最近、本当に冴えていない。
これは自分自身、実感として手に取るようにわかる。
(当Blogのエントリが冴えていないのは前からだが・・)
忙しいとか体調が悪いとかとは関係がない。
暑くてダルい梅雨とも関係がない。
「自分自身が止まっている。」
そんな表現が丁度いい。
人生の複数均衡状態に陥った感じだ。
こっちを立てればこっちが立たず。
この世界は無限トレードオフ地獄(視点によっては天国)だ。
この悪い均衡状態から抜け出るためには、よくキッカケが必要だと言われることがあるが、そもそも無限トレードオフ地獄に完全解など存在しないから、神の視点に立てば「悪い均衡状態」などというものが存在しないはずだ。
私が、「それ」を「悪い均衡状態」だと「思っている」に過ぎない。
そういうことを気づかせてくれる格言みたいな言葉が昔からあって、例えば「幸せは足元に転がっているさ」とか「住めば都」とかがある。
宗教的な観点からいえば、悟るのに条件は必要ないわけだ。
「悪い均衡状態」などというものはもともと存在しておらず、私がそう思っているだけに過ぎないからだ。
だがしかし、私は人生を悟ること自体にさほどの価値を見出していない。
むしろ、私は悪い均衡状態から抜け出すことの方に価値を置く。
悟ることは生きることと違うと思っているからだ。
悟るのであれば、生きている意味が無い。
生きる意味が無いのだ。
仙人は人里離れた山奥でひっそりと死にながら生きればいい。
私はそういう生き方に興味がないわけではないが、望みもしない。
では、私はどうするべきか。
さきほど、「悪い均衡状態から抜け出すためのキッカケ」について話をしたが、これは少し違う。
悪い均衡状態から抜け出るために必要なことは、「キッカケ」ではなく「目的地」だ。
我々が単純な物理法則に従って生きるだけの存在なら、人生を考える上では「キッカケ」で十分だ。
だが、我々には意志がある。
例えるなら、大海原を航海する旅人だ。
我々はただ単に潮の流れに乗るだけの存在ではない。
目的地へ向かって航路を定め、嵐を避け、荒波にもまれながらも進むのだ。
キッカケは必要だが、キッカケだけでは不十分だ。
何の目的も持たずに漂流することも、時として有意義かもしれない。
しかし、我々がただ流れに流されるだけの存在ではないために最も必要なものは目的なのではないか。
そうだ。
私は、人生すら目的論的論法で語るべきだと思っている。
当Blogで繰り返し述べていることだし、多分、私は死ぬまでこれを繰返すのだろう。
私が悪い均衡状態に陥って思い悩んでいるということは、私にとっての目的が見えていないからに他ならない。
目的地があれば、進むべき道は必要ない。
道は見えるし、必要なら作られるものだからだ。
人生は私に問いかける。
「お前の目的は何だ?」
人生で最も難しい問いだ。
これは自分自身、実感として手に取るようにわかる。
(当Blogのエントリが冴えていないのは前からだが・・)
忙しいとか体調が悪いとかとは関係がない。
暑くてダルい梅雨とも関係がない。
「自分自身が止まっている。」
そんな表現が丁度いい。
人生の複数均衡状態に陥った感じだ。
こっちを立てればこっちが立たず。
この世界は無限トレードオフ地獄(視点によっては天国)だ。
この悪い均衡状態から抜け出るためには、よくキッカケが必要だと言われることがあるが、そもそも無限トレードオフ地獄に完全解など存在しないから、神の視点に立てば「悪い均衡状態」などというものが存在しないはずだ。
私が、「それ」を「悪い均衡状態」だと「思っている」に過ぎない。
そういうことを気づかせてくれる格言みたいな言葉が昔からあって、例えば「幸せは足元に転がっているさ」とか「住めば都」とかがある。
宗教的な観点からいえば、悟るのに条件は必要ないわけだ。
「悪い均衡状態」などというものはもともと存在しておらず、私がそう思っているだけに過ぎないからだ。
だがしかし、私は人生を悟ること自体にさほどの価値を見出していない。
むしろ、私は悪い均衡状態から抜け出すことの方に価値を置く。
悟ることは生きることと違うと思っているからだ。
悟るのであれば、生きている意味が無い。
生きる意味が無いのだ。
仙人は人里離れた山奥でひっそりと死にながら生きればいい。
私はそういう生き方に興味がないわけではないが、望みもしない。
では、私はどうするべきか。
さきほど、「悪い均衡状態から抜け出すためのキッカケ」について話をしたが、これは少し違う。
悪い均衡状態から抜け出るために必要なことは、「キッカケ」ではなく「目的地」だ。
我々が単純な物理法則に従って生きるだけの存在なら、人生を考える上では「キッカケ」で十分だ。
だが、我々には意志がある。
例えるなら、大海原を航海する旅人だ。
我々はただ単に潮の流れに乗るだけの存在ではない。
目的地へ向かって航路を定め、嵐を避け、荒波にもまれながらも進むのだ。
キッカケは必要だが、キッカケだけでは不十分だ。
何の目的も持たずに漂流することも、時として有意義かもしれない。
しかし、我々がただ流れに流されるだけの存在ではないために最も必要なものは目的なのではないか。
そうだ。
私は、人生すら目的論的論法で語るべきだと思っている。
当Blogで繰り返し述べていることだし、多分、私は死ぬまでこれを繰返すのだろう。
私が悪い均衡状態に陥って思い悩んでいるということは、私にとっての目的が見えていないからに他ならない。
目的地があれば、進むべき道は必要ない。
道は見えるし、必要なら作られるものだからだ。
人生は私に問いかける。
「お前の目的は何だ?」
人生で最も難しい問いだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます