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美しさとは。

2011年09月26日 20時42分55秒 | 創作
昨日の朝日新聞の書評欄でアーシュラ・K・ル=グィンの『いまファンタジーにできること』を福岡伸一が取り上げていた。

ファンタジーは、善悪の違いを教えるだけでなく、むしろ真偽の見え方を教える。それ以上に美醜の基準、フェアネスのありかを示す。


美醜による評価は感覚的なものであり、論理性を欠くものでもある。しかし、同時に人々に訴えかける力を持つものでもある。

美醜による評価は時に誤った判断をもたらすこともある。一方で、その直感性が必要な場面もあるだろう。

美醜の基準を示すものが物語(ファンタジー)の力なのは確かだが、現実に美醜に踏み込んで描く物語は多くはない。すぐれたファンタジーであっても、身近な問題で終わらせたり、既存の常識に寄りかかった判断に基づいたものばかりが目立つ。

そんな中で印象的だったのが、『ログ・ホライズン2 キャメロットの騎士たち』だ。
MMORPGのゲーム内世界と思しき場所へ囚われたプレイヤーたち。「死」こそ存在しないが、無法の状態に陥っていた。主人公は「正義」を振りかざしてではなく、そんな街の状態が「美しくない」から行動に出る。それがあくまでも個人的な感情に過ぎないと自覚しながら。

美醜による評価は地域性歴史性に規定され、個人差も大きい。ある人にとっての美しさが別の人には醜く感じることもある。だから、美醜による評価は行うべきではない、とはならない。
『ログ・ホライズン』での「美しさ」の実行手段は強権による支配に近いものがある。民主主義的手続きからすると相反するものであり、緩やかな独裁に近い。
結果としては「美しい」街の状態を取り戻すことができても、その手法に対して「美しくない」と感じる人もいるだろう。

美醜による評価は感覚的なものであるがゆえに他人と分かり合えないことも少なくない。論理だけで人と人が語り合えるのであればもっと平和な世界となるのかもしれないが、論理だけで成り立たないのが人の世である。

美しさを語ってその美しさに共感してもらう。こんな美しさもあると知ってもらう。認め合える美しさもあれば、認められない美しさもある。恐れずに自分の思う美しさを語り、他人の語る美しさを知ることの繰り返ししかないのかもしれない。分かり合えなくとも。


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