雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」と見つけてもらえたら。そんな思いで書き記してます。

円空

2013-02-06 00:00:15 | 凄い
正直、衝撃をうけました。
先日、ちょっと覗いた上野、東京国立博物館の「円空=えんくう」展。
この展覧会に合わせて特集記事を組んだであろう雑誌
「美術手帳」最新号の冒頭には、円空のことがこう記されています。



「江戸時代、諸国を行脚しながら仏像を彫った僧、円空。
生涯に12万体を彫り上げることを発願したとされ、
現存する数、全国に5000体以上。
見る者の顔をほころばせる表情、荒々しく残る鑿の彫跡ーーーーー。
歴史に立する規格外の仏像たちはどのように生み出されたのか?
その造形と背後にある思想をひもとき、
いま、円空の姿を真っ直ぐに見つめてみたい」



円空......
「空海」「天海」と並ぶ完全なる響きを持つ名前だなぁ......と、
僕はずっと、そんなふうに思ってました。
この国の歴史に名を残してきた人達の中では、
この三人以上の名前はないのではないか、と。
そんな風にも思ってました。



円空さんの作品は中部、飛騨地方を中心に、
広い地域にわたり存在、保存されていて。
それぞれを見て回るのは相当な時間と労力を必要とします。
それらが今回、一挙!100体も!展覧会に集まっているとのこと。
こんなに多くの「円空仏」を
まとめて見る事が出来る機会などそうそうは無いので、
僕はとても楽しみに出かけてみました。



全てを「一材」から造り出す彫刻を「丸彫り」というのだそうです。
円空の彫る仏像は殆ど全てがこの丸彫り。
通常、丸彫りで作品を作る際は、
民芸品等含めて「節」などが無い綺麗な木材を選びます。
なぜならば、彫刻刀などの道具がそういった「節」や
自然に刻まれている「目」などに当たると、
ソコが思いもよらない方向に削れたり、欠けたり、割れたり、
不必要に溝が深くなったり、浅くなったり......と、
とても造形が難しくなるからです。
だから、そういった欠点の無い「綺麗」な材料を選ぶのです。
しかしこの円空さんが凄いのは、何処にでもある、いや、
捨て置かれているような普通の木材......
それは「節」や「枝」までがあるようなモノ......を、
材質にこだわらず使い、作品を彫り上げている事。
そこら辺に捨て置かれている木を鉈や斧でパーン!!と割って、
その割れた「木っ端=こっぱ」から観音像を削り出してしまう。
だから円空さんの彫った作品は「木端仏=こっぱぶつ」とも呼ばれています。

衝撃を受けるのは、
そんな材木の節や強い木目、割れ......など、
思う様に彫れない箇所に刃が当たってもソレはソレ。
彫れない所は無理に彫らないし、彫れ過ぎてしまったところもソレはソレ。
節などのせいで割れてしまった所も、
思った線や溝や深さにならなかったような場合も、ソレはソレ。
そんなコトもひっくるめ、最終的には、
むしろソレらが「自然な線」として、
そのまま造形に活きてくるような彫り方をしていること。

そんな彫り方というのは、きっと、
木の「節」や「目」をもちゃんと感じ取りながら彫るという事。
それは木と一体となって彫り進めるという事でしょうか。
木の心に自分の心を重ねながら彫るという事でしょうか。
異国の「トーテムポール」などと似ている要素もありますが、
その辺りが決定的に違うように思えます。



それが円空作品の衝撃。



そうやって仕上げられた作品は、まるで、
その木は最初からその形だったかもしれない......
とまで感じさせられてしまうほど自然で野性的な佇まい。
同時に、不思議な生命力を宿しています。

「そんな形に彫りたいのなら、私の場合ココは彫らない様にね......」

「私ならこういう形になりたいですねぇ......」

そんな「木」が語りかけて来る言葉を聞き取りながら、
木の中に予め宿っていた造形を掘り起こして来たかのような、
そんな彫刻。
顔を形作る目や眉、口なども、モノによっては最小限の彫刻で。
それは、ちょっと木がひび割れていた?
もとからソコに溝がついていた?
とも言えるようなミニマムで無骨でシンプルな切り込み程度のもの。
それでもそこにはキチンと感情や魂のようなものが入れ込まれている。



本当に衝撃的でした。



「スラムダンク」や「バガボンド」でお馴染みの漫画家、井上雅彦さんは、
上に記した本の中で、円空ゆかりの地を取材して歩きながら、
円空仏をこう評していました。



「漫画の表現と近い。
省略して図案化しているし、彫られた線にスピード感がある。
素早く制作したんじゃないかな」



多分、円空は最初に完成のイメージは持つと思います......が......
木の節や目、材質や個性によってそのイメージ通りに彫っていく事は常に出来ない。
それで、そんな事々もそのまま受け入れて、取り込んで、最終的には、
それら「予想外のこと」が作品に生きてくるようなイメージや
線にしていって仕上げる。
それも瞬時に。即座に。
作品は当然、
最初に意図したイメージとは多少違ったものになっていくのは避けられないけれど、
それでもソレは、本人も想像出来なかった形やイメージとなり、
最終的に「最初のイメージを超えた」作品と成っていく。

それが円空の作品。

それが何よりも素晴らしい事なのだと、作品なのだと......

円空は知っている。

なんだかヒット曲の話しのようでも?ありますが.......

逆らわずも、流されない。

本質に沿って作品を、自己を、完成させる。

「悟り」とはそういうことですよ......みたいな......

僕はこの日、

そんなことを円空さんの作品達から教えてもらったような気がします。

こちらの「美術手帖」という本もなかなか面白かったです(^^)



この本の中にある、
プロの彫り師で円空の研究家でもある
「山田匠琳=やまだしょうりん」さんの言葉。

「だいたい円空の鑿跡(ノミあと)を見てご覧よ。
鑿を研ぐのが下手だったんじゃないだろうか。
鑿の入れ損ないがあってもそのまま彫ってしまっているようなところがあるんだよ。
職人の立場だけで見てしまうと、許せないと思う所がいっぱいある。
でも実際に円空の技法で仏像をつくってみると、作業環境や、
こんなに強引に彫るのはきっと血液型はB型なんじゃないだろうか、
なんていう人柄までみえてくるんだ。真似て彫ってみるたびに発見がある。
面白いよね」


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