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あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

牧浜に出かけて③ 豊島富美志さんのこと

2012-09-04 10:15:59 | インポート

豊島さんとは、初めての出会いでしたが、その存在感に圧倒されると共に、あたたかい人柄やさまざまな苦難を乗り越えてきた生き方にふれることで、新たな元気をいただいたような気がしました。

豊島さんとは、1日目のお昼の時間帯に話を聞く機会がありました。集会所をちょっと上ったところに杉林に囲まれた神社があり、そこから海に向かって下るように石段がありました。その一画に座って休んでいた豊島さんを見つけ、そこでいろんな話を聞くことができました。

○震災以来、休む暇もなく、地域の対策本部長として 被害の状況把握、必要とする物資の手配、行政や関係当局との渉外活動、届けられた物資の整理と配布、自衛隊を初めとする訪れた支援者のお世話と調整等、多忙な激務が続いたようです。復興に向けて牧浜5地区が一つにまとまり、一体となった取り組みができるよう、細かいところにも目配りや気配りをしながら本部長としての仕事を進めてこられたようです。地域で一番最後に電気と水道が通ったのが、豊島さんの自宅だったとのこと。そのことを当然のように話す言葉の内に、豊島さんのあたたかい人柄を感じました。自分のことより地域の再生を第一に考えてきたところに、まとめ役として頼りにされ本部長として信頼されてきた人間性を強く感じました。自ら灯台となって進むべき道を照らし、地域の方の思いを汲み取りながら、歩まれてきたのだと思いました。現在、対策本部が解散され本部長としての仕事は解かれたようですが、豊島さんは次の仕事に取り組んでいるとのことです。それは、これまでの取り組みや経験を本にまとめ、同じような災害に備えたり、災害が起こった場合の一助にしてほしいと考えているからです。本からは、体験を基にした具体的な対策を知ることができるだけではなく、災害に立ち向かう心のもち方も学ぶことができるのではないかと思いました。

○豊島さんは、自らの生い立ちについても話されました。家計が苦しい状況だったので、15歳で故郷を離れ、三重県にある漁業会社に就職されたとのこと。漁師として独り立ちするための術をそこで4年間学び、故郷にもどってきたそうです。初めの頃は望郷の念に駆られたそうですが、2年間は帰郷せず、頑張り通したとのこと。故郷を想う時、浮かんできたのは、地域の伝統芸能である獅子舞だったそうです。ところが、帰郷した際にその獅子舞が行われなくなったことを知り、落胆したそうです。地元にもどってから豊島さんが取り組んだのが、獅子舞を復活させることでした。以来、学校で獅子舞を指導するようになり、後継者の育成と獅子舞の復活に努められてきました。震災後には、シャワーの提供やがれきの撤去に尽力する自衛隊の皆さんに、感謝の気持ちを込めて獅子舞を披露したそうです。獅子舞は故郷そのものであり、地元の人にとっても、かっての自分のようにそこを離れた者にとっても故郷と重なる大切なもの。その思いは、震災を経験することでさらに強いものになったようです。継承する子どもたちにも、その思いを理解し心を込めて舞ってほしいと豊島さんは願っています。

○故郷に戻ってから、豊島さんは大ケガをしてしまい、7カ月間入院するという災難にあいます。播き網の機械に、腕を播きこまれてしまうという事故でした。腕にはくっきりとその時の傷痕が残っていました。神経もやられ、腕を動かすことが難しい状態の中、懸命にリハビリを続けたそうです。とても苦しく辛い7カ月間だったとのことですが、治ろうとする意志を人一倍強く持ち努力することで、指も動くようになり元の生活ができるようになったとのことでした。こういった強い意志が、震災にあっても負けずに復興の柱となって活躍する 源になったのではないかと思いました。

○人とのつながりや出会いを大切にしたい。この思いが、一日目の夜に開催していただいた『心からのおもてなしの会』にあふれていました。新鮮な魚介類を捌く手を見つめながら、汗だくになりながらつくる「あら汁」を味わいながら、その思いもかみしめていました。ボランティアとして したこと以上に、受け取るものの方が はるかにあたたかく 深いものがあるように感じました。まだまだ大きい光は見えないものの 復興・再生という 光に向かって 一歩ずつ歩む 牧浜地区の皆さん(他の被災地の皆さんも含め)の笑顔に接することができ、私も戸井さんと同じようにすがすがしい気持ちになりました。

牧浜のような小さな漁村の被災地は、たくさんあります。港を歩いてみると、まだ倒壊したタンクなどは横倒しのままで、岸壁は海に向かって傾き、あちこちにひび割れが見られます。全体が下がった状態なので、潮が満ちてくると水没してしまう箇所もあります。岸壁全体の底上げが必要なのではないかと思いました。こういった小さな漁村にも、行政や国による支援の手が早急に行き渡ることを強く感じました。

地元の若者の話によれば、漁具を購入する際に国からの補助金は出るものの、それは購入した後からもらうことになっており、購入する際には自分が全額負担することになるとのことでした。本当に補助金がもらえるのかどうか、不安もあって慎重にならざるを得ない面もあるということでした。また、被災状況が人によって異なっており、軽微な被害ですんだ人もいれば、家や家族を失った人もいて、復興に向けての心意気や構えが一律ではなく、これからかかる経済的な面での負担にも違いがあるということを話していました。一人一人の状況や必要性に応じた、きめの細かい援助や支援が求められているということを感じました。

復興の光が見えても、まだまだ厳しい現実の中に被災地が置かれていることを実感します。一人でできることには限りがありますが、改めて自分のできることを実践する中で、少しでも被災地の力になることができたらと思います。


牧浜に出かけて② 戸井雄一さんのこと

2012-09-03 09:37:26 | インポート

               戸井さんから学んだこと

今回の活動の主役は、K氏がかって担任し、マッサージ師となった戸井さんです。塩釜市内の小学校5年の時に目の病気にかかり、やがて失明してしまうのですが、盲学校から按摩・マッサージ師を目指し、現在は大阪で開業している方です。これまで、仙台市の避難所でマッサージのボランティアに取り組んだ経験もお持ちです。

30日の11時過ぎから翌日のお昼近くまでマッサージを続け、のべ21名の方の体のケアにあたりました。マッサージの間には地元の方の話に真摯に耳を傾け、体だけではなく心の面でのケアにも努めていました。休む間もない献身的な取り組みに、戸井さんの疲労も心配になりましたが、疲れは全く感じず、かえって充実感やすがすがしさを感じているとのことでした。痛む腰や肩、手足が「楽になりました」と感謝の気持ちを込めて語る言葉に、本人の疲れも吹き飛んだとのこと。その姿勢には、私自身頭が下がりました。ボランティアとしての大切な心のもち方や取り組む姿勢に、深く学ぶものがありました。

行き・帰りの車の運転を担当した私は、車内での戸井さんとの会話からも、いろいろなことを考え、学ぶことができました。

○どんな交通手段で宮城までやってきたのかとたずねたところ、大阪から飛行機で仙台空港に向かい、空港からは鉄道を乗り継いで来たとのこと。自宅から空港までは、荷物があったので、エスコートしてくれる方に付き添ってもらい、飛行機の乗降の際には航空会社の人に、鉄道の乗り継ぎには鉄道会社の人に付き添ってもらってたどり着いたとのこと。各交通機関には、障害のある方をサポートする人員が配置されているということでしたが、人手不足や交通機関を運営する会社間の連携不足もあって、時にはその場に待たされたり、先に進めないという状況になることもあるとのことでした。利用する側の立場に沿って、十分な人員の配置やスムーズな連携がなされ、障害をもった方も安心して交通機関を利用できるような体制づくりを強く望みたいと思います。共生社会の実現のためには、さまざまなハンディを持った方が安心して生活できる環境を整えていくことが必要であり、同時に健常者の側からよりそっていくような温かいサポートが求められているのではないかと思いました。

○戸井さんが町の中で、通行人に目的地までどれぐらいかかるか聞いた時のことだそうです。その方は、「まっすぐ行った、ちょっと先にあります。」と教えてくれたとのこと。T氏にとっては、ちょっとなので、2・3軒先なのだろうと思って歩いていったものの、実際にはそこから何百メートルも先に目的地はあったとのことでした。目の見える人にとっては、視界に入る範囲内にあるものは、ちょっという感覚でたどりつける場所になるのだということを改めて知ったそうです。T氏自身が、目が見える時期を過ごしていたので、その時の感覚と見えなくなってからの感覚の違いを、「ちょっと」という表現から実感したとのことでした。目の見えない人にとっては、一歩一歩が意識して前に進む歩みであるからこそ感じる「遠さ」なのかもしれないと思いました。小さなことかもしれませんが、こういった感覚の違いを理解することが、障害を持っている方に真によりそうという心に つながっていくように感じました。

○盲導犬の利用について、戸井さんは語っていました。杖の音や感触、足の裏の感覚、耳や鼻・肌で感じるもの、そういった感覚を 盲導犬に頼ることで失われてしまうような気がしている。自分の感覚に頼ることで、自分の力で生活する努力を続けていきたい。マンションの一室が彼の住居兼マッサージ室となっており、部屋の掃除等手の届かないところはハウスキーパーの人に依頼しながらも、店の経営者兼マッサージ師として働き、自立した生活を営んでいるとのこと。生きる強さと前向きな姿勢に、感動しました。ボランティアの場所となった地区の集会所は、初めての場所だったわけですが、戸井さんはその間取りや施設(手洗い所やトイレ)を初めに覚えると、介助の手を必要とせず、自分で移動し行動していました。身につけてこられた生活力の一端を見たような気がしました。

戸井さんとK氏との間に流れている温かい信頼の絆には、教師と教え子という師弟の間柄を超えた 志を共有する人間同士の深い結びつきも感じました。その土台には、子どもたちと確かな学びのもとで育んできたものが生き続けている印象がありました。戸井さんの生き方の中に、その種が大きな花を咲かせているような感じがしました。

ある意味で 教育とは、子どもたちと一緒に汗を流し種を播くことなのかもしれません。やがて子どもたちは自らの力でその種を大きな花に育てあげていき、自らの人生を豊かに幸せに生きていくように思います。これまで出会った子どもたちがどんな花を咲かせていくのか見守っていくことも、教師としての大きな楽しみのひとつなのかもしれないと思いました。

戸井さんとの出会いをつくってくださったK氏に、心から感謝したいと思います。


石巻・牧浜に出かけて その1

2012-09-03 09:36:24 | インポート

8/30・31日と1泊2日で、牡鹿半島にある牧浜という所に出かけてきました。敬愛するK氏(鎌田さん)が代表となって結成されたボランティア団体(桜士・さくらもののふ)の一員として、参加しました。牧浜地区とは、K氏を中心にこれまでも様々な支援交流活動が積み重ねられてきたのですが、実際に現地まで出かけるのは、私自身にとっては今回が初めてとなります。活動のメインは、マッサージ師のT氏(戸井雄一さん)を中心とした活動で、地域の方の体と心によりそう支援として取り組みました。

私は、側面からのお手伝いとして、往復の車の運転、地元保育所の子どもを対象としたシャボン玉遊び、マッサージに訪れた方のコーヒー接待等を担当しました。

1日目の夜には、地元の方の心からのおもてなしの会があり、ヒラメやカツオのさしみ、ウニ、タコ、3種類の魚を煮込んだあら汁など、新鮮な魚介類に舌鼓をうちながら、語り合いました。震災以来のさまざまな苦難を乗り越え、一歩ずつ復興に向けて歩んでおられる姿に、深い感動を覚えました。ご夫婦で参加された方の話で、震災当日に携帯電話を通して奥さんがハートマークのメールを送ったエピソードを聞きました。奥さんにとって、一番大切な人はご主人であり、ご主人にとってもかけがえのない奥さんが無事であることを知って心から安心したとのこと。あたたかい夫婦の絆にふれて、心の中まで熱くなりました。

今回の活動を通して、私は二人のすばらしい人物に出会うことができ、たくさんのことを学ぶことができました。一人は、マッサージ師の戸井雄一さん。もう一人は、震災後に地元5地区のまとめ役となり対策本部長として尽力され、心からのおもてなしの会を開いてくださった 豊島富美志さんです。二人の人物については、その紹介が長くなりそうなので、それぞれ新たな紙面で紹介したいと思います。