武田信玄が創建したと伝わる「甲斐善光寺」に参拝して来ました!
甲斐善光寺は甲州善光寺とか甲府善光寺とも呼ばれていて
武田信玄が1558年に創建したと伝わっています
「山門」
桁行が約17m、梁間約7m、棟高約15mの大きな朱塗りの
山門で両脇には未完成の金剛力士像が祀られています
正式名称は「定額山 浄智院 善光寺」と云います
甲斐善光寺は武田信玄が川中島の合戦の折に、信濃善光寺に兵火が
および焼失するのを恐れて1558年に本尊の善光寺如来をはじめ
諸仏や寺宝を甲斐のこの地に移したのが始まりとされています
「本堂」
「本堂入口」
現在の本堂は1796年に再建されたもので善光寺特有の
撞木造りで桁行38m、梁間23m、高さ26mの建物は
東日本最大の木造建築物になっています
「善光寺の片詣り」
善光寺の始まりは遠い昔、推古天皇の頃(西暦593~628年)に信濃の
本田善光が大阪難波の堀江という処から本尊の善光寺如来像を持ち
帰って現在の飯田市に安置したことが始まりと伝わっています
後に、飯田市から信濃の長野市に移されたことで飯田の善光寺のことを
「元善光寺」と呼び、信濃と飯田の双方にお詣りすることが本当の善光寺
詣りと云われています。また「信濃善光寺」の本堂は南向きに建てられて
いて阿弥陀如来の善光寺如来像を本尊として未来往生を願いにしています
一方で本堂が珍しく北向きに建てられている長野県上田市の「常楽寺」は
千手観音像を本尊として現世利益を願いにしていることから北向き観音
と呼ばれ、現世と未来の片方だけのお詣りを片詣りと云い、たまたま向き
合っている両方をお詣りするのが良いとされるようになったそうです
1558年に武田信玄によって信濃から甲斐に移された本尊の善光寺如来は
1582年に織田信長・徳川家康の連合軍に滅ぼされて武田家は滅亡して
しまい、本尊の善光寺如来は織田家、徳川家を転々とし、現在の愛知県
稲沢市および岐阜市や関市の善光寺にも安置されながら1598年に信濃
に帰座したと伝わっています。 こうしたことで善光寺詣りは信濃の
長野市だけでなく飯田市・上田市・甲府市・稲沢市・岐阜市・関市の
七ヶ所を巡ってお詣りするものと云われています
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