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【視点】映像流出問題と組織への忠誠義務

2010年11月17日 20時55分57秒 | ニュース
事の発端である、中国漁船の衝突事件の本質は領土問題ではなく密漁事件である。

ロシア、北朝鮮、韓国、中国などの漁船との密漁問題は日常的な出来事であり、海上保安庁の主たる任務のひとつと言える。今回、尖閣諸島という場所で起きたがゆえに外交問題化して、一般の国民にとっては非日常の事件として捉えられた。

その映像を機密扱いにしたのは政府の政治的判断だった。一方、海上保安庁の現場では密漁船の抵抗とその対応という日常業務レベルの意識で当初映像は管理されていたのだろうと推測される。映像を見ることは他の職員にとって参考になると考えられたのではないか。

大臣の指示によって初めて映像の管理が徹底されることとなった。それまでの管理が甘かったという指摘もあるが、事件当初にここまでその映像が重要視されるとは考えにくい。機密扱いした時点で、政府がもっと厳格に対応していれば防げたかもしれないが。

今回の流出は属する組織への忠誠を裏切った行為とは言い難い。むしろ海上保安庁の活動を広く知ってもらいたいという思いが流出に及んだと考えられる。

この問題に対して、一国家公務員が個人の判断でルールを破ったことは危険だといった意見がある。たとえ大義があるとしても、法を遵守するのは当然であり、ひとりひとりが自分勝手に行動しては組織が成り立たない。
国家公務員は一般の国民以上に国家への忠誠義務がある。今回の件をクーデターと評した政治家もいる。

今回の流出問題に対してではなく、一般論として述べるが、国家公務員に限らず所属する組織への忠誠が最上級の義務とする考えには同意できない。
国家への忠誠より上位に国民への奉仕がなければならない。

国民への奉仕という言葉は大仰かもしれないが、公務員に限らず、企業などに勤める人にとっても属する組織への忠誠より上位に、様々な立場の人々に向けた視点が必要とされる。

例えば、薬害エイズ問題で、当時の厚生省の官僚がもっと早く声を上げていれば助かった命があったかもしれない。企業でもちょっとした不正や怠慢が人々を傷つけることがある。それに気付いても組織への忠誠を優先させて声を上げられないことは珍しくない。

確かに、ひとりひとりが自分勝手に行動しては組織は成り立たない。しかし、組織に対してどんな時も従えばいいというわけではない。

東京裁判で多くの戦犯が裁かれたが、そこで問われたのは国家や軍の指示に盲目的に従った点であった。組織への忠誠は時に美学と見なされることもあるが、それが危険を孕むことは常に意識されるべきだろう。
今回の問題に対してはともかく、個人の判断でルールを破ることが、いついかなる時にもあってはならないという意見には同意できない。

不正を暴くという内容ではないだけに、今回の場合は評価は難しい。法的道義的責任は問われなければならない。だが、映像を見ることができたのは国民にとって有意義だったのも間違いない。情報管理の甘さが露呈するなど国益にとってはマイナスな面が強いが、中国漁船の無謀さを広くアピールすることはできた。

非公開という政治判断の是非と国民の利益を慎重に検証して、流出問題の評価を下すべきだろう。
そして、組織への忠誠を越える行動規範のあり方は常に考えられなければならない。国家や場当たり的なマスメディアに任せることなく、いかにコンセンサスを作り上げていくか。この問題がその契機となるかどうかに注目している。


衆愚

2005年09月12日 17時38分54秒 | ニュース
一般大衆は愚かだ。
それは責められるべきものではないかもしれない。日々の生活の中で政治は遠く、日常に忙殺されながら深い思索を求めるのは酷。それは決して日本だけの話ではない。むしろ政治が身近である世界は、厳しく、生き難いとも言える。

柔らかいモノばかり食べていると噛む力が弱まるように、分かりやすさを求める社会は考える力が衰えていく。分かりやすい事の危険は以前から指摘していたが、この世にある複雑な事、難解な事、繁雑な事、微細な事をすべて拭い去り、単純化することでいかに様々な物事が切り捨てられていくのか。

新聞では、この与党の大勝に「奢るな」と幾度となく書かれている。圧倒的数の力が今後4年続く状況で、そんな事しか言うことができない。郵政民営化は国民の望むように進んでいくだろうが、その他の政策は与党の望むように進んでいくだろう。

一方、凋落した民主党は、あまりに愚かな戦い方を展開した。分かりやすくしろと言うのではなく、それ以前の伝える努力に難があった。与党を目指すにはより具体的な政策を次々と打ち出す必要があっただろう。ともあれ、今の民主党は解党した方がいいのかもしれない。目指す国家の形が党員内でかけ離れている現状は、常に弱みとしてあり続けているから。

愚かかどうかはともかく、国民はこの結果のツケを払う必要がある。改革を叫びながら、郵政以外はおざなりだった小泉。郵政以外で何をどう変えていくのか。これほど長く総理の座にいながら、彼の目指す国家像は見えない。


戦争責任

2005年05月29日 15時25分22秒 | ニュース
外交の一手段であった「戦争」は、第一次世界大戦を契機に「総力戦」化し、その敗北は国家存亡の危機に繋がるものとなった。第二次世界大戦では敗戦国が戦勝国に裁かれ、戦勝国主導でその後の世界の体制が形成された。その後、冷戦下で戦争の形態は変化し、冷戦終了後、更に変化することとなる。
第二次世界大戦敗北国のうち、ドイツ・イタリアが欧州において周辺国と友好的な関係を築いているのとは対照的に、日本は東アジアにおいて過去の清算が十分に為されているとは言い難い状況である。これは、ヨーロッパの成熟した近代国家群とアジアの非近代性を残した国歌群とでは受け入れる土壌が異なるという背景もあるが、日本の姿勢にも問題があることは明白だ。

ドイツと日本の違いを考えた時、最も目に付くのが「戦争責任」の捉え方だ。
よく言われるように、ドイツは第二次世界大戦を引き起こした責任をヒトラー率いるナチスにその全てを負わせた。極論すれば、ドイツ人が悪いのではなくナチスが悪いという構図だ。現実にはナチス台頭を許したのは一般のドイツ人だし、命を懸けてナチスに抵抗したごく一部を除く全てのドイツ人は責任を逃れられないはずだ。だが、ナチスを断罪し、ナチスの行為を二度とあってはならないことと常に明言することで、それがドイツ人の戦争責任の取り方として周辺国のみならず世界全体を納得させた。
つまり、戦争責任は論理性と乖離していても構わないということだ。周辺国や世界の人々が感情的に納得できるかどうかが最も重要なのである。
これは別に戦争に限ったことではない。例えば日ごろ目にする事件・事故でも、犯行を犯した者や事故を引き起こした責任者の謝罪・反省を、被害を受けた人々が受け入れるかどうかは、金銭的な部分を除けば、誠意ある言葉や行動の積み重ねでしかないだろう。JR福知山線脱線事故で死亡した人の遺族と、日中戦争で日本軍に殺された一般市民の遺族にどれだけの違いがあるだろうか。

戦争責任の本質が感情的なものであるならば、全ての人に受け入れられるということはあり得ない。戦争から長い時間が経過しているため、日本側が変化しても、受け手に変化が起きるかどうかは確実でないし、変化があったとしても更に長い時間が必要となるかもしれない。しかし、日本が世界から政治的に認められるためには必ず通らねばならないハードルである。
では、具体的にどう変えていくべきか。ここで鍵となるのが、A級戦犯の取り扱いだ。戦勝国による東京裁判は、公平性正当性において大きな問題をかかえていて、非常に政治的なものだった。サンフランシスコ講和条約で日本はこの結果を受け入れたが、それは日本の国益を優先した九重の決断だった。そうした事実を踏まえて、現在靖国神社の合祀問題を語る政治家や知識人がいるが、その無能ぶりに呆れてしまう。
日本国内ではともかく、周辺国や世界に対して、A級戦犯は戦争責任の象徴として機能していた。戦時下のドイツと日本では政治システムが異なるので、ドイツのようにナチスに罪を負わせることが難しいのは事実だが、A級戦犯の存在はその代用となっていた。何度も言うように、戦争責任の本質は感情的なものだ。正しいかどうかでなく、誰が責任者かはっきりと顔を出すことにより、責任の所在が明確化される。学術的であればともかく、政治的にはA級戦犯の立場を見直すことは困難だ。
日本国内でどれほどA級戦犯とナチスは違うと言っても、それは周辺国や世界の人々には届かない。論理的に説明する努力はもちろん、周辺国国民の感情にも配慮することも大切だ。ブッシュ大統領が世界中から嫌われているやり方を盟友の小泉が真似しているわけでもないだろうが、状況はよく似ている。
問題の靖国神社に限って言えば、A級戦犯を分祀するのが妥当だが、それが無理なら靖国に替わる施設の建設が必要だろう。戦争責任は一切国内の問題ではない。従って靖国は国内問題ではない。「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉を、例えば殺人事件の被害者の遺族に向かって言えるのか。

勤勉性、倫理性、教育水準の高さなどで戦後日本は経済大国となった。しかし、コミュニケーション能力の低さや責任感の欠落などが政治大国化を阻んだ。前者に大きな翳りが見える現状で、後者の重要性が説かれるようにはなったものの、それは果たせてはいない。歴史のダイナミズムの中で、5年後、10年後の世界情勢は想像を越える事態が起きているだろう。それでも、アメリカ頼み、アメリカ一辺倒で日本は立ち行くのか。いま必要なのは、広い視野と先を見抜く視点、そして柔軟な対応力だ。残念ながら日本の政治家の中にこれらを持つものは見当たらない。


福知山線列車脱線事故

2005年05月02日 16時11分38秒 | ニュース
事故発生から一週間。
福知山線は利用することはなかったが、近隣エリアであり、親戚の子があの列車の1本前に乗っていたという話も聞いて、より身近に、より深い衝撃を受けた。悲惨な現場の映像や、肉親を失くした人々の痛ましい姿を見るたびに、なぜこのような悲劇が生じたかという怒りと悲しみが沸き起こる。

各種報道などにより、事故の経緯はかなり明らかになった。それにより、JR西日本の責任の大きさが如実となった。

人はミスを犯す。これは絶対に避けられない事実だ。ヒューマンエラーを無くすことはできないし、事故は起きる。その前提を無視してはならない。大切なことは、その可能性を限りなく小さくしていく努力であり、それが十分に行われていなかったが故の大惨事であった。

どのような職種においてもミスは起きないほうがいいだろうが、とりわけ人命を預かったり(医師、運転士など)、社会的に重要な役割を担ってる(警察官、教師)ような職業に就く場合、資格と適性が問われることとなる。ミスが起きる土壌の最大の要因は技術力の不足であり、その点については国家試験という形で対応している。しかし、当然ながら、試験に合格したから十分な技術があるというわけでなく、更に日々の職務の中での向上がなければ、ミスを減らすことはできない。そうした部分が適性の有無ということになる。
今回の事故の場合、運転士の適性に果たして問題がなかったのか。3度の処分が他の運転士との比較で多いか少ないかは分からないが、かなり疑問が残ると言わざるをえないだろう。

たとえ技術と適性があったとしても、人はミスを犯す。特に肉体的精神的に負担が大きい場合ミスが起きやすい。通常の健康診断だけではそれら全てをチェックできないだろう。更に精神的な面はなかなか外部からでは計り知れない。勤務形態や人間関係、ノルマの存在など負担がかかる要素は多い。もちろん、そうした負担を全て排除はできない。またミスに厳罰を与えることが単純に悪いとは言い切れない。ミスの度合いに応じた適正な処分が行われなければならない。重すぎれば萎縮し、軽すぎればミスを軽視しがちになる。
今回の事故の場合、直前の伊丹駅でオーバーランを起こしている。前夜も夜11時まで運転していたようで、その影響はなかったのか。またオーバーランの距離に関して虚偽の報告を車掌と口裏合わせて行おうとしていたが、それができる環境というのは大いに問題だ。そして、ミスを起こした場合の日勤教育というシステムが、適正な処分として有効に機能していたのかはかなり疑問だ。見せしめ的な意味合いではミスを減らす方向には向かわないだろう。

しかし、どれほど完璧な環境があっても、人はミスを犯す。神様でない人には100%の絶対はありえない。こうしたミスを事故に結び付けないハード面の整備が、日々の技術の進歩によってなされている。ATS列車自動停止装置も旧型ではできなかった速度超過でのブレーキが新型ではできるようになっている。脱線防止ガードは旧国鉄が世界に先駆けて生み出した安全装置だ。通常、ヒューマンエラーの多くは事故に結びつかない。様々なセーフティネットを用意して、それが事故を防いでいるからだ。
だが、今回の事故の場合、新型ATSも脱線防止ガードも設置されていなかった。福知山線は以前はローカル線的なイメージが強かった。それが東西線の開通に伴い、関西の東西を結ぶ重要な路線となり、運行本数も急増した。それなのにハード面はおざなりのままだった。6月に新型ATSを設置する予定だったというが、常識的に考えれば、東西線開通に伴って、そうした安全面の検証が行われるべきだったろう。

そして、どれほど未然に事故を防ごうとしても、事故は起きる。想定外の事は起こりえるし、時には考えられないミスがいくつも重なることもある。もちろん天災など防ぎようもない原因も考えられる。そこで重要となるのは、事故が起きても、それが大事故に繋がらないための安全性の追求となる。自動車であれば、事故を想定し、正面のみならず様々な方向からの衝突にも備えるための実験が行われている。
今回の事故の場合、ひしゃげて折れ曲がった2両目の映像に多くの人が衝撃を受けただろう。正面以外の車両のもろさが広くしらしめられた形だ。経済性を優先し、軽量なボディーになっているが、それが事故を更に大きくしたとも考えられる。路線と建物との距離もあんなに近くて平気なのか。大地震などがあれば、予想外の惨事が起きかねないのではないか。そうした不安も感じてしまう。

人はミスを犯すし、事故を全て無くすことは不可能だ。だが、それを減らすことは可能だし、事故の規模を小さくする努力もできる。
以前にも書いたが、安全にはコストがかかる。それは経済的なものだけではないが、企業の場合特に経済性が重要なファクターとなるだろう。安全にコストをかければ、今回の場合、運賃に跳ね返ってきたかもしれない。そのため安全だけを追求するというのは机上の空論だ。ただ今回は明らかにJR西日本のバランスは利益主導に傾いていた。東西線の開通で運行本数が急増したのに安全面のコストを掛けるのを怠ったのはJR西日本の過失であり、その点は強調されてしかるべきだ。
福知山線は阪急宝塚線との競合路線とはいえ、利用者はそれぞれの事情からどちらに乗るか決まってくる。鉄道は利用者が簡単に選んで利用できるものではない。それだけに安全性に対する鉄道事業者の責任は重い。


青少年への有害情報

2005年02月22日 17時28分57秒 | ニュース
今朝の読売新聞3面に載った、自民党の憲法試案づくりから気になった点を。

「表現の自由」について「青少年の健全育成に悪影響を与える可能性のある有害情報や図書の出版・販売は規制できるようにすべきだ」とある。

これを見て真っ先に思ったことは、最も「青少年の健全育成に悪影響を与える可能性のある有害情報」は国民から選挙で選ばれた人たちが、国会という場で野次や怒号を繰り返す行為なんじゃないかと・・・。もちろん国民から選挙で選ばれた人たちが犯罪行為を犯すなんてもってのほか。こうした行為は青少年のためにならないから報道禁止にした方がいい(笑)。

これは冗談だが、「青少年の健全育成に悪影響を与える可能性のある有害情報や図書」が何を指すのかの線引きは結局のところ恣意的に行われるわけだ。100人中99人に感銘を与える小説でも、残る1人に悪影響を与えたとしたらそれは有害なのか?例えば、昔からマンガ(成人向けでないもの)は子供に悪影響を与えると親たちから言われてきた。現在では日本の誇る文化と呼べるほどの存在だ。ゲームやアニメも似たようなものだろう。

例えばアメリカと比較してみると、表現の自由が日本より緩いように思う人もいるかもしれないが、公の場での表現の自由は日本より遥かに厳しい。昨年のスーパーボウルのハーフタイムショーでジャネット・ジャクソンの胸が露出した事件は、日本では想像できないほどの大問題となった。アルコールの販売はもちろん広告などにも厳しい規制があるし、暴力表現にも敏感だ。これから分かることは、大人と子供の線引きがはっきりしていて、子供の目に触れる場や時間にそういった表現が行われることに厳しくする一方、大人のみが楽しむ分にはある程度寛容という社会理念が共有されている点だ。

日本はそういった線引きが非常にルーズだ。酒やタバコは自動販売機で簡単に買えるし、子供の飲酒・喫煙をあまり注意しない。ヌード写真が載った雑誌がコンビニで立ち読みでき、電車内で夕刊紙を広げる人も少なくない。TVも時間帯による配慮が最近はあまり感じられない。アダルトビデオなども子供たちから十分遠ざけられているかどうか微妙だ。
こうした中で有害図書とされるものの影響はどれほどのものか。一部の有害なものを禁止したところで、ほとんど変わらないのではないか。こうした規制化の動きは、青少年のために活動しているという政治家のポーズのようにしか見えない。むしろ自分たちの都合の悪い言説を封じるために表現の自由に制限を加えたい人々にとって、これは大きな一歩となるだろう。


安全のコスト

2005年02月20日 18時12分29秒 | ニュース
先日、キャッチボールしていたボールが逸れ、それに当たった少年が不幸にも死亡した事故に対する判決があった。

キャッチボール当たり男児死亡、親に6千万円賠償命令

キャッチボールをしていたのは小学4年生(当時)で、ボールは軟式球、子供たちが遊ぶ中でのキャッチボールが危険だったと言う判断は間違いないが、判決では「死亡することもあるという予見可能性があった」と常識外れの指摘がなされた。
子供たちの体格などが分からないので断定はできないが、一般に10歳程度の子供が投げた軟式球で死亡事故が起こると大人でも予測はできないだろう。もちろん100%起こりえないとは言わない。ただ100%の安全はどこにも存在しない。例えばただ歩いているだけで、人とぶつかってその人が死亡する可能性もゼロではない。子供同士ではしゃぐ中で大声を出し、その声に驚いて心臓が止まる可能性だってないとは言い切れない。結局、危険度というのはあるかないかではなく、程度の問題であり、それを決めるのは常識に頼ることとなる。

学校の安全性に関する議論も盛んだ。ここでまず考えねばならない点は、100%の安全などどこにも存在しないという当たり前のことを認識することだ。例えば、親が四六時中子供のそばにいたとしても絶対に安全というわけではない。事故や事件、人災、天災含め、あらゆる危険の可能性が常に存在している。もちろん安全性を高めることは可能だ。国や地方自治体は国民・市民を守るために努力すべき義務はある。ただし、100%の安全は保証できないし、どの程度の安全性にするかはコストとの関係で考えねばならない。
安全はタダではない。ある程度の安全性までは安く補えるが、100%に近づけようとすれば、かなりのコストがかかってくる。公的空間の安全のコストは税金によってまかなわれる。公的補助などもあるが、コストをかければ私的レベルで安全を高めることもできる。
北朝鮮から核攻撃を受ける可能性は1%にも満たないが、0%ではない。国はそのリスクに対して、ミサイル防衛システムというコストをかけようとしている。もちろん金銭的なコストだけでなく、外交交渉などを通してそのリスクを低くするための努力を行っている。個人のレベルで核シェルターを作る人はごくまれだが、それはリスクがないからではなく、リスクとコストを見比べて選択した結果ということになる。

安全のコストを考える上で、金銭面だけでなく、個人の自由の制限という面でも考える必要がある。最初に上げた事故の舞台となった公園は、キャッチボール禁止ではなかった。しかし、今後これまで禁止でなかった場所でも禁止への動きがあると予測できる。学校の門が施錠されれば、卒業生などの来校は減るだろうし、不登校の生徒がますます学校に来にくくなるとの指摘もある。学校が地域から孤立する傾向が強まる可能性もある。
合理的に安全のコストを考える上で参考になるのが、車(交通)の問題だ。交通事故で毎年一万人前後の死者が出ているが、車を無くせとの意見は出てこない。一万人の命より利便性の方が勝っているという社会的コンセンサスがあるからだ。事故の際にやや過失者有利な状況にも見えるが、これまでの積み重ねで過失割合や責任の度合いなども社会的に認知されている。

もうひとつ気になるのが、「凶悪事件の増加」という認識が広まっていることだ。確かに痛ましい事件はよく起きている。ただ増えているのかと言われるとかなり疑問の余地がある。少年犯罪にしても、凶悪犯罪件数はむしろ減っていると指摘している人もいるし、校内暴力の全盛期から見れば、相当減ってそうな気もする。統計なども相当批判的に見ないと、この問題の場合は本質がつかみにくい。昔は今以上に、表沙汰にせずに済ます風土があったのは事実だから。
安全性を高めるために、社会的異分子を排除する動きは加速しそうな状況だ。その正当化に「凶悪事件の増加」が使われているのもありそうだ。

安全に対してもっとコストをかけるべきだという意見は間違っていない。ただし無制限にコストをかけることはできないし、結局のところ線引きが必要だ。国や地方自治体が無駄遣いを止めた上での話しだが、当然コストに見合った増税も必要となる。「犯罪を起こしそうな人」を排除しても犯罪は減らない。犯罪は誰もが犯す可能性があるのだから。冷静に必要なコストを計算することが今もっとも大切なことだ。


ゲーム脳

2005年02月16日 10時35分35秒 | ニュース
大阪寝屋川で起きた教職員3人殺傷事件。

教職員3人殺傷の17歳、引きこもりTVゲーム

犯行を行った少年は、事件のあった小学校の卒業生で、中学生の頃から不登校となり、また小学生の頃からTVゲームに熱中していたという。
今朝放送されたワイドショーのうち、日本テレビ系とテレビ朝日系において、この少年の事件と「ゲーム脳」との関連が報じられた。「ゲーム脳」とは2002年に日本放送出版協会より発売された『ゲーム脳の恐怖』という書籍から生まれた言葉で、完結に説明すると、ゲームをやり過ぎると前頭前野が退化し、痴呆のような症状や突然キレやすくなるといった性質を持つようになるということである。
著者は日本大学文理学部体育学科教授森昭雄氏。氏は今朝の2番組にVTRでコメントされていた。「ゲーム脳」の専門家としてという立場ではあるが、残念ながら世界中探しても他に「ゲーム脳」の専門家と呼ばれる方はいないと思われる。

『ゲーム脳の恐怖』はそのタイトルのインパクトもあり、広く話題とされた書籍だがその内容は非科学的との批判されることが多い。以下、いくつか挙げておこう。

井上明人氏による完結にまとめられているもの

と学会会長山本弘氏によるとんでも本認定

著名な精神科医斎藤環氏による批判

森昭雄氏はゲームだけでなく、パソコンやメールなども批判している。

脳を活性化させて コミュニケーション上手になりたい

痴呆のような『メール脳』

氏は今朝のコメントで、(ゲーム脳によって)人殺しした少年は反省しないといった主旨の発言をされていたが、ゲーム脳と関連性の高い少年による殺人事件は、断言できるような統計が取れるほどの数があったのだろうか。日本テレビ系は、奈良の少女殺害事件の小林被告が携帯メールなどを頻繁に使用したことで関連性のあるような構成になっていたが、どう考えても事件の背景に関連性は考えられないと思うのだが。
なお、余談だが、氏がゲーム脳関連の論文を発表している日本健康行動科学会は氏が設立し理事長を務めている。

ゲームが人体に与える影響は小さくはないと思うし、好影響も悪影響もあるだろう。ただ明らかにゲームに対して無知な人物が、非常に短期の実験で調べられるようなものではことは間違いないだろう。単純ではない複雑なことを、一見科学的な装いを持って明瞭に断言することで、漠然としたイメージを補完してもらえて喜ぶ人たちに受け入れられた。世界は2色で成り立っていると思っている人もいれば、12色だと思う人、64色の人、256色、65536色、1600万色、60億色といった具合に世界の見方は人それぞれ。まあ少なすぎるのも問題だが、多ければいいというものでもない。マスコミはインパクトがあって分かりやすい意見に飛びつくが、その悪影響はゲームのそれより大きいと思う。

本題からどんどんとずれてしまった。
今朝の日本テレビ系の番組で気になる点が。この少年は、昨年大検に合格。免許を取りバイクを運転していたが事故に遭った。その後、髪を茶髪というより金髪に染め、最近はゲーム雑誌でなくファッション雑誌を読んでいたとのこと。茶髪・喫煙と言う点でいわゆる「オタク」っぽくない感じがしていたが、「ゲーマー」もしくは「ゲーマー卒業」という印象を受ける。それがどんな意味を持つかは分からないが。
あと小学生時代から深夜3時4時までゲームをしてたのは、親に問題があるでしょう、普通。ゲームがどうこうというより、しつけの部分に問題の本質があると思う。

あともう一点。TBS系の朝の番組の中で、昨日小学校から保護者への説明が行われその感想を保護者にインタビューしていたのだが、保護者の一人が、学校側から謝罪がなかったと怒っていたが、その精神構造が理解できない。確かに校門に施錠していれば防げた事件かもしれないが、卒業生が訪ねてきたら普通は学校内に案内すると思うのだが。まさかその時に身体検査しろというのか?学校側の落ち度を点検するのは大切だが、保護者が責めるべき事柄だとは思えない。むしろこういう親から問題のある子供が育つ気がしてしまった。


迷走するNHK

2005年02月13日 13時33分12秒 | ニュース
ラグビー選手権、NHK一転生中継 視聴者から要望相次ぐ

12日のラグビー日本選手権、トヨタ自動車対早稲田大の試合の放送を巡ってNHKが迷走した。
生放送を予定していたが、11日に突然深夜の録画放送に変更すると発表され、その後再度生放送に変更された。発端は審判員のジャージーの胸にスポンサーのロゴが入ることを日本ラグビー協会から事前に連絡がなかったということだった。ただそのスポンサーが朝日新聞だったことが迷走の要因だっただろう。もし朝日新聞でなければ、放送スケジュールの変更という荒業にまで出たかどうか。

日本ラグビー協会に落ち度があったとはいえ、このNHKの対応は完全に視聴者を無視した暴挙である。放送局は公共性の高い存在であり、自己のメンツのために恣意に放送を利用してはならない。生放送を変更しようとした人たちは、いったい視聴者の存在をどう思っていたのか。視聴者の受信料で成り立っているのではないのか。
ここ最近のNHKの不祥事は、視聴者の存在を無視した企業体質が背景にある。改革とは名ばかりで本質が変わらなければ同じことの繰り返しだ。今回の件はそれを証明している。

NHKへのご意見・お問い合わせ


一方、民放は視聴者のためでなくスポンサーのために放送しているのは明らかだが、NHK以上にあからさまな行動に出ている。
堀江ライブドア社長の13日出演番組放送を休止=フジテレビ

視聴者完全無視の放送局なのだから、放送免許を取り上げてもいいんじゃないかと思うがどうなんだろう。放送局も新聞社も自分の都合の悪いことは伏せ、好き勝手にやっているのに、他を批判したりする資格があると思っているのか。ジャーナリストの拠って立つところは、残念ながら日本には存在しないようだ。


「社会の厳しさ」とは

2005年02月06日 17時39分17秒 | ニュース
少し前のニュースだが、

新幹線止まった!乗り間違い受験生のため“温情停車”

ということがあった。
試験会場のある駅に停車しない新幹線に乗ってしまった受験生のために、JR東日本が特例で本来停車しない駅に止まってその受験生を降ろした。

この件に関して、世間の反応はおおよそ二つに分かれる。JR東日本の温情を容認する意見と、「社会の厳しさ」を示すべきだったという意見だ。
受験会場にたどりつくのも受験の一部。体調管理なども含めて受験生の実力である、という考えは誰しも頷くところだろう。実際には、列車の間違いで遅刻した受験生には別室での受験を認めたりする救済も行われている。そういった点も考慮して、社会の厳しさを教えてやった方が本人のためになるという意見も一つの良識だと思う。

ただ私がこのニュースを聞いた時に感じたことは、これがニュースで流される日本社会ってどうなんだろうということだった。その列車は3分遅れで東京に着いたそうだが、そのくらい別にいいじゃないかと思ってしまう。
もちろん時間は貴重だし、遅れることがいいと言っているのではない。時間に厳格なことは正しいことだし、時間通りに運行する日本の鉄道には敬意を払う。1分1秒を争う必要がある場合があることも理解している。ただ全体的に時間に追われすぎな状況であることも事実だ。
最初から社会に甘えて、思い通りにならなければ社会が悪いというようなものは論外だが、厳しいだけが社会なのか。非道な事件が繰り返され、他人は信用できない、危険な存在との認識が増え、そうしなければ安全に生きていけない社会となっているのも事実だ。他人のせいで、自分に不利益が生じた場合、イライラしたり不満が募ったりすることも理解できる。しかし、ゆとりのないギスギスした社会は、ストレスを生み、更なる事件を引き起こすだろう。

「温情」がニュースとならない社会のほうが、住みやすくいい社会だと思うのは私だけか。社会システムにせよ、セフティネットにせよ、制度の問題の前に心の問題だ。社会のなかのひとりひとりの心、考えを反映して社会の空気は形成される。社会の問題は他人の問題でなくまず自分の問題だ。他人のせいにする前に、まず自分の中から反省せねばならない。「厳しさ」と「温情」は他人との関わりの中で常に考えていかねばならないことだろう。


NHK及びテレビの話

2005年01月26日 01時05分08秒 | ニュース
NHK海老沢会長が辞任を発表した。

NHK海老沢会長 辞任

遅すぎた、というのが一般的な意見だし、私も同感だ。ただムードに踊らされている気配がないわけでもない。最近は、海老沢会長を極悪人のように揶揄する表現も目立つが、今回の辞任は一連の職員の不祥事の責任問題に端を発している。元プロデューサーによる制作費の横領など金にまつわるモラルの低下が続けざまに表面化し、国民からの受信料で成り立つNHKへの信頼低下を招き、その責任を海老沢会長が取らなかったことが更に事態を深刻化した。
更に国会参考人招致の際に生放送をせず、それを編集権の問題としたことで世論の反感を買った。12月に放送された検証番組でも、結果的には火に油を注ぐような内容となってしまった。

金に関する不祥事はNHKに限ったことではない。民放でも時々表沙汰になることもあるし、世間一般でそう珍しいことではない。ただ受信料の存在がより問題視されることとなった。例えば民放でもその金はスポンサー料として企業から出ているし、企業は広告料として製品の価格に転嫁している。よって、辿っていけば人々の懐から出たお金になるのだが、こっそり取られたお金より目に見えて支払わされているお金の使われ方のほうが、よりシビアに見てしまうものだ。
昨年、不祥事が続いたことでNHKへの信頼が低下した時に、社内の改革と責任の明示をアピールしていればこのような流れには至らなかっただろう。本来、長のつく役職の者は、責任を取るために存在しているのだが、実際には、その席にしがみついて見苦しく足掻いてしまう。高い地位にいればいるほど、世間との距離が開いて、人々の声が届かなくなってしまうのも一因だろう。参考人招致における姑息な手法は、自身のおかれた状況が読めていないせいとも言える。

ただ問題の軽重を考えると、明らかに民放各局がNHKを叩いて世間を煽ったのは間違いない。海老沢会長が責任を取るべきなのは確かだが、金の問題などがNHKよりクリーンと胸を張っていえるのか?海老沢会長の件はあくまでも道義的な問題だ。もっと重要な問題は他にいくらでもありそうな気がするが、連日大きく取り上げた。
NHKが信用できないからといって、民放が信用できるというわけではない。放送界全体がもっと真摯に改革に取り組む必要があると思うが、なかなか厳しいと感じざるを得ない。


ここからは少し違う話。
個人的に、地上波に関して、NHKと民放、どちらかしか見れないとしたら、NHKを見る。もちろんどちらにもいい番組はあるし、つまらない番組も多い。ただ平均すると民放全体よりNHKの方がすぐれた番組が多い。また私の好きなスポーツ中継においては、民放はひどい内容が多すぎて評価の対象にすらならない。正直、民放が全部つぶれても困らない。しかし、NHKがつぶれて民放だけになると少し困る。
よく、ゲームの悪影響だとか、ネットの悪影響だとか、そういった番組をテレビでやっていたりするけれども、この数十年の日本で最も国民に悪い影響を与えているのは間違いなくテレビだ。単に低俗・俗悪が問題なのでなく、視聴率が取れればなんでもOKといった精神や、何をやってもシャレで済ませられるといった感覚を撒き散らしている。他の媒体があくまで能動的なものなのに対し、テレビは電源をつければずっと見てなくても受動的に垂れ流された放送を受け入れてしまう部分がある。特に民放番組がかもし出すムードは、ちゃんと見なくてもテレビをつけているだけで伝わってきてしまう。
犯罪事件報道で時折特定のジャンルの影響を取り上げたりするが、テレビがこれまで与え続けてきた悪影響に対して科学的な視点から検証されたことはほとんどない。あって当たり前となっているテレビという媒体が、どれほどの力を持ち、どれほどの影響を及ぼし、どれほど人の心の奥底まで良くも悪くも届いてしまっているか、それを調査し、悪影響があるならば、現在の番組の何がいけないのかを調べ尽くさねばならないだろう。そして、それはテレビ自身が行うべきことだったはずだ。