「大きな物語」の終焉をフィクションの世界で象徴的に表した作品が『新世紀エヴァンゲリオン』だった。
「大きな物語」後の世界のあり様に対して新たな道を示した作品が『高機動幻想ガンパレード・マーチ』だった。
世界(国家・社会)の意味を読み解き、個人が「成長」していく構造が「大きな物語」だった。
個人が他の人々と繋がることで、世界(国家・社会)に関わりを持っていくという手法が、『ガンパレ』が『エヴァ』に対する回答だった。
コミュニケーションを武器に世界を変える。それは、ゲーム内のシステムだけでなく、『ガンパレ』の発売手法とさえなった。
宣伝費ゼロ、まったく無名の作品が、ウェブを中心に口コミで広まり、アニメ化や続編が生まれる人気作になった。
こうした人とのコミュニケーションをゲームシステムに取り入れた作品としては『ペルソナ3』『ペルソナ4』がある。
それ以上に、リアルにコミュニケーションが重要になるのがMMORPGなどのネットゲームだった。
『ファイナルファンタジーXI』では、ソロではできることはわずかだ(のちには増えていったが)。レベルを上げるだけなら、誘われ待ちでもできるが、それ以上となるとゲーム内での人間関係を構築していく必要があった。
デュナミスというコンテンツが実装されてしばらくして、私が入った攻略LS(ギルドのようなもの)は100人近く(越えていたかも)のメンバーが所属していた。このコンテンツは1度に最大64人が参加可能。常にそれくらいの人数で突入しようと思えば、当日都合が悪い人が出ることを考慮するとそんな数が必要となる。当時は64人いても全滅が当たり前の難易度だった。
それだけの人数のLSを運営するのは容易ではない。結局、そこもメンバー同士の対立からボス攻略を果たせずに解散してしまう。
MMORPGは待っているだけでは得られるものは少ない。何かを得ようと望むなら、行動が、コミュニケーションが必要だった。
ゲームの話ではなく、現実で、人々が繋がり、世界を変えることはできたのか。
前世紀の終わりに人々はインターネットというツールを手に入れた。今世紀に入り、このツールは国の形を変えることもやってのけた。
ただし、それは世界での話。日本の話ではない。日本では残念ながら、暇つぶしの道具以上の働きはしてこなかった。むしろ、人々の生産性を下げ、堕落せしめたかもしれない。
その最大の要因は匿名性だろう。
匿名で語られた言葉に力はない。(この言説も同様だけれど)
MMORPGも匿名だが、そのキャラクターはプレイヤーの分身であり、その名前は簡単に変えることはできない。長い時間を掛けて築き上げられたキャラクターだから、MMORPGの中ではその名前はある程度の重さを持っていた。
インターネット黎明期、匿名であってもハンドルネームにはある程度の重さがあったと思う。しかし、2ちゃんねるが浸透したあと、ハンドルネームという文化さえ廃れた感じだ。
Twitterなどの多くのSNSは、複数のアカウントが取得でき、アカウント名の重さはウェブ全般とそう変わりない。
Facebookなどの一部の例外を除くと、日本では匿名性が重視され、それが変わることはなさそうだ。日本でのインターネットの文化が大きく変わる可能性は低い。それを望まない人々もいるだろう。
インターネット以外で、現実の世界でコミュニケーションを重視し、周囲の環境を変えようとしている人々はいるだろう。ただそれが大きな力を持つには至っていない。
現状をあまり変えたくない人たちがいる。既得権を持っていたり、変えることが不利益になると思っている人たち。変えないでいいのなら、それでもいい。しかし、日本に変えないでいいと言っている余裕があるようには見えない。
以前から、家畜化している若者たちというイメージを抱いている。今の若者は、それ以前の世代より、真面目で真剣で従順だ。だから、食い物にされている。ネトウヨの愚かさは涙なしには語れない。
最近、バトル系フィクションに人気作が増えている印象だ。目新しい存在ではないが、「戦うこと」が必要な時代なのかもしれない。問題は、なにと戦うのかだが。巨人やゴキブリ、ゾンビだけでなく、戦うべき敵を描く作品に出会いたい。
全く話は変わるが、「セカイ系」というものがずっとピンと来なかった。
エヴァ以降の話の流れとして、通常は「セカイ系」が語られる。
「セカイ系」と呼ばれる作品群をほとんど読んでいないし、読みたいとも思わないのだけれど、ふと思い付いたのは、エヴァによって突き付けられた「物語」の終焉を回避しようという試みだったのかなと。
世界に意味がなくとも、世界そのものと対峙すれば物語化するだろう。そんな発想。
違う?
よく分からないね。ほんと思い付いただけなんだけど。
「大きな物語」後の世界のあり様に対して新たな道を示した作品が『高機動幻想ガンパレード・マーチ』だった。
世界(国家・社会)の意味を読み解き、個人が「成長」していく構造が「大きな物語」だった。
個人が他の人々と繋がることで、世界(国家・社会)に関わりを持っていくという手法が、『ガンパレ』が『エヴァ』に対する回答だった。
コミュニケーションを武器に世界を変える。それは、ゲーム内のシステムだけでなく、『ガンパレ』の発売手法とさえなった。
宣伝費ゼロ、まったく無名の作品が、ウェブを中心に口コミで広まり、アニメ化や続編が生まれる人気作になった。
こうした人とのコミュニケーションをゲームシステムに取り入れた作品としては『ペルソナ3』『ペルソナ4』がある。
それ以上に、リアルにコミュニケーションが重要になるのがMMORPGなどのネットゲームだった。
『ファイナルファンタジーXI』では、ソロではできることはわずかだ(のちには増えていったが)。レベルを上げるだけなら、誘われ待ちでもできるが、それ以上となるとゲーム内での人間関係を構築していく必要があった。
デュナミスというコンテンツが実装されてしばらくして、私が入った攻略LS(ギルドのようなもの)は100人近く(越えていたかも)のメンバーが所属していた。このコンテンツは1度に最大64人が参加可能。常にそれくらいの人数で突入しようと思えば、当日都合が悪い人が出ることを考慮するとそんな数が必要となる。当時は64人いても全滅が当たり前の難易度だった。
それだけの人数のLSを運営するのは容易ではない。結局、そこもメンバー同士の対立からボス攻略を果たせずに解散してしまう。
MMORPGは待っているだけでは得られるものは少ない。何かを得ようと望むなら、行動が、コミュニケーションが必要だった。
ゲームの話ではなく、現実で、人々が繋がり、世界を変えることはできたのか。
前世紀の終わりに人々はインターネットというツールを手に入れた。今世紀に入り、このツールは国の形を変えることもやってのけた。
ただし、それは世界での話。日本の話ではない。日本では残念ながら、暇つぶしの道具以上の働きはしてこなかった。むしろ、人々の生産性を下げ、堕落せしめたかもしれない。
その最大の要因は匿名性だろう。
匿名で語られた言葉に力はない。(この言説も同様だけれど)
MMORPGも匿名だが、そのキャラクターはプレイヤーの分身であり、その名前は簡単に変えることはできない。長い時間を掛けて築き上げられたキャラクターだから、MMORPGの中ではその名前はある程度の重さを持っていた。
インターネット黎明期、匿名であってもハンドルネームにはある程度の重さがあったと思う。しかし、2ちゃんねるが浸透したあと、ハンドルネームという文化さえ廃れた感じだ。
Twitterなどの多くのSNSは、複数のアカウントが取得でき、アカウント名の重さはウェブ全般とそう変わりない。
Facebookなどの一部の例外を除くと、日本では匿名性が重視され、それが変わることはなさそうだ。日本でのインターネットの文化が大きく変わる可能性は低い。それを望まない人々もいるだろう。
インターネット以外で、現実の世界でコミュニケーションを重視し、周囲の環境を変えようとしている人々はいるだろう。ただそれが大きな力を持つには至っていない。
現状をあまり変えたくない人たちがいる。既得権を持っていたり、変えることが不利益になると思っている人たち。変えないでいいのなら、それでもいい。しかし、日本に変えないでいいと言っている余裕があるようには見えない。
以前から、家畜化している若者たちというイメージを抱いている。今の若者は、それ以前の世代より、真面目で真剣で従順だ。だから、食い物にされている。ネトウヨの愚かさは涙なしには語れない。
最近、バトル系フィクションに人気作が増えている印象だ。目新しい存在ではないが、「戦うこと」が必要な時代なのかもしれない。問題は、なにと戦うのかだが。巨人やゴキブリ、ゾンビだけでなく、戦うべき敵を描く作品に出会いたい。
全く話は変わるが、「セカイ系」というものがずっとピンと来なかった。
エヴァ以降の話の流れとして、通常は「セカイ系」が語られる。
「セカイ系」と呼ばれる作品群をほとんど読んでいないし、読みたいとも思わないのだけれど、ふと思い付いたのは、エヴァによって突き付けられた「物語」の終焉を回避しようという試みだったのかなと。
世界に意味がなくとも、世界そのものと対峙すれば物語化するだろう。そんな発想。
違う?
よく分からないね。ほんと思い付いただけなんだけど。