「イタリアに行きたくなった」と「イタリアに行きたいと思った」は違うように、
何かを(したくなった)と(したいと思った)は違う。
言葉が違うと認識が違うものだということがよくわかる。
たくさんの(したいと思うこと)がある。
イタリアに行きたいと思う気持ちはある。
ベトナムにも行きたいと思う気持ちはある。
そういう気持ちがないわけじゃない。
でも、今、イタリアに行きたくなってない。
「なってる」とか、「なってない」というのは今の“状態”を表わす言葉で、
「思った」はその瞬間の顕在意識である意志や意思を表わすものと思う。
まるで違う。
まぁ、何らかの理由で、そうは思ってないけど、「そう思った」という表現をすることはあるかもしれない。
そういう場合の心境は嘘を“つきたくなった”だろうな。
嘘も方便で、嘘を言うことで真実を表わすこともあるから、いろいろと面白いもんだ。
コレは脱線。
「『思う』が論理力を破壊する」とか、
「思う」とか「思います」をなるべく使わないことが論理的に思考できることじゃないか、
なんていうのがこの前の「日本人の知的風土」という本にあって、
それはそれで一つの考えだということはわかるし、
そういう面もあるのだろうけれど、
そう簡単なもんじゃないんじゃないか、という気がどうしてもしてしまう。
なぜ、こんなふうに日本語の言葉遣いに拘っているのかというと、
いや、なぜ、日本語の表現に関心があるかというと、
山岸さんの青い本に「まず日本という国から」とかいう文章が確かあった。
その理由についてはナンタラあったけど、
何故日本という国からなのか・・・いろいろ思う・・・
それは青い本を書いた山岸さんが日本人だから・・
当時の人口やら土地の狭さやら敗戦という出来事やら・・・
青い本の最初に日本の神話を引用してることも何かあると思ってる私でもあって・・・
いま、思っていることは・・
「まず日本から」という表現が出現したわけに、
日本語という言葉が作用してるという仮説を持ってるんだ。
確かに日本人の一人一人は際立っている。
震災後の日本人に対する世界の報道を見ても、そう思わざるを得ない。
組織になるといろいろ・・だけど、一人一人の日本人の、
自然にしてしまう個人的振る舞いは他の国の人と明らかに違う。
言語が心に影響を与えないわけがない。
実際、月本洋さんの「日本人の脳に主語は要らない」に、
同じ内容を日本語で話す時と英語で話す時では脳の使われ方が違うというのもあったよ。
腹が立ったとき、「糞おぅっ!!この野郎ぉ!!!ふざけんじゃね~よぉ!!!」
・・なんて言うと、ヒートアップ確実だしね。
これはその本と関係ないことと思うけど。
「あそこをごらんになって、お母様、きれいな鳥が飛んでいてよ」なんて言っても、
気持ちはまるで違うものになる。
そういう効果も言葉は持っている。
言葉を発することで心の状態が変わることなんかいくらもある。
そんなんやらなんやらでいろいろと日本語の使い方を観察し、吟味してしまう。
何かを(したくなった)と(したいと思った)は違う。
言葉が違うと認識が違うものだということがよくわかる。
たくさんの(したいと思うこと)がある。
イタリアに行きたいと思う気持ちはある。
ベトナムにも行きたいと思う気持ちはある。
そういう気持ちがないわけじゃない。
でも、今、イタリアに行きたくなってない。
「なってる」とか、「なってない」というのは今の“状態”を表わす言葉で、
「思った」はその瞬間の顕在意識である意志や意思を表わすものと思う。
まるで違う。
まぁ、何らかの理由で、そうは思ってないけど、「そう思った」という表現をすることはあるかもしれない。
そういう場合の心境は嘘を“つきたくなった”だろうな。
嘘も方便で、嘘を言うことで真実を表わすこともあるから、いろいろと面白いもんだ。
コレは脱線。
「『思う』が論理力を破壊する」とか、
「思う」とか「思います」をなるべく使わないことが論理的に思考できることじゃないか、
なんていうのがこの前の「日本人の知的風土」という本にあって、
それはそれで一つの考えだということはわかるし、
そういう面もあるのだろうけれど、
そう簡単なもんじゃないんじゃないか、という気がどうしてもしてしまう。
なぜ、こんなふうに日本語の言葉遣いに拘っているのかというと、
いや、なぜ、日本語の表現に関心があるかというと、
山岸さんの青い本に「まず日本という国から」とかいう文章が確かあった。
その理由についてはナンタラあったけど、
何故日本という国からなのか・・・いろいろ思う・・・
それは青い本を書いた山岸さんが日本人だから・・
当時の人口やら土地の狭さやら敗戦という出来事やら・・・
青い本の最初に日本の神話を引用してることも何かあると思ってる私でもあって・・・
いま、思っていることは・・
「まず日本から」という表現が出現したわけに、
日本語という言葉が作用してるという仮説を持ってるんだ。
確かに日本人の一人一人は際立っている。
震災後の日本人に対する世界の報道を見ても、そう思わざるを得ない。
組織になるといろいろ・・だけど、一人一人の日本人の、
自然にしてしまう個人的振る舞いは他の国の人と明らかに違う。
言語が心に影響を与えないわけがない。
実際、月本洋さんの「日本人の脳に主語は要らない」に、
同じ内容を日本語で話す時と英語で話す時では脳の使われ方が違うというのもあったよ。
腹が立ったとき、「糞おぅっ!!この野郎ぉ!!!ふざけんじゃね~よぉ!!!」
・・なんて言うと、ヒートアップ確実だしね。
これはその本と関係ないことと思うけど。
「あそこをごらんになって、お母様、きれいな鳥が飛んでいてよ」なんて言っても、
気持ちはまるで違うものになる。
そういう効果も言葉は持っている。
言葉を発することで心の状態が変わることなんかいくらもある。
そんなんやらなんやらでいろいろと日本語の使い方を観察し、吟味してしまう。