春夏秋冬

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夏の思い出(10年前)

2021年09月05日 | 日記

「2011年7月の法隆寺夏期大学のこと」

実質3回目(2021年現在は9回目)。

本年の参加者は名簿での数571人中、奈良県人275人。静岡17人。東京50人。大阪57人。京都10人。など。

九州はゼロ。岡山から西はほとんどいません。

参加回数5回以下はほとんど初心者扱いです。

ホテルにいた年配の男性は30回目だと言ってみんなを呆れさせていたが、「おれより20回多い人がいるよ」ということは50回の人がいるわけで驚かされます。

朝8時30分から法隆寺宝蔵館をじっくり見学してきました。

閉門間際の薬師寺も静かでよかったが、朝一番の参観もまたいいですよ。

ほとんど人がいないので、じっくり見ることができます。

建物に入るとすぐに目の前に国宝「夢違観音」や、国宝「地蔵菩薩」がつぎつぎ目の前に現れる。

この地蔵菩薩立像(国宝)は明治の廃仏毀釈のときに、処分しきれなかった奈良のお寺から譲り受けたものなので、ほとんどの仏像が飛鳥時代、奈良時代のものなのに、これだけは平安時代です。

地蔵菩薩立像はどっしりと大きくて素晴らしいものだと思うが、材質を見ると「ヒノキ」になっている。

館内にいた関係者に、「材質は桧なんですねえ」と軽く質問したら、「いやそれは榧(かや)の間違いです」と驚くような返答が・・・

榧といえば碁盤の材料として最高級品で、日本ではすでに採取できないものらしいのに、直径1mくらいないとあの地蔵菩薩はできないだろう。

「何べんも訂正するように言っているのにお寺が直さないものだから」とぼやいていました。

明治の廃仏毀釈のとき、相当な量の宝物を国家に差し出して、当時法隆寺にいたお坊さん350人の食い扶持として1万円もらい、宝物は現在国立博物館の中の法隆寺館に保存されているとか。

「法隆寺のお坊さんは全部で何人いらっしゃるんですか?」

「13人です」

「えー、こんなに大きなお寺でたった13人ですか?」

「そのうち大野という姓が4人いるんですよ」

???????

薬師寺の場合。

かの有名な124代高田好胤さんの前にまだその上の伝説的な師匠(橋本凝胤)があったらしく、125代松久保秀胤があって、126代安田暎胤さんも素晴らしかったのに、すでに後輩に道を譲って(127代山田法胤)現在は長老として活躍しているし、人材の育成、写経勧進の活動など、伝統的に説法が巧みで、経営力がある(現在はまた代替わりしています)。

夏季大学の参加者が、「今朝8時の鐘をついていたのが、女の事務員だったよ。あれはないね。せめて鐘くらい坊主がつかなきゃ。」とすこぶる憤っていました。

この年は特別に4日間の最終日にバスで見学ツアーが開催されました。

「叡福寺」(磯長廟)

聖徳太子の廟があるところです。

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法隆寺門前の駐車場を出発、バス8台に分乗して300人以上の人数で1時間かけて大阪に入ったところにあります。

バスで隣りに現地でシルバーボランティアガイドをしている**さんという人が座ったので、いろいろ参考になる話も聞かせてもらった。

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3号車のガイドさん、なかなかの美人、いい年をした中高年の男性がガイド嬢のケータイの番号を聞きだしていたのを見て、ちょっと呆れた。

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磯長廟に到着すると真っ先に法隆寺のお坊さん7名くらいが、「上宮太子賛歌」を唱えだす。

これは8分30秒かかることがわかっていたので(毎朝聖霊院で最後に唱えられる)、私は日陰へ移動しつつ写真撮影。

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反対側から見るとこのような感じ。

4日間でもっとも暑かった。

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菊のご紋があるので宮内庁管轄だとわかる。

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お墓は宮内庁で、祭祀を行うのは地続きの叡福寺。

境目なし。

神仏混合の代表ではないだろうか。

 

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後ろを振り向くと山門から叡福寺全体が見える。

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山門の額。

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中央、遠くに見えるのが山門。

その向こうに聖徳廟がある。

左手は金堂。

金堂の中に全員がひしめき合って座って、住職のお話(寺の由来、太子の話など)を聞く。

そのあと隣りの建物(聖霊院)で襖絵を見たり、宝物館を見学したり。

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袈裟の着心地はどうなのかな?

意外に日よけになって涼しかったり。

でも帽子をかぶるわけにはいかないので、頭は汗びっしょりでしたよ。

聖徳太子の乳母は、

日益(ひます:蘇我馬子の娘)、月益(つきます:小野妹子の妹)、玉照(物部守屋の妹)

この3人ということになっている。

蘇我馬子の娘が乳母で、聖徳太子の妻の刀自古郎女も蘇我馬子の娘、というのはちょっと納得がいかないが・・・

現地での説明では、3人の乳母はそれぞれ蘇我馬子、小野妹子、物部守屋の娘だと言っていたが、ちょっとできすぎだと思って調べたら、やはり少々違っていた。

聖徳太子ほどの人物になるとつぎつぎ伝説が生まれてくるので、どこまでが許容範囲か判断が難しい。

太子は黒駒(馬)に乗って、富士山を飛び越えて日本を見て回ったのち、西の方へ戻ってきてこの磯長の地が墓所にふさわしいと選んだそうだが、もともと西方地域が墓所に適しているのはエジプトのルクソールを見ても同じで、わざわざ富士山を飛び越えて東方を見る必要などなかったのではないのかと突っ込みをいれたい心境。

このあたりはたくさん天皇陵がある。

宮内庁も管理が大変だね。

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以上、昔のブログにあった記事と写真をここへ貼り付けたのですが、こんなに簡単にコピーできるのではかえって恐ろしい感じがします。

個人名や失言もどきは削除しました。

ブログは両刃の剣ではありますが、この叡福寺参拝のことをここまでメモしておいたので、当時のことがまざまざと思い出されました。

この記事はちょうど10年前に私が書いたもので、いまではこのような見方書き方は到底ありえません。

『大日経』にある十喩、幻、陽炎、夢、影、乾闥婆城、響、水月、泡泡、虚空華、旋火輪・・・を見ているような気がします。

 

 

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