東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

島津山~高輪への抜け道

2010年04月05日 | 散策

桜田通りの下大崎坂を上るが、途中、階段があったので下り、下の道を歩く。大きな通りはつい敬遠してしまう。このため、後で気がついたが、下の道から雉子神社へ上る階段がなく、ここには行けなかった。

東五反田一丁目を南側に歩く。この辺りは下町の雰囲気である。

交差点を左折し反転するようにして、こんどは北側に向けて歩く。桜田通りに向けて緩やかな上り坂となっている。

途中で右折すると、島津山に上る階段が見える。この階段は、松本泰生「東京の階段」に紹介されていた。

階段を上ると高台で、島津山の一角である。

島津山は、東五反田三丁目にある小高い丘で、寛保3年(1743)仙台藩伊達家の下屋敷として開発されたが、明治になって旧鹿児島藩主の島津公爵の邸宅となったことが地名の由来というからそんなに古いものではない。

その後、紆余曲折があったが、昭和36年(1961)清泉女子大学が日本銀行から土地と建物を購入し、昭和37年(1962)4月に横須賀から大学が移転した。

地図をみると、清泉女子大学が島津山の中心に位置し、ほとんどを占めているように見えるのは以上の理由による。

大正時代に旧島津公爵邸としてイギリス人建築家ジョサイア・コンドル氏により設計されたイタリア・ルネサンス様式の洋館がキャンパス内に残っているとのこと(旧島津公爵邸案内)。

「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)の高輪辺絵図に、松平陸奥守(仙台藩伊達家は松平姓を許された)の屋敷がのっているが、周りは畑や田で、目黒川が流れ、近くに雉子宮がみえる。当時は現在から想像しにくいが田園風景であったのであろう。

階段を上った所からまっすぐに延びている通りを進むと同じような階段がある。この通りは大学のちょうど裏手にあたるが、通りの両端が階段であるため台地であることを実感できるのがおもしろい。

この階段を下ったところの通りは、御殿山の広い通りと高輪台方面とを結ぶが、この通りを御殿山方面に右折し、ちょっと進んでから左折すると、高輪方面への抜け道となっている階段がある。

右手に北品川6丁目2のプレートがあった。

上記の松本泰生「東京の階段」にある階段で、これを見て訪れてみたかったところである。高輪のS字型抜け道階段として紹介されている。

地図をみると、この道が示されているが、このような階段であることはわからない。

今回、池田山への計画を立てたとき、島津山にある上記の階段が下大崎坂の近くにあり、さらに調べると、この抜け道階段も近くであることがわかったため、計画に入れた。同書にある階段の写真がすばらしく、その古びた階段の様子が記憶に残っていたのである。

今回の街歩きの目的の一つであった。

入口の階段を上り、右に曲がって行くと、まっすぐに道が延びている。

同書の写真を見ると、左側に蓋のない溝が延びており、フェンスのあるもっとも狭いところは溝しかなかったようであるが、現在は、溝に蓋が被されて、狭くなっている部分も蓋の幅よりもかなり広くなっていて通りやすくなっている。

右手のフェンスはそのままのようであるから、左手の石垣であった壁を改修し、こちら側を広くしたと思われる。

壁に葉が延びているが、植物の蔓が絡むように縦に糸が張ってあり、法面全体を緑化するつもりなのであろう。

直進すると、右手が古びた階段で、左側が新しく広くなった歩道となっている。

左側に緩やかに曲がっており、よいカーブとなっている。

松本の著書の写真と比べると、左側の歩道が新しく広くなった分だけ古びた感じがなくなっているが、右手の古びたむかしの階段を残したところがよいと思う。これが全部新しい階段になったらかなり興ざめになるような気がする。

上った所に高輪4丁目14のプレートがあった。この高台から島津山方面も見える。ここは高輪の台地西側の端にあたるのであろう。

上った所から延びている道をまっすぐに東側に下ると品川駅に至るので、この抜け道は品川駅への近道であることがわかる。
(続く)

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