6月30日。先月末。
東京で一番古い歴史を持つお蕎麦屋さんの一つが閉店してしまいました。
お店の名前は「巴町 砂場」=「ともえちょう すなば」
そのお店に行くと、
いつも僕が好んで頼んでいたメニューさんというのがこれ。
「趣味のとろろ蕎麦」
先ずは、
とろろの中に隠れているタマゴさんをプチッ♪
と割るのでやんす。ええ。
とろろ汁をつけてススルってなもんで。
ええ。ええ。
江戸っ子だってねー。( ´ ▽ ` )
ご飯を別で頼むのが礼儀ってなもんで。
ええ。ええ。
俺って埼玉出身やんけー。(`・ω・´)
蕎麦を食べ終わったとろろ汁をカケちゃうなりよーーー♪
ってなもんで。
お茶の器もナンカ好きーーー♪
ってなもんで。( ̄▽ ̄)
最後はもちろん、
トロロが少しくっついているつけ汁に
ホンの少しだけ出汁を足して......
蕎麦湯ゴ〜〜〜!っと。
「砂場」さんと言えば、
更科(さらしな)や藪(やぶ)と並ぶ江戸三大蕎麦!
江戸蕎麦御三家!
と言われる暖簾(のれん)グループさん。
中でも一番古い歴史を持つのがコノ
「砂場グループ」さんとなるのですが、
「巴町 砂場」さんというのは、
そんな「砂場グループ」の中でも最も古く、
家元の一つとも言える蕎麦屋さんでした。
ということは、
東京では最も古い蕎麦屋さんの一つということで。
記録に残るところでは、江戸時代、
1815年には既にあったようで。
この時の店名は「久保町すなば」。
その後、1839に現在の地に移転し
「巴町 砂場」と名前を変えたそうなのです。
そして「砂場」という暖簾(のれん)や名前自体の歴史を辿ると、
その起源は「ハッキリと実証されてはいない」ながら、
あの豊臣秀吉が大阪城を建て始めた
1583年頃にまで遡れる可能性もあるようなのです。
もしそれが本当であれば、今から420年以上も前!
というトンデモなく長い歴史を持つ暖簾となります。
そんなお蕎麦屋さんが「砂場」なのです。
ちょっと不思議な感じもする「砂場」という名前は、
一部の資料が示すところでは、どうも、
一番最初にできたお店が大阪城建築時の資材置き場の中の
「砂置き場だったから......」
なのだそうで。
勿論、当初のターゲット!?
は大阪城の建築関係者の皆さんだったようです。
それが、その後「大阪 砂場」として江戸(東京)に移転。
程なくして巻き起こった空前の江戸っ子蕎麦ブーム!?
にも乗って大ブレイク。
「暖簾分け(のれんわけ)」という形で次々と同名、
同盟の店舗を増やしていき、現在に至るまで
一大「砂場チェーン」的世界を築き上げて来た......
とのことで。
面白いのは、
江戸を代表する食文化的にも思われる
「蕎麦」の最初の名店が大阪発祥であったという点。
当時、様々な文化や先進的なモノモノというのは、
江戸時代に先立つ平安の昔から栄えていた関西の方で生まれ、
育っていることが多く。
そんな時代の最新トレンドは
「関西=上方=かみがた」
の方から東に流れてくる......
といった形が定番だったそうです。
そんな風に最新流行が東に流れてくることを
「下る=くだる」
と言い。
その流れに乗れず、
江戸や東の国にまで下ることができないようなダッサイ!?
モノモノは
「下ることが出来ないモノ=くだらないもの」
といわれていたそうで。
今でもよく使われる
「クダラナイ」
「くだらねー!」
という言葉の語源というのは、
実はこんな感じらしいのです。
お蕎麦好きが高じて、いっ時蕎麦の歴史を勉強している時に身についた、
仕事に全く役に立たない情報なのですが。
ええ。ええ。
くだらねー( ̄3 ̄)話でして。ええ。
くだらねーB級野郎としてはこんな本も持っていたりするのでやんす。
「蕎麦屋の系図/岩崎信也」
さてさて......冒頭の写真さん達は、
そんな由緒深い「巴町 砂場」が閉店してしまう間際の日に、
一人、なんともいえない複雑な心境で、
大好きな「趣味のとろろそば」を食べに行った時のもの。
お店は近代的な新しいビルの一階にあって、
最早そんな歴史がある店......
という感じには見えない雰囲気でもあるのですが、
お店の看板も心なしかちょっと寂しがっているような気がしました。
このお店に思い出があった人って......
これまで......
どれくらいいたのでしょうか......
また一つ、
ささやかな灯りが、
歴史という時間の中に溶け込んでいくようにも思えました。
僕はただ黙って蕎麦を噛みしめるだけ。
ありがとうございます、と、
ただ静かに見送るだけでした。
こんな気持ちを理解してもらえそうな友人の一人、
天下のグルメ人「K様」に
「巴町の砂場が閉まるの知ってるー!?」
とメールをしてみました。
返ってきた返事は
「知ってた!
俺も今日のランチ、全く一緒(笑)......寂しい」
流石のK様。
「なんだ、最後にコイツと食べに行けばよかったなぁ......」
と。なんとなく後悔もしたのでした。(^^)
「南千住 砂場総本家」
上の記事にも出てきた、
今に続く「砂場」暖簾のもう一つの家元とも言えるお店。
東京、荒川区の三ノ輪という駅のほど近く。
「ジョイフル」という昔ながらの下町アーケード商店街の中にあります。
記録確認が出来る創業年は1848年。
その時の店名は「糀谷七丁目砂場藤吉」
此方からは、
現在の虎ノ門にある「虎ノ門 砂場」も分家しているようです。
こちらがその「虎ノ門砂場」さん。
南千住系の砂場さんは比較的古き佇まいを残しているお店が多いようで、
B級の僕にはたまらんポンチなのでございます。(^^)かしこ。
東京で一番古い歴史を持つお蕎麦屋さんの一つが閉店してしまいました。
お店の名前は「巴町 砂場」=「ともえちょう すなば」
そのお店に行くと、
いつも僕が好んで頼んでいたメニューさんというのがこれ。
「趣味のとろろ蕎麦」
先ずは、
とろろの中に隠れているタマゴさんをプチッ♪
と割るのでやんす。ええ。
とろろ汁をつけてススルってなもんで。
ええ。ええ。
江戸っ子だってねー。( ´ ▽ ` )
ご飯を別で頼むのが礼儀ってなもんで。
ええ。ええ。
俺って埼玉出身やんけー。(`・ω・´)
蕎麦を食べ終わったとろろ汁をカケちゃうなりよーーー♪
ってなもんで。
お茶の器もナンカ好きーーー♪
ってなもんで。( ̄▽ ̄)
最後はもちろん、
トロロが少しくっついているつけ汁に
ホンの少しだけ出汁を足して......
蕎麦湯ゴ〜〜〜!っと。
「砂場」さんと言えば、
更科(さらしな)や藪(やぶ)と並ぶ江戸三大蕎麦!
江戸蕎麦御三家!
と言われる暖簾(のれん)グループさん。
中でも一番古い歴史を持つのがコノ
「砂場グループ」さんとなるのですが、
「巴町 砂場」さんというのは、
そんな「砂場グループ」の中でも最も古く、
家元の一つとも言える蕎麦屋さんでした。
ということは、
東京では最も古い蕎麦屋さんの一つということで。
記録に残るところでは、江戸時代、
1815年には既にあったようで。
この時の店名は「久保町すなば」。
その後、1839に現在の地に移転し
「巴町 砂場」と名前を変えたそうなのです。
そして「砂場」という暖簾(のれん)や名前自体の歴史を辿ると、
その起源は「ハッキリと実証されてはいない」ながら、
あの豊臣秀吉が大阪城を建て始めた
1583年頃にまで遡れる可能性もあるようなのです。
もしそれが本当であれば、今から420年以上も前!
というトンデモなく長い歴史を持つ暖簾となります。
そんなお蕎麦屋さんが「砂場」なのです。
ちょっと不思議な感じもする「砂場」という名前は、
一部の資料が示すところでは、どうも、
一番最初にできたお店が大阪城建築時の資材置き場の中の
「砂置き場だったから......」
なのだそうで。
勿論、当初のターゲット!?
は大阪城の建築関係者の皆さんだったようです。
それが、その後「大阪 砂場」として江戸(東京)に移転。
程なくして巻き起こった空前の江戸っ子蕎麦ブーム!?
にも乗って大ブレイク。
「暖簾分け(のれんわけ)」という形で次々と同名、
同盟の店舗を増やしていき、現在に至るまで
一大「砂場チェーン」的世界を築き上げて来た......
とのことで。
面白いのは、
江戸を代表する食文化的にも思われる
「蕎麦」の最初の名店が大阪発祥であったという点。
当時、様々な文化や先進的なモノモノというのは、
江戸時代に先立つ平安の昔から栄えていた関西の方で生まれ、
育っていることが多く。
そんな時代の最新トレンドは
「関西=上方=かみがた」
の方から東に流れてくる......
といった形が定番だったそうです。
そんな風に最新流行が東に流れてくることを
「下る=くだる」
と言い。
その流れに乗れず、
江戸や東の国にまで下ることができないようなダッサイ!?
モノモノは
「下ることが出来ないモノ=くだらないもの」
といわれていたそうで。
今でもよく使われる
「クダラナイ」
「くだらねー!」
という言葉の語源というのは、
実はこんな感じらしいのです。
お蕎麦好きが高じて、いっ時蕎麦の歴史を勉強している時に身についた、
仕事に全く役に立たない情報なのですが。
ええ。ええ。
くだらねー( ̄3 ̄)話でして。ええ。
くだらねーB級野郎としてはこんな本も持っていたりするのでやんす。
「蕎麦屋の系図/岩崎信也」
さてさて......冒頭の写真さん達は、
そんな由緒深い「巴町 砂場」が閉店してしまう間際の日に、
一人、なんともいえない複雑な心境で、
大好きな「趣味のとろろそば」を食べに行った時のもの。
お店は近代的な新しいビルの一階にあって、
最早そんな歴史がある店......
という感じには見えない雰囲気でもあるのですが、
お店の看板も心なしかちょっと寂しがっているような気がしました。
このお店に思い出があった人って......
これまで......
どれくらいいたのでしょうか......
また一つ、
ささやかな灯りが、
歴史という時間の中に溶け込んでいくようにも思えました。
僕はただ黙って蕎麦を噛みしめるだけ。
ありがとうございます、と、
ただ静かに見送るだけでした。
こんな気持ちを理解してもらえそうな友人の一人、
天下のグルメ人「K様」に
「巴町の砂場が閉まるの知ってるー!?」
とメールをしてみました。
返ってきた返事は
「知ってた!
俺も今日のランチ、全く一緒(笑)......寂しい」
流石のK様。
「なんだ、最後にコイツと食べに行けばよかったなぁ......」
と。なんとなく後悔もしたのでした。(^^)
「南千住 砂場総本家」
上の記事にも出てきた、
今に続く「砂場」暖簾のもう一つの家元とも言えるお店。
東京、荒川区の三ノ輪という駅のほど近く。
「ジョイフル」という昔ながらの下町アーケード商店街の中にあります。
記録確認が出来る創業年は1848年。
その時の店名は「糀谷七丁目砂場藤吉」
此方からは、
現在の虎ノ門にある「虎ノ門 砂場」も分家しているようです。
こちらがその「虎ノ門砂場」さん。
南千住系の砂場さんは比較的古き佇まいを残しているお店が多いようで、
B級の僕にはたまらんポンチなのでございます。(^^)かしこ。
我が街も20数年前迄は某メインストリート玄関にドーンって存在感を放ち、幼少の頃から当たり前に其処にあった「砂場」さんが突然閉店したことを思い出しました。
学生だった頃は蕎麦なんて大人の味なんぞ分かる筈もなく、いつもある古い蕎麦屋さん程度位にしか気にもしてませんでした。
でも、今思えばそのストリートも「砂場」さんの存在こそが活気の象徴だったような気がする今日この頃っす。
今の年齢になり、美味しい蕎麦屋を求めてさまよう自分を「砂場」さんだったらって、、、、うっヨダレ(^q^)
蕎麦喰いてえ(笑)
ネコリバーさんの住まわれるあたりは美味しい蕎麦の宝庫ですからねぇー。
うらやますぃーっす!( ´△`)
我々にはかりしれない諸事情によるものと思いますが。
消費者も本物の味は求めず、安いチェーン店や気軽に入れる店チェーンを選ぶことも原因のひとつ???
店のたたずまいに風格をかんじるのにもったいない。
K様も言っていたのですが、こういうお店も存続させられない東京という街って...どうなのだろうか...と。
そんな寂しさもあります。
美味しいくても厳しいですね。