本日の朝刊「日報抄」に魚沼市旧堀之内地区における、映画館と観客の歴史回顧録が記載されていた。 今日16時からの「子供文化祭」、第一回実行委員会時、O課長がコピーをしてくれた。
1910年代の映画と観客の歴史「街の記憶、劇場のあかり」の回顧録が記載されている。
貧乏な家庭の児童と地域住民のやさしさが伝わってくる。 「活動写真が地域に来る、全校生徒で見ることになった、親から五銭もらって見るように」 と先生、「貧乏な子がほかの子と同じ気んなんな」と言われるに決まっている、親にねだられないでいる子供
「ねらなんでカツドウ見にいがんがった」 「銭がねえがんに」「家の衆にもらえばいいもさ」「くんねえがんに」「ほうか」
屋根職人と児童の会話、最後に「これで見て来い」 小さな手に五銭玉握らせた。
貧乏の家を思う子供の「いじらしさ」とまた、多くを語らず屋根職人の「ほうか」にこの地域のあたたかさがにじみでている。
時代は巡り、月日は100年過ぎたが、地域と子供たちの繋がりは変わりたくない、市内児童、生徒主役の地域文化祭の実行委員会立ち上げの本日、この記事に接した事はなにかの因縁を感じる。 この地域の「あたたかさ」は次の世代にも繋いでいく責任がある。
それじゃ、また
なにか現代のギスギスした人の心が悲しくなりますなー。 「見上げたもんだ 屋根屋の褌」ってかー。 (とら)
本当に「俺さえよければ」の最近の風潮に憂いを感じている一人です。
ところで「見上げたもんだよ、屋根屋の褌」ってそゆうとこで活用するんですか
勉強になりました。