ホトケの顔も三度まで

ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ

おちんちん

2015年12月18日 15時41分30秒 | 雑記
父親と娘とのあいだに築かれる関係は基本的にセクシャルな感覚にもとづくものである。自分に娘ができて、彼女のことを観察するうちに私はいくつかの発見をしたが、これもそのうちのひとつだった。私が自分の娘にのぞむことは、美しい女になってほしいということである。ゴリラの研究者になってアフリカの森で野外活動をしてほしいが、それはまず、美しい女になるということが前提にある。ゴリラの研究者になるならジェーン・グドールみたいにならないと意味がない。ジェーン・グドールはチンパンジーだけど、でも娘には不細工なゴリラの研究者にはならないでほしい。なぜなら不細工なゴリラの研究者はゴリラに間違われる可能性があるからだ。いやちがう。そうではない。私の娘のお尻には黒いあざがあり、私は娘が四歳になったらそれをレーザー手術で取り除いてあげたいと思う。だが、それはたぶん初めてセックスする男がそのあざを見て、私の娘に対して少し幻滅をいだくだろうからであり、私はそのわずかな幻滅を、私の娘とはじめてセックスする男から取り除いてあげたいのである。そんなセクシャルな感覚が、すべての父と娘との関係の根底にはながれている。

グリーンランドに出発する前、娘は一歳になったばかりで言葉もほとんど話すことができなかった。そのとき、お風呂に入れるのは私の役目だったが、娘は私のおちんちんを見ては、その存在に気がつかないふりをしていた。見てはならないもの、気まずいものを見たような顔をしていた。何かが目の前にあるが、それを口にしてはいけないという配慮が、彼女の意識には働いていた。当然だが、娘は私以外の男の裸をまだ見たことがなかった。このときはまだ、児童館のお友達のおちんちんも見たことがなかったろうから、私のおちんちん以外に、生き物のグロテスクさを露出させる肉体器官を目にする機会はなかったのである。そのグロテスクさにまだ一歳三カ月だった娘は敏感にタブーの存在をかぎとっていた。彼女が人類普遍の禁忌に触れた最初の瞬間である。

ところがグリーンランドから帰国すると事情は変わっていた。帰国後はじめてお風呂にはいっていたとき、すでにかなり発語の能力が高まっていた彼女は、私の、すっかり忘れていたおちんちんを見て、「おとうちゃん、これ、何?」と訊ねてきた。私はどぎまぎした。生まれてこのかた、自分の性器を指さされて、これ何? と訊かれたことはなかったのだ。不用意に情けなくぶら下がっている私の性器。その質問は私の存在そのものに疑問をなげかけているに等しかった。

これ何? このグロテスクな肉組織は何? このグロテスクな肉組織をあなたは何のためにぶら下げているの? これ必要なの? あなたは何のために生きているの? 

私は自我が根本から揺らぐのをかんじた。「おちんちんじゃないかぁー」と答えをはぐらかすよりほかなかった。同時に彼女はすでに比較対象物を得ていて、私のおちんちんに異質な何かを感じとったのだろうか、と思った。すでに禁忌に慣れ始めていたのだろうか。彼女は友人のしんちゃんのおちんちんをすでに見ているので、そのしんちゃんのおちんちんと私のおちんちんの形状と印象に断絶があるのを察知し、ついそうした無遠慮な質問に及んだというのだろうか……。

私の答えに納得したのか、それ以来、彼女は私の性器に特に疑問をもった様子はみせなかった。ところが昨日、彼女は、私の性器が周囲の空間から浮いていること、表面の皺とか黒光りしている感じがあまりに生々しく、お風呂のすべすべとした空間にうまく溶け込んでおらず突出して不自然であることに改めて疑問をもったらしく、突然、まじまじと見つめた後、おもむろに人差し指で指さして、きわめて斬新な指摘をした。

「おとうちゃん、おちんちん、痛そうだね」

おお! どうやら娘の目にはずっと私のおちんちんは痛そうなものにとして映っていたようである。包皮からズルムケになり内部の肉組織があられもなく露出した私の海綿体は、赤く、紫がかっていて、外界の刺激から保護する殻や膜におおわれておらず、とても敏感そうに見えたようなのだ。空気に触れるだけで身悶えしてしまいそうなほどに……。

「いたくないよ、どちらかといえば気持ちがいいんだよ」

とは、もちろん言わなかった。私は娘の言葉のみずみずしさと感受性の豊かさにすこし満足した。さらに娘はこう付け加えた。

「おとうちゃん、おちんちん、小さいね」

こうして彼女は私の性器の小ささを指摘した女性の最年少記録を更新した。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする