181118 高齢者の生き方 <NHK人生100年時代を生きる 第1回「終の住処はどこに」>を見て
私は仕事柄、これまで特別養護老人ホーム(特養)、介護老人保健施設(老健)、サービス付き高齢者住宅(サ高住)など、高齢者が終の棲家として選択するような施設を見る機会が普通の人よりは多かったかもしれません。
といっても親族に利用経験者がいなかったこともあり、目線という濃厚な見方はできていないと思います。他方で、介護職員側や経営者側、施設利用者側といったいくつかの立場で仕事上関わってきたので、ちょっと複眼的な見方ができるかもしれません。最近はブログでユマニチュードを書いたように、少し勉強しつつあることもあり、より関心が強くなっていることも確かです。
それでも昨夜見た<NHKスペシャル 人生100年時代を生きる 第1回「終の住処はどこに」>は、その実態をある程度理解していたり、予測していたものの、やはり少し衝撃的でした。
このNHKサイトは中身がほとんど書かれていないので、もし関心が芽生えたら、次のヤフーニュースサイト<人生100年時代の「終の住処」どこに――サ高住で高齢者「選別」の実態>がかなり詳細に番組内容をアップしていますので、番組の一部を見たような感覚になれると思います。
サ高住の施設は、仕事上、いくつかの事案で、以前何回か訪れたことがありますが、実際はそのとき関係者が退所した後、その入所・退所経緯の記録を見せてもらいながら説明を受けたので、利用者の様子はちょっと概観した程度で、よくわかっていません。
それに比べると、老健や特養はそれなりに訪問してきましたので、利用者の状況や職員の様子など、ある程度わかっているつもりです。
特養、老健のいずれも、徘徊防止の趣旨で、少なくとも各フロアー内は自由に動けても、別のフロアーには移動できないようにエレベーターとか非常階段は職員を介して出ないと利用できないようにしています。
他方で、サ高住だと、基本、利用者の自由な移動を認めていますから、認知症の方だと、自由に外出して徘徊することになり、職員は大変な思いで探し回ることになりますね。
そういった場合サ高住の施設長がもっぱらその責任を負っているようで(老健とか特養は施設長が医師だったと思いますから、かなり職務内容が違うでしょうが)、NHKで取材した2つの施設の施設長の考え方に大きな違いがはっきり現れていました。
最初の施設長は、介護の精神にもっぱら特化し、自分の眠る時間や食事時間などを削っても、その幻覚、奇声、徘徊する認知症利用者(番組では100歳でした)を必死に対応したり、探したりしている姿が印象的でした。人を増やしてもらうにも、施設経営が赤字のため、現在の人員で対応しないといけないのです。サ高住の場合、施設利用者の要介護度が2以下のため、介護報酬が低く抑えられており、他方で、認知症による介護サービスの増大について報酬加算されていないことから、認知症利用者を引き受けると、介護職員の負担が過重される結果となるのですね。
徘徊や重い認知症の利用者を引き受けているサ高住では、施設長の負担が過重過ぎ、今後将来も持続するのか懸念されます。
現在においても有吉佐和子著『恍惚の人』の状況はあまり変わらないかもしれません。誰かが担わなければならないですが、この施設長のように、何人もの認知症の利用者に一人で対応するのはあまりに酷だと思います。
他方で、NHKが取り上げた別のサ高住の施設長の場合、経営の合理化を優先して、入所者の選別を厳しく行い、認知症患者を引き受けなかったり、介護報酬の高い要介護度3以上で移動しない(寝たきりとか座り放しとか)高齢者を受け入れているそうです。
こういった施設は病院との連係という形の営業が大事で、この施設長は各病院に連絡して入院患者で退院予定の方に自分のサ高住に入所適格者がいるかどうか事前に審査し、適合すると入所手続を行っているのです。サ高住も持続しないと利用者に迷惑をかけることになり、その点ある程度はこの施設長の立場も理解できますが、それではサ高住を新設した意義を失うことになりかねないと本末転倒という思いもします。
しかし、現行制度、とくに要介護認定・介護報酬制度が高齢者のうちとくに85歳を超えると認知症罹患率が55%となっている現状に、適切に対応できていないこと結果という面も否定できないので、上記施設長の対応だけを批判するのはどうかと思うのです。
そういえば、特養でも老健でも、施設利用者の多くは表情がほとんどなく、座りっぱなしとか、寝たきりとかの状態をよく見かけます。それはその方が介護サービスがスムースにできる、人員不足の中で所定時間内に必要なサービスをこなすにはやむを得ないと考える職員、経営者の考えが見えてくるような気がします。それは言い過ぎかもしれません。
ただ、これまでの介護報酬だと、リハビリとか、ユマニチュードで、利用者の状態が改善してどこかがよく動くようになったり、話せなかったのが話せるようになったとしても、介護報酬にはなんの影響もなかったのですね。医療では病気を治療すれば、報酬が発生しますが、介護では要介護度に応じた報酬という、改善が反映しない制度になっています。たとえば、リハビリで改善すれば利用者や家族は喜びますが、要介護度が下がれればそれだけ介護報酬が下がるのですから、施設の採算上は、うれしいとはいえないでしょう。
このような制度を反映したのが先に述べたような経営合理性を追求する施設長のようなやり方なのでしょう。
ようやくリハビリなどで改善した場合に成功報酬がでる様な制度が試験的に導入されたようですが、身体障害といった問題だけでなく認知症の症状改善など、精神面での改善をも視野に入れた介護報酬の抜本的な改善を検討してもらいたいものです。
本日のお題との関係がはっきりしなくなりました。最後に何を書こうとしたかとの関係で、無理矢理ツケ刃しておきます。
高齢者の場合、いつ認知症の症状が発症するかもしれません。いや様々な病気でいつ寝たきりになるか、そこまで行かなくても五体満足のどこかがおかしくなるのはいつでもありうることです。私もその一人と思っています。
その場合を予期して、どういう生きるか、たとえば上に上げたサ高住、老健、特養などの施設選択を早期に検討するのも一つでしょう。いやいや自分は家で最後まで過ごすと覚悟を決めるのも一つです。その場合家族を頼りにするのも一つですが、その負担を考えれば、あるいは先に誰が亡くなるかもしれないのですから、孤高に生きることの意義を今のうちから考えておくのも重要なことかと思うのです。
終活なんてことばがはやっていますが、もっと重要な意義がある事柄で、単に施設選択といったレベルではなく、生き方の選択こそ本当はここで問われているのだと思うのです。ある時期までは自分の仕事、家族のため、生きてきたかもしれません。ある時期からは自分自身の生き方を真摯に考える必要が、死に方とともに重要ではないかと思うのです。
私のブログがいつかその本質に近づくことを思いながら、今日はこの辺でおしまいとします。また明日。
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