有川浩「ストーリー・セラー」の序盤に次のような場面がある。
ヒロインのセリフ「やっぱり服飾費とか娯楽費とかね、あんまり潤沢に使えないよね」にある”微妙に口語らしくない単語”を主人公がいぶかしく感じる場面だ。
「服飾費」「娯楽費」はともかく、「潤沢」という言葉に衝撃を受けた。
もちろん「潤沢」という言葉は知っている。しかし、これまでの人生において果たして使ったことがあっただろうかと思ったのだ。
「潤沢な資金」などのように経済・経営等に関してはよく使われる用語であり、仕事によっては一般的な言葉として認識されているかもしれないが、通常は別の語を用いることが多いだろう。
小説内では、「贅沢じゃなく潤沢」と贅沢という言葉の方をより一般的としている。確かに、「あんまり贅沢に使えないよね」の方が口語らしく感じる。私自身が口にするなら「豪勢」あたりを使いそうだが。
キャラクターのしゃべり方、口調、語尾などで個性を際立たせる手法は、特にコミックやライトノベルで見られる。
通常の小説においても個々のキャラクターの言葉の使い方には気を配られているが、普通に読んでいるだけでは気付きにくい。むしろ気付く時はどこかにひっかかりを感じる時だったりする。
桜庭一樹の「かんばせ」のようにその著者特有の言い回しもある。始めは慣れなくて戸惑った表現も、慣れるうちに愛着となる。
地の文は著者の個性が強く出る。新井素子の口語体、谷川流のどこまでが地の文か分からないツッコミ、西尾維新の冗舌なトーク。ここまで強烈でなくとも、各作家のスタイルが現れやすい。
それに比べるとキャラクターの語り口はキャラクターの特色を現すためのものであり、作家ごとの個性は現れにくい。そのはずだが、それでもにじみ出てくるものがある。
語彙が豊富だからといって優れた文章とは限らない。
的確な比喩を使っていてもそれが文章のリズムを滞らせることだってある。
読み手によって、冗長と感じたり、言葉足らずと受け取ったりと様々だったりする。
ストーリーやキャラクターに目が行くが、それでも作家の言葉遣いは作品の根幹である。
日々膨大な言葉に接する中で、自分の言葉として身に付くのはほんの一握りに過ぎない。名だたる名文でなくとも素敵な言葉と出会うことは素敵なことだ。
お金は潤沢とは言えないが、言葉は潤沢に使いたい、そんな想いを抱いて読んでいきたいと思った。
ちなみに「ストーリー・セラー」では、「濃やか」という言葉が使われていた。「細やか」でなく「濃やか」。人間関係の繊細な描写を得意とする著者に相応しい言葉遣いに感じられた。
ヒロインのセリフ「やっぱり服飾費とか娯楽費とかね、あんまり潤沢に使えないよね」にある”微妙に口語らしくない単語”を主人公がいぶかしく感じる場面だ。
「服飾費」「娯楽費」はともかく、「潤沢」という言葉に衝撃を受けた。
もちろん「潤沢」という言葉は知っている。しかし、これまでの人生において果たして使ったことがあっただろうかと思ったのだ。
「潤沢な資金」などのように経済・経営等に関してはよく使われる用語であり、仕事によっては一般的な言葉として認識されているかもしれないが、通常は別の語を用いることが多いだろう。
小説内では、「贅沢じゃなく潤沢」と贅沢という言葉の方をより一般的としている。確かに、「あんまり贅沢に使えないよね」の方が口語らしく感じる。私自身が口にするなら「豪勢」あたりを使いそうだが。
キャラクターのしゃべり方、口調、語尾などで個性を際立たせる手法は、特にコミックやライトノベルで見られる。
通常の小説においても個々のキャラクターの言葉の使い方には気を配られているが、普通に読んでいるだけでは気付きにくい。むしろ気付く時はどこかにひっかかりを感じる時だったりする。
桜庭一樹の「かんばせ」のようにその著者特有の言い回しもある。始めは慣れなくて戸惑った表現も、慣れるうちに愛着となる。
地の文は著者の個性が強く出る。新井素子の口語体、谷川流のどこまでが地の文か分からないツッコミ、西尾維新の冗舌なトーク。ここまで強烈でなくとも、各作家のスタイルが現れやすい。
それに比べるとキャラクターの語り口はキャラクターの特色を現すためのものであり、作家ごとの個性は現れにくい。そのはずだが、それでもにじみ出てくるものがある。
語彙が豊富だからといって優れた文章とは限らない。
的確な比喩を使っていてもそれが文章のリズムを滞らせることだってある。
読み手によって、冗長と感じたり、言葉足らずと受け取ったりと様々だったりする。
ストーリーやキャラクターに目が行くが、それでも作家の言葉遣いは作品の根幹である。
日々膨大な言葉に接する中で、自分の言葉として身に付くのはほんの一握りに過ぎない。名だたる名文でなくとも素敵な言葉と出会うことは素敵なことだ。
お金は潤沢とは言えないが、言葉は潤沢に使いたい、そんな想いを抱いて読んでいきたいと思った。
ちなみに「ストーリー・セラー」では、「濃やか」という言葉が使われていた。「細やか」でなく「濃やか」。人間関係の繊細な描写を得意とする著者に相応しい言葉遣いに感じられた。
ラノベの場合、文脈から意味が取れるか、なんとなくインパクトを与えられるか、で充分な面もありますけど。
米澤穂信なんかだと、わざと口語体から遠ざかるような文章で、それがラノベ出自らしくないなあ、と思ったりしました。
西尾維新の場合は、最近だとエンタメ性を意識してか言葉遊びのリズムを重視するだけで、常用語外の用法は結構減らしてきてるイメージがありますね。セリフは相変わらずインパクト重視ですが。
辞書が必要になってくるようなのはどうなのかなあ、と思いますが、流石に商業流通のエンタメ作品では見ないですね。
ラノベの場合、文章は説明として十分に機能すればいいというものが多いので、地の文で凝ったものはそんなにありませんが。
一般向けでは、読み手の語彙の幅が広いため、調整は難しいでしょうね。雰囲気作りに硬い言葉を使用するケースもありますが、むしろ感覚の差の方が影響が大きいように感じます。
言葉の難易度は知識量だけでなく時代によっても変化します。明治・大正・昭和初期の文豪を例に挙げずとも10年前の小説でも使われる言葉はかなり異なっていると思います。
言葉ではありませんが、児童文学の世界で携帯電話が出てこないものは古典だと指摘しているのを見ました。時代の変化によって「当たり前」のことがどんどんと変化しているのでしょう。言葉も急速に変化しています。特に時代の変化に敏感なエンターテイメントの分野ではその影響も大きいです。
エンターテイメントでは、一つの言葉に拘泥していては楽しめないため流してしまうことが多いので、全ての語をしっかりと理解しているとは言えないかもしれません。苦手なジャンル(私の場合ファッションとか)の言葉は曖昧なまま読み流しますし(苦笑)。専門用語だけでなく、日常用語でも分かっていない言葉も少なくないかも。
分かっている言葉でも、自分で使わない言葉があるというのは「潤沢」で取り上げましたが、使わない言葉は使えない言葉であり、しっかり身に付けた言葉ではないのでしょう。
大正~明治期の小説は言うに及ばずですが、一般向けにしろ、二十年以上前の小説になると口語体そのものの使用頻度が少ないように感じます。
文章が巧い、と言われている小説家の作品だと、今の読者は逆に読み辛く感じるのでは、と思うこともありますね。
青空文庫で手軽に触れられますが、逆にそうした作品はアクセスし易くても『教養』の部類に入ってしまっているようにすら感じる事があるので。
テクニカルタームや用語の変質は避けられない事情ですが、エンタの世界ではこうした事情が『作品の寿命』を割と決定付けているような印象もありますね。
ガジェット次第で、ともすると『古い』とされてしまうような。
遠未来を描いたSFがある種の寓話になったりするのは、そうした制約から逃れているからかもしれません。
幻想文学が時代を無関係にアクセスしやすい位置にあるのは、これもそうした状況から切断されているからかな、とか。
文体については、新井素子の影響が確実にライトノベルに及んでいるとは思いますが、一方でライトノベルのコンセプトとしてコミックの小説化という面もあるので、その流れで作られた部分も大きいと思います。
言文一致については、明治期と昭和末期の二度行われたというのが私の解釈なのですが、機会があればブログの記事で書いてみたいと思っています。
作品の時代性はエンターテイメントでは避けにくい問題でしょう。当然、意図的に時代性を強調する作品もありますし。後の時代の人では共感しにくい部分は出てくるのは仕方ないことだと思います。
一方で、時代性を描いていても普遍的に成立するような作品もあり、単純にひとくくりにして切り捨てられないとも思います。
このあたりは書き始めるとキリがなさそうですが(苦笑)。