る。
米村は、普段の生活でも辞書をよく手にする勉強家だった。
明治大学で考古学を専攻した衛さんは、教授から「君のおじいさんに大変世話になった」と聞かされ、その功績を改めて実感したという。
・貝塚発見から100年の今年、郷土博物館の文官
異彩放つ魅力知って・・オホーツク観光連盟伊藤正則氏
米村さんがモヨロ貝塚を発見してから、100年になります。
今も色あせない功績をもっと広く知ってもらいたいと考え、モヨロ貝塚や常呂遺跡(北見市)、白滝遺跡
群(遠軽町)などの古代遺跡群をめぐるバスツアーやスタンプラリーを行っています。
地元のホテルではモヨロ貝塚から出土した土器のレプリカを展示しているところもあります。
オホーツク文化は日本にもともとあったのではなく、北方から移って来た人々が築いた文化ですから、生彩を放っている。
その点が魅力です。
多くの人にその歴史を探ってほしいですね。
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「モヨロ貝塚館」HP
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モヨロ貝塚は、北海道網走市北1条東から北3条東にかけてあるオホーツク文化の代表的遺跡である。
網走川河口左岸、オホーツク海のそばに位置する。
国の史跡に指定されている(指定名称は最寄貝塚)。
本貝塚名は、当時のアイヌ人がモヨロ・コタンと呼んでいたことから、1918年(大正7年)米村によって付けられた。モヨロは「入江の内、あるいは所」という意味。
本貝塚は、網走川河口の左岸(北岸)にあり、標高5メートルの砂丘台地に立地する。
編年的に日本の縄文時代晩期に並行する時期から住居が作られ、続縄文時代が続いた。
さらにオホーツク文化に変わっても集落が営まれた。
住居は竪穴式で、死者は貝塚に埋葬された。
オホーツク文化の大型住居には、海獣、ヒグマなどの骨が丁寧に並べられていた。
貝塚からは屈葬された人骨が多数見つかった。
多数出土した物には骨角器、土器、石器があり、また本州で制作されたとみられる鉄の刀(直刀・蕨手刀・毛抜形太刀など)や鉾、大陸から持ち込まれたとみられる青銅の鈴などがあった。
土器や骨角器にはクジラ・イルカ、クマの彫刻が見られる。
牙で熊など動物をかたどった像があり、中には優れた造形の牙製女性像もある。
道具類の比重から海獣の狩猟に重点があったと推測されている。
発掘史
1913年(大正2年)に網走を訪れた青森のアマチュアの考古学研究者米村喜男衛(よねむらきおえ)が発見し、学界に報告した。
発見した土器から縄文文化ともアイヌ文化とも異なる文化の存在を知った米村は、網走に住むことを決めて米村理髪店を開業し、傍らで遺跡の調査と研究に携わった。
大正時代には、この遺跡の文化が北方的な独特のものであるということ以上はわからなかった。
1933年(昭和8年)に、オホーツク海の南沿岸に広がるオホーツク沿岸文化が、同時代の北海道の文化と別個のものとみなされるようになった。
今日いうオホーツク文化である。
遺物を保存・展示するために、1936年(昭和11年)に網走に北見郷土館(現網走市立郷土博物館)が建てられた。
モヨロ貝塚は同年12月16日に国の史跡に指定された。
1941年(昭和16年)、1942年(昭和17年)、海軍施設建設のため遺跡の一部が破壊され、緊急発掘を受けた。
100体を超える人骨と多量の土器、石器、骨角器、金属器などが出土した。
北海道大学医学部・大場利夫によって資料報告(『北方文化研究報告』北海道大学・昭和31年および以降)されている。
史跡指定時28軒確認されていた住居址は、このため現在には約20に減った。
戦後、1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)にかけて大規模な調査が実施された。
平成期はじめの発掘で約80基ほどの墓が密集して発見され、また大麦はじめ多くの栽培植物の種子が見つかっている。
現況
遺跡はモヨロ貝塚館を中心にした公園として整備されている。
北見郷土館の後進である網走市立郷土博物館にも展示がある。
2003年(平成15年)と2004年(平成16年)に発掘が行われ、土製のクマ像など多数の遺物が見つかった。
2013年5月、改装されたモヨロ貝塚館が開館。
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「丸木舟の記憶・・北海道のフゴッペ洞窟」
「アザラシを食う人と人を食うアザラシの精霊による祭・・「熊から王へ(6)」
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などあります。(重複しています)
私もアイヌやネイティブ文化、古代文明が大好きです。
こういうのは遺伝子がそうさせるのだろうと思っております。
なんとなくですが、管理人さまはわたしと同じ目的を持っている方のような気がしたのでコメントさせていただきました。
最近興味深い体験をしまして、完全にインスピレーションにまかせてHPを更新していますので、よろしかったら訪問していただければと思います。
由さま
はじめまして。
読んでくださり、コメントをくださり、HPをご紹介くださり、どうもありがとうございました。
由さまのHP、拝見させていただきました。
とてもすてきですね。
私も、そういった関係の記事を、もう少しアップしたいと思いつつ、塩漬けにしたままになっています。
ほんとうに、こういうのはDNAがさせているのでしょうね。
ブログの意図を共感していただけて、うれしいです。
気長におつきあいいただければ、幸いです。