脚と角

関西を中心に国内外のサッカーシーンを観測する蹴球的徒然草。

喜怒哀楽の真髄は蹴球にこそ有り。

最後の最後まで<日本的RUN>!

2008年11月01日 | 脚で語るJリーグ
 C大阪の森島寛晃が今季限りでの現役引退を表明した。1年半に渡って原因不明の首痛と戦い続けたものの、完治の兆しが見えず、苦渋の決断を下す形となった。Jリーグ通算360試合出場106得点という偉大な記録を残して、皆に愛された選手がユニフォームを脱ぐ。

 おそらくチームの垣根を越えて、日本全国のサッカーファンに愛された選手ではないだろうか。所属クラブも、91年のヤンマー入団以来、18年間C大阪一筋を貫いた。日本代表としても国際Aマッチ64試合出場12得点。98年フランス、02年日韓と2大会連続でW杯にも出場。所属クラブのホームスタジアムでもある長居で戦った、02年大会のグループリーグ第3戦チュニジア戦では、日本をベスト16に導く決勝点を決めたのは語り草になっている。

 “彼の小さなステップの<日本的RUN>は相手のテンポを狂わせる。この日の彼は追加点はなかったが、先制ゴールだけでなく日本のペースを変え、中田英寿のキープをしやすくし、市川の右からの攻撃をより効果的なものにしていた。(中略)ヒーローとなった森島について、名コーチのクラーマーは「試合を変えられる男」「日本的なプレーヤー」と語り、私と同じ意見だった。”

 2002年の日韓W杯が終わったあと、サッカージャーナリストの賀川浩氏は『W杯の記録』(月刊サッカーズ8月号増刊)にて、このように寄稿されている。<日本的RUN>という表現や、「日本的なプレーヤー」という形容がまさに彼の真髄を一言で表すにふさわしい。小柄ながら、得点力も兼ね備え、日本人特有の運動量をフルに活かして、攻守に計算できる森島のプレーは、華やかさに媚びることなく、誰の目をも釘付けにした。

 個人的に森島を初めて観たのは、1994年10月16日に長居第2陸上競技場で行われたJFL第29節、C大阪VSNEC山形(4-1でC大阪が勝利)だった。翌年のJリーグ昇格を目指すC大阪は、柏レイソル、PJMフューチャーズ(鳥栖の前身)、京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)というJリーグ準会員四つ巴に藤枝ブルックス(現アビスパ福岡)も含めた熾烈な上位争いを繰り広げていた。その次の試合(VS藤枝)で見事にC大阪はJリーグ昇格を決めるのだが、贔屓にするG大阪の成績がパッとしないのもあって、当時小学6年生の私にとっては、若きチームのシンボル森島を中心に弾けるC大阪のエネルギーが眩しく感じられたものだった。

 その年の天皇杯でC大阪は台風の目となった。V川崎(現東京V)、浦和、横浜M(現横浜FM)を次々と下し、一気に決勝まで進出。平塚(現湘南)に惜しくも敗れ、準優勝だったが、その躍進の中心には森島がいた。案の定、翌年のJリーグでは早速ベストイレブンに選出され、そこから日本代表としてのステップアップなどは周知の事実である。Jリーグの盛り上がりと共に彗星の如く現れ、日本サッカーの発展において彼の存在無くして語れないほどの名選手となった森島には、頭の上がらない思いだ。

 “今季限りの引退”ということで、森島には冒頭に書いた通算成績を上積みできる可能性がある。いや、是非とも通算成績を1試合でも増やして、ユニフォームを脱いで欲しい。<日本的RUN>は常にチームに貢献すべく、最後の最後までその走りを止めないはずだ。

 ありがとう、森島寛晃。これはサッカーファンなら誰もが送るべき賛辞だ。