先日放送された『BSマンガ夜話』であずまきよひこの『よつばと!』が取り上げられた。番組中、漫画家のいしかわじゅんが、『よつばと!』の前作にあたる『あずまんが大王』について「一部の人たちの間で盛り上がっていたけれどもどこが面白いのか分からなかった」といった趣旨のコメントをした。また、マンガ評論家の夏目房之介も『あずまんが大王』について「評価していなかったが、一部で受けるだろうということは分かった」といった趣旨のコメントをした。
単純にマンガ史的に見た場合、『あずまんが大王』は一部の読者に支持されただけの作品に過ぎないだろう。マンガという観点からのみの視線であれば、いしかわや夏目の評価は肯けるところだ。
しかし、『あずまんが大王』は確実に時代のエポックとなった作品でもあった。マンガとしては『あずまんが大王』よりも『よつばと!』が優れているとしても、時代に対して与えた影響力は遥かに『あずまんが大王』が凌駕している。
「萌え」の概念はWikipediaによると「1980年代後半から1990年代初頭頃に成立した説が有力」ということだが、現実にある程度広まったのは2000年前後からと言われる。
『あずまんが大王』は1999年から2002年にかけて連載された。まさに『あずまんが大王』は「萌え」の概念を広めたマンガだったと言える。
4コママンガにおいても、『あずまんが大王』のヒットを契機に萌え4コマと呼ばれるものが増え始めた。だが、『あずまんが大王』の影響は単に4コママンガの世界だけに留まらず、様々なオタク文化へと普及した。
『あずまんが大王』という作品はマンガの表現技法としてなんら斬新な切り口を見せていない。とりあげたテーマもストーリーもごく平凡である。キャラクターの造型も決して深いものではない。それでも凡百のマンガにない魅力を持っていた。
その魅力は既存の言葉では評価できなかった。当時一部の人だけが使用していた「萌え」という言葉を除いて。
逆に言えば、当時一部の人たちが抱いていた「萌え」の要素を4コママンガという表現手法に定着させることに成功した最初の作品だったともみなすことができるだろう。
1978年から連載された『翔んだカップル』が少年マンガにラブコメを取り入れた元祖と言われるが、この作品は青春マンガ化していく。同じ年に連載開始された『うる星やつら』は連載が続くにつれてラブコメ化していく。
1981年にスタートした『タッチ』とともに『うる星やつら』はラブコメの定番と看做されるようになるが、その構造は異なる。『翔んだカップル』や『タッチ』ではあくまでも主人公とヒロインの関係が軸にあり、その周囲に様々なキャラクターが配置されて物語は進んでいく。それに対して、『うる星やつら』は主人公の周囲にたくさんの美少女キャラクターが配置され、メインヒロインはそのなかの一人に過ぎない。この構造はアニメ版でより顕著になってくる。
『うる星やつら』は日常の中に非日常が越境することを許した点でエポックと呼べる作品だ。今では当たり前になっているが、日常生活の中に宇宙人や幽霊などがいても驚かなくていいということが発見された。
それと同時に、『うる星やつら』は女性キャラクターのバリエーションが非常に多彩で、女性キャラクターの展覧会的な作品でもあった。
これらをより鮮明に打ち出した作品がOVA『天地無用!魎皇鬼』(1992年)だった。主人公・天地の周りに多彩な女性キャラクターが集まり、一緒に暮らす展開となる。「ハーレム系アニメ」の元祖と呼ばれ、1988年連載開始の『ああっ女神さまっ』とともに新たな流れを作り出した。
1992年は複数の美少女を育成するシミュレーション『卒業~Graduation~』、複数のヒロインとのシナリオを楽しむ『同級生』が発売され、1994年には『ときめきメモリアル』が大ヒットし、美少女ゲームの構図が確立する。主人公の周囲に複数の美少女が配置される構図は「ハーレム系アニメ」と同様の形となっている。
以前、『AskJohnふぁんくらぶ』においてジョンの回答の中に、『あずまんが大王』は「ハーレム系アニメ」から主人公(男)を取り去ったものだといった指摘がなされた。
「ハーレム系アニメ」ではヒロインたちは当初は主人公との関係性のみで成り立っていたが、ヒロインの魅力を増すためにキャラクターを立てていくと、ヒロインたち同士のやり取りも楽しめるし、それが更にヒロインの魅力を補強していく。
『天地無用!魎皇鬼』のOVAなどでイラストやパロディマンガを描いていたあずまきよひこがそれに「気づいた」ことは必然であろう。
『あずまんが大王』やそれに連なる「萌え系」作品に恋愛要素が希薄なのは、本来ヒロインが恋愛対象となるべき主人公が作品から意図的に排除されているがゆえだ。
更に主人公を排除するということは、物語も排除することに他ならない。極論すればそこに残るのはエピソードを鑑賞するという視点のみだ。
最近の『らき☆すた』なども、キャラクターは鑑賞するための存在であって感情移入する対象ではないというコンテキストが前提となっている。
あずまきよひこは、まだぼんやりしたものだった「萌え」という概念を作品に定着させる手法を編み出した。それは物語性を意図的に弱めることだったとも言える。「萌え」に必要なものは物語性ではなくエピソード性である。キャラクターに物語を進めるための役割付けをするのではなく、エピソードの積み重ねのみでキャラクターを形作る。もちろん『あずまんが大王』に物語性が皆無ということはない。しかし、意図的に物語性を弱め、必要最小限に留めている。
物語はポストモダンの思想によってその存在意義が失われた。しかし、それでも物語は強く支持されていた。日本でそれを明確に打ち壊したものは『新世紀エヴァンゲリオン』である。阪神大震災やオウム事件の起きた1995年、社会現象と言われるまでに広まった。
失敗してもそれを乗り越え何かを獲得するといった物語性を、特に終盤に次々と否定してみせた。世紀末という時代の空気の中で、大きな物語が失われていることを視聴者に突きつけてみせた。
2000年PS用ゲーム『高機動幻想ガンパレード・マーチ』で主人公による周囲へのコミュニケーションだけが世界を変える力となるという「エヴァ」への一種の回答がなされた。これは、主人公不在の世界ではもはや何も変わらないと読み替えることもできる。
最近のアニメでは、『シムーン』のような世界の変革を扱った作品もあるにはあるがごく少数だ。物語性の喪失を受け入れたり、物語に懐疑を抱いて、非物語性の作品が増えている。その受け皿として「萌え」がある。
もちろん「萌え」が売れるがゆえに数多くの「萌え」系の作品が作られているのも事実だ。ただ飽和状態となった現在、ただ「萌え」だけを売りにしても難しいのも事実だろう。
『よつばと!』は物語性を排除するのはそのままに、更に一般層へ向けた切り口で作られている。無敵の5歳児よつばを鑑賞するマンガだ。楽しませるための仕掛けに凝っているがゆえに批評家の評価が高いが、本質は『あずまんが大王』と変わっているようには見えない。
最近『BSマンガ夜話』でマンガを読むリテラシーという言葉がよく使われている。マンガ表現が高度になり、それを読むにはそれなりの力が必要となっている。その力がリテラシーだ。
『あずまんが大王』を理解するにもリテラシーが必要だ。それはマンガ読みとは別種のものだ。いしかわや夏目がそのリテラシーがなかったというのは仕方ないが、オタキングを名乗った岡田斗司夫が『あずまんが大王』を語らなかったのは残念と言うべきか、或いは……。
アニメ、マンガ、ゲームといったオタク系サブカルチャーは、近年勢いを失いつつある。コアなファンには受け入れられても大衆受けする作品が現れなくなってしまった。高度なリテラシーが必要なものが増え、初心者が敬遠する傾向も強くなっている。『BSマンガ夜話』でいしかわじゅんが、最近はマンガを読む力が無くてライトノベルに読者が流れていると発言していたが、ライトノベルもまたリテラシーが必要な作品が多々ある。
『よつばと!』は大衆受けを狙った意欲作ではあるし、ある程度その試みは成功した。ただオタク系サブカルチャーに限らず趣味が細分化されてしまい、どのジャンルでも国民的大ヒットというものが成立しにくくなった。『よつばと!』は『あずまんが大王』のような追随者を生み出すことはほとんどないだろう。その意味ではあずまきよひこの才能が顕在化させた作品と言える。
エヴァ以後に生まれた類型として有名なのは「セカイ系」だ。Wikipediaに記載している「狭義のセカイ系」「広義のセカイ系」に書かれている作品群のうちいくつかは目にしているが、正直ピンと来ない。
一方「セカイ系」ほど認知されていないが、「空気系」という類型があり、こちらの方がしっくりくる。
「萌え」の要素の有無に関わらず、客観的な視点から描かれ、物語性を極力排除し、エピソードの積み重ねを重視した作品群と定義できるだろう。「空気系」アニメの代表作のひとつ『ARIA』シリーズは、主人公・灯里の成長が軸にあるので物語性が皆無ではないが、日常の描写を丹念に行い、物語性はギリギリまで削られている。簡単に言えば、話数をバラバラに見てもほとんど違和感がない作りと言えるだろう。それをそのまま実行しているのが『ひだまりスケッチ』であり、基本的に1年間のエピソードを日付をバラバラに放送している。
『BSマンガ夜話』で『あずまんが大王』を評価しなかったことに端を発してこれを書いたわけだが、「萌え」が批評しにくいせいか『あずまんが大王』への評価もネット上であまり見られない感じだった(そんなに詳しく調べたわけではないが)。マンガ的観点はともかく、日本のサブカルチャー的観点ではやはり特別な存在だったと思う。
ただフォロアーは続々と現れたが、この作品以降インパクトを与える作品が非常に少なく、2000年代のオタク文化は非常に捉えづらくなっている。アニメ、マンガ、ゲームにライトノベルなどを含めて、危機感はあると思うが、問題はそれぞれ個別の事情のため、一緒くたにするのもまずそうだ。
『あずまんが大王』の評価は自分なりにはできたつもりだが、書き切れない部分も少なくない。物語性排除への評価が定まってないといった事情もある。物語が力を失っても世界は続いている。世界を無条件で受け入れて笑っていられるのならいいが、私の知る世界はとてもそんなものではない。もちろんいきなり世界を変革してしまうという非現実的な世界観は受け入れがたいが、60億分の1の力は誰もが持っていると思う。その数字に絶望するのは勝手だけれど。
単純にマンガ史的に見た場合、『あずまんが大王』は一部の読者に支持されただけの作品に過ぎないだろう。マンガという観点からのみの視線であれば、いしかわや夏目の評価は肯けるところだ。
しかし、『あずまんが大王』は確実に時代のエポックとなった作品でもあった。マンガとしては『あずまんが大王』よりも『よつばと!』が優れているとしても、時代に対して与えた影響力は遥かに『あずまんが大王』が凌駕している。
「萌え」の概念はWikipediaによると「1980年代後半から1990年代初頭頃に成立した説が有力」ということだが、現実にある程度広まったのは2000年前後からと言われる。
『あずまんが大王』は1999年から2002年にかけて連載された。まさに『あずまんが大王』は「萌え」の概念を広めたマンガだったと言える。
4コママンガにおいても、『あずまんが大王』のヒットを契機に萌え4コマと呼ばれるものが増え始めた。だが、『あずまんが大王』の影響は単に4コママンガの世界だけに留まらず、様々なオタク文化へと普及した。
『あずまんが大王』という作品はマンガの表現技法としてなんら斬新な切り口を見せていない。とりあげたテーマもストーリーもごく平凡である。キャラクターの造型も決して深いものではない。それでも凡百のマンガにない魅力を持っていた。
その魅力は既存の言葉では評価できなかった。当時一部の人だけが使用していた「萌え」という言葉を除いて。
逆に言えば、当時一部の人たちが抱いていた「萌え」の要素を4コママンガという表現手法に定着させることに成功した最初の作品だったともみなすことができるだろう。
1978年から連載された『翔んだカップル』が少年マンガにラブコメを取り入れた元祖と言われるが、この作品は青春マンガ化していく。同じ年に連載開始された『うる星やつら』は連載が続くにつれてラブコメ化していく。
1981年にスタートした『タッチ』とともに『うる星やつら』はラブコメの定番と看做されるようになるが、その構造は異なる。『翔んだカップル』や『タッチ』ではあくまでも主人公とヒロインの関係が軸にあり、その周囲に様々なキャラクターが配置されて物語は進んでいく。それに対して、『うる星やつら』は主人公の周囲にたくさんの美少女キャラクターが配置され、メインヒロインはそのなかの一人に過ぎない。この構造はアニメ版でより顕著になってくる。
『うる星やつら』は日常の中に非日常が越境することを許した点でエポックと呼べる作品だ。今では当たり前になっているが、日常生活の中に宇宙人や幽霊などがいても驚かなくていいということが発見された。
それと同時に、『うる星やつら』は女性キャラクターのバリエーションが非常に多彩で、女性キャラクターの展覧会的な作品でもあった。
これらをより鮮明に打ち出した作品がOVA『天地無用!魎皇鬼』(1992年)だった。主人公・天地の周りに多彩な女性キャラクターが集まり、一緒に暮らす展開となる。「ハーレム系アニメ」の元祖と呼ばれ、1988年連載開始の『ああっ女神さまっ』とともに新たな流れを作り出した。
1992年は複数の美少女を育成するシミュレーション『卒業~Graduation~』、複数のヒロインとのシナリオを楽しむ『同級生』が発売され、1994年には『ときめきメモリアル』が大ヒットし、美少女ゲームの構図が確立する。主人公の周囲に複数の美少女が配置される構図は「ハーレム系アニメ」と同様の形となっている。
以前、『AskJohnふぁんくらぶ』においてジョンの回答の中に、『あずまんが大王』は「ハーレム系アニメ」から主人公(男)を取り去ったものだといった指摘がなされた。
「ハーレム系アニメ」ではヒロインたちは当初は主人公との関係性のみで成り立っていたが、ヒロインの魅力を増すためにキャラクターを立てていくと、ヒロインたち同士のやり取りも楽しめるし、それが更にヒロインの魅力を補強していく。
『天地無用!魎皇鬼』のOVAなどでイラストやパロディマンガを描いていたあずまきよひこがそれに「気づいた」ことは必然であろう。
『あずまんが大王』やそれに連なる「萌え系」作品に恋愛要素が希薄なのは、本来ヒロインが恋愛対象となるべき主人公が作品から意図的に排除されているがゆえだ。
更に主人公を排除するということは、物語も排除することに他ならない。極論すればそこに残るのはエピソードを鑑賞するという視点のみだ。
最近の『らき☆すた』なども、キャラクターは鑑賞するための存在であって感情移入する対象ではないというコンテキストが前提となっている。
あずまきよひこは、まだぼんやりしたものだった「萌え」という概念を作品に定着させる手法を編み出した。それは物語性を意図的に弱めることだったとも言える。「萌え」に必要なものは物語性ではなくエピソード性である。キャラクターに物語を進めるための役割付けをするのではなく、エピソードの積み重ねのみでキャラクターを形作る。もちろん『あずまんが大王』に物語性が皆無ということはない。しかし、意図的に物語性を弱め、必要最小限に留めている。
物語はポストモダンの思想によってその存在意義が失われた。しかし、それでも物語は強く支持されていた。日本でそれを明確に打ち壊したものは『新世紀エヴァンゲリオン』である。阪神大震災やオウム事件の起きた1995年、社会現象と言われるまでに広まった。
失敗してもそれを乗り越え何かを獲得するといった物語性を、特に終盤に次々と否定してみせた。世紀末という時代の空気の中で、大きな物語が失われていることを視聴者に突きつけてみせた。
2000年PS用ゲーム『高機動幻想ガンパレード・マーチ』で主人公による周囲へのコミュニケーションだけが世界を変える力となるという「エヴァ」への一種の回答がなされた。これは、主人公不在の世界ではもはや何も変わらないと読み替えることもできる。
最近のアニメでは、『シムーン』のような世界の変革を扱った作品もあるにはあるがごく少数だ。物語性の喪失を受け入れたり、物語に懐疑を抱いて、非物語性の作品が増えている。その受け皿として「萌え」がある。
もちろん「萌え」が売れるがゆえに数多くの「萌え」系の作品が作られているのも事実だ。ただ飽和状態となった現在、ただ「萌え」だけを売りにしても難しいのも事実だろう。
『よつばと!』は物語性を排除するのはそのままに、更に一般層へ向けた切り口で作られている。無敵の5歳児よつばを鑑賞するマンガだ。楽しませるための仕掛けに凝っているがゆえに批評家の評価が高いが、本質は『あずまんが大王』と変わっているようには見えない。
最近『BSマンガ夜話』でマンガを読むリテラシーという言葉がよく使われている。マンガ表現が高度になり、それを読むにはそれなりの力が必要となっている。その力がリテラシーだ。
『あずまんが大王』を理解するにもリテラシーが必要だ。それはマンガ読みとは別種のものだ。いしかわや夏目がそのリテラシーがなかったというのは仕方ないが、オタキングを名乗った岡田斗司夫が『あずまんが大王』を語らなかったのは残念と言うべきか、或いは……。
アニメ、マンガ、ゲームといったオタク系サブカルチャーは、近年勢いを失いつつある。コアなファンには受け入れられても大衆受けする作品が現れなくなってしまった。高度なリテラシーが必要なものが増え、初心者が敬遠する傾向も強くなっている。『BSマンガ夜話』でいしかわじゅんが、最近はマンガを読む力が無くてライトノベルに読者が流れていると発言していたが、ライトノベルもまたリテラシーが必要な作品が多々ある。
『よつばと!』は大衆受けを狙った意欲作ではあるし、ある程度その試みは成功した。ただオタク系サブカルチャーに限らず趣味が細分化されてしまい、どのジャンルでも国民的大ヒットというものが成立しにくくなった。『よつばと!』は『あずまんが大王』のような追随者を生み出すことはほとんどないだろう。その意味ではあずまきよひこの才能が顕在化させた作品と言える。
エヴァ以後に生まれた類型として有名なのは「セカイ系」だ。Wikipediaに記載している「狭義のセカイ系」「広義のセカイ系」に書かれている作品群のうちいくつかは目にしているが、正直ピンと来ない。
一方「セカイ系」ほど認知されていないが、「空気系」という類型があり、こちらの方がしっくりくる。
「萌え」の要素の有無に関わらず、客観的な視点から描かれ、物語性を極力排除し、エピソードの積み重ねを重視した作品群と定義できるだろう。「空気系」アニメの代表作のひとつ『ARIA』シリーズは、主人公・灯里の成長が軸にあるので物語性が皆無ではないが、日常の描写を丹念に行い、物語性はギリギリまで削られている。簡単に言えば、話数をバラバラに見てもほとんど違和感がない作りと言えるだろう。それをそのまま実行しているのが『ひだまりスケッチ』であり、基本的に1年間のエピソードを日付をバラバラに放送している。
『BSマンガ夜話』で『あずまんが大王』を評価しなかったことに端を発してこれを書いたわけだが、「萌え」が批評しにくいせいか『あずまんが大王』への評価もネット上であまり見られない感じだった(そんなに詳しく調べたわけではないが)。マンガ的観点はともかく、日本のサブカルチャー的観点ではやはり特別な存在だったと思う。
ただフォロアーは続々と現れたが、この作品以降インパクトを与える作品が非常に少なく、2000年代のオタク文化は非常に捉えづらくなっている。アニメ、マンガ、ゲームにライトノベルなどを含めて、危機感はあると思うが、問題はそれぞれ個別の事情のため、一緒くたにするのもまずそうだ。
『あずまんが大王』の評価は自分なりにはできたつもりだが、書き切れない部分も少なくない。物語性排除への評価が定まってないといった事情もある。物語が力を失っても世界は続いている。世界を無条件で受け入れて笑っていられるのならいいが、私の知る世界はとてもそんなものではない。もちろんいきなり世界を変革してしまうという非現実的な世界観は受け入れがたいが、60億分の1の力は誰もが持っていると思う。その数字に絶望するのは勝手だけれど。