奇想庵@goo

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インターネットの匿名化が誰かの陰謀だったとしても驚かない

2014年07月26日 21時41分10秒 | 日記・エッセイ・コラム
「大きな物語」の終焉をフィクションの世界で象徴的に表した作品が『新世紀エヴァンゲリオン』だった。

「大きな物語」後の世界のあり様に対して新たな道を示した作品が『高機動幻想ガンパレード・マーチ』だった。

世界(国家・社会)の意味を読み解き、個人が「成長」していく構造が「大きな物語」だった。

個人が他の人々と繋がることで、世界(国家・社会)に関わりを持っていくという手法が、『ガンパレ』が『エヴァ』に対する回答だった。

コミュニケーションを武器に世界を変える。それは、ゲーム内のシステムだけでなく、『ガンパレ』の発売手法とさえなった。
宣伝費ゼロ、まったく無名の作品が、ウェブを中心に口コミで広まり、アニメ化や続編が生まれる人気作になった。

こうした人とのコミュニケーションをゲームシステムに取り入れた作品としては『ペルソナ3』『ペルソナ4』がある。
それ以上に、リアルにコミュニケーションが重要になるのがMMORPGなどのネットゲームだった。

『ファイナルファンタジーXI』では、ソロではできることはわずかだ(のちには増えていったが)。レベルを上げるだけなら、誘われ待ちでもできるが、それ以上となるとゲーム内での人間関係を構築していく必要があった。

デュナミスというコンテンツが実装されてしばらくして、私が入った攻略LS(ギルドのようなもの)は100人近く(越えていたかも)のメンバーが所属していた。このコンテンツは1度に最大64人が参加可能。常にそれくらいの人数で突入しようと思えば、当日都合が悪い人が出ることを考慮するとそんな数が必要となる。当時は64人いても全滅が当たり前の難易度だった。
それだけの人数のLSを運営するのは容易ではない。結局、そこもメンバー同士の対立からボス攻略を果たせずに解散してしまう。

MMORPGは待っているだけでは得られるものは少ない。何かを得ようと望むなら、行動が、コミュニケーションが必要だった。

ゲームの話ではなく、現実で、人々が繋がり、世界を変えることはできたのか。

前世紀の終わりに人々はインターネットというツールを手に入れた。今世紀に入り、このツールは国の形を変えることもやってのけた。

ただし、それは世界での話。日本の話ではない。日本では残念ながら、暇つぶしの道具以上の働きはしてこなかった。むしろ、人々の生産性を下げ、堕落せしめたかもしれない。

その最大の要因は匿名性だろう。

匿名で語られた言葉に力はない。(この言説も同様だけれど)

MMORPGも匿名だが、そのキャラクターはプレイヤーの分身であり、その名前は簡単に変えることはできない。長い時間を掛けて築き上げられたキャラクターだから、MMORPGの中ではその名前はある程度の重さを持っていた。

インターネット黎明期、匿名であってもハンドルネームにはある程度の重さがあったと思う。しかし、2ちゃんねるが浸透したあと、ハンドルネームという文化さえ廃れた感じだ。

Twitterなどの多くのSNSは、複数のアカウントが取得でき、アカウント名の重さはウェブ全般とそう変わりない。

Facebookなどの一部の例外を除くと、日本では匿名性が重視され、それが変わることはなさそうだ。日本でのインターネットの文化が大きく変わる可能性は低い。それを望まない人々もいるだろう。

インターネット以外で、現実の世界でコミュニケーションを重視し、周囲の環境を変えようとしている人々はいるだろう。ただそれが大きな力を持つには至っていない。

現状をあまり変えたくない人たちがいる。既得権を持っていたり、変えることが不利益になると思っている人たち。変えないでいいのなら、それでもいい。しかし、日本に変えないでいいと言っている余裕があるようには見えない。

以前から、家畜化している若者たちというイメージを抱いている。今の若者は、それ以前の世代より、真面目で真剣で従順だ。だから、食い物にされている。ネトウヨの愚かさは涙なしには語れない。

最近、バトル系フィクションに人気作が増えている印象だ。目新しい存在ではないが、「戦うこと」が必要な時代なのかもしれない。問題は、なにと戦うのかだが。巨人やゴキブリ、ゾンビだけでなく、戦うべき敵を描く作品に出会いたい。




全く話は変わるが、「セカイ系」というものがずっとピンと来なかった。

エヴァ以降の話の流れとして、通常は「セカイ系」が語られる。

「セカイ系」と呼ばれる作品群をほとんど読んでいないし、読みたいとも思わないのだけれど、ふと思い付いたのは、エヴァによって突き付けられた「物語」の終焉を回避しようという試みだったのかなと。

世界に意味がなくとも、世界そのものと対峙すれば物語化するだろう。そんな発想。

違う?

よく分からないね。ほんと思い付いただけなんだけど。


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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
東浩紀だったかな、『最終兵器彼女』や『イリヤの... (R2165)
2014-07-26 22:45:19
東浩紀だったかな、『最終兵器彼女』や『イリヤの空、UFOの夏』みたいなのがセカイ系だと言われたときは納得したような気分になったものですが、どんどん定義が拡大していってもうよくわかりませんね。ライトノベルの定義じゃありませんが「あなたがセカイ系だと思うものが(以下略」でいいような気もします。
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『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』はセカイ... (奇天)
2014-07-26 23:05:53
定義があいまいなのはこの種の言葉の常ですが、それなりに普及した言葉の割に、そんなにヒット作があったのかなあという気もしますw

東浩紀もちゃんと読んだのは初期の1冊くらいで、最近はもういっかって感じにw
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まあ、それぞれの切実さがあるので何とも言えない... (名無し)
2014-07-26 23:47:25
右派と左派の「空気的な」対立は、見ていて何とかならん物かと思います。
マスレベルでの管理が(誰かの)利得と繋がってるのは理解できるし、それは右だろうが左だろうが同じ事だとは思いますが。
どの派閥に対してもそれなりの理由(と、それを利用する人間)がいる以上、自分自身はどこかに与してどうこう、と言えない感じですね。
回答を提示できませんし。

匿名文化は日本独特だと思いますが、あれ自体がもはや規定条件になってますしね。
そこでどう対応するかという前提に乗る人もいれば、その間隙に利用できるモノを見る人がいるのもまた当然ではあるんですが(ネット関連の規制がどこまで、というのは国によって違いますし)。

現実での動き、という点に関しては、それも一つのベクトルを持った活動でしかなく、日本では空気によって度々変わる流れに回収されてしまうのが見えてるのはあるかもしれません。
実際、リアルで活動するとなると自分の時間的なコストを考えてしまうでしょうし。

>世界そのものとの対峙
凄く漠然とした、エンタメ版の空気系、みたいになりそうですね。

あずまんの理屈はまああれですが、セカイ系そのものは社会関係をオミットした、でも「世界(マスの流れ)」と繋がりたい、みたいな願望へと変化したのはちょっと感じました。
「君と僕」が単純に基準だった頃に比べて、というほどでもないですが。

エヴァは、あれはあれで「物語」だと感じてしまっただけに、映画版はちゃんと見直してみた方がいいのかなあ、ともw
今の劇場版は物語してますし。

イリヤはいわゆる90年代後半~ゼロ年代前半のセカイ系要素を全部ブッ込んで、その上でちょっと批判してみた、くらいの塩梅で読めると思います。
今読むと流石に古いと感じてしまう(セカイ系そのもの、という点が)かもしれませんが。

今は漠然とでも「何かと戦う」ことをアイデンティティ化したいというのはちょっと判る気はするんですけどね。
サヴァイヴ系が主体だった(コードギアスとか)頃に比べると、もうちょっとバイアスがわかりやすい形になった感はありますね。
「選べ!」は、あれもまた時代の流れだったので。
具体性を持った敵というのは、今はもう各方面から指摘されてしまうだけに難しいですし、そのへんがまあ巨人やゴキブリという「人間以外」というのはわかりやすいかなとは思います。
麻生幾をものっそいわかりやすく書いて「現実だ!」みたいなのもたぶん違いますしw
明確な敵を指定して書くこと自体が「世界」を切り取ることなので、それを回避すれば抽象的になってしまうのはやむを得ないんじゃないかと。
あと単純に、それなりの筆力で書かないと意識高いだけの作品になりそうなのも怖いですねw
クラウド化したコミュニティは「ガッチャマン・クラウズ」でも描かれてましたが、大きな物語の終焉があるとすれば、小さな物語も徐々に変化して、今は小さな物語へ興味でコミットして、それを空気として摘んでいる感触を強く受けます。
どのメディアでも大ヒットがない、テレビ番組の大ヒットも微妙、というのは、それぞれが自分たちのコミュニティで小さく従属してるからと感じる事も多いので。

個人的に、仰るような感触を持った作品となると円城塔が自分の中でしっくりくる作品性を持ってるなとは思います。
とはいえ、冒頭で書かれているような「社会へのコミット」を個人が承認していく形で世界を受け止めるタイプの作品ではないのですが。
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コミュニケーションによって世界を変えるというフ... (奇天)
2014-07-27 00:55:52
アキバの街がイヤな空気となった中で、主人公が人との繋がりを通して街を変えていこうとしました。

リアルの日本や、日本語のウェブ空間も、同様に「イヤな空気」を感じますが、それを変えられない責任は誰もが負っていくべきものなのでしょう。

現在の日本人の常識やものの見方は、ほとんどが戦後、古いものでも明治以降に作られたもので、決して伝統的なものではありませんし、変えられないものでもないのですが、変えようと、変えたいと、本気で思っている人が非常に少ないのかなと感じます。

傍観者として待っているだけでは変わりませんし、ただ批判するだけでもダメですし。


敵はいろいろありますが、分かりやすいもので言うと団塊の世代でしょうか。しぶといし貪欲ですよ、今でも。まさに巨人やゴキブリのようにw
それに比べると若者たちは諦めることに慣れているようにも見えます。

ちゃんと読んだわけではないのですが、「ユース・バルジ」という仮説があり、15~29歳の男性が人口に占める割合が多い場合に、政変・戦争が起きやすいとあります。一種の余剰人口であり、就業できなかったり、社会に役割を与えられない若者たちが多いと、戦争などの要因になり得ると考えられています。現在の中東などがそれに当てはまるとされています。

少子化や一人っ子政策などはそれとは逆で、親から大事にされるため、戦争等が置きにくくなると考えられます。
ただこれらは経験則から得た仮説ですし、過去にない少子高齢化社会になれば予測不可能な事態も想定されます。日本でのここ20年ほどの若者の「疎外」は少子化であってもかなり深く存在していたようにも思います。変革の胞子も見せませんでしたが^^;

歴史的に見れば、緩やかにというよりもかなり急激に衰退していきそうな日本ですが、若い人たちにとって、それはそれで仕方ないって感じなんでしょうね。『ヨコハマ買い出し紀行』の世界が実現するのを楽しみに・・・(ぉぃ
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>敵 (名無し)
2014-07-27 01:56:44
それがアリなら麻生幾の警察モノでも大丈夫ですねw
アニメにするならこう、巧く全体の年齢とかディティールを調節する感じで……戦車や軍艦の擬人化はできてもこれだと辛いかもw
まあ、現代は既定条件としての法をいかに「変える」か、みたいな大きな話ではなく、いかに関わり、どう生きるか、がメインになるのはありますね。
これは一般エンタメでもそうですし。
諦めについてはその処方でもあるんじゃないかと思いますね。
というか、諦めと感じてないので。
チルウェイヴが諦観の音楽と言われたのは少し前ですが、あの頃から「攻撃的な逃避」みたいな感触を出してるバンドはあったと思います。
初期の9mmとか少し前までのamazarashiなんかもそういう歌ですし(十代だけでなく、三十代(全体?)まで共感する、という感じで紹介されてたような)。
まあ、それこそ「世は歌に~」という時代ではないので、インディーズに詳しいかどうかなんかも関わる話ですがw
でも、アイドルへの傾斜なんかもこれと似たような物ではないかと思いますし、傾向としてはそうした反応があるんじゃないでしょうかね。
右左の政治思想への傾倒にしても、「今」を自分の中で処理して生きる為の(動機とする)ものだというのはわかりますし。
まあ、その結果が日本はかなり特殊になってしまうので、制御が効いてないなと思いますが。
いや、「効き過ぎて」、ネット上の雰囲気にそれが丸ごと敷衍してしまってるというか。
議論を進める余地がどっちにも(或いは中庸にさえも)ないなとしか。

海外は海外でこういう話はありますが、日本だと「議論だけ進める」のは意識高いだけになりがちですし、周囲が付いてこないと思ってしまうのですよね。
池上彰の番組なんかでもそうですが、雑学レベルで止まっちゃうんじゃないかと。
こういうのは世代を超えて受け継がれてきた文化的インフラじゃないかと思うんですけどね。
自衛隊の活動がどうのにしても、賛否どちらの派閥も「わかりやすさ」を世論にゴリ推しする場合が多いですし(特に最近、否側の方の意見もあまり穏当とは言えない事が多いですし)。

よく言われますが、「何やってんの()?」になってしまうような空気、というのは確実にあると思います。
まあ、これはどんな国でも同じ事ですが、地域的な繋がりにせよ何にせよ、内輪で完結してしまう環境が強いと言いますか。

大きな物語はそうした構造の中では環境を保管しつつ支柱とする理念を獲得できますが、ポスト(ry)以降では相対化が前提で、むしろその中で何を選んで、どうそこに自分を見出せるか、が主体になりますしね。
刑事ドラマの変遷なんかを見られればわかりやすいんじゃないかと思うのですが……。
再放送の刑事ドラマと「相棒」や「spec」を見比べても、このへんは如実に感じます。

電車男は「コミュニティの繋がり」を停滞の中で見出だして、非モテ→リア充みたいなわかりやすい構図を作ってたせいか、ログホラの例で仰るような感じには届きませんでしたしね。
もし「今」をやるとするなら、「繋がりをどう作り出すか」から始めるべきなのかもしれません。
繋がり、というか、繋がりの空気、ですが。
ぼっち系のラノベとかはこれになるかなと当初は思ってたんですが、スクールカーストの縛りやそこで主人公の選択を描くことからか、こういうレベルの話を書くのには向いてないのかなあと。
とりあえず何とバトルするかから考えてみてもいいかもしれませんw

>世論と少子化
世代から見た世論の趨勢でしょうか。
こういうのだと、どちらかと言えば現代は政府レベルでの管理が効く社会かどうか、というレベルの話が変数を圧倒する社会が日本であるようには思えます。
デモクラシーと攻撃性についての本では、民主主義国家で、世論が攻撃的になる下地がある場所では、軍の専政よりも民主制の方が攻撃的な要素として顕在化する、みたいなのは読んだなと。
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