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戦争責任

2005年05月29日 15時25分22秒 | ニュース
外交の一手段であった「戦争」は、第一次世界大戦を契機に「総力戦」化し、その敗北は国家存亡の危機に繋がるものとなった。第二次世界大戦では敗戦国が戦勝国に裁かれ、戦勝国主導でその後の世界の体制が形成された。その後、冷戦下で戦争の形態は変化し、冷戦終了後、更に変化することとなる。
第二次世界大戦敗北国のうち、ドイツ・イタリアが欧州において周辺国と友好的な関係を築いているのとは対照的に、日本は東アジアにおいて過去の清算が十分に為されているとは言い難い状況である。これは、ヨーロッパの成熟した近代国家群とアジアの非近代性を残した国歌群とでは受け入れる土壌が異なるという背景もあるが、日本の姿勢にも問題があることは明白だ。

ドイツと日本の違いを考えた時、最も目に付くのが「戦争責任」の捉え方だ。
よく言われるように、ドイツは第二次世界大戦を引き起こした責任をヒトラー率いるナチスにその全てを負わせた。極論すれば、ドイツ人が悪いのではなくナチスが悪いという構図だ。現実にはナチス台頭を許したのは一般のドイツ人だし、命を懸けてナチスに抵抗したごく一部を除く全てのドイツ人は責任を逃れられないはずだ。だが、ナチスを断罪し、ナチスの行為を二度とあってはならないことと常に明言することで、それがドイツ人の戦争責任の取り方として周辺国のみならず世界全体を納得させた。
つまり、戦争責任は論理性と乖離していても構わないということだ。周辺国や世界の人々が感情的に納得できるかどうかが最も重要なのである。
これは別に戦争に限ったことではない。例えば日ごろ目にする事件・事故でも、犯行を犯した者や事故を引き起こした責任者の謝罪・反省を、被害を受けた人々が受け入れるかどうかは、金銭的な部分を除けば、誠意ある言葉や行動の積み重ねでしかないだろう。JR福知山線脱線事故で死亡した人の遺族と、日中戦争で日本軍に殺された一般市民の遺族にどれだけの違いがあるだろうか。

戦争責任の本質が感情的なものであるならば、全ての人に受け入れられるということはあり得ない。戦争から長い時間が経過しているため、日本側が変化しても、受け手に変化が起きるかどうかは確実でないし、変化があったとしても更に長い時間が必要となるかもしれない。しかし、日本が世界から政治的に認められるためには必ず通らねばならないハードルである。
では、具体的にどう変えていくべきか。ここで鍵となるのが、A級戦犯の取り扱いだ。戦勝国による東京裁判は、公平性正当性において大きな問題をかかえていて、非常に政治的なものだった。サンフランシスコ講和条約で日本はこの結果を受け入れたが、それは日本の国益を優先した九重の決断だった。そうした事実を踏まえて、現在靖国神社の合祀問題を語る政治家や知識人がいるが、その無能ぶりに呆れてしまう。
日本国内ではともかく、周辺国や世界に対して、A級戦犯は戦争責任の象徴として機能していた。戦時下のドイツと日本では政治システムが異なるので、ドイツのようにナチスに罪を負わせることが難しいのは事実だが、A級戦犯の存在はその代用となっていた。何度も言うように、戦争責任の本質は感情的なものだ。正しいかどうかでなく、誰が責任者かはっきりと顔を出すことにより、責任の所在が明確化される。学術的であればともかく、政治的にはA級戦犯の立場を見直すことは困難だ。
日本国内でどれほどA級戦犯とナチスは違うと言っても、それは周辺国や世界の人々には届かない。論理的に説明する努力はもちろん、周辺国国民の感情にも配慮することも大切だ。ブッシュ大統領が世界中から嫌われているやり方を盟友の小泉が真似しているわけでもないだろうが、状況はよく似ている。
問題の靖国神社に限って言えば、A級戦犯を分祀するのが妥当だが、それが無理なら靖国に替わる施設の建設が必要だろう。戦争責任は一切国内の問題ではない。従って靖国は国内問題ではない。「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉を、例えば殺人事件の被害者の遺族に向かって言えるのか。

勤勉性、倫理性、教育水準の高さなどで戦後日本は経済大国となった。しかし、コミュニケーション能力の低さや責任感の欠落などが政治大国化を阻んだ。前者に大きな翳りが見える現状で、後者の重要性が説かれるようにはなったものの、それは果たせてはいない。歴史のダイナミズムの中で、5年後、10年後の世界情勢は想像を越える事態が起きているだろう。それでも、アメリカ頼み、アメリカ一辺倒で日本は立ち行くのか。いま必要なのは、広い視野と先を見抜く視点、そして柔軟な対応力だ。残念ながら日本の政治家の中にこれらを持つものは見当たらない。


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